第三百六十一話
ど、ど、どうしよう! 二人ともファイティングポーズだ。
戦闘になったら瞬殺される未来しか見えないよ!
そう焦る私の前で、二人は構えたままで口を開いた。
「恥ずかしい時-!」
「恥ずかしい時ーっ!」
えっ?
ん? えっ? ええ? えええ?
「お母さんの少女マンガのキスシーンで猛烈に興奮して鼻血を出したのを弟に見られた時ーっ」
「ふぁ!?」
「お母さんの少女マンガのキスシーンで、猛烈に興奮して鼻血を出したのを弟に見られた時ーっ!」
「ふぁああ!?」
顔から火が出た。それくらいの衝撃だった。
それは間違いなく、私の黒歴史だった。実際に起きたことに違いなかったのだ。
「まって、待って、待って! やな予感しかしない! お願い待ってくだしい!」
「恥ずかしい時-!」
「恥ずかしい時ーっ!」
「ふぁあああ!?」
あわてて走って二人の口を塞ごうとするのだけど。
二人が逃げる方が早いの。
「お母さんの少女マンガの朝チュンシーンが気になって、お母さんに「ねえ、なにがあったの?」って何度も聞いたその日に保健の授業で事の真相を知った時ーっ!」
「わあああああああああああ!」
思わず叫ぶんだけど、だめ。
「お母さんの少女マンガの朝チュンシーンが気になって、お母さんに「ねえ、なにがあったの?」って何度も聞いたその日に保健の授業で事の真相を知った時ーっ!」
「いやあああああああああああ!」
耳まで真っ赤になりながら必死に叫ぶんだけど、二人の暴走は止まらない。
観客のみなさんが聞いているし、お姉ちゃんもいてアリスちゃんもいて、なにより聞いて欲しくないカナタがいる。
なのに……っ!
「恥ずかしい時ーっ!」
「恥ずかしい時ーっ!」
「もうやめてくだしい……っ!」
嘆願するけど、それくらいで二人が許してくれるはずもなく。
「漫画の二人が幸せそうだからお母さんに恥を忍んで「それって気持ちいいの? 幸せな気持ちになるの?」って聞いちゃった青かったあの頃の私ーっ!」
「ふぁあああああああああああ!」
涙目になってかけずり回るのに、捕まえられない。
「お母さんが微妙な顔をして、それから「大好きな人とするのが一番気持ちいいけど、春灯にはちょっとまだ早すぎるかな」って言うから、気になりすぎるがあまりにネットで必死に情報を探して、お母さんに見つかって怒られた日ーっ!」
地面に這いつくばって身悶える。
違うの! ほら! 興味でてきて国語辞典で調べちゃうとか、ネットで調べていろいろ知っちゃって、好奇心のままに! みたいな! あるじゃん! あって!
「恥ずかしい時ーっ!」
「恥ずかしい時ーっ!」
まだあるの!?
「妄想の彼氏役をぬいぐるみに押しつけてあっついキスシーンの練習をしているところを弟に目撃された時ーっ!」
「姉ちゃん……と哀れむ目つきで見つめられて、そっと扉を閉じられた時ーっ!」
「いっそ殺せえええええ!」
びくんびくんと震える私に、二人が逃げる足を止めた。私に拳を向けて吠える。
「恥ずかしい時ーっ!」「恥ずかしい時ーっ!」
「黒歴史を忘れた気になって、でも消せはしないと気づいた時ーっ!」「黒歴史を忘れた気になって、でも消せはしないと気づいた時ーっ!」
ふぐう。
「みんなにあたたかい目で見つめられた時ーっ!」「みんなにあたたかい目で見つめられた時ーっ!」
はっとして周囲を見渡したよね。
お姉ちゃんもカナタも何とも言えない顔で私を見つめているし、それは観客のみなさんも同じでした。十兵衞は素知らぬ顔だけど、タマちゃんはお腹を抱えて大爆笑中。
くっ……!
「夕日が沈むときーっ!」「夕日が沈むときーっ!」
ああ、長かった……! 長かったよ……! 終わりまでが本当に長かった……ッ!
「な、な、な、なにが狙いなの! 言いなさいよ! 言えばいいじゃないの……っ!」
涙目で赤面しながら、ぷるぷる震える指先を二人に突きつける。
「エンジェぅ。ネタはあと何個ある?」
「数え切れないほどある! 我、青澄春灯の欲望の化身ゆえ!」
なんてこった……!
「予想以上に恥ずかしいな。だからカナタたちは連れてこないことにしたんだけどな……カナタ、どう思う?」
「……どうもこうも。アイツの旺盛な意欲と好奇心は少女漫画の素敵なカップル発信で、お母さまにようくきちんと育てられたのだなあとしか」
「……お前もちょっと赤面してるんじゃないよ」
「いや、これは……きついな。そうか……ぬいぐるみ相手に練習か」
くっ……獣耳が捉えている。お姉ちゃんの呆れた声とカナタの震えるような声を。
「なによ! なにか問題でもあるっていうの!」
涙目のまま私はカナタをきっと睨む。
「い、いや、おかげで俺は満足しているといいますか」
「お前もなにいってんの?」
「ごほっ、ごほっ!」
お姉ちゃんのツッコミにカナタが咳でごまかしに入る。
くぬぬ。くぬぬぬぬ!
「みみみみみ、御霊をはやくよこしなさいよ!」
「だとさ。もう一度、ネタをやるか」「がってんしょうち!」
「それだけはやめてくだしい……!」
怒りと羞恥で暴れようとする私ですが、二人の返しにすぐに萎むよね。
これ以上、掘り下げられたら生きていけないよ……!
「まあ……言うなれば私もこいつも、お前が手放した可能性であり、忘れようとした黒歴史そのものだ」
お姉ちゃんの邪から産まれた地獄黒炎鬼神、冬音が言うの。
「我のネタ帳は無限。黒の聖書のみに留まらず……その紙片はすべて、お前を殺すものなり」
エンジェぅめ……悔しいけど、彼女の言葉はどうやら間違いなさそうだ。
威力は身をもって知った。下手な攻撃よりもよっぽど効果的だよ……!
「消し去れはしない。その道をお前は選ばなかった!」
ドヤ感たっぷりに言われながら思う。
失敗だったかなあ。
……いや、そんなことない。
そりゃあ今は恥ずかしくて死にたいレベルだけど、でも。
黒の聖書を作ったからツバキちゃんと出会えた。いろんな力に目覚めたし、いろんな縁を繋いだ。
恥は捨てるものじゃない。まあ、捨てたいけども。忘れたいけども。
言われると噴き出て思い出す。あの頃の欲望とか、見られたりたしなめられた時の痛さとか。
そういうものをどうするのか。欲望から神へと変わった二人は求めている。
「我はもはやお前とは関わりのない別個の魂! しかし……我を生み出した存在であることに違いはない!」
エンジェぅが歩いてくる。私の元へ。
「我の魂を捨てても……その心にはまだ、眠っているか?」
手を差し伸べられる。狐要素は既になく、私よりも色白で、その瞳は真紅に染まっていた。
今更になって気づく。かつて夢見た……私の大好きすぎるブランドのワンピを着ていたの。黒を基調にやまほど白い布やレースで飾付けた特徴的なデザイン。肩にある金の留め具から背中を庇うように広がるのはマント。
ネイルもアクセも十字架をあしらっている。腰に帯びていた二振りは消え去っていた。
私の思い描いた堕天使がそこにいる。私の姿をより理想的に変えた姿が……目の前にいる。
かつて見た夢が、すぐそばにある。
手を取った。引き上げられる。
「……消えるはずないよ」
見つめ合う。カラコンをつけて、付け歯をつけて、マントさえ……どれもこれも、中学時代の私がつけたものよりよっぽど綺麗。瞳も歯も本物だし、マントだって布地から刺繍まで本格的なもの。立派な私の夢と、見つめ合う。
あの頃は……世界と戦うためには、これくらい強くなきゃいけないと明確に思っていた。
痛いなあ。私は今、見失っている。正確に言えば……満足しちゃっている。十兵衞がいるからいいや、とか。私自身が妖狐になれたから、もういいや、とか。
ギンはもっとずっと貪欲に、村正を手に頑張っている。狛火野くんだってそうだし、トモだって……他のみんなだって同じだ。
仕事に恋に日常が拡張されたから、もうそれどころじゃないって……甘えたところで、私のありようが具体的になるわけじゃない。
誰より私の夢なんだから、私が具体的にしなくてどうするって話なんだ。
ドームを満員にして歌ってみたくないかって聞かれたり。誰かをお助けするたびに私の夢は刺激を受けてきた。
なによりいま、この瞬間に刺激されている。
「あなたは私の夢そのものなんだもの」
欲望の底に眠っていた……ううん、欲望の殻に包まれた私の衝動、願いそのもの。
神になって、お姉ちゃんと二人で生きるもの。
羨ましいと思うし。手放したくない可能性だとも思う。
そう悟った瞬間、胸がじんと熱くなった。
思わず見下ろすとね? 黒い炎が噴き出ているの。
「はじめてトモとトーナメントで決着した時に出した黒い力を覚えてる?」
「――……う、うん」
「あの時、産まれた邪もあるんだよ。我の中に眠っている……あの日の黒い力が」
「え……」
エンジェぅの言葉に顔をあげた。けれどエンジェぅは微笑み、私を抱き締めるだけ。
力が染み込んでくる。かつて私が吐き出して、通り過ぎて……捨てて忘れ去った気になった力がすべて、染み込んでくるの。
「これは――……」
「いやでも教えてあげる。我の願いはすべて……あなたの気持ちの一面なのだから。あなたが忘れたあなたを思い出させてあげる。必要なら……いくらでも」
「エンジェぅ、どうして……どうして、力をくれるの?」
「……お姉ちゃんと二人そろって助けてくれたお礼。でも、ここまでだけどね」
私から離れて、エンジェぅはそっと広場の外……大きなおじさんの前まで行っちゃった。
残された鬼神冬音は私を見つめて肩を竦める。
「私を産んだあいつは……私の御霊も引き当てたらって思っているんだろうけど、やめておくよ」
「ど、どうして?」
「ちょっとは自分で考えろ。いいか? ただでさえキャパオーバーなんだ。エンジェぅと向き合うことに集中しろ、ばか」
「うっ……」
鬼神冬音は言うだけ言うと、エンジェぅのそばに行っちゃった。
あっけない幕切れにお姉ちゃんが渋いため息を吐き出して言うの。
「小芝居だけで終わっちゃったな-。誰か、恥ずかしい過去満載の我が妹に挑戦したい奴はいるか?」
和んでくれているのか、ただ見守っているだけの観客席。
空気的にもうお開きっていう感じです。
みんなを見渡してお姉ちゃんがしょうがないなって呟いた。
「それじゃあ我が行くしかないな」
「えっ」
「まずは手にした力を試してみないとしょうがないだろう?」
ひ、ひ、ひええ!?
「いくぞ、春灯」
飛び上がるお姉ちゃん。黒い炎をその身に纏って拳を振り下ろしてくる。
砲丸のような軌道。当然、飛び退いてよける。地面が派手に割れて吹き出していく。
『戦いたいよ!』
ええ!? エンジェぅいきなりやる気!?
『お姉ちゃんとのケンカ、前はずたぼろに負けた! 次は勝つ!』
そ、そういうこともあったけどさ! なんで戦わなきゃ――
『ケンカを売られたら買うの!』
どれだけやる気に満ちあふれてるの……!
『我らの夢は、これしきで挫けるものではないのだから!』
だからって戦う必要は――
『お姉ちゃんを止めたいなら、その方法を提示せよ!』
うううう! 方法!? 方法って言ったって!
私にできる方法なんて、歌か戦うかしかなくて!
『しかないわけじゃないし、除外した末の結論でもない! 我らは願って力を手にしたはず!』
お姉ちゃんが迫る。拳を振るわれる。必死に避けるけれど、熱い。
黒い炎の軌跡。お姉ちゃんの怒りのようで、情熱のようでもあった。
エンジェぅの声にも宿る……消せない地獄の炎。
『折れない意思は、何かを掴み取るためにこそあるんだ! さあ、覚悟を決めろ! 青澄春灯!』
歯を噛みしめた。笑う。
悔しいけれど、本当に悔しいけれど……あなたが戻ってきたから、私は思い出した。
トモに立ち向かったあの日の衝動を。ギンと戦ったあの日の全力を。
キラリと意地の張り合いをしていた、あの日の軸足を!
『お前は何を掴みたい! 決まったのなら、呼べ! 我の名は――』
避けきれない。顔面に迫る容赦のない拳めがけて振り下ろす。
心の底から抜き放つのは、そう、
「クレイジーエンジェぅ!」
黒い炎を纏った一振りだ!
甲高い音がした。私から生まれて神へと至り、ようやく刀になったそれは……タマちゃんや十兵衞、それどころか多くの御霊に比べてあまりに未熟で脆弱すぎる。
閻魔姫の拳を受け止められるほどの力など、あろうはずがない。
それでも――……ああ、それでも。この刀は折れない。それだけが、私の心の象徴であり、彼女に掛けた願いそのものだったに違いない!
◆
戦いを見守りながら、腕を組み合わせる。
ハル――……ずうっと心の内に宿り、見守ってきた少女の決断を。
腕に寄り添ってくる女がいた。玉藻だ。
寂しそうに笑っている。彼女もまた――……理解しているのだ。
「――……のう、十兵衞」
「わかっている」
頷いて、眼帯を外して……目を細める。
「少し……感慨深いな」
「よう、ここまで育ったのう」
玉藻が腕に抱きついてくる。それを拒みはしない。
実感しているのだろう。
姉と――……閻魔の姫を務める強大な存在と、己の魂を掴んで戦う子狐少女の成長を。
世界を知り、友の存在を知り、愛情を知り……感じて、それを捧げることを覚えた。
よちよち歩きの少女が、自分の意思に心を揺さぶられながら必死に戦っている。
まだ危うい。
己と比べるならば、今だ剣術の“け”の字も知らず、明日は恐らく敗れるだろう。
しかし……それでも、地獄へ来た意味はあった。
多くのことを学ぶ機会が彼女を待っている。彼女はどんどん成長していくのだろう。
黒炎に炙られて、金色が黒に染まっていく。
魔法がとけるように、あるべき姿へ戻っていくのだ。
尻尾と獣耳が毛にほどけて消えていく。
巡り巡って、四月へ戻っていくようで……違う。
ただがむしゃらに俺や玉藻に追いつかなければならぬ、という焦燥から解放されていくのだ。
「――……どこまでも、人か」
玉藻の声は寂しさに曇っていた。
「いいや。原点に立ち戻り、いずれお前の背中をしかと見据える少女の姿でしかないのだ。やがては大神狐にさえなるだろうさ」
「……意外じゃな。妾を慰めてくれるのかえ?」
「妖狐に一度はなったのだ。淡い願いは、確かな夢へと変わる前に一度は覚める。それだけのことよ」
笑ってみせる。
ハルは抱えきれないほどの淡い願いを抱えている。
以前はただ一つであった。確かな夢は、ただ一つ。世界と付き合うために、美しく強くありたい。それだけだった。
今のハルの中心には輝きたいし、照らしたいという夢が眠っている。
その願いは玉藻の行く道のその先へ至ろうという夢だ。俺がかつて……一度は抱いた夢に違いない。
だから……それを自覚する前に、それを認識する前には戻らなければならぬ。
最初に抱いたただ一つを胸に宿した、あの頃に。
「……玉藻」
「わかっておる。地獄にしばし残るべきだと言うのじゃろ? 姫が今朝、ハルが夢見ていた頃に提案したことじゃ」
「恐らく山ほど失敗を犯すだろう。しかし……自分を見つめ直す時間が、あいつには必要なのだと俺は思うのだ」
「……妾はのう、十兵衞。ハルを甘やかしたくて仕方ないのじゃ」
「母性か」
「冗談を抜かすな。妾はそこまで老け込んではおらぬ!」
二の腕をつねられてしまった。
「しかし……愛しいと思うのもまた、仕方ない」
「まあ……否定はせん」
教えるのは面倒だ。己の思ったように行動はせぬ。生徒は生徒なりに考え、行動する。それはこちらの通り過ぎた道であり、或いは敢えて行かぬ道であった。間違いであると訴えたところで、彼らは過ちを犯す。それが人というもの。
道を説いても通じぬ。人は見たいようにしか、現実を見ないのだから仕方ない。
大事なのは、現実をどう見たいか意識することにあると――……以前、誰に教わったやら。
『生きたいようにしか生きられぬ。見たいようにしか見られぬ。ならば十兵衞、お主はなんとする? どのようにして――……歩む。なあ、十兵衞』
ふ、と笑う。かつて聞いた声だ。死してまた出会いはしたが、のんきに暮らしていらっしゃったな。それはいい。思考を切り替える。
「なまじ過ぎた力があると頼らざるを得ぬ。ハルが己の見たい道を見出すまで、俺は離れるよ。姫の申し出を受ける」
玉藻の言った通り、ハルが寝ていた間、早朝に姫が提案してきたことだった。
一度、ハルから距離を置く。力を求めるだろうけれど、今のハルでは俺も玉藻も活かしきれない。あいつ自身の殻を破るためには、一度離れるべきだという提案だった。
「……泣くじゃろうなあ。愛しい女子の涙じゃ。さすがのお主も、気持ちが変わるかもしれぬぞ?」
「さて……それは面倒だ。酒でも飲みに消えるとするか」
「まったく。いけずな奴じゃのう……仕方ないから、付き合ってやるわ」
二人で離れる。玉藻が小さな化身を出してカナタに伝えるべきことを伝えて――……ふり返る。
ハルは防戦一方になっていた。けれど瞳には宿っている。折れない意思が。
俺はな……ハル。お主が見出した道の先を見たい。もっと心に素直になれ、そうして見せてくれ。それまで――……しばしの別れだ。
◆
お腹を容赦なく蹴り飛ばされて、地面を転がる。
必死に受け身を取ろうとしたけど、間に合わなかった。
痛みに悲鳴さえでない。空を見上げる。遠く遠く――……地獄だけに天井がありそうな空。
手にした刀は折れなかったけれど、それだけ。
特別な力はまだ、見いだせない……偽刀でしかない。
磨くには私の心は曖昧すぎる。クレイジーエンジェぅですら、曖昧。
私は私の夢すら、そのあり方を理解できていなかったのだ。
なのにお姉ちゃんに勝てる道理はなかったの。
歓声があがる。それに片手で応えながら、お姉ちゃんが歩み寄ってきた。
「どうだ。少しは掴めたか?」
「……私、タマちゃんも十兵衞も、ちゃんと磨けてなかった……」
「力の一端を引き出してはいた。けれど……お勉強が嫌いだからと曖昧なままにしていたな」
そら、と私の手を取って立ち上がらせてくれるのだけど、背中が軋んで痛くてしょうがなかった。
「いたた……」
「玉藻と十兵衞と距離を取れ。お前はその一振りを手に帰るんだ」
「え――……」
私の腰元にある二振りをお姉ちゃんは取り上げた。
「ま、まってよ。御霊も出て行っちゃって、それなのに帰ったら……お別れみたいだよ!?」
「そうだな」
「な、なんでそんなこというの? やだよ! 返してよ!」
たまらず手を伸ばす。けれど手を叩かれた。冷たく、厳しく。
「わ、私の刀だよ! 返して!」
「我に勝てないお前に返す理由はない」
「なんでそんなこというの! 二人がいなきゃ私、ただのぼっちのだめな女子に逆戻りなの! それがなきゃだめなの!」
怒鳴る私にお姉ちゃんは厳しい視線を返す。
「あの二人がいなきゃ戦えないし歌えないなら、そもそも戦う資格も歌う資格もない! 二本がなければ成立しない絆もまた、必要な絆とは思えぬッ!」
「――……っ」
「それを持って帰れ。シガラキが案内する……じゃあな」
お姉ちゃんは私を置いて、行っちゃった。大きなおじさんたちの元へ。
エンジェぅと鬼神冬音もこちらを見るけれど、何も言わずに……みんなで建物の中に戻っちゃうんだ。
周囲を見渡す。十兵衞がいない。タマちゃんもいない。いてもたってもいられなくて、頭の上に触れた。獣耳はない。お尻が妙に軽くて嫌な予感と共にふり返ったら、尻尾さえなくなっていた。
やだ。やだ。やだよ……こんな、こんなのってないよ……。
「……やだ」
不安と恐怖と絶望と……そして頭の中で響くお姉ちゃんの声。
『あの二人がいなきゃ戦えないし歌えないなら、そもそも戦う資格も歌う資格もない!』
何度だって反芻する。
だけど、ショックが強すぎて……私はどうしたらいいのかさえ、考えられなかったの。
『二人と一緒にいたいね』
……エンジェぅ。
『お姉ちゃんともっとちゃんとケンカしたいし、意味だってちゃんと教えて欲しい』
……うん。でも、それだけじゃなくて。
『……こんな弱い自分でいたくないよね』
すん、と鼻を啜った。それでも涙が次から次へと溢れてくる。
刀を二本取り上げられた。タマちゃんも十兵衞も、何も言わずに行っちゃった。
ただの人間に逆戻り。エンジェぅは心に宿ったけれど……まるで中学時代に戻されたみたいだ。
シガラキさんの案内で扉を抜けて隔離世に戻されて、カナタのレプリカで現世に戻る。
その間際、アリスちゃんに制服をくいくいっと引っ張られた。
「その御霊……お姉さんそのものですけど。すっごい可能性ねむってますね。あなたは何を願いますか?」
「願うって、いわれても――……エンジェぅは、ただ折れない、だけで」
「んう? そんなことないと思いますけどねえ」
「それって、どういう……」
「さてさて、なんでしょうねえ。九歳児にはわかりませんねえ」
笑って、アリスちゃんは行ってしまった。
現世に戻ったらもう放課後で、お仕事に行かなきゃいけなくて。
シッポ穴から出るべき尻尾はなく、獣耳もなし。頼りなくてしょうがない。
二本の刀も消えたまま。心の中にいつも感じる素敵な二人もいなくなっている。
あるのはエンジェぅの刀だけ。
泣けてしょうがない。それでも行かなきゃいけない。
日常は待ってはくれないのだ。
よたよたと、みにくく走って外に出ようとして――……玄関口でギンとばったり出くわすの。そばにはノンちゃんもいた。二人とも仕事に行くところなんだ。
「は、ハルさん? なんで尻尾が――」
「ノン」
「だ、だって」
「いいから、黙ってろ」
「……は、はいです」
ギンがノンちゃんをそっと制して私に言うの。
「……よう」
「……うん」
ギンは私の変化に気づいているようだ。そりゃあそうだよね。尻尾もなければ……獣耳もないし。
「正直、コマとの試合でてめえには言いたいことが山ほどあったんだけどな。やめとくわ。言う必要がなくなったみてえだからな」
「ギン……」
「明日、気合い入れてこいよ。じゃあな」
それだけ言って……ノンちゃんと二人で出かけていっちゃう。
後に残された私は、とぼとぼと校舎の外に出ることしかできなかった。
高城さんの車に乗り込んですぐ、高城さんがぎょっとして私を見たの。だけど私の顔を見て何かを察してくれたのか、言うのはね?
「それじゃあ……トレーニング、いこうか。身体を動かすと気分転換になるからね」
「……はい」
今日の仕事内容と、気遣い。
車に乗って移動する。助手席でカバンを抱き締めて呟く。
「……私、なんで歌いたいんだろ。なんで、戦いたいのかな」
暗くなっていく。
雨が降り始める。いてもたってもいられなくて、窓を見た。
反射して映りこむ自分の目元に雫が垂れて落ちる。ぽた、ぽた、ぽた。
「なんだか、もう……わからなくなっちゃったよ」
雫が落ちた。すべてが下降線。落ちていくだけ。
そう思えたのに……なんでだろうね。
『トレーニングってなにするのかな。今日はどんなことをするのかな? すっごい楽しみだね!』
エンジェぅは楽しそうだったし……なにより前向きだった。
でも……どうもこうも、踊りとか、ボイトレでしごかれるくらいだよ?
『なんのために?』
なんのためって……そりゃあ、歌のためだし、ゲリラとはいえライブのためだよ。
『楽しみだね! 我らの歌声、響かせん!』
……気楽すぎるよ。私は、もうどうしたらいいか。
『なんのためって……そんなに重要?』
え……。
『我、楽しいことが好き! 笑顔でいるのが好きだし、笑顔を見るのも好き! 頑張れば笑顔に繋がるなら、それでいい!』
……そりゃあ、中学の頃の私はそう言うだろうけどさ。
それだけじゃ、生きていけないんだよ?
『そんなに自分を痛めつけて、迷子になって……笑顔になれるの?』
それは――……なれない、よ。なれない、けど。
『春灯はどうしたいの? 我は楽しみたい!』
……私だって、楽しみたいよ。笑顔でいたいよ。
『なら、なればいい。戦に向かうための衣ならば、我らはすでに纏っている!』
衣って……制服だし、マントもないけど?
『歯をみてみろ!』
「歯って……あ」
いーってやったら、犬歯は伸びたままだった。
『我らの瞳は?』
「しん、く」
呟いてみたら、瞳が赤く染まっていた。いまさら、気づくなんて。
『我らは強く美しい! なぜならば!』
「……笑って、楽しく生きるため」
『うむ!』
かつて見た夢の激励に導かれて、気づく。
私はずっと十兵衞とタマちゃんに甘えてたけど、二人に重ねて見た夢はそもそも自分自身で見られる夢だった。二人じゃなきゃ見れない夢ではまだ、なかった。
相変わらず狸顔の丸顔だけど、高校生になって……いろんなことを経験した顔は微塵も曇ってないし、体型だってタマちゃんを宿して磨かれたまま。
『歌うのは……お父さんとお母さんに笑ってもらったり、トウヤを励ますため』
「……それだけじゃない」
『楽しいから!』
「……うん。そうだった……そうだったね」
思い出して泣きそうだった。ああ……なんだか、無性に。
『「 歌いたい! 」』
理解する。エンジェぅを宿す必要があった。私には……私のかつて夢見た可能性とお話する必要が確かにあったのだ。
だってエンジェぅは素直だから。私よりよっぽど素直に、願いを抱えているから。弱さも吹き飛ばして、より一層つよく願うから。
へこたれて見失いそうな私はなにより知るべきだった。
私の願いや、私の心を。
目元をごしごし拭ってから、高城さんに言うの。
「高城さん、歌いたい!」
「急に元気になるなあ……しょうがない。春灯のお願いじゃあね。トレーニング終わったら歌えるよう、空いてるスタジオないか探しておくよ」
「お願いしまっ!」
びしっと敬礼してから胸一杯、息を吸いこむ。
見つけ出そう。もっともっと、いろんなことに対する気持ちを見つけ出すの。
深くなくていい。強くあればいい。
心からわき出る気持ちを探し出して、名前をつけていこう。
もう一度――……私らしさを見つけ出すために。
ちゃんと、二人と一緒に夢を見るために!
つづく!




