第三十六話
ニナ先生が御珠に何かを囁きかけると世界の端から光の波が押し寄せて、御珠に吸いこまれた。魂を揺さぶられるような心地悪さによろめいて、次に気づいた時にはもうなんてことのない夜の駐車場に戻っていたの。
ユリア先輩に手を引かれるまま一年生用のバスに乗ったよ。
別れ際にもう一度、ありがとうって伝えてくれた先輩に笑って頷いて……バスに乗る。
トモに手招きされて座ったのは最前列。
だから見えたの。
それはカゲくんがバスに乗ろうとした時だった。
「待って」
「え……」
ユリア先輩の手がカゲくんの背に触れていた。
それだけで物凄く緊張したようにびくんと背筋が跳ねている。
「な、なんすか」
「きみも……ありがとね」
憑きものが落ちたとしか思えないくらい、綺麗な笑顔だった。
わあ、って……トモと二人で見とれちゃったくらいだ。
そんな威力抜群の笑顔を向けられたカゲくんはもう、言葉もないみたい。
「え、あ、う」
ね? てんぱって赤面してる。
「じゃあ」
立ち去ろうとする先輩に咄嗟に「待って!」と声を掛ける。
その瞬間おもわず「おお」と声をこぼした私たち。
思わず周囲を見渡すと、クラスのみんなが聞き耳を立てていた。
しょうがないよね。ある意味こんなの青春のご褒美だもん。
「なに?」
「お、俺、八葉カゲロウっていいます!」
「知ってる。オロチの中にいても聞こえた」
変な子、と笑ってからユリア先輩が手を差し伸べた。
「ユリア・バイルシュタイン」
「あ……」
「はじめましての握手……しない?」
「し、します!」
あわてて手を握るカゲくんにバスのみんなが「ふううう」と声をあげる。
そんなの気づかれないわけがない。
けれど刀が折れて本当に苦しみから解放されたのだろう。
ユリア先輩は見とれるような笑顔を私たちに向けると、カゲくんの手を離して――ひらひらと振って。
「またね」
立ち去っていった。
ぼうっとしたカゲくんを見てにやにやするみんな。
トモがぼそっと「あれは落ちたね」と言っていたよ。
◆
にしても尻尾があると椅子に座りにくい。いっそ開き直って背もたれに身体を向けて正座した方が楽。というかそうしないと座れませんでした。
「ふっさふさだねえ」
「あはは、やだ、根元は無理です! く、くすぐったいってば」
トモに尻尾を撫でられて笑っていたらバスの中が妙に静か。
「みんな、どうしたの?」
聞いた途端にあちこちで咳払いが聞こえる。
なんだろう。
「やれやれ」
その巨漢ゆえにバスの座席におさまらないライオン先生が咳払いをした。
「諸君、今夜はよく頑張ってくれた。だが……時計が見えるか?」
みんなが誘導されるままに視線をバスの時計に向ける。
『0:32』
うそ。もっと長い時間のような気がしたけど。
三十分程度でこんなに疲れるなんて思わなかった。
ただただびっくりするばかりだ。
「初出陣だ。気持ちが高揚するだろうが、風呂に入ってゆっくり寝るように……明日は休日だが、身体の不調を覚えたら必ず報告を」
気のない返事が続く。
疲れているんだよ。
背もたれに身体を預けて深呼吸してすぐ、私も自分の身体の重さに気づいたくらいだけど。
「学校に戻るまで十分程度だ。男子は今日から寮に入るだろうが、騒ぐなよ」
はーい、と答えるあたりは小学生並み。
でもライオン先生は怒らず笑って見守るだけだった。
なんとなく気になって窓の外を見た。
来るときは途中で別れた同型のバス数台。
ユリア先輩のために駆けつけた先輩たち全員を運べる台数だ。
本当に……戦ってきたはずなのに、まるでお祭りみたいな夜でした。
◆
ライオン先生とニナ先生の先導で寮に入って解散するなり、幸せ一杯の笑顔をしたカゲくんがこそっと呟く。
「シロの部屋に集合な!」
男の子達がみんなで頷いている。シロくんも笑うだけ。
意味ありげな視線を送ってくる沢城くんに気づく余裕もないみたい。
先輩たちも入寮の儀式を今日ばかりはする気もないみたいで、ラビ先輩とユリア先輩を筆頭に素直に階段をのぼっていく。
「なんか……目が冴えて眠れそうにないかも」
「……確かに」
隣で苦笑いを浮かべるトモに頷いていたら、カゲくんが「お前達も来るだろ?」と声を掛けてきた。みんなと盛り上がりたい気持ちもあるけど……ううん。
身体がやっぱり重たい。
気を抜くと尻餅をついちゃいそう。
「明日にする。今日のテンションなら明日もどうせ集まるでしょ?」
「まあな! 仲間はどうする?」
「あたしもいいかな。ちょっとやりたいことがあって」
「おっけ、わかった」
笑って頷くとカゲくんは手を振って、みんなを連れて行ってしまった。
「さて……ハルさんや」
「なんだい、トモさん」
「あたしのシャンプーテクに付き合う気はあるかい? その尻尾をぴかぴかにしたいんだけども」
「ぜひとも!」
断る理由はないのですよ!
◆
まさか明け方になるとは思わなかったよね。
毛の量が尋常じゃないから、渇かすまでにだいぶかかっちゃった。
やりとげた顔をしたトモとお互いに欠伸をかみ殺しながら別れて、部屋の扉を開けたの。
「……よう」
拗ねた顔でベランダに腰掛けている沢城くんと目が合いました。
騒ぐだけの元気もなかったから窓を開けて「どうしたの?」って聞いたの。
自分でもびっくりするくらい優しい声だった。
「……シロの部屋、いっぱいいていきづれえから」
やっぱり……拗ねてる。
「シロくんのこと好きだよね」
「ちげえよ、そんなんじゃねえ……入ってもいいか?」
輪に入れない寂しがり屋の声だった。
……中学まで、ずっと私が出していた声だからわかるよ。
身体を引いたら入ってくる。
その時、手が少し触れたの。
すごくすごく冷たかった。
「もしかして、外にずっといたの?」
「うっせえな……居場所がねえんだよ」
なんだかなあ。
不思議なのは、タマちゃんの影響を受けているはずなのに今は大丈夫ってことで。
なら……いいやって思ったの。
疲れていたから。油断したら寝ちゃいそうなくらい。トモのシャンプーテクが気持ちよすぎたせいもあるし。
「それで……どうしたいの?」
窓を閉めてベッドに腰掛ける。
抜き身の刀みたいな……危うい強さをもっている印象が強い沢城くんはね。
「……お前の匂いはなんだか落ち着く。わりいが今日もちっと寝場所を借りるぞ」
そう言って勝手に寝ちゃうの。
ひどいなあ……。
好意を期待したり勘違いする余地なんてまるでないくらい、はっきりしている。
だって……タマちゃんの経験が教えてくれる。
色気とか、恋愛とか、そういうんじゃない。
ただ熱が欲しいだけ。居場所が欲しいだけ。
それも切実に求められている。
私じゃなくてもいいんだ。彼がその本能的な嗅覚で身を委ねられる相手なら、きっと。
だけどそれでも、二回目。そこに意味を探しちゃうのは、私が未熟だからかな。
勝手だし、強気だけど……それは繰り返すけど、抜き身。
寝息をたててすぐ、私を抱き締めてくる力は強く、縋るよう。
「いいよ」
タマちゃん……。
私の代わりに許しを与えるタマちゃんの声は、私とは違う優しさに満ちていた。
「十兵衞……はとうに寝ておるか。のう、ハルよ。気づいておるか?」
なに?
「この手の輩は……一度許すと懐にどこまでも踏み込んでくる。しかし断れば酷く傷つき、嘆くじゃろうよ。特にこの男の場合、そなたを斬りにくるじゃろう」
……ん。わかってる。
ベッドにきちんと寝転がると、私をその腕に抱き締めたまま……すぐに寝息を立てる沢城くん。尻尾があるから、自然と彼の胸に頭を預ける形になるの。
「八本に増えたからのう。そなたに代わって相手をする分には問題もないし、こやつを押し倒すほどの余裕のなさも今はないが……そなたはどうしたいのか、聞いておかねばのう」
たぶん……これは正解じゃないんだよね?
「その通りじゃ。流されたいのなら構わんが、それでは……こやつが求めるのは自分を癒やす熱に過ぎんじゃろうよ」
どうにか……したいなあ。
これほど体温に飢える理由が知りたいの。沢城くんだけじゃない。私を知るために。
沢城くんって、どんな人なんだろう?
顔を上げると無垢な寝顔がそこにあるの。
ずるいよ。
そんな顔で寝ちゃうなんて……ずるいよ。
けどきっと……こんなにそばにいても、私たちが交わることはないんだね。
いつか、出会えるだろうか。
私とギンがお互いに、惑わされずに気持ちを注げる相手と。
もしそんな相手がいるのなら……それはどんな人だろう。
今夜はどうやら、答えは見つかりそうにない。
つづく。




