第二千九百二十二話
空を行くとき、カラスが見える。
彼らは飛べるから飛ぶのか、それとも飛びたいから飛ぶのか。
そんなことはさておいて生きるために飛ぶんだろうし、したいことがあって飛ぶんだろうし、必要だから飛ぶんだろう。
飛べなかったら。飛ぶのに支障をきたしたら。それどころじゃなくなったら。私たちの知らないところで傷つき、苦しみ、飢えて、病んで、死んでいく。だけど直ちにじゃない。
お父さんが学生時代にがっつりはまったエヴァ。テレビシリーズから見せてもらって、旧劇場版をぜんぶ見て、リブートされたんだろう新劇場版をお屋敷で見た。ひとまず、シンジくんが大学生になったところまで。総じて印象は私がいま見ているカラスたちと同じ物語だった。
支障があっても生きる。苦しくても傷ついても死ぬまで生きる。なにをどうしたいのかじゃなくて、なにができるからじゃなくて、生きることにどんどん溺れていく。なにから手放すかは人による。したいこと。できること。その具体的な事例をひとつずつ手放したり、奪われたり、失ったり、なくしたりしながら、みんなどんどん深みにはまっていくんだ。
旧劇場版はお母さんほんとにだめだと繰り返していたけど、お屋敷で見て納得。冒頭、行き場のないシンジくんがアスカの病室を訪ねて、彼女に縋り付こうとする。だけど彼女は目覚めない。勢いあまって引いたら、病衣がはだけて、お乳ぼろん。同世代の、かわいくて、かっこよくて、あこがれてて、正直けっこう好きで、弱さを知ってて、ほっとけない。そんな彼女の、見たくても見れない、見ようとするべきじゃない、そういうお乳を目撃して、自慰にふける。絶頂して精液が出た片手を見て「最低だ」とつぶやく。
会って間もないとしても親友を殺したことをはじめ、いろんなことがありすぎて「もうなにをどうしたらいいのかもわからない」状態で、「あ。アスカのおっぱいだ」となった瞬間の性欲。それはまだ、できることで、なんならしたいことでもあった。医師も看護師もいない。アスカも寝てる。起きる見込みがない。だから、できるし、したいことがいまならできる。
これ以上ない。本人のおっぱいが目の前にあるなんて。これ以上ない。
だからする。
深みにはまった彼にできること。したいこと。
エヴァのフォロワー作品はたくさんある。最終兵器彼女のちせちゃんも、彼氏と距離を置いて、離れて作戦活動を長くしていたとき、よくしてくれていた自衛隊員のテツさんが瀕死のときに性で訴えた。なんとか性器を取り出して、勃起させて、そのまま繋がろうとした。それより先に死んじゃうんだけど。
滑稽なようでもあるし、なにも自慰やセックスに限定せずとも、とは思う。
ただ、私たちが失わずにいられるしたいこと、できることって、案外、そう多くないのかもしれない。
私は見失っている。迷子だ。
身もふたもないことを言うと「生きたい」なら、呼吸して、のんびりしているだけでもある程度は叶う。ごはんが食べたい、いい服を着たい、いい家に住みたいみたいなのも、高望みをしなければ、日本の場合は少なくない割合の人が、親元にいるだけで叶う。生活保護を受けるのも手だ。窓口で拒まれるときには法テラスなど、弁護士さんがプロボノよろしく手伝ってくれたり、地方の議員さんに頼ったりするのも手だというね。虐待を受けているなどの場合はもっと困難になる。相談員などが確実に保護してくれるとは限らないからだ。地域のだれもが、こどもの養育放棄や虐待の疑いを持ったら通報義務を負うことを知らない。うるさいくらい、何度もみんなで地域のこどもを助けるために声をあげる仕組みがない。
マシにしようとするほど、負荷が高まる。さらに壁を越えて、一人暮らしをしたり、その水準をあげようとするほど、困難が待ち構えている。これを受け入れられる人が十割という世の中ではない。そんな振りをしているけどね。
心理学などが理想とする健全な成長・発達をしているとき、私たちは自律的にしたいことやできることの熟達や拡張、増加を目指す。だけど困難を抱えるほど、したいこと、できることに閉じていく。それは超短期的で、刹那的なスパンになる。そしてどんどん、自律的な思考の成長・発達から遠のいていく。
先細りしていくんだよね。
先鋭化していく。
シンジくんはテレビ版でどんどんしたいこと、できることが「ろくでもない」「失敗だらけ」「人を殺す」「いやなことになる」と学習していく。だからもう、うじうじぐずぐずになっていく。
そりゃあ、そうなんだよ。
同じ立場になったら、あなたよりもダメになる人、ごまんといると思うよ?
未成熟で未発達な自分でどう生きるのか、なんて。あまりにもむずかしすぎるもの。
ただし、あえて言うなら、みんなそういう未成熟で未発達な自分で生きているとも言える。
できないからもうどうしようもない、に陥ってしまうまでに、その人が、ひとりひとりがどれほど持ち合わせているかだ。自分のしたいこと、できることを。
シンジくんは固まっていた。
クリミナルマインドで見かけた人々は犯罪者となって親や兄弟を殺したり、ほかの人を殺したり、その犯行が増えたり止まらなくなったりして、チームの捜査によって捕まったり、銃撃戦のうえで死亡したりしていた。ボッシュのシーズン1の犯人も、そういうたぐいだったかな。映画のジョーカーだってそう。
したいこと、できることが、自分を幸せにすることや、よくしていくことよりも、自分を傷つけたり奪ったり失わせたりしただれかをどうにかすることに向かっていく。
陰謀論とか、世の中の問題とかってさ。世界に当たり前にある、ありすぎて困るほどの理不尽さや問題を見すぎるし、限定しすぎる。捉え方が極端なだけじゃない。自分のことじゃなくて、世界のことをどうにかしようとしすぎる。自分の比率が極端に低くなる。それくらい、両者の境界線が失われてしまう。
理屈ではさ。
フランクルは「夜と霧」で収容所で見た夕陽に感動したことを記している。あまりにも無慈悲で残酷な、人の作り出した地獄そのもののような場所でさえ、人は人で埋め尽くすことができない。その悪意のみで塗りつぶすことができない。それがいいことがどうかは、わからないけれど。フランクルらは、たしかに夕陽を見て心打たれたそうだ。
どんなにいま私が自分を見失い、したいことやできることを失いつづけているのだとしても、それが私のすべてじゃないし、そのつらさに満ちたいまでさえ、つらくない場所がある。
理屈では。
仮にカナタとどれほど深刻で取り返しのつかないケンカをして、別れるだけじゃ済まず、泥沼の裁判沙汰みたいになったとしても、お互いに相手はほかにもやまほどいて、これから先を選びたい放題だ。
理屈では。
話そうとした? 知ろうとした? 関わろうとした? やってみようとした? 問いが無限に付きまとう。膝を抱えて、もうどうしようもない、諦めていくんだって呟くことを「選び」「行い」ながら「私に都合よくして」って、そう願うのに必死になってた?
ぜんぶ自分が選んで、やってきたことなのに。
どうしたいのか、どうしたかったのか、ほんとのところ自分の歩ける範囲を、できることを増やしていくために必要だった本音や、素直な気持ち、ちゃんと考えてきた? 言葉にしてきた?
そんなのすこしもしないで、機械のように振る舞ってみせても、どうにもならないよね。
理屈では。
実際、シンジくんはどうにもならなかった。
きみがいるから自分が傷つく、だからきみの首を絞める。
そういう人じゃあ、どうにもならなかった。
そんなシンジくんを待つより、もっとちゃんと生きてる人を選ぶよね。アスカも。
自分を殺そうとする人よりも、一緒になって生きたくなる人がいいよ。当たり前だ。
そりゃあそう。
人はだれともなにとも溶け合わず、ひとつになれない。人間として重ならないという負荷があり、傷つくからこそ私たちは輪郭を再発見しては保っていけるのだし? したいこと、できることを見直せる。
だけど私たちは意気地をなくして、育自を忘れて、そこをどうにかごまかそうとする。自分の願いや欲でどうにか塗りつぶそうとする。
ああ、それなのに沼底に落ちては見失う。おかしなもので、見失って、それがすべてのように感じられてしまう。固まって動き出せなくなったシンジくんみたいに。いろんな作品で見かける、心が打ち砕かれた人たちのように。罪を犯したり、罵声を浴びせたり、陰口をたたいたり、暴力を振るったりするのに夢中な人のように。
自分の沼底しか見えなくなってしまう。
でもさ? 古典から長らく続く原題でもあるんじゃないかな。
自分の沼底世界に囚われる人と、自分を模索する暇も捨てて今日を生きるだけに囚われる人、そのどちらが幸福なのか。どちらも不幸であるというのなら、幸福はどこにあるのか。
それを探求するのが哲学だとして、それはいったん置いといてさ?
どうしたものかな。
「流行でいい、それが資本主義の作られたブームだとしても、ひとまずやってみたい、みたいな。あの欲望は、どう抱けばいいんだろう」
そんなようなことを、小学生でようやく霊子が落ち着いたころ、私は思ってた。
割と本気で悩んでいた。
なにをどうしたいのか、なにができるようになりたいのか、さっぱりわからなくて。
「金色の変化が限定的なのって、このへんだよねえ」
呟いて、もう一度、進行方向に右手を伸ばした。
金色を出してみる。線になるように願って。だけど、どうがんばっても、金色の放物線の液体しか出ない。冗談なしに、おしっこにしかならん!
自分の世界に没頭してる「きもちわるい」生き方しかできない。目先のしたいこと、できることしか考えられない。
どう生きたいのかがない。
望む自分や世界がない。
決まりや規範、叶うかどうか、無理かどうかだけがある。
アンドロイドやロボット、あるいは奴隷に強要する生き方だ。
人ならその枠にとどまらないし、自律思考と豊かな知能を与えればアンドロイドもロボットもたやすく超える壁だろうに。私たちは傷つき、病んで、しくじっては、あっさりその枠内に戻ってしまう。成長と発達が自分の望みや自発性を育てていく方向性でなければ? 留まってしまう。
思えば八尾を注がれて出た影響は、私から多くの機会を奪った。失うきっかけになった。損ねるばかりだった。今更うらんでも始まらないのに恨まずにはいられないくらいのショックだ。
幸か不幸か、私がその沼にはまらずに済んでいるのは、あいつめと思うほどの実感がまだないため。たぶん、ただそれだけ。儚い防波堤だ。
「訳知り顔で自分や世界を規定したがるけど、ほんとはちっちゃいよね。自分に見える範囲なんて」
それを知りたいと思い、願える。それくらいの目標は持てる。
逆にいえば沼にはまるほど結論にしてしまいすぎる。二分論に分けて、答えや解決を迅速に出しすぎる。
それが自分を守るための手段なのかもしれない。沼での生存方法になっているのかもしれない。
でもなあ。
どん詰まりなんだよなあ。
どう生きたいのかがない。
望む自分や世界がない。
決まりや規範、叶うかどうか、無理かどうかだけがある。
だからどうしたって刹那的になるし、瞬間に閉じていく。
お父さんとトウヤの好きなジャンルに照らし合わせて言うと「熱血がない!」。「血のたぎるものがなにもない!」だ。
夜のバラエティ番組に、タレントでも芸能人でもないけど「なにかにドハマりしている人」に出てもらって、その人に教えてもらう番組がある。とっても面白い! みんななにかしら「タガが外れるもの」を持っていて、とにかくそれを調べたり、集めたり、行ったりしてる。
別にめらめらと目が燃えるような輝きを発するわけでもなく、冷めた調子の人もまあまあいるんだけど、結構な人が早口になったり、「きっと普段は見せてないんだろうなあ」っていう語りや表情を見せてくれる。
彼らのひとつひとつが、よっぽどわかりやすく望むものじゃん? ね。
「んー」
ベッセルが看る患者さんたちが行動療法をはじめ、いろいろしている。日本でも河合速雄をはじめ、いろんな専門家がそれぞれに療法を展開しているし、最近じゃあテーブルトークRPGがいいらしい。ミナトくんが寮のみんなとよくやっている。お父さんもおばあちゃんちに行くときに、せっせと持っていく。意外と仲良くなるのにいいらしい。
役割や規範、縛りや諦念しか見えないとき、むしろ与えられた役割を足掛かりにしたいことやできることを広げていくっていうアプローチがあるのかもしれない。
ゲームが役立つっていう研究もあるみたい。それもたぶん「ゲームをすればいい」という入り口があるし、さらにはゲーム内で提示されることがあるからいいのかもしれない。
今年発売されたゼルダの伝説ブレスオブザワイルドがかなりの好評を博している。うちでももちろん大ヒット。巨大な世界をロードなし、画面の切り替えなしに旅することができるゲームをオープンワールドゲームというらしい。間違ってるかな? で、ゼルダはすっごく広大な世界を旅できて、できることも豊富にあるそうだ。遊ぼうとしたら、工夫次第でいろいろできるらしい。それが、例えば病室に閉じこもることになった子の心の救いになった、みたいな話も出ているそう。
お姉ちゃんとぷちたちがドハマりしているマインクラフトだってそうだ。
自由度が高くて、したいことやできることをいくらでも実現できるゲームなら、だれにとっても最良かというと、そんなことはない。ぷちたちにもはまれてない子がいる。じゃあ、そういう子がゲームをしないかっていうと、そんなこともない。リニア型と呼ばれる、一直線の物語のRPGとか、落ち物ゲームとか、いろいろ遊んでいる。
テレビゲームじゃなきゃだめってこともなし。
ぷちたちを見ていると、健康だとしても、たぶん得手不得手がある。糸さんが霊子の扱いについて得手不得手があると言っていたようにね。
たとえばね?
私はレシピ通り作るし、レシピを逸脱することがない。
だけど岡島くんたちと料理の話をしていると、気づかされることが多い。
たとえば十一月の夜にちょうどいい白菜鍋。豚肉を挟んだミルフィーユ鍋は人気だ。鍋の味もいろいろ。キムチ鍋、豚骨鍋、白だし鍋に、水炊き鍋。味付けはいろいろあるけど、ぜんぶスープの素で作れる。でも、もちろん自分で作れるし? 鍋は別に白菜と挟まなくていい。ミルフィーユが絶対じゃない。牛肉にしたっていいし、鶏肉にしたっていい。どの肉にするか、どの部位の肉にするかで、味付けからなにから調整したほうが、よりおいしくなる。白菜以外のお野菜を入れるなら、どうするのがよりおいしいか。味付けに合わせて、どの食材が合うのか。
鍋は自由だ。アレンジだって、いくらでもできる。
でもねー。
そういうのが得意な人と、苦手な人がいるでしょ? 私は苦手だったんだよね。
でも、こういわれたの。
『味噌汁にして合う具材なら、みそ仕立ての鍋には合うよね。食材同士でケンカしちゃわないかぎり、一緒の鍋に入れることを躊躇する必要もない』
『締めに麺類を使うときに、マロニーとか春雨を入れていたら麺と麺になって落ち着かない、みたいな好みがあるなら、好みに合わせて調整すればいい』
『白だし、キムチ、豚骨、水炊きなんでもそうだ』
目から鱗が落ちたよね。
豚骨鍋の締めがラーメンじゃなきゃだめってこともない。お米を入れて、溶き卵を回しながらかけて、最後に青ネギを散らしたおじやにしたっていい。
自分の選択肢を狭めるのは、自分が抱えているものだ。
抱えているものがわかれば、付き合い方がすこしずつわかる。考えようができていく。
選択肢を広げたうえで、行い、負荷などから、より望みを模索していく。
どう生きたいのかがない?
望む自分や世界がない?
決まりや規範、叶うかどうか、無理かどうかだけがあるって?
だからどうしたって刹那的になるし、瞬間に閉じちゃうって?
でも、だいじょうぶだ。
私たちはいつだって、いくつになったって、どんなときだって探していける。
「金色は、白だしなのでは」
色的にね!
いま必要なのは、ううん。なんだろう。
麺じゃね?
ジャンルがちがいすぎる!
でも麺なら糸っぽくできるはず!
じゃあ、麺な気持ちって、どんな気持ち?
つづく!
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