第三百十三話
連行されていく男は何かを呟いた。
そばに控える警察官たちは何か言ったかと尋ねた。
けれど男は彼らに答えようとはしなかった。
◆
中瀬古家の夜はだいたい静かなものだった。
母はテレビを好まない。バラエティ番組などは特に苦手だ。
でもコマチは知っている。
本当はお笑い芸人が好きで、だけど笑い方にコンプレックスがあって、人前で見て笑ってしまうのがいやなだけだという母の秘密を。
こっそり部屋でアプリを通じて動画を見ていることを、娘は知っている。
十組のみんなをお風呂に案内して、母と二人で和室とコマチの部屋に布団を敷いた。
一緒に眠れるように準備をして、心が高揚してきた。
友達を招き入れた覚えなんてない。一度も。
人生で初めて、友達を自分の家に泊める。それも一人じゃない。五人もいる。
こんな日が来るなら、生きているのも悪くないと思う。
今日は……怖かったから。
コマチの父親は酒癖が悪かった。シェフとして男社会で厳しい修行を乗り越えて鍛えられた母は華奢な見た目ほど弱くない。むしろ強すぎるくらいだ。父にとっては悲劇なことに。
母が東京で働いていた頃、勤務先のレストランが三つ星を取って本当に忙しくなった。
対する父はリストラに遭い、酒に溺れて暴力的になった。
殴るし、蹴る。母とケンカをしては手を挙げる。
母も母で最初は突っぱねていた。本当に母は強いのだ。しかし、父の暴力の矛先がコマチに向かったことを知ってすぐに父を家から追い出した。
それでも父は来た。何度も来た。母が店をやめて、引っ越しをしても、どうにかして現在地をかぎつけてはやってきた。
常軌を逸した振る舞いに辟易した母は離婚するために弁護士を立てたし、そのせいで父はエスカレートした。母を強引に襲おうとしたんだ。
コマチは通報した。初めて警察に電話した。助けに来てくれた侍の強さと優しさを今でも覚えている。
ギラギラの欲望にまみれた視線を母と自分に向けた父のあまりの変貌ぶりも。
――……物心ついた時は。仕事をしていた時の父は自信と優しさに満ちあふれていたのに。
些細な切っ掛けですべては壊れて、歯車は狂い、不幸がコマチの家族を包み込んだ。
どこかで止められたら、こうはならなかった。
そう思うから、刀を求めた。
侍くらいコマチが強ければ、母を助けられた。父の暴力を止められた。父が酒に溺れる前に止められたはずだ。あんなにひどくなる前に助けられたはず。優しい父でいてもらえるために、立ち向かえたはずだった。
でもずっとできなかった。弱くて、幼くて。コマチは何もできなかったのだ。
ずっと、後悔している。
母に守られるばかりじゃない。みんなに守られるばかりじゃない。誰かを助けられる、守れる自分になりたい。
一心に願うのは、ただただ……その思いだけ。
刀が今日ここにあったなら、立ち向かえていただろうか。
わからない。
今日は無我夢中だったから。
ただ……刀があったなら。
父の歪さの根源を断ち切って、助けるのに。そう思った。
◆
狭苦しい鉄格子のある小部屋に入れられて、項垂れる。
先客はいない。いたら殴りかかっていたに違いない。
暴力的な衝動がある。胸の内に、ずっと。
心は叫んでいる。うるさいくらいに。
『こんなはずじゃなかった』
そう訴えてくる。
『幸せな家族を築いて』『コマチが大人になったら、次の人生をどうしようかなんて話して』『ずっと笑っていられたらよかった』
耳を傾けるのも面倒だった。ずっと。仕事をクビになってから、ずっと聞いてきた声だ。
『――解雇? な、なぜですか? 私は成果を出してきました! 社に貢献し続けてきました!』
『けど、一番じゃない。替えが効く範囲だ』
『そんな――……妻も子もいるんです!』
『クビになるのも、妻子がいるのも君だけじゃない。それに解雇じゃない。一身上の都合で自主退社だよ。その方が君のためになる』
膝を抱える。三十を過ぎて一方的な解雇。
従ってしまったのは間違いだった。一方的な告知で自主的に退社を促すやり方に賛同する必要性などなかった。
けれど知らなかった。断ってもいいだなんて。
戦力外通告に意気消沈して頷いて、会社を辞めて。再就職活動は最初の就職活動の比じゃなかった。どこへ行っても渋い顔。取る気のない面接、面接、また面接。二百を超えるお祈りメール。社会の歯車にはもう戻れないんだという絶望。
認められなかった。だけど受け入れることしかできなかった。自分はもう、誰にも求められないクズなのだと。
妻は訴えた。そんなことはない。生き方など探せばどうとでもなる、と。けれど受け入れられなかった。
元の仕事に戻りたい。それ以外の道はないんだと何度も訴え、次第にケンカが増えていった。手をあげた。自分よりも輝かしいキャリアを歩む彼女を妬み、うらやみ、激情に任せたことも何度もある。
望まない仕事は続かなかった。辞めるたびに心が腐っていく。酒の量は増え、ケンカは増して、ついに娘にまで手をあげてしまった。当然、妻に追い出される。
そうして――……今に至る。
どうすればいいのかわからないのだ。この地獄のような人生のケリの付け方が。その挙げ句にとうとう警察沙汰。
もう終わりだ。何もかも。
涙も出ない。自嘲する気さえ浮かばない。ただの虚無。
空っぽな気持ちでいた時だった。
『よこせやよこせ、ういみたま――……』
歌が聞こえた。歪な声だ。子供と老人の声が入り混じったような、不気味な声。
『たけりくるおう、あらみたま――……』
どこからだ。どこから聞こえる?
周囲を見渡して、それから自分の胸元を見下ろして悲鳴がでた。
『くらいつくして、むにかえろう――……』
心臓の位置に黒い穴が空いているように見えた時にはもう、意識を失っていた――……。
◆
お風呂場で綺麗な金髪を洗っていたら、ユニスが顔を左右に振り始めた。
「おいこら。洗ってるんだから、あたま動かすな」
「何か――……聞こえた気がしない?」
「何かって……水音じゃないの? それか……雨かな」
湯船に落ちる水滴と、外から聞こえる雨音くらいしか聞こえないぞ、私には。
変ね、と呟くユニスの髪の毛を洗っていたら扉が開いた。
コマチが裸で入ってきたのだ。
「あ、の……私、も」
「いーよ。ユニスの次ね。身体流してお風呂入って待ってて」
「ん」
はにかんで笑いながらコマチが身体を流してお風呂に入る。
ユニスの頭皮マッサージをして、髪の毛に泡をまとわせて流し終えた。
「……極楽だわ」
「それはよかった。たまには英語で言ってくれていいんだぞ」
「極楽は極楽よ……」
「そうですか」
至福に顔が緩むユニスを半目で睨みながら浴槽へ押し込み、代わりにコマチがでてくる。私の前に腰を下ろそうとした時だった。
「たたたたた、大変だ!」
血相を変えたリョータが扉を開けたのは。
狼藉者に迷わず私はユニスと手当たり次第に物を投げ、コマチは身体を必死で隠す。
「ばか!」「なにさらっと覗いてんの!」「や……っ!」
「ご、ごめん! ちがくて! っていうかマジで一大事なんだって!」
急いで扉を締めたリョータの背中が曇り硝子越しに見える。
まったく……。
赤面しながら尋ねる。
「何が起きたの」
「ミナトが警察の知り合いから連絡を受けたんだ。コマチのお父さんが……逃げたって」
「はあ!?」
思わずユニスと顔を見合わせた。
「ま、待って。普通、逃げられないような部屋に入れられるのではなくて?」
「鉄格子を腕で折り曲げて、警察官をなぎ倒して出て行った! 邪が強大になってるって、侍から報告があったって!」
「嘘よ。トラジと警察の侍隊とで全部倒しきったはず」
「で、でも、ミナトが言うには邪がでてるって……」
どういうことだ。
「……どこへ行ったか、わかっているの?」
ユニスの問い掛けに、リョータははっきりと言ったよ。
「ここへ向かってる」
◆
着替えを済ませてみんなでリビングに集まる。そこには警察の人がいて、保護するために準備してくれていた。
現代に出た鬼のように、怪力と異常な身体能力で暴れ回るコマチのお父さんは制御不能。
最悪の事態も考慮に入れて行動を開始するという説明がなされる。
そうして荷物をまとめて家の外に出された時だった。
玄関をみんなで出ようとしたのに、一人だけ立ち止まったんだ。
「……っ」
拳をぎゅっと握りしめて何かを言いたそうにしているコマチに呼びかける。
「コマチ?」
「……や、だ」
「いやって、なにが?」
「……お父さん、も……助け、たい」
「コマチ……アンタ」
思わず目を見開いた。
歪さに触れた。欲望にも。あれを理解しようと……思えない。春灯たちなら或いはと思ったけど、私はそこまで振り切れてない。まだ、そこまでたどり着けてない。
だからこそ、コマチの訴えは良心の――……私の夢見る自分の心の叫びに違いなかった。
「警察が束になって退治するっていう流れになっているのに?」
「それ、でも!」
ユニスの問い掛けに、コマチはとっくに覚悟の決まった顔で頷いた。
「おいおい……刀はねえんだぞ。俺たちにできることなんて、もうないだろ」
「それ、でも!」
ミナトの呆れた声に、必死に頭を振る。
「……そんなに?」
「ん!」
リョータの問い掛けに、頷いて。
「まあ、そうだよな……どんなに歪もうが、てめえの親父だもんな」
「……うん! 助け、たい、よ!」
トラジの言葉を力一杯肯定したのだ。
何があったかなんてまだわからないけれど、それでも助けたいくらいには大事なんだ。
いい家庭ばかりじゃないみたいに考えたけど。
それでも……いい時もあったんだろう。コマチにとって。それが何より大事だった。
考えてみれば、そうだよな。
「……あれで終わりじゃ、締まらないもんね」
荷物から手を離して、コマチの髪を撫でる。
深呼吸をした。
春灯に追いつこうとして……でもどこかで毎日に慣れて、初心を忘れそうになってた。
それじゃあいつまで経っても追いつかない。
中学の頃から既に遅れていたんだから。緩めていいタイミングじゃないんだ。これは。
「よし……じゃあ、今度はコマチのお父さん救出作戦といくか!」
「頭の悪いネーミングね」
「いいんだ。こういうので」
ユニスの指摘に笑って言い返す。だって、さ。
「コマチはもちろんリョータもその気だし、なんだかんだで……わかりやすいだろ?」
「ああそうですか」
気のない返事だな。
でも知ってるぞ。
アタシ達はみんな、アンタがへっぽこで案外お人好しだってこと。
「じゃあ……刀をどうにかしないとね」
つんと澄まして言ってるけど、結局賛成なんだろ?
めんどくさいけど可愛い奴だ。
「どうにかできんのか?」
トラジの問い掛けにユニスは肩を竦める。
「できる……と言えればいいけど。正直、普通の人間には無理ね」
「おいおい。どうすんだよ」
文句を言うミナトにびしっと指を突きつけて、ユニスは不敵に笑ってみせた。
「普通の人間には無理。だけど、このユニス・スチュワートなら?」
「「 おお…… 」」
ミナトとリョータが期待の声をあげる中、トラジは呆れた顔で突っ込みを入れた。
「またいつもの中途半端に残念なところを見せたりするなよ」
「わ、わかってるわよ!」
咳払いをするなり、ユニスは宣言する。
ここからが私たちのターンだと声高に訴えるように言うんだ。
「隔離世へ行きましょう! 相手が怪異になったのなら、なんとかして放り込む! ミッションの内容は明白。そうでしょ? コマチ」
「……お父さん、助け、る!」
「というわけよ! 天使、号令よろしく!」
「えっ」
まさか振られるなんて思わなくて動揺する。待て。なんでみんなして私を期待を込めて見つめてくるんだ。
「天使、一発かましてくれよ!」
「ああ……お前の号令がなくちゃあな」
「お願いだ! キラリ、びしっと決まるの頼むよ!」
男子が即座に乗っかるし。
「……っ」
コマチの期待はなんだか膨らむ一方だし?
「さっさとしなさいよ、学級委員長かっこ仮」
ユニスの指摘に頭が痛い。
「……しょうがないな」
咳払いをして、口を開いた。けれどすぐに言葉が出てこない。
慣れないことばかりしてる。いつまで経っても慣れることはないだろう。
当然だ。これまでの人生と違う自分になろうとしているんだから。
まあ、いいさ。
「親は選べない。選んでなる友達も、ろくなもんじゃなかった。まともに付き合えない自分が、何よりろくなもんじゃなかった」
はじまりは、心がずきんと痛む言葉から。実体験から語る。
「大事なのは……その人が自分の人生を抱え込めなくなって、どうしようもなくなった時。どう行動するのか、だと思う」
結、春灯。浮かぶのは二人のこと。
コマチにとって、それは両親のこと。
「許し、助けようとするコマチは誰より強いと私は胸を張って言うよ! アンタのために、お父さんがどんなに闇落ちしようが助けてやろうじゃない!」
笑ってみせる。春灯やマドカたち……士道誠心のあの馬鹿なノリが今こそ必要だ!
「みんな、覚悟はいい!?」
「おう!」「当然!」「決まってるよ!」「や、る!」「助けてみせようじゃない!」
かくして、一年十組の戦いは本当の意味で始まりを告げたのだ。
◆
男は疾走する。
夢うつつに見るのは、忙しいのに「家の食事は私の仕事」だと言っておいしい食事を作って待っていてくれた妻の笑顔。幼いながらに懸命に描いた似顔絵を手に「ぱぱ」と呼んでくれる愛娘。
どうしてこうなったのか。わからない? ……いいや。わかっている。
できない自分を受け入れられなかった。ホワイトカラーからブルーカラーに転向して、いろんな人間からだめ出しをされ続けた。そして……元いた場所へは戻れなかった。
否定。否定。否定。世界から存在を否定されるような虚無感に、生きる気力を失って。すべての責任を世界に求めた。
認められることはない。陰口をたたかれない日はない。歯を食いしばって働いてみても、誰かのミスを押しつけられたり、要領を掴んでも誰かが自分を陥れる。入力したデータは書き換えられ、失敗を押しつけられてクビになったこともあった。
仕事は続かない。何をしてもダメ。責める言葉が自分を苛む。
受け入れられなかった。なんのために大学に行って、なんのために就職したのか。
自分がいったい何をした?
何度も訴えた。酒に溺れて泣いて縋って暴れて別れて、それでも唯一残っているのが家族だと思っていた。
それを奪われるなんて、耐えきれない。あとはもう、死ぬしかない。
――……他力本願だと、気づいているから。
自分の人生さえ背負えなくなっているこの状況で、妻の対応はむしろ当たり前のもの。
わかっている。けれど受け止めきれない。その弱さに喘ぐ。
求めずにはいられない。救いを。救済を。自分を受け入れてくれる何かを。一瞬の体温ですらいい。妻と娘の。それだけでもいい。
――……いいや、だめだ。自分でもわかっている。今の自分は常軌を逸していて、もう落ちるところまで落ちているのだと。
願わずにはいられない。救いを。救済を。日常に立ち向かうだけの強さを。そんな自分を生きるくらいには肯定できる、何かを。
なによりも。
――……娘にひどいことをした自分の醜さだけは、許せない。
ただその一心で歯を食いしばる。胸から聞こえる歌は頭の中で針が暴れるような不快さしかなかった。これに身を任せて、ずっと、妻や娘にひどいことばかりしてきた。
抗わなくては、本当に……すべてを失ってしまう。
けれど抗うだけで精一杯だった。何度も身を任せた衝動はたやすく身体を突き動かしてしまう。
走って走って、気がついたら家が見えてきた。妻が手にした住まいが。
足を止める。
顔が揺れる。はっとして気づいた時には、警察に囲まれていた。
これは現実か? 夢ではなく? 暗い衝動が見せる妄想だとずっと思っていた。
どうして、どうやってここまで来た。わからない。わからない。もう、なにも――……わからない。
「――……あなた!」
悲痛な声にはっとする。
盾を構える警官たちの向こうに、妻が見える。
その声が拒絶と嫌悪に満ちていたのなら、絶望と共に受け入れるしかなかった。当然だ。それだけのことをしてきたのだから。
「もうやめて! どうしてそこまで――……!」
けれど気遣っていた。妻の声は、自分を。暴力を振るい、襲いかかったことすらあった。
なのに……気遣っていた。途方もなく深い愛情に、訴えられる問い掛けに笑いたかった。
わからない、と叫びたかった。けれど心のどこかで自分が呟く。
――……受け入れられなかった。不幸に落ちた今を。できない自分を。
そうだ、と頷く。縋って暴れて、傷つけて。最低なことを何度もした。
特に今日の自分はあまりにも醜悪だった。
「そこで止まりなさい――……!」
警察が何かを言う。スピーカーの音量に苛立つように咆吼をあげた。
身体が勝手に動く。駆け寄って、掴んで、投げて。暴力の限りを尽くす。
『――……これが本質』『あらぶる男』『人を食らわなければ生きられない』『それが本質』
違うと否定できる根拠は何一つとしてない。
事実だ。受け入れる。
するとどうだ。身体中が麻痺して、甘い痺れに満たされていく。柔らかい肉に包まれていくような錯覚を抱く。
ずっと渇望していた飢えが満たされるような、錯覚。
「あなた!」
妻の悲鳴が遠く聞こえる。
「お父さん!」
娘の悲鳴も。
拒絶されるどころか縁を切られてもおかしくないことをした。なのに、求められる声。
ずっと願っていた声が聞こえたのだ。
きっと甘い陶酔の果てには暴力しかない。
わかっていたから、抗おうとした。もう、もうごめんだった。
愛する人を傷つけるような自分の未熟は、誰のせいでもない。自分のせいだから。
もうごめんだった。それで二人を失うことが何より耐えられなくて。
手を伸ばした。
けれど、遅すぎた。
男の意識は暗闇に飲み込まれてしまう――……。
◆
巨漢、そして異様だった。小さな頭はコマチのお父さんのもの。だけど肉が盛り上がって飲み込んで、のっぺらぼうの肉の巨人に姿を変えてしまったのだ。
すかさず我らの魔女が唱える。
「さあさ、歌えや歌え。現世の鎖を断ち切ろう――……開け、異界への門!」
開かれた本のページに浮かぶ文字が発光した。瞬間、巨人の足下に暗闇が広がった。
すとん、と落ちる巨人が手を伸ばす。けれど、
「トラジ! ミナト、リョータ!」
三人に呼びかけた。そろって飛び上がり、巨人の手をなんとか掴んで邪魔をする。そうして四人で落ちていく。
「私たちも行くわよ!」
ユニスに言われるまでもない。
駆けていくコマチと三人で後を追いかけた。飛び込んだ瞬間だった。
「待って――!」
コマチのお母さんも追い掛けてきてしまったんだ。
制止する間もなく穴は塞がれて、世界が反転したようになって背中から地面に落ちた。
ぐるんと回転するような無茶な軌道に眩暈がするけど、すぐに身体を起こした。
コマチのそばにコマチのお母さんがいる。そして、あちこちから侍たちがやってきた。
「二人とも下がれ! ひとまず俺が食い止める!」
「くそ!」「わかった!」
巨人とガチで殴り合っているトラジに二人が下がる。
入れ替わりで侍たちが立ち向かっていく。けれど巨人は切り裂かれても切り裂かれてもすぐに傷口が塞がる。それだけじゃない。腕を切り裂かれても足を断ち切られてもすぐに生えてくるんだ。
あれはまさに化け物だ。ただ戦うだけじゃきっと倒せない。それこそ春灯の歌みたいな特別な力か真中先輩みたいな強すぎる力が必要だ。
「ユニス! 刀は!」
呼びかけた時、魔女は地面に跪いて手を置いていた。
何かを呟いている。あまりにも素早くささやかな声量で唱える呪文は聞き取れない。
不意にユニスが声のトーンを上げた。
「――……繋がった」
瞬間、ユニスの金髪が光り輝いた。瞳もだ。強い視線で私たちを睨み、満面の笑みで叫ぶ。
「さあ! 剣を抜け! 我らが剣士たちよ!」
足下が不意に破裂して、生えてくるんだ。私たちの刀が。
「助かった!」
トラジが迷わず引き抜いて侍たちの戦いに混ざる。リョータも、ミナトも続く。
私も引き抜いた。そうして睨む。巨人を。
星は見えない。あの肉の壁が邪魔をする。あれが邪魔なんだ。
「みんな! 肉をそげる!?」
「無理だ! 再生しちまう!」
ミナトが即座に悲鳴を上げた。
「く、うおおおおお! 加速してくれ! どこまでも!」
リョータががむしゃらに足を切り裂く。けれど再生する速度の方が早すぎて刀が飲み込まれそうになって、あわててトラジがリョータごと引き抜いた。
「ユニス!?」
「加減が難しい! ちょっと今のでバテてるし!」
「ああもう!」
相変わらず肝心なところでぽんこつ魔女め!
でもよくやった!
刀があるなら手はあるはずだ。
「侍隊のみなさん、なんとかなりませんか!?」
「中の人間まで殺しかねない!」
呼びかけてすぐに返事が来た。何かあるはずなのに、その手がわからない。
「――……あなた!」
コマチのお母さんが呼びかけてもダメ。
じり貧だった。巨人は肉の触手を伸ばして、トラジたちや侍たちを捕まえようとし始めた。
こうなるともう防戦一方だ。星を飛ばして援護に回るのだが、これじゃ助け出すどころじゃない。
ああ、窮地だ。それでもね。
「お父さん」
一人だけ、巨人に向かって歩いて行く女の子がいた。
「コマチ!」
母親の心配にふり返りもせず、大丈夫だと力強く答える。
「ずっと、ずっと、お父さんは乱暴だった。今みたいに」
刀を手にして歩く。肉の触手が掴もうとした、けれど。
「だけど覚えてる。コマチはずっと、覚えてる。忘れないよ」
ばちんと弾けて消えた。まるでコマチを汚すことなんてできないかのように。
「小さいとき、優しく頭を撫でてくれた手を」
次々に触手が伸びる、けれどコマチに触れることはできない。
邪じゃ触れることさえできないんだ。許されていない――……欲望では、彼女には届かない。
「ずっと、戻って、欲しかった!」
叫び、掲げる刀の根元から噴き出てくるんだ。
サクラの花びらが。噴き出て包んで刀を変えていく。
純白の刀身。花びらと木々の紋様浮かぶ美術刀めいた一振りが。
ずっと欠けていた刀身の面影はもうない。
見事な刀が抜かれていたんだ。
「私、は!」
駆け出す。私たちの誰よりも遅くて、とろくて、危うい足取りだったコマチが。
「お父さんを助ける力が欲しかった!」
飛んで、巨人の胸元に振り下ろす。
「お願い! コノハナサクヤヒメ!」
突き立てられた刀がぱっと弾けた。桜になって、満開になって散っていく。その勢いに肉が弾けて消え去った。
コマチのお父さんが中から現われて落ちる。
解決した。そう思った。
トラジがコマチを受け止めて、すぐ。
『よこせやよこせ、ういみたま』
コマチのお父さんの胸に暗闇のシミが広がって、そこから聞こえてくるんだ。
ぞっとする、あの歌声はまさに春灯たちと戦ったあの黒い御珠のものだった。
『たけりくるおう、あらみたま』
「やめ、ろ」
『くらいつくして、むにかえろう』
「やめ――……!」
叫ぶお父さんの口から肉が吐き出されて飲み込もうとする。
「お父さんを離して!」
トラジの腕から飛び出たコマチが必死に刀を振るって肉をはじき飛ばす。
ここへきて一進一退の攻防を見せる状況下で、ユニスが唸る。
「ど、どうするの。あれは……倒せないわよ。私たちの力じゃ」
わかるけど、わかりたくなかった。
春灯は歌で対抗した。お助け部の真中先輩が焼き尽くした。マドカが策を講じて、みんなで倒してみせた。
それよりはささやかな怪異。
だからこそ、どうにかしたい。
だってコマチのお父さんなんだ。
吐き出しても吐き出しても足りないくらいの欲望を切り裂いて、浄化して。
なのに一体なにが足りないんだ?
「お父さん! がんばって! たすける、から!」
がむしゃらに刀を振るうコマチの背後に回った肉が、コマチを飲み込もうとした。
その瞬間だった。
「やめ――……にげろ!」
肉がどんどん盛り上がってくる窮地にいたって、コマチのお父さんは自分の命よりもコマチを優先した。飛び上がって突き飛ばしたんだ。トラジの方へ。
肉が膨らんで巨人になる。
けれど。
「――……見えた!」
娘を思う父親の星!
一瞬だけだけど、邪に飲まれて危険で歪な人に残された輝く星が!
これが足りなかったんだ!
『輝く時は来た!』「変身!」
心が叫ぶままに声を上げた。
その瞬間、足下から力が噴き出てきて衣服が一瞬で衣装へ切り替わる。いつかもらった服だ。
力がどんどん湧いてきた。あがってきたぞ!
「コマチ! もう一度! 一瞬でいい、肉を吹き飛ばして! できる!?」
「やる!」
「よしきた! さあみんな、ここからは駆け抜けていくよ!」
身体中のあちこちから星が噴き出てくる。刀がどんどん熱を持っていく。
私の力じゃあの肉は飛ばせない。どんなにひどい姿を見せたとしても、そんなお父さんさえ一途に思えるコマチだからこそ救えるんだ。
それでも自分の手に余る欲望の強さに飲まれて化け物になっていく。そんな人が見せた一瞬の優しさや愛情が、私の星に繋がる!
「もう一度、いくよ! 満開になって! 咲きほこれ! 私のサクラ!」
叫ぶコマチが振るう刀が一瞬で歪な肉を切り裂いた。その内側、黒い染みに飲み込まれた星へと刀を突きつける。
『こんな、俺でも、もう……迷惑は、かけたくない』
わかってるよ。見えてるから、待ってて。
「願いの熱よ、星へと転じて変われ! 開け、勝利への道!」
噴き出る星が染みの内側から溢れてくる。私までの道を星に満たしてくれる。
疾走して星へと刀を突き刺した。
「希望よ、あるべき輝きを取り戻せ!」
全力で染みを吹き飛ばす。私の願いはただ一つ。コマチに優しい父親に戻ってもらうこと!
そのためならなんだってしてやる! さあ、暗闇よ! 今すぐ消えろ!
力を注いだ瞬間、盛り上がる肉の勢いが止まった。最後に塊を吐き出したお父さんが咳き込む。
「ごほっ!」
「あなた!」
「お父さん!」
情けなく歪んだ顔があがる。自分の家族が心配する声に、救いを求めるように見上げる。
「戻ってきて!」
コマチの願いにすぐに頭を振った。
「だめだ……俺は、どこまでも醜く歪んで、最低のクズだった」
そうして、強い星を宿して見つめ返す。
「やり直すから……もう、迷惑は掛けないから! ……何年掛けても、罪を償う。すまなかった!」
願う先にはもう、自分の現状を受け入れて前に進むための道を受け入れる強い意志がある。
だからこれで、終わり。さあ、
「瞬いて」
刀を引き抜いて、指を鳴らす。
あちこちにある肉が溶け、星へと転じて変わり……流れて落ちて消えていく。
「あなたの星、見えたよ」
呟いた。幸せがあるだろうか、と悩む。幸せになりたいと彼は願った。その道は。許しは。
私が出すべき答えじゃない。
駆け寄ってくるコマチとお母さんの出すべき答えだと思った。
どういう未来を掴み取るかはお父さん次第だ。
果たして、歩み寄ったお母さんは初手でお父さんをビンタした。
かなり手痛い一撃だった。むしろお母さんをビンタしたそれより鈍くて重たい一撃だ。
頭をふらふらさせているお父さんに、お母さんは言うのだ。
「強くなるのは、自分の仕事。家族になってもね、支えることしかできないの。だから……ちゃんと自分の足で立って。それなら、ちゃんと考えるから」
「あ――……」
「やり直しましょう。今日、ここから……改めて。ね? だってほら。素手でケンカしたら私の方が強いんだから」
納得のビンタ過ぎて誰も何も言えなかった。情けない顔をして「だから凹むんだ」と唸るお父さんにコマチが笑って、和む。
ここにきてようやく、暗闇は晴れたのだ。
「私の見た星より先に、輝く何かがあったんだね」
呟いて離れる。もう、コマチにも、お母さんにも迷惑は掛けないだろう。
正気に戻ったコマチのお父さんはそっと涙を流して二人にずっと謝り続けていたのだから。
それはそれとして。
「ねえ、ユニス。コマチのお父さんとお母さんにもこっちに来れる可能性があったってこと?」
気になるから尋ねたんだけど。
「……お母さんに関しては無我夢中で、お父さんを助けるための願いが引き寄せたというところかしら。お父さんに関しては、歪な歌の何かがそうさせたというのが実情だと思う」
「……つまり、わからないってこと?」
「そういうことよ」
なんだそれ。
黒い御珠みたいな歌を歌うところが気になるけど、あれは邪だったのだろう。
育ちすぎるとあんなに危険なのか。
人をあそこまで狂わせるのが邪なら、確かに対処は必要だ。
それ以上に……強くなきゃだめだね。強くないと……優しくできないんだ。
コマチは強いし、コマチのお母さんも強かった。
思い知るような夜だった。
ユニスの魔法で刀は元の場所へと戻される。
変身は解けて、手の中にある熱が離れたせいかな。
春灯。なんだか無性にアンタに会いたいよ。
◆
コマチのお父さんはやっぱり一度警察のお世話になることになった。
けどコマチのお母さんは訴えたりするのはやめることにした。
程なく解放されるだろう。
別れ間際、コマチのお母さんは彼に言った。
「実家のお義父さんが一度帰ってこいって。漁師の後継者になる覚悟を決めて戻ってきたら面倒を見てやるって言っていたわ」
「……結局、親父の後を継ぐわけか」
「いいじゃない。体力つけて、根性を鍛え直してきて。頑張ってる限りは……思い直してあげるし、月に一度はウチに来てもいい。酒は飲ませないけどね」
「……いいのか?」
「日帰りでよければ」
「……すまない」
「いいえ」
涼しい顔で言うお母さんに、お父さんは項垂れて去って行った。
部屋に戻ってきて後は寝るだけ。
歯磨きをして、それから戻ろうとした時にトイレから出てきたお母さんと鉢合わせになった。
私はそれとなく尋ねたよ。
「あ、あの……ケンカ強いんですか?」
「どうして?」
「いえ。ビンタが尋常じゃなかったので」
「……まあ。手を出したら私はあの人に勝つ自信があるけれど」
「なら、どうして乱暴を許したんですか?」
私の問い掛けに、コマチのお母さんは笑って言った。
「私が手を出して勝っちゃったら、致命的なところにまであの人は落ちちゃうだろうなって思ったから」
「……強いんですね」
「強くなるのよ。妻とお母さんなんてやっているとね」
いいかしら、と言って立ち去ろうとする背中に思わず尋ねる。
「なんで、あの人を許せるんですか?」
知りたかった。きっとそれを知ることができれば、私は強くなれると思ったから。
ふり返って、少し笑ってからコマチのお母さんが言った答えを私は忘れない。
「やっぱり、愛かな」
「愛……」
「普通ならとっくに捨てて放置するだろうけど。それでもやっぱり……私は彼を愛してるのよ。あなたから見たら悪いところばかり目立つでしょうけど」
「え、と」
「いいの。でも……昔は優しくていい人だった。ただちょっと弱すぎただけ。少し大人になってくれたみたいだから、今後に期待ね」
大人の笑顔と判断、そして深い愛情に戸惑う。
どちらも今の私にはまだ手に入れることのできないものに違いなくて。
「だめならそこまでだけど、あなたたちのおかげでその心配もいらなさそう。もういいかしら?」
「は、はい……おやすみなさい」
「おやすみ……ありがとう」
去って行く背中を今度は見送る。
大人の愛は複雑で、すごい。
私にもいつか、あんなことが言えるようになるだろうか。
だとしたら、その相手は誰?
「……わかんないな」
呟いて、なんとなく気になって男子の部屋を覗く。
三人してミナトが持ち込んだカードゲームを遊んでいるところだった。
寝巻きの私をじーっと見てくる三人に咳払いをする。
「お、おやすみって言いに来た」
「なんだそれ」「いいじゃん、可愛くて」
トラジとミナトの野次にうるさいって言い返していたら、熱い視線を感じた。
リョータだ。
「なに」
「いや……もこもこパジャマ可愛いなって」
「ば、ばかじゃないの。さっさと寝ろ!」
リョータに言い返して扉を閉める。ミナトの笑い声が聞こえてくる。
「天使もリョータ相手だと形無しだな」
「リョータ自身も形無しだけどな」
「う、うるさいな!」
男子は賑やかだな……まったく。
あほらし。寝よう。そうしよう。
ちょっとだけすっきりしたけど。
別にリョータの一言が切っ掛けとかじゃないんだから。
つづく。




