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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第三十四章 歌手デビューは百難くるの?

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第三百七十二話

 



 漆黒の邪に包まれていた時だった。


 「春灯――……」


 名前を呼ばれて、ふり返った。

 どういう顔をすればいいのかわからなかった。

 笑いたいけど、笑えないし。泣きたいけど、泣けない。

 穢れを嫌う一振りを手にしたカナタにこれを看過できるわけはないとわかったし、これくらいの邪でも積もり積もれば、その物量にいつかの怪異となったタマちゃんのように私も惑うかもしれない。

 それでも。


「だいじょうぶ。これは……倒すほどのものじゃない」

「だが! お前はうなされて――」

「……だから、私に言わないでいようって思ったんだ」


 心配してくれたんだとわかったし。


「……でも、無理だよ。これは関係ない。邪が乱すのは私じゃなくて、邪を生み出した本人」


 黒い染みが私にまとわりついてくる。蠢いて、囁く。私への無邪気な願いを。

 自分の邪の刀を受け入れた時から、もしかしたら決まっていたのかもしれない。

 本人を狂わせることのない邪は倒すものじゃないっていう……私の歩き出した道。


「この子たちは害がないから……だいじょうぶだよ」


 不安で心配でたまらないというカナタに笑いかけて、そっと胸の内からわき出るぬくもりを放つ。それは淡い光の粒子となって、暗闇を溶かしていく。


「――……」


 浮かんでくるままに歌う。

 必要なら、いくらでも刀を取ろう。

 私の最強で抗い、立ち向かおう。

 だけど十兵衞はその必要を感じていない。見えているからだ。戦わずして勝つ道が。

 ならば――……私は私らしく生きるだけ。

 溢れ出る金色の霊子が漆黒を溶かして消していく。

 思いのままに、願いのままに。

 ささやかな願いで私は汚されたりしない。

 長い曲のあとで、カナタの前にそっと腰を下ろした。


「……だいじょうぶだよ」


 もはや染みは浮かばず。けれど明日には戻るだろう確信を残したままに、微笑む。


「……怖いのは、うなされるのはね。私がどこまでできるのか、自信がないだけだから」


 深呼吸をしてから、俯く。


「……カナタは味方。それが私に力をくれるの。だから……ひとりで抱え込まないで。これは私自身にも言ってることなんだけど」


 ほんと、笑っちゃうなあ。


「だめだめなんです」

「――……そんなこと、ないんだ。あれほどの欲望にさらされても照らせるお前なら」


 頭を振る。


「かわいいよ。あれくらいなら、ぜんぜん」


 呟きながら思い浮かべるのはスタジオでの反応だ。

 何も言ってくれない人たちの無言。高城さんが前向きに解釈してくれたけど、私にはわからなかった言葉にされなかった評価。


「繋がりが深い人の方が……怖いもの」


 自信を揺さぶってくるのは、いつだって心に近しい人だと思う。

 いい意味でもね。

 そんな当たり前すぎる真実でしかないの――……。


 ◆


 現世に戻って、ちょっとした行き違いのわだかまりの解消に二人で一緒にいようって話になってさ。重たい空気を払拭したいから、お風呂いっしょに入りたいっておねだりしたの。

 カナタの胸の中でお湯を浴びながら鼻歌を口ずさむ。

 シャンプーをまとった指先が頭皮を撫でる。くすぐったくて、気持ちいい。


「今日のは特別シャンプーでよかったんだよな?」

「元気をだしたい時のおきまりなの」

「……確かにいい匂いだ」

「でしょー。はちみつの濃い香りなの」


 笑ってみせる。

 去年の出会った頃ならドキドキやばかったけど、年が変わった今では落ち着いてきた。

 いやな意味じゃない。ずっとそばにいたいっていう気持ちがわき出る落ち着き感。

 身内になってきたっていうことなのかも。

 まあ……髪を洗ってくれるの、やっぱり滅多にすることじゃないからドキドキするんだけどさ。

 獣耳の裏側を撫でられると、思わずくすぐったすぎて笑っちゃう。


「だ、だめか?」

「ううん。きもちいい」

「尻尾の時とは反応が違うから」

「敏感なのは一緒だけど、ちょっと方向性の違いがありましてん」

「……どういう方向性があるんだ」


 真顔で言われちゃうと困る。私にもよくわからない。


「この耳、いつも思うんだが……内側のケアはどうしているんだ?」

「んー、ぬれタオルでそっと拭ってるかな。内側から生えてる毛が揺れると、それだけで落ち着かないから、本当にそっとね」

「……脳に近い穴って不安にならないか?」

「そんな真面目に言われても。人間の耳だって似たようなものなのでは」

「ま、まあ……そう言われてしまえばそうか。しかし……耳掃除しにくそうだな」

「耳掃除かあ。カナタにしてあげたことないね」

「甘えている感じが、少し苦手だ」

「かっこつけたがりだもんね」

「そういう意味じゃない」


 ぶすっとするカナタに笑う。


「サクラさんには……あんまりしてもらったことないの? ほら、実家だとお母さんの役割だったりしません?」


 まあ、うちの場合はお父さんがたびたび私に「どうだ?」って言ってきたりして、地味に面倒だったりしましたけど。


「コバトにはよくしたな。兄さんと取り合ったことも多い。けど……自分のは、ないかな」

「だからカナタって甘えるの苦手なんだ」

「それ、苦手じゃだめなのか……?」

「んー。彼氏幼児化現象とか、ばぶみを感じられると私自身どうすればいいのか戸惑って引いちゃう可能性はゼロではないですが、しかし一度は体験してみたいかな、と」

「ばぶみ? 幼児化現象って――……すまん、つまりどういうことだ?」

「耳掃除してあげよっか」

「……突き刺したりしないか?」

「あ、ひどい。私にだってちゃんとできるよ? なんならこのあと、身体を洗ってあげることだって!」

「それはいい」

「えー! 淡泊!」

「お前が情熱的過ぎるから、バランスが取れてちょうどいいんだ」

「むーっ」


 膨れてみせたけど、くだらないノリが久々で落ち着いちゃって、なんだか笑えてきちゃった。

 つらいときほど、こういう時間が必要だなあって感じるなあ。でれでれしていこう。でれでれが大事だ。


「じゃあカナタが私に耳掃除すればいいよ」

「俺がするのか?」

「そしたら私もお返しにできるし。理由付けができるじゃない?」

「それ、言っちゃあだめなんじゃないか」

「いーのー。ちゃんと言った方が勘ぐりやすいカナタでも納得しやすいでしょ」

「元も子もないな……まあ、じゃあ、そういうことなら」


 よしよし、と頷く。

 お風呂場だけじゃなく、ソファでも。

 二人でいることの意味をもっと具体的に味わっていきたい。

 どちらかが一方的に苦しくならないように。

 一緒に乗り越えて、生きていくために。

 今日は――……耳掃除からはじめても、いいよね。


 ◆


 SNSを通じて連絡が来たことは何度かある。写真をのせてるし、そういう呟きの反響はささやかだからこそ無視できる量でもなかった。

 だけど――……綺羅ツバキは変な欲望に屈したりはしないから、無視してきた。

 そのルールも今度ばかりは曲げざるを得なかった。


『青澄春灯のバックバンドの者です。明日、うちの会社にお越しください。大事な話があります』


 どう見たって怪しい文面。

 けどメッセージを呟きアプリを通じて送ってきたアカウントはエンジェぅのものだった。

 返信したら、返事が来た。メールアドレスを送ってください。正式に会社からメールを送らせていただきます、だって。

 嘘かもしれない……不安はある。

 けどアドレスを送ってすぐに送られてきたメール、アドレスも名刺カードの住所も電話番号も一致していた。

 いくらでも書きようがある。こんなのは。

 だめだ。混乱している。わからない。わからないけど。


『あなたの力を貸してください。ドーム公演成功のために』


 その言葉に胸の内から募る思いが暴れ出しそうだった。

 刀はまだ手にできない。中等部だから。

 御珠があるのは、高等部になってからだから。

 普段は特別体育館に入れないから……こっそり入って手に入れることさえ無理。

 エンジェぅの力にはなれない。

 年齢が違うから、せっかくすぐそばにいるのに同じ場所にはいられない。あと二ヶ月またなきゃいけない。

 それじゃあ……できないことばかり。

 大好きなのに。愛しているのに。

 ――……愛。


『ツバキさんは春灯さんのこと、どれくらい好きなの?』


 ゲリラライブで会った子たちと食事していたら聞かれた。

 エンジェぅの呟きを通じて、世界との付き合い方を……どう願うべきかを知った。

 救われたのだ。

 生まれた時から成長してきて、でもそれは男子としてではなくて。病院に行ったことだって両手できかない回数になる。

 兄は男になれ、と訴える。両親は――特に母は、好きなようにしていいのよって言ってくれた。学校の――特に女子たちは、見た目のまま女の子でいいと言ってくる。

 どうしたいのか……わからない。

 みんな、自分に対して違う願いを向けてくる。

 母の願いが一番こまる。どうしたらいいか、わからないのはボクだから。

 迷子の自分を照らしてくれたのは、エンジェぅだった。

 生きたいように生きる。いずれ道は決まる。堕天したら……世間から追放された身になったら、いやでもわかってくる。自分が世間とどう付き合いたいのか。

 考えてみた。兄の願いには応えられない。クラスの女の子たちが喜んでくれるのは好きだ。最近は男子たちもみんな言ってくれる。似合ってるって。

 その言葉がいちばん嬉しいんだって思って鏡を見て気がついた。

 笑っているボクに、気がついた。

 連鎖反応のように自分を知っていく。エンジェぅのことを思うだけで幸せそうにはにかんでいる自分を知っていく。

 いいところもだめなところも、全部大好きなんだ。

 彼氏がいることが最初はつらくてつらくてたまらなかったけど、エンジェぅが幸せならそれでいいやって思えるようになったらだいぶ楽になって、そしたら身体も楽になってきた――……。

 気がついたら思うまましゃべっちゃった。

 そしたらみんなが涙ぐんで言ってくれたの。


『無償の愛なんだね』


 どうかな。わからないよ――……。


『……だけど、もしこれが愛なら、ボクは苦しいな。未来永劫、魂は結びついて離れないに違いないから』


 そう言って笑ってごまかした。

 気持ちに名前をつけるのは、ずっと遠ざけていた。

 ファンでいいやって思い込んできた。

 でも足りないと思う自分をいつまでもごまかせそうにないな、と諦めてもいる。

 ボクの言葉に泣くほど喜んでくれるエンジェぅを何度も見てきた。

 だから……もっとボクにできることをしたいなあって思わずにはいられなかった。

 エンジェぅのようになりたい。ひたむきに生きて、全力で願いを掴み取っていく。そうして……誰かに笑顔を届けるんだ。

 そんな生き方をボクは選びたい。

 エンジェぅの特別な味方になることで……ボクは自分の夢を叶えたいと思っているんだ。

 自分の夢に気づいたら、中学三年の一月になるのに……身体はどんどん女の子に近づいていく。病院の先生もとうとう匙を投げた。

 たまに声が聞こえる。

 士道誠心の敷地内にある学生寮の一室――……兄の部屋で寝ると、必ず夢で聞く。


『――……願え。さあ……おいで……』


 それは……御珠にボクを引き寄せようとするもの。

 直感がある。

 身体の変化はきっと、ボクがいつか出会う御霊によるものなんだって。

 きっと高等部でボクは何かを掴み取る。

 でも待っていられない。

 早く、いますぐエンジェぅの力になりたい。

 だっていまきっと、苦しいに違いないから。

 あと一年はやく生まれていたら……運命は劇的に変わっていたかもしれないんだ。

 運命――……変えられない、宿命。

 そばにいたい。力になりたいし……もっと感じていたい。

 まさに会社への誘いは天からの贈り物だったの。


「断れるわけ、ないよね」


 身体全体が鼓動を打つかのように震えたけど、必死にビジネスメールの定型文を調べて、メールした。文章を打ち終えてから送信ボタンを押すまで、何度も深呼吸した。

 決意は変わらなかった。

 もし、ボクとエンジェぅを繋ぐ運命が明日待ち受けているのなら掴み取りたい。

 もう彼氏にはなれないけど。

 結婚とか、そういう道もたぶん進めないけれど。

 それでもいいんだ。

 ボクなりの愛情と夢のために、エンジェぅの特別な味方になりたい――……。


 ◆


 月末の邪討伐の話題が持ち上がり始めて、みんなと話したかったけどあいにくお仕事。

 学校を出てそのままテレビ局へ。

 打ち合わせをするためなんだそうです。

 会議室には大勢が集まっているの。

 局のスタッフさんたちと、テレビで見たことのあるお兄さんお姉さんがいる。

 お話を受けて、アンケート用紙を渡されて、相づちを打つのが精一杯。

 内容なんてちっとも頭に入ってこない。

 そんな打ち合わせを何個か経験する。大勢じゃない時もあった。流れを説明されてアンケートに答えてお話するだけとか。そういう方がずっと楽で助かるけど、不安。

 私はこのお仕事を無事にやりきれるのだろうか、と。

 トシさんたちと一緒に音楽番組に出て歌うだけなら、まだその方がいい。ずっと楽に違いない。なのにそういうお仕事に限って今日は入ってない。

 スタッフさんたち、お仕事しているタレントさんたちに高城さんに言われたとおりにご挨拶して回って――……気がついたら、夜。

 空き時間がいたたまれなくて歌詞ノートに山ほど書き込んでいたけど、完全にキャパオーバーだった。

 気持ちばかり削れてくたびれた気持ちで事務所に戻ったの。

 先にトイレを済ませてフロアに入ったら――……予想だにしない光景が広がっていた。


「――……なに、これ」


 トシさんたちがプリントされた用紙の束を睨んでいる。

 表紙は見覚えしかない。黒の聖書の……私が日記帳に貼り付けてデザインしたフォントだ。

 そしてトシさんたちに囲まれて、見覚えのある子が真剣な顔をしてノートに書き込んでいた。

 恐る恐る、名前を呼ぶ。


「ツバキ……ちゃん?」


 ばっと顔をあげて私を見ると、ツバキちゃんは笑っていいのか泣いていいのかわからない顔をしていた。私だってきっと同じような顔をしていたに違いない。


「やあ、春灯ちゃん。強力なサポートスタッフを紹介するね」


 ナチュさんの笑顔に顔が強ばる。


「ま、まさか……」

「そのまさか。青澄春灯の作詞家見習い……ツバキちゃんだ」

「――……あ、あの」


 おどおどしているツバキちゃんに私はなんて言えばいいのかわからなかった。

 嬉しくないか? 嬉しいに決まっている。だけどこれはあまりに予想外すぎた。


「能力テストしたけど……悪くなかったからな」

「会社が正式にお誘いしたんだ」


 トシさんとカックンさんはあらかじめ用意した台詞を読んでいるような雰囲気を感じる。

 対して心の底から楽しそうに笑うナチュさんを見ていると……だいたい筋書きが読めちゃった。


「ツバキちゃん、いいの?」


 だから心配するべきは、まずツバキちゃんの意志であり覚悟なんだと思ったの。


「……私がやってだめで叩かれるなら、私だけで済むけど。ツバキちゃんが挑戦してだめなら……その」


 言いよどむ私にツバキちゃんは、


「やる! やりたいの……エンジェぅの力に、なりたい。そばに、いたいの」


 私に強く主張した。きっと四月に会った、あの頃のように。

 ――……自分に夢中であまりちゃんと受け止められなかった、あの頃のように。

 高校生と中学生という物理的な距離を埋めるための、一途なお願いごと。

 胸の中がざわつくし、痛む。

 大事にしてきた。私なりに。だけどツバキちゃんが求めるほどではきっと、なかった。


「……つらいこと、きっとあるよ? 叩かれたり、するよ?」

「それでも……いい。ボクにできることがあるなら、やりたい!」

「――……、」


 どうして、という言葉がのど元まで浮かんできた。

 だけど出せなかった。戸惑い、けれど確定した事実。


「まあ、じゃあ……いいじゃねえか。それより春灯、ちょっとツラ貸せ」


 立ち上がったのはトシさんで、テーブルに置かれた一冊のノートを手にして歩いてくる。

 私の二の腕を掴んで引っ張っていくの。廊下へ。

 胸元にノートを押し当てられる。


「それ、開いて読んでみろ」

「ん……」


 受け取って、素直に従う。トシさんは無駄なことはしないから、これはきっと必要なことなのだと信じて。

 一ページ目の頭に『青澄春灯』と書いてあった。

 その下に詩が続いている。


「――……これ」

「今日、呼び出して面接した。それだけじゃ足りないってんで、ナチュが出したノートにアイツが初っぱなに書いた詩がそれだ」


 目を通さずにはいられなかった。


『桜が咲くたび眠る死者の思いが満開になる』

『それは誰かに恋する一途さ』

『誰にも見向きもされなくても、散って散って、世界を塗りかえる』

『春という瞬間を澄んだ願いで満たして生を謳歌する』

『青空の下、いつか花びらは朽ちて土へと変えるけれど』

『花びら絨毯は輪廻を歌い――……輝きを灯す』


 私を思って書いてくれた歌詞。生死と春に表現した、折れない消えない強さの詩。

 段落が変わる。


『獣たちは本能のままに。人々は理性の中で恋をかわす』

『華やぐ笑顔の中で、消せない不安は私の弱さ』


 ――……四月の、私のことだ。


『抱き締めよう。怖くても』

『愛してみよう。つらくても』


 なら、これは――……私の選んだ、道のこと。


『舞い散るように、憧憬は好意となって桜の花』

『地に堕ちても土塊となってまたいずれ咲く』

『愛するよ、届かなくても』

『想いは色鮮やかに。道となってあなたを導くから』

『――……何度だって、愛を歌おう』


 気がついたらノートにぼた、ぼたぼた、と大粒の雫が落ちていた。

 目から溢れ出していたのは、涙。明白すぎた。

 これは――……これは。


「俺らは選んだ。ツバキならお前の作詞のサポートができるし、作詞だっていけそうだと想ったからな」

「――……これ、でも。これ、は」


 最後の部分は、ツバキちゃん自身が私にしてくれたことだから。

 ラブレターに違いなかった。


「……やりにくいってんなら、考える」


 何かを言いたかったけど、だめだった。嗚咽がこみあげてきて、ちょっと耐えられなくて。

 走ってトイレに逃げ込んだ。そして声を上げて泣いたの。

 感情がこみ上げてくるけれど、それを言葉になんかしたくなかった。できなかった。

 ツバキちゃんに、これほどまで一途に……全力で想われていたんだ。

 なのに……私は気づかなかった。ほんと? 違う。エンジェぅは私を貫く時に叫んだ。ツバキちゃんじゃなくてカナタを選んだって。

 これは、つまり……可能性はあって。だけど私は選ばなかったっていう、それだけのことで。それだけのことがどれほどツバキちゃんを傷つけたのか、想像すると自分があまりにひどくてつらすぎた。

 泣いて、泣いて、それじゃ消化できないと気づいていたから、衝動をなんとか我慢できるようになってトイレを出た。トシさんが入り口のそばにいてくれたの。


「……どうする」

「っ……ツバキちゃんがやりたいっていうなら、止めたくない」


 それは感情の答え。

 お鼻を啜って、言う。


「歌うよ。ツバキちゃんと作った詩で。その方が、私のメンタル作られやすいって、そういう判断もあるんだろうし」


 怒りはこみ上げては来なかった。

 ただ事実として、言う。その内容が私に打撃を与えるだけ。

 悲しいし怒っているし、涙はきっと涸れることはない。

 それでも……ドーム公演にはツバキちゃんの力だけじゃない、存在そのものが私には必要だった。

 だから――……言わずにはいられない、


「それでも、ファンで……いて欲しかったな」


 これは私のわがままであり、願いであった。


「アイツの夢は、お前のそばにいること……なんだそうだ」

「――……なら、もう、しょうがないんだね。これは」


 嫌がることでも、拒絶することでもない。

 ツバキちゃんがそう決めたのなら、私がどうこう言う段階にはもうないのだ。


「今日は帰るか」

「――……仕事、しなきゃ。歌詞、考えてきたから。ツバキちゃんと、話し合ってみる」

「わかった」


 そう言うと、私の頭に手を置いて軽く叩くの。ぽん、ぽんって。

 無性に悲しくなってきて、だけど目元を拭って深呼吸をする。


「私はみんなの思いを吸って、先へ行くんだね」

「ファンに気持ちを届けるためにな……」

「なら、じゃあ……何より強い、歌う動機ができたかも」


 お鼻を啜って、いろんなおつゆを拭い取ってから、深く息を吐き出した。

 もう心は決まっていた。


「ツバキちゃんのためにも、歌うよ」

「……おう」


 私の肩を抱いて、トシさんは穏やかな声で呟いた。


「愛情を捧げられたんだ。ちゃんとこっちからも届けてやらないとな」


 頷いて、歩き出す。

 私にとって一途に優しい味方で居続けてくれた子の元へ。

 一緒に越えられるかどうかわからないハードルに挑むために。

 そして――……もしかしたら今後も伝えてもらえるかどうかわからない、胸の内に宿った思いに私なりに応えるために。

 私は行くのだ。

 人生で一番最初にできた、私の理想に呼応してくれたファンの元へ――……。




 つづく!

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