第三百三十八話
金色と漆黒。欲望が春灯を貫いた瞬間、膜ができた。包まれていく最中、春灯の背に飛び出た刃が飲み込まれていく。春灯が己の欲望が放つ霊子を受け入れていくように。
二人を包む膜にカナタが焦れる。けれど繋いだ縁を通じて叫ぶ。閻魔姫として。春灯の姉として、己の侍に命じる。
『今はよせ! 手出し無用だ!』
「くっ――!」
カナタが己の欲望と刀を合わせるのを見て、こちらはこちらで拳で刀を受け止めた。
「ふっ――」
「妹の窮地なのに余裕?」
「さてな!」
閻魔姫としてではない。もしこの世に生を受けていたら? そんな可能性と共に、赤子の時に生み出されて成長した己の邪と対峙する。
奇跡の産物と言っていい。現世の自分が死した時点で失われるべき可能性は、けれどどういう理屈か生きて目の前にいる。
カナタが引き抜いた刀と同じ形状のそれを武器にして、七つの黒い御珠を背負って戦っているのだ。
疑問ばかり浮かぶ。なぜ。どうやって。どのようにして。どれほどの時間そうしてきたのか。
春灯と自分の邪だけが……欲望だけが、自我を獲得して活動している。
もはやたんなる欲望ではない。面倒なことに……ささやかではあるが、神になる兆しを見せている。だからこそ倒してしまいたかった。己の欲望が古にいたような荒人神になるなど、笑えない冗談だ。
それでも――……
『――……ピンチは、チャンス』
繋いだ縁から聞こえてくる。
『この漆黒は私のいつか夢見た色。だから……』
春灯の願う声が。春灯の戦っている声が。
胸を貫かれてなお、勝利を掴み取る意思を伝えてくる。ならば。
この手に宿る漆黒で攻める。
「くっ、そっ――」
唸る己の似姿の刀を拳で削り、割って、折って。
攻めて、攻めて、攻め抜いて!
「くそ! 欲望を越えた存在になりやがって!」
「これでも苦労したんでな!」
とうとう拳を出させた。人としての可能性の先にいる似姿のそれは華奢で脆いかのように思えた。しかし、腐っても閻魔の娘と同じ似姿。
「ならばそれすら飲み込んでやる!」
鋭さも、強さも何もかも己と同じだった。
死した自分の可能性。春灯のそれは生と死というわかりやすい構図がある。けれど自分は違う。死して産まれた可能性と対峙する、死したからこその可能性。
拳での殴り合いをしながら思う程度には余裕がある。相手も本気じゃない。なぜか? 自分も相手も春灯が気になって仕方ないから。
当然だ。
ずうっと気にしてきた。妹を。一度は……自分の裁定をくだした書類を探して読んで……そして現世を見てから。それからはこっそり隠れて見続けてきた。
大好きだ。正直に言えば、妹も、弟も……現世の家族みな、大好きだ。それゆえにずっと悩んできたのだけど。
互いの拳をぶつけ合ってにらみ合う。
痛みはとうに麻痺していた。
「意外だな。人として生きても……我と同じとは。自分の可能性に惚れ惚れとするね」
「ふん……春灯の我をもじって、一人称をずっとそれで通してるあんたに言われてもね」
「――……」
「わかっているさ。驚くな。こっちの春灯は、地獄のお前のようにずうっと“我”を通している。愛しいと思う……私はあんたの可能性の一つだから、わかる」
拳を重ねて理解する。
なるほど……確かに倒すとか殺すとか、そういうんじゃ乗り越えられそうにない。最初こそ春灯は甘すぎると思ったが、無理だ。対峙しているのは自分。自分自身そのもの。敵うわけがない。お互いに。戦ったって意味がない。死なずに済んだ可能性は、どう足掻いても……眩しく輝いている。
「――じゃあ」
「――そうだね」
お互いにうなずき合い、拳を下ろす。
視線を互いから金と漆黒の混じる球体へと向ける。
春灯が二人で放つ霊子が作る繭。
その内側で何が行なわれているのか。わからない。
ただ――……我の似姿の背にいる黒い御珠の七つすべてがその繭に向かって飛んでいった。
何かが起きる。春灯が起こす。欲望と夢、死と再生の狭間で――……
◆
みんなが戦う音が遠くに聞こえる。
剣戟。悲鳴、怒号。それだけじゃない。欲望を確かめる誰かの声も。和やかだったり、痴話ゲンカだったり……いろいろだ。
私の胸を貫いた私の顔が苦しみに歪んでいる。痛いんだ。相手を傷つけることが。自分を傷つけることが。
「わかるよ。あなたのお願い」
「我の願いがわかるものか!」
「お姉ちゃんと一緒に生きたい願い」
「我は物心ついてからずっと、青澄春灯の欲望から産まれた邪を結合しながらここまできた! お姉ちゃんと一緒に育ってきたの!」
刀から染み込んでくる。ずうっと振るわれてきたのはタマちゃんの刀。漆黒に染まった刀だった。十兵衞の刀は振るわれない。鞘に眠ったままだった。
だからこそ、今の彼女は折れそうだった。
「あなたとは違う! お姉ちゃんと離れたあなたとは!」
染み込んでくる漆黒。抗わずに受け入れる。欲望と情念の先にある。
この子の核が、きっとある。
研ぎ澄まされていく。それゆえに薄く伸びて折れそうになる。
そんな彼女の絶望と情念は鋭く痛む。
激痛にそれでも必死に耐える。願うように漆黒を受け入れて、その先に金色を伸ばし続ける。
「ツバキちゃんを選ばずカナタを選んだあなたとは、違う!」
欲望が叫ぶ。
「ギンや狛火野くんたちと出会いながら、それでも何にもならなかったあなたとは、違うんだ!」
悲鳴のようだった。
「すべてを掴み取りたかった! いつだって! ずっと!」
誰にも……明かさない。カナタが繋いでも表面に出ることさえないくらいささやかな欲望。私が思っていたことに違いなくても、思わず奥底にしまいこんでいたこと……いつか通り過ぎて忘れ去ったほんの僅かな可能性さえ、欲望は訴える。
倒すことはできない。蓋をすることはできない。
それは確かに私の声だった。私の声に違いなかった。
「もっと最初からカナタに会いたかった!」
痛い。
「もっと最初からツバキちゃんと一緒にいたかった!」
すごく。
「ずっとずっとお姉ちゃんと生きたかった!」
痛い。
「出会いが早かったら、誰も傷つかなかったし! 死が訪れなかったら、もっともっと幸せでいられた!」
子供みたいに泣いて、叫んで。痛みを叫ぶ自分の似姿が悲しい。
私に彼女の言葉を口にする資格はない。
資格があるとしたら、私の欲望にしかない。
漆黒はどんどん広がっていく。身体中を蝕んで、尻尾に伸びていく。
黒い私の嘆きを――……それでも、否定はしない。
「そうだね」
彼女の背中を抱き締める。
強ばっているけれど、柔らかい。
見下ろす尻尾は黒。私の似姿は……黒。
お姉ちゃんや、中学生時代の私が夢見た色だ。
何にも染まらない。染めようがない。強い色。そう思っていた。
……けど今の私は金色。黒じゃない。
だからかな。
今なら黒の頑なさと融通のきかなさがわかる。
塗りつぶして重ねて、もうどうにもならなくなってしまった……他人を自分の色にしか染めることのできない悲しい色だ。
「……ツバキちゃんともっと早く出会えていたら、私の人生は楽だったかもしれない。ツバキちゃんの苦しみをもっとちゃんと理解できていたかもしれないし、今とは違う意味で特別な人になっていたと思う」
一つ、ほどく。
「カナタと最初に出会えていたら……それこそ、よくある少女マンガの定番の一つみたいに、幼い頃に出会っていたフラグがあったら? そしたらもっとすぐにもっと早く……何かが起きていたかも」
一つずつ、ほどいて。
「そうしたら……トーナメントでぶつかりあったり、ギンを相手に失恋だってしなかった。あるいは狛火野くんと違う可能性を進んでいたかもしれない。でも……でも、そうはならなかったの」
導き出す。
「完璧な人はいない……同じように、完璧な人生なんてない。産まれたら死ぬし、出会ったら別れる」
悲しい事実。
「すべてに気づけたらどれだけいいだろうって思える。気づける人だったら……私はもっと、それこそあなたが願う人生に近づけていたと思う」
お姉ちゃんのことだって同じだ。お母さんが秘めた謎にだって……同じ。
私が小学生名探偵くんなら違った。私が……もっともっと素直に理想的な少女マンガの主人公なら、こうはならなかった。
でも、そうじゃない。だから……気づいてからどうするか、という後手に回ることばかり増えていくし、理想的じゃない目にだって遭うこともある。
それでもやりくりしていくのが人生だ。
いいことばかりじゃない。それを素直に受け入れるほど大人でもないけどね。だからこそ……今は漆黒を受け入れているのだから。
「ごめんなさい」
「――……」
「ごめんね。あなたの願い通りにさせてあげれなくて」
欲望に謝罪を。
漆黒を照らすの。金色で。本来あるべき色を探して、ほどいて……照らし続けるの。
「今から……もっと自分の希望に、みんなの理想に向かってがんばるから。だからお願い……あなたの本当のお願いを教えて?」
頑なにならずにはいられなかった……鎧をまとわずにはいられなかった、かつての自分に抱擁を。
「私がぜったい叶えるから」
「――……」
震えていた。腕の中で。私を貫いて、傷つけて。それでも不足を訴えて泣きじゃくることしかできない……私自身が震えていた。
「もっと、しあわせに、なりたいよ……」
「うん」
「もっと、しあわせに、したいの」
「そうだね」
「……お姉ちゃんも、私も、私の大好きなみんなも」
首元に落ちてくる。似姿の涙。違う……これは私の涙だ。
足りないものに気づいていく。
そのたびに思わずにはいられない。
そういう瞬間をまるごとすべて、金色に変えられたらいいのにって。
だから……士道誠心に入って新たに私が手にした色は、夢は……力はすべて、笑顔を引き出すためにある。
自分を守るより。誰かを傷つけるより。ちょっとでも笑顔になってもらうためにある。
そのためには強くなきゃいけない。折れずに立ち向かう強い力がいる。十兵衞はいつでもそれを示してくれる。
笑顔にする人がみすぼらしかったら弱い。外面は内面の一番外にあるもの。だからとびきり存在感を放つ素敵な美しさがいる。タマちゃんはいつだってどこまでも綺麗だ。
そうしてやっと……私は私の力で手を伸ばす。世界と対話する。それは侍候補生としてであったり、歌であったりするけれど。
願いはたった一つに向かってる。
キラリとやり直せてよかった。ユイちゃんが気づいてくれてよかった。
マドカが救われる瞬間に立ち会えた。
青組応援団の体験もかけがえのない瞬間だったし。
ラビ先輩やメイ先輩のいるお助け部に入れてよかった。ルルコ先輩はいつだって美しさは作れるものだって証明し続けてくれる。あの人の下地に甘えない努力と積み重ねを知ることができてよかった。
コナちゃん先輩と出会ったから、私は人の強さを知ることができた。気高さを常に体現するあの人の意思を知れて本当によかった。
シロくん、カゲくん……九組のみんなが私の居場所。
狛火野くん、ギン、レオくんにタツくん。憧れる男の子達と過ごした戦いの日々は消えない。
ノンちゃんと……仲良くなれたから、私は誰とだって仲良くなれる気がした。
トモ。最初に友達になってくれたトモがいたから……ここまでこれたよ。
そういう軸をカナタ……大好きな人がいてくれたから、頑張ってこれた。
自分を受け入れることができたのは、ツバキちゃんがいてくれたからだ。
大好きな人たちばかりだ。ユリカちゃん、姫宮さん。ユウヤ先輩たち。トシさんたちや高城さんだってそうだし、シュウさんたちだってそう。
いいことばかりじゃなかった。それでも……たくさんいいことあったんだ。
みんなの笑顔が力。みんなの絆が力。
だから幸せにしたい。もっと幸せになりたい。金色に輝く日々をこれからもずっと過ごしていくんだ。それはもう夢でも欲望でもない。ずっとあり続ける目標でしかない。
そのためにも。
「まずはあなたから……私から幸せになろう」
「……っ」
抱き締める彼女の漆黒を一つずつほどくまでもない。
私の気持ちそのまま、勝手にほどけていく。ぐしぐし涙を流す彼女の本来の色。
漆黒はどんどんいろんな色に変わって、最後に残ったのは私と同じ金色でしかないの。
それは内なる強固で頑固な輝きなんかじゃない。
願い続けるからこそ産まれる祈りの輝きだ。
「一緒に願えば、なんとかなるかな……」
私の気持ちをそのまま紡ぐようにして、消え入りそうな声で語る不安に笑って頷く。
「なるよ、もちろん。わかってるよね?」
「……うん。大神狐モードだね」
頷いた私の似姿と額を重ねる。
祈る。祈りながら歌う。尻尾はみるみるうちに弾けて消える。
神さまを下ろす。身体の中へ。タマちゃんの力に甘えず、十兵衞に叱咤されるまでもなく。
一途に願う。そのための大神狐モードなのだから。
叶えよう。
永遠は掴めない。世界は変えられないかもしれない。
それでも……私とお姉ちゃんの幸せになるくらいには世界を変える可能性が掴めるかもしれないから。
◆
歌が鳴り響く。空が青く澄んでいく。
黒い七つは煌めきを放ちだした。その頃にはもう、増えた士道誠心はあらかた片付けられていた。残されたのは閻魔姫の似姿と……繭が消えて内から見えた、春灯の似姿だけ。
己の欲望さえ飲み込んで痛みを覚えた彼らのもとへ、金色の霊子が広がっていく。
触れると心地よく、浴びると気持ちがいい。心を誘導したりはしない。ただ……触れるとあたたかくて、優しい。それだけの光。
向かい合って跪き、金色の天孤が二人で歌う。
歌詞はない。響きは哀しみに満ちているようで、願いに満ちていた。
誰かが思った。優しさを注ぐ彼女たちは誰より悲しそうで、つらそうだと。
彼女たちの本質を探るまでもなく知っている少年達は、同じように把握している少女たちと共に見つめる。
生み出された邪は消え、黒い御珠はどんどん輝きを増していく。
あるべき御珠へと姿を変えて……金色が降り注ぐ。
夢と願いの満ちたマシンロボは願う姿を失い、元々あるべきところへ帰って行く。
振るわれた拳も、刀も、いつしか下ろされていた。
青澄春灯の心臓を穿った刀すら消えてなくなっていく。
彼女が生き延びた理由を誰かが疑問に思った。山吹マドカは特に注意深く春灯の胸を睨んだ。けれどそこに穴はない。己を殺す悪意など、まるで存在しないかのように。
金色は増えていく。その輝きのすべてに天使キラリは星を見た。
健気に癒やしを注ぐ青澄春灯とその邪を眺めて、誰かが微笑んだ。それは真中メイであり、並木コナであり――……佳村ノンたち刀鍛冶であり。そして沢城ギンをはじめとする零組一同であり、八葉カゲロウたち九組であった。
地面へと落ちていく金の霊子が花を咲かせる。次々と。次々と。
もはや戦いは必要なかった。
誰かが刀を振るう必要さえない。終わったのだ。もう。
閻魔姫と呼ばれた少女が己の似姿とにらみ合い……互いに笑い合う。
そうして歩み寄っていく。
金色を放ち続ける二人の少女の元へ。自分たちの妹のそばへ。
変化が起きた。
金色を浴びる閻魔姫の似姿の髪が灼熱に染まるように赤く染まっていくのだ。
七つの御珠はゆっくりと地に堕ちる。そうして煌めきを放ち続ける。誰かに新たな夢を手にするチャンスを与えるために。
それはまさに絶好の瞬間。悪意が狙うなら、ここしかない。そんな瞬間だったけれど。
閻魔姫とその似姿が指を鳴らした。どこからか飛んできたカードが焼かれて姿を失う。そしてどこかを一瞥した。
凶手に出た人間はその脅威に笑い、その場を離れる。
今日この場における……戦いはもう、終わったのだ。
◆
無我夢中になって祈り続けた。祈りは歌になって、歌は金色に変わってすべては終わった。
力尽きるようにして倒れる。二人で一緒になって、お姉ちゃんに抱き上げられた。
自分の似姿を見る。同じ金髪の九尾。けれどお姉ちゃんの似姿と一緒で、その目は赤く煌めいている。
お姉ちゃんだけじゃない。カナタやみんなが集まってくる。戦える力を手にして。
終わったから、殺さないでって言わなきゃいけない。
なのに声を出そうとどんなにがんばっても、もう出てこなかった。力が欠片も残ってないんだ。
「だいじょうぶ。こいつらは……地獄に連れ帰る」
「――ね、えちゃ――」
「だいじょうぶだから、心配するな。こいつらはもう……邪を越えて神へと至った。性質上、心配だから地獄に連れ帰るけどな。あとは……王たちの采配に委ねるが、悪いようにはしないさ」
「……ん」
抱き締められながら告げられた声の優しさに瞼を伏せた。
心の底から繋がるお姉ちゃんの心に嘘は見えなかったから、いい。
「カナタ、春灯を預けるぞ」
「ああ」
私をカナタに渡して、腰に帯びた自分の御霊宿す刀を抜き放ち、切り裂く。
鬼のみなさんを大勢だしたあの穴を開けるんだ。
「いけ。ほら、早く」
「……じゃあな」「ばい、ばい」
力尽きた私の似姿を抱いて、お姉ちゃんの似姿が穴を抜けていった。
「……どういう状態なんだ、これは」
カナタの問い掛けに、お姉ちゃんは裂け目を閉じてから言うの。
「お前の恋人は……我の妹は、おのれの似姿を神へと変えて、その祈りで我の似姿さえも同じような存在へと押し上げた。荒ぶる人の神……いや、違うな。あれはもう別物だ」
「途方もないな」
「一言で言えば、自我を持った邪を救っただけだ」
カナタに刀を返すと「少し疲れた」と言ってお姉ちゃんは消えちゃいました。葉っぱがゆらゆらと落ちていく。
メイ先輩たち三年生は落ちた御珠を抱え上げて抱き締めた。
「まあ、なんかよくわかんないけど……コナちゃん、号令」
「そうですね……こほん」
咳払いをしたコナちゃん先輩が、笑うような声で大きく宣言した。
「勝利!」
おおお、とどよめくみんなを見渡して、ラビ先輩が首を捻る。
「なんかこう……僕たちだけの勝利の号令が欲しいね」
「一見さんお断り感がでないか」
「カナタの指摘ももっともだけど。何かないかな。僕らに似合いの号令は」
みんながううんと悩む。
たいへんな戦いの後のはずなのに、なんだか間抜けで笑えちゃう。
だから私はかぼそい声で言うの。
「かつ、とし」
「……音読みを訓読みにされてもな」
「いいじゃないか、それ。いい具合にばかっぽくて……コナちゃん」
「ええ? ……じゃあ、今回だけね?」
笑ってみせると、コナちゃん先輩は今度こそハリセンを天高く掲げて言うのだ。
「かつとし!」
「「「「 うおおおおお! 」」」」
「誰の名前だ。っていうか生徒に一人くらいいそうな呼び方だな、おい」
カナタのツッコミに笑っちゃうけど、もうそろそろ限界だった。
瞼を伏せて力を抜く。
意識が落ちていく。何かすごいことしちゃったみたいだけど……ただ夢中。
だからそのせいで失う何かさえきっと見落としているに違いない。
◆
みんなで現世に戻ることになった。
己の欲望との対峙は概ね想定した混乱を経てなんとか乗り切ったといえる。
南ルルコにとっては別だ。認めるのは簡単。だから受け入れるのも簡単。踏み切ればあっという間。それでも痛すぎる。
どんなに夢を見ても欲望は消せない。それは時に刀をさび付かせ、折る原因にもなる。だから侍たちは刀鍛冶たちよりもずっと一途でいなければいけない。
離脱率の高い仕事だと思う。若者の特権みたいな仕事だと思う。それゆえに学生でいながら会社を興したことには意味がある。南ルルコの決断には、意味がある。そう信じている。
虜になるには十分な世界へ行けるし、特別な力を手に入れられるのも強い。
だからこそ羽村くんの願いを受け入れるしかないと思った。彼が曇る可能性を取る方が、彼の恋人としては愚かな選択だと思った。
理性はそういっている。知性も訴えている。だけど本能が叫ぶ。いやだ。彼に置いて行かれるなんて耐えきれない!
高一の自分なら? 中学生の自分なら? 小学生の自分なら?
すべてにおいて答えは変わってくる。けど高三で卒業間近の自分はもう答えを出した後。
結論。大人になんてなるもんじゃない。
補足を一つ追加する。
「先輩の片思いが気になってしょうがない!」
さっきの戦いで羽村くんの欲望が叫んでた。
メイへの気持ちが気に入らないという、彼の素直な気持ちだ。
欲望はほんの僅かな願望さえ声高に主張するから、どれほどの気持ちかわからないけれど。
「今のままじゃどうにもならない! だから俺はもっと先輩が夢中になるくらいの男になる!」
それがアメリカ行きだというのなら、彼をどれほど追い詰めていたか。
皮肉だ。彼への思いを捨てられるくらいなら彼と私の今は作られてないし、メイへの思いを諦められるくらいなら彼とも出会っていない。
己の欲望を飲み込んだ彼が……学校へ帰る道すがら、近づいてきた。
ずっとどうすればいいか困っていた。彼も一緒だった、なんて私の甘えだろうか。
「……俺は選んだ。先輩も選んだ。けど俺も先輩も迷ってる」
彼の言葉に頷く。
「うん……」
「一つ、約束しません?」
「……どんな?」
「先輩が……真中先輩に素直になってくれるなら。俺はどうにかして、日本で頑張れるようにします。時間はかかるかもしれないけど」
「……羽村くん」
「気づいたんですよね。真中先輩への気持ちを抱えたまま引きずることはあんまりよくないんじゃないかって……だって、先輩以外みんな気づいているのに」
「えっ」
思わず立ち止まった。
それから周囲を見た。ちょうどミツハが通り過ぎるところだったけど、あいつは私を一瞥してどや顔で先へ行ったのだ。ほらね、いわんこっちゃない、という顔。
「あ、あはは……う、うそだよ、そんなの。っていうかお願い、嘘だと言って!」
「え、え。待ってください……それ本気で言ってます?」
眩暈がするような勢いでよろけてから、羽村くんは真顔で言うのだ。
「あの文化祭の舞台は! 歌は? あなた以外の誰かなら演技だと思ったでしょうけど……南ルルコがあの演目を、あのキスを本気でやっといて、いまさら嘘だと言わないでくださいよ?」
「うっ」
「……見ていた連中みんなに伝わるくらい本気だったし、俺にも伝わったんです。誰にだって伝わってます」
「……っ」
耳まで熱くなる。髪の毛をくしゃくしゃにかき乱してから、羽村くんが言うの。
「悔しいけど、俺への気持ちも疑ってないけど。でも……先輩は二つの恋をしてるんです。俺へのそれは叶ってる。じゃあ……もう一つも、なんとかしてください」
「……そ、そんな、の」
「俺はいいって言います!」
踏み込まれる。いつもはスマートな彼の全力で。
「百人中、九十九人はだめだっていうでしょう。俺も我ながらバカな選択してるって気づいてる! それでも! ……南ルルコが南ルルコであるためには、必要でしょう? 俺の大好きな先輩は、真中先輩大好きすぎる先輩でもあるんです!」
肩を抱かれた。近づく顔は必死なもので。
「……先輩が素直になるなら、先輩の心を奪うために離れる選択はできなくなる」
メイに夢中になるかもしれなくて、そしたら羽村くんへの気持ちが曖昧になるかもしれない。
そんな言葉に怒る余裕さえなかった。自分が思っていたよりずっと、私の大好きな人たちは私のことをよく見ていた。
「お願いします……全部に素直になってください。俺は先輩のわがままならききます。ごまかしの甘えとかじゃなく、ガチで言ってください! 我慢されるの、いい加減つらいんです……」
「う、ええ? そ、そんな、急に言われても」
思わず助けを求めるように周囲を見渡した。
こういう時に限って見つけちゃうんだ。目が合っちゃう。メイと。そばに呆れた顔をしたサユがいる。メイは大丈夫かって問い掛けるように私を見つめてる。
葛藤した。なにに葛藤しているんだかわからない。
羽村くんは求めてる。ミツハが望むように。メイへの気持ちに素直になれって。
けどメイは? メイの心はわからない。いつだって私を受け入れてくれる。受け止めてくれる。けど。さすがにこれは。いくらなんでも。ずっと踏み越えられない一線。いや、よく泊まりにいってめちゃめちゃ甘えてる私がいまさらなに言っているんだ感はハンパないけれど。
でも。でも。
「先輩が言えないなら俺が代わりに言います!」
「ちょおっ、待って待って! それだけは待ってお願い待って! なんでもするからそれだけは……!」
羽村くんの顔が叫んでた。これ以上いわせないでくれ、と。まるでもう、すべての答えは出そろっているかのように言うの。
私はもう涙目。
咄嗟に羽村くんの腕に抱きついていた。
「なんでもするって言いましたね?」
うう。ずるい。こんな意地悪な手に出るなんて。羽村くんを見くびっていた。
「じゃあ、素直にアタックしてみてください」
「……どうしても?」
「どうしてもです」
絞り出す。
「言ったら……そばにいてくれるの?」
「なんとかします」
「……二つとも掴めっていうの?」
「愛する先輩には、全取りが似合うと思うんです」
私の肩に手を置いてそっと離される。
「だめかも……すべてを失うかもしれないよ?」
ふり返る。メイは気遣うように私を見つめていた。
「結果ではなく、挑み続けることに価値はある。先輩は……文化祭ですごい挑戦をした。なのにそれからはまた元通り。いい加減……先輩の恋人であるのと同じくらい、先輩のファンとしては気になってるんですよ」
顔を見上げるとね? 羽村くんはしょうがないなあって言いたそうに笑ってた。
「学校で築いた縁なんです。卒業する前に……登校日が減って機会が失われるその前に、どうか……掴んでみせてくださいよ」
そう言って、そっと私の背中を押したの。
ゆっくりと歩いていく。私を見つけてくれた男の子に導かれて、私を見つけてくれた士道誠心の太陽のもとへ……ううん、ちがう。それだと……手を伸ばして溶かされて、やがては焦げて死んでいく。
私が足を進める先にいるのは、女の子。私をずっと救い続けてくれた、大事な人。
「ルルコ、だいじょうぶ?」
問われて言葉がいくつも浮かんでくる。
「……今日、お部屋にいってもいい?」
どきどきしながら尋ねた。メイはおかしそうに笑って言うの。
「そんなのいつものことでしょ。いまさら聞いてどうした。いつでもおいでよ」
「……うん」
「あついなぁ、ずっと」
からかうサユにメイと二人でうるさいって言って笑い合う。
何が起きるかわからない。ただ……決着をつけよう。
これは狂気? それとも……――そう。
振り絞るのは、勇気に違いない……。
つづく!




