第二千九百二十話
糸さんに会って伝えたいことがあるといわれて秋葉原に向かう。
彼女に招かれたアパートの一室で、妙なものを見かけた。とはいっても見覚えのあるものだ。
『天正遣欧使節?』
『そう。まさか天正遣欧使節がなにかまで説明しなきゃいけないわけじゃないでしょうね?』
機動警察パトレイバーNEW OVAの第九話「VS」と書いてバーサスって読む回だ。
巷のロボット犯罪を取り締まる小隊が二隊編成。で、一小隊にロボット二台。一台につきパイロット、指揮官、運送者の三人編成。なので、一小隊に隊員が六人編成、プラスして隊長がひとりいるので、全七名。
主人公たちは第二小隊。で、二号機の指揮官がふたりいるんだけど、どちらも超がつくエリート。入れ替わりのふたりが、第二小隊発足して以来、初めての慰労旅行で初めて顔を合わせるという、めったにない機会。
なん、だけ、ど。
超がつくエリートがふたり。超がつく縦社会かつ男社会の警察において、女性のふたり。そうなれば? 猛烈なライバル意識が芽生えることも起こりえる。
そして実際に、揉める。
ふたりともお酒が妙に強くて、おまけに知識合戦から始めるわけ。
隊長は早々に思いを寄せる第一小隊隊長に、慰安先から仕事中の彼女へと連絡するため退散。
残された隊員たちは気まずいのなんの!
そこで一号機の指揮官がこの場をやり過ごすための妙案を出す。
『これに対処できる方法はひとつしかない』
『がんがん呑んで俺たちも暴れよう!』
これに二号機搬送で、唯一のサラリーマン経験者が「案外いい方法かもしれませんよ?」と乗っかるんだ。
『酔ってしまえば無責任になれます!』
台無しだけど!
主人公が「あのふたりにそれが通じるかな」と怪訝になるも、結局ほかに妙案なし。
みんなで浴びるようにせっせと、わんこそばの勢いで注いでは呑んでを繰り返していく。
そんなことしてみなよ。ひどいことになるのは考えるまでもない。でしょ?
実際はどうなったのか、は、さておいて。
「また懐かしいの見てますね」
中に迎えてくれた糸さんに伝えながら、勧められた椅子に腰かける。
今日は三人ほどの糸さんがいた。残りの糸さんは働いているんだろうか?
そもそもここってワンルームだけど、寝場所はないのかな?
「他にも借りてる部屋はあるよー」
「それより知ってるんだ? パトレイバー」
「親御さんの影響かな?」
お父さんのとうなずいて、ずいぶん久しぶりに見る内容に視線を向ける。
メディアミックス作品で、アニメや漫画などいろんな展開をした作品。のちの警察ドラマにも影響を与えたという。伝聞だけどね。
「酔っぱらったら、乗り切れるもんですか?」
「女の子が酔っぱらうのはダメだね」
「やたら飲ませる男は論外だよね」
「隙あらばよいつぶしたり、一服盛ったりして、そのままレイプする男がいるからね」
「魔が差そうが計画的だろうが、やってることはレイプだし。それが通ることって、ないねえ」
シビアぁ!
でも実際、レイプ犯罪が明るみになってニュースになるっていうことがまあまあある。報道されるのはいつだって氷山の一角。辱めでもあるぶん、加害者に傷つけられたことを訴えられない人のほうが多い。
卑劣な場合、犯罪の画像や映像を使って脅迫する者もいるし? その手の記録がなくたって、犯行そのものが脅迫になる。学校や職場が同じなら、余計にね。
「これはアニメだし」
「警察官だからっていうのは、理由にならないかな。まあまあ不祥事おきてるからね」
「ちんこを使う機会と、女を触る機会と、女を犯す機会を待ち焦がれてる男がいるからね」
「男同士でそういうのを問題視する動きも弱いからね」
「据え膳食わぬは男の恥というレイプ思想が強いからね」
「むしろ据え膳判定で人間を見てるところがアウトだよね」
いけない。
糸さん、すっごいマシンガントークなのだった。
あと話題が話題なだけに、えげつない内容だ。
ただし一部にそういう人がいるのは明らかな事実なので、しょうがない。
こういうとき、パーセンテージで見るのは危うい。具体的な項目と、その実数をベースにすることが重要だ。たとえば強制成功等、強制わいせつ、ストーカー規制法違反等の措置状況、DV防止法違反等の措置状況の実数は、差し当たって相談件数と対応件数で見るのがいい。海外から少女などを”買い”、買春したい男たちに”売る”男たちもいるから人身売買も決して無視できない。
それらはあくまでも「相談することができた件数」であり、かつ「警察が認知・検挙した件数」であって「現実に起きた件数」ではないことに留意が必要だ。
内閣支持率みたいなもんだよね。
ある会社が電話をかけました。三千軒くらいかなー? 二千軒くらいかも。固定電話と携帯電話を織り交ぜている。ただし半分以上は、出ない。そりゃあ、そうだ。見知らぬ電話からかかってくる内容に付き合うようなご時世じゃない。すると三千分の千五百とか、千軒程度が答える。その千軒のうちの八百軒が「内閣を支持しますか」に「はい」と答えたら? メディアはどうするでしょうか。なんと「内閣支持率80%」と報じる。
三千分の八百じゃなくて、電話に出た千軒分の八百軒をもって「80%」って言っちゃう。なかなかすごいやり方だ。
だからね?
数字を見るときは用心に用心を重ねても足りない。
私の例えさえ含めて。
「よりだめになっちゃうっていうのは手かもね?」
「だめだ、自分がなんとかしないと! っていう危機感をあおるやつ」
「お化け屋敷で明らかに自分より怖がって、びくびくして、ひぃひぃ言ってる人がいたら、怖がってられなくなるみたいなの、あるでしょ?」
「弱さや駄目さでマウントを取っていくんじゃなくて、もう明らかに、ほっとけなくなるような人になるの」
「ところで、これ、なんの話?」
我に返った糸さんたちが尋ねてくるから、あいまいに笑いながらも、なるべく簡潔に説明する。
私の術。記録したこと。関東事変で把握していることや、糸さん本体を誘拐した連中への疑いなど。
そのうえで、私がいま悩んでいることや、術の発展性についてなど。
「きみがこどもたちを育てることに手を焼くのなら」
「いっそきみが相手のこどもになってみるのも手かもしれないね?」
「あるいは相手をこどもにしてしまうか」
「あ。その顔は納得っていない顔だ」
なんというか、あんまりな提案に思えて。
いいのだろうか。露骨に支配・被支配の関係性に落とし込む、そういう手段は。
「それなら、まだ、相手よりだめになっちゃうっていうほうがいい、かなあ」
「手段として、だよ?」
糸さんたちはそれぞれ思い思いに足を組んだり、猫背になったりしながら訴えてくる。
「目的は相手を我に返すこと」
「そのための手段のひとつっていうだけ」
「本来、人はストレス源から離れるのが王道なんだ」
「ストレス源を自分の思い通りにしたい、傷つけたいなんて欲するし、執着するから苦しむ」
「それを手放せない人たちを我に返すのは、容易なことじゃない」
「冷水をぶっかけたり、河原で殴り合ったりすんの」
「格闘技の試合だって、リングの上っていう条件ありきじゃない?」
「ラグビーなら、ノーサイド!」
ふむ。
終わらない試合をしている、か。
あるいは延々ときついバトルが続いている、みたいな感じ?
「あるいは、意地の張り合いかもしれないし」
「ずっとだれに対してもいい子でいなきゃいけないのかもしれない」
「つらくてきつい仕事が延々と続いているのかもしれなければ」
「とことん暴力を振るわれたり、いじめられたりする”いま”が続いているのかもしれないね?」
心的外傷後ストレス障害における心身への負荷のように。
終わらないもの。やめられない運動。区切りのつかない緊張。
「とりあえずでいい、ゴールがいるのかもしれないね」
「冷水が効かないなら」
「映画の超怖いやつなんか、冷水やとりあえずのゴールじゃ止まらないだろうけど」
言えてる。
ジェイソンやフレディがそれくらいで止まる? 無理。
ステイサムが対決するメガロドンだってそう。
ジョン・ウィックもレクター教授も無理だろう。
「相手の力に比例して、冷水的な待ったやゴールすごくしていったら、手に負えなくないですか?」
「プラスにプラスで対抗しようとするとね。反発しあう方向を目指すかぎりは、そう」
「衝撃を吸収する、緩衝材とかさ? 鏡とか。いろんなアプローチがあり得る」
「マイナスで対抗したっていい」
終わらないもの。やめられない運動。区切りのつかない緊張。
それらとの付き合い方はいっぱいあって、ひとつじゃない?
「糸さんはね」
「ドタキャン癖があるの」
「怖かったり、不慣れだったり、未体験だったりすると高頻度で出ちゃうんだよね」
思いもよらないカミングアウト!
「それで自分を責めても、これって治らないの」
だろうなあ。
だれかに迷惑をかける悪いことだとしても、責めて治るなら苦労はない。
「じゃあ、どうするのがいい?」
「怖いこと、不慣れなことを事前に練習したり、経験しておくんだ」
「未体験なこともね」
「行ったことのない場所なら事前に足を運んでみる」
「知らない人だらけでもだいじょうぶと思えることをする。ひとり映画館、ひとり舞浜、ひとりディナーとか、ひとりバーとかね」
「現地が遠いなら、現地すぐそばのホテルに宿泊するなんてこともするよ?」
「まあ、自分の身体があったときの、つまり、まあまあ昔の話だけどね」
「だいじょうぶパワーをためるわけ」
「自分をだいじょうぶって励まして、力になる根拠を増やしておくの。具体的なほどいいね!」
なるほどなあ。
わかる気がする。
練習しておくんだ。
自分にとっての「ダメな自分」のままでも、なんとかやっていけるようにする。
風邪をこじらせたらいっぱい休むし、病院にかかるし、お薬を飲むし、安静にする。栄養もとる。それだって「風邪ひいた自分」でやっていけるようにするための方法だ。風邪をひいて自分を責めても風邪は治らないけど、休み方を心得ていれば、そんなことせずともだいじょうぶだもの。
ひどい捻挫をしたら杖をついたり、車いすのお世話になるし? 困窮に瀕して社会保障に頼るのだって、そういう手段だよね。
そもそも「ダメな自分」と責め要素にすることはないんだ。
落ち着け。「私のだいじょうぶが必要なところ」と言い換えて「具体的になにが必要か」を探して、増やしたり、練習したりするのがいい。
ロケだなんだ、これまでの旅行先だ学校の授業だなんだで、いやっていうほど繰り返してきた。
初心者なら?
万全の準備を!
レクチャーを!
初心者のときほどわからないことだらけでたいへんだから、階段をのぼるように徐々にやってく。
学びや体験が視野を広げるのだ。初心者でいるときは視野も狭くなる。
政治の話もそうだよね。政治学とか、家庭で朝のトイレはどうするみたいな政治ネタとかあるわけで、みんな話してる。けど、じゃあ、だれもが上級者ってことはない。
あとのふたつの三大話すのまずいネタ、そのひとつである野球だって野球ファンは毎日のように話してるわけじゃない? 初心者にはわからないフォローや、触れないほうがいい領域をお互いに模索しながらさ。
最後のひとつの宗教なんかお坊さんや神主さんはどうなるの? 神父さんは? そもそも男性だけのものじゃなし、女性で神主さんをやってる方とかもいるわけで。学校もあるしさ? みんな話してるよね。宗教について。
なんてことない。
だいじょぶが必要なことがあるのだ。私たちには。それも具体的にだいじょぶって言える物事がね。
ぷちたちにとっては? 私に集約されてる。ぷちによっては、幼稚園や、幼稚園の先生、おともだちも含まれるようになっている。ここはさすがに個人差が出るところだ。
というよりむしろ、だれにとって、だいじょぶがどれくらい必要かってさ?
個人差があって当たり前なんだよね。
その当たり前を忘れて責めはじめるのは、なんでなんだろ。わかんないけどさ。
前提は変わらないね?
『それが依存のなんとやら、ではなかったのか?』
十兵衛の問いに苦笑いを浮かべた。
そのとおりだ。糸さんは私の考えを、平易に言い換えてくれているのだ。
依存があればあるほどいい。だいじょぶがあればあるほど助かる。だったらさ?
「大丈夫じゃないときは? あるいは、大丈夫じゃないかもしれないときは? 逃れられないときは、どうしたらいいと思います?」
私の問いに糸さんたちはそろって「ううん」とむずかしい顔をした。
いまさらながらちなみに、今日の糸さんはコーヒーチェーンのエプロン姿だったり、くのいち装束だったり、立ち食いそばのエプロン姿だったりする。秋葉原のいろんな店舗で働いていると言っていたけど、それくらい複数体で動けるなら十分のように錯覚してしまう。
でも、糸さんだって大丈夫じゃない。本体を探し求めている。すこしも諦めることなく。諦めないかぎり、糸さんは自分の大丈夫じゃないことと付き合わなきゃならないのに。
「基本ね? 成果もなにもないまま、際限なくコストとストレスが増えるんだよ」
「だってそうでしょ? 地震の対策って、常にできるけど、地震はいつくるかわからないし、無限に不安でいられるじゃない?」
「家庭内で暴力を振るう親父がいるなら、親父に備えたって親父がいるかぎり怖いままじゃん」
「大丈夫じゃないこと、大丈夫じゃないかもしれないことを防ぐのは、それはもう、とても大変でむずかしいことなの」
「避難訓練とかさ。小学校で毎日やらないでしょ? どんなに大事でも」
「だけど大丈夫じゃないこと、大丈夫じゃないときって、いつも避難訓練するようなものなんだよ。それも実際の災害が起き続けるような体感でね」
「暗殺者が仕事を反故にしたとき、組織に狙われるみたいな物語っていっぱいあるじゃない? 外画なんか特に」
洋画のことかな? たしかにある。
「ジョン・ウィックとか?」
私の問いに糸さんたちは愉快そうに笑った。
「あれは復讐劇だけど、まあ似たようなものかな。巨大な組織に単身で挑むと、常に狙われるでしょ?」
「ボーンシリーズのジェイソン・ボーンとか」
「ジェイソン・ステイサム主演の映画もそういうところあるね」
「007もそうかな」
「チームのフォローがあるとはいえミッションインポッシブルのトム・クルーズもそうだね」
「スティーブン・セガール映画も」
「シュワちゃん映画もそうだよ」
糸さんが言うほど私の脳内であれこれ浮かんでくる。
実際、いっぱいあるね!
「シリアス調でもコミカルタッチでも、どっちも同じでさ」
「なにもかもが敵! 味方がいるのかわからない、とか。味方がいない、とか。わかりやすくハラハラドキドキできるんだけど」
「実際にそれが自分の身に起きるとなると、いやでしょ?」
「落ち着く暇がないんだもの」
それはそうだ。たしかにそう。
「備えきれないのよ。はっきり言って」
「ゲームならさ? モンスターが出ない村や町の中って、安全地帯じゃない?」
「それがないんだよね。大丈夫じゃないときや、大丈夫じゃないことにいつなってもおかしくないときって」
「際限なくあれがいる、あいつをどうにかしろってなるの」
「いまいった映画群なら、主人公も窮地だけど、たったひとりを強烈に恐れて、是が非でもつぶそうとする敵側なんかどの作品もすごいよね」
「街中でロケランぶっ放したり、他国で無茶な作戦を実行して被害を出したりするの」
「最初は隠密でことをなすはずが、物語終盤だとどっかんどっかん火薬がさく裂するわけ」
「「「 まあ、そういう映画なんだけど! 」」」
火薬が盛大にさく裂するだけでも派手だもんね!
「不安が尽きないかぎり、元凶をどうにかしなきゃいけないと執着するかぎり、不安にも、ストレスにも果てがない」
「果てがないから備えきれない。ゴールが動き続ける。終わりがない」
「いくらでも苦しめるし、いくらでもストレスを感じられるし、いくらでも怒れる。疑える」
「だれかのせいにできるし、だれかのせいにするだれかのせいにできる」
「いくらでも、いまのままでいられる」
「いまのままでいるかぎり傷つきつづけるし、どんどん反応も行動もきつくなっていく」
「視野も狭まる」
出口のない無限の負荷。
たまったものじゃないな。
「じゃあ安全基地があればいいんじゃないかって思いがちなんだけどね」
「人が怖いなら、際限なく人を殺せば、そこが安全基地だ! みたいになるのが出てくるんだ」
「あのむかつく連中を皆殺しだ! とか」
「隣が怖いから監視だ! 嫌がらせだ! 武装だ! とか」
ジョン・ウィックなんて犬と車、自宅の復讐相手を殺すだけじゃ終わらなかったっけ。被害を受けた側だけど。相手側がウィックを恐れて、どんどんエスカレートしていった。復讐相手がマフィアのだめ息子でさ? いくらだめでも、息子を「はいどうぞ殺してください」と差し出すほどには、マフィアのドンはいかれてなかった。
武装がらみはなー。ミナトくんがキラリやカゲくんたちと遊んでいたボードゲームが世界大戦をモチーフにしたもので、だれかが核を作れば必ずほかの人も続く。先制攻撃だと核を撃ったら? もちろんほかのみんなも核を撃つ。そしてゲームが早々に終わる。
ゲームだとこういうシミュレーション。ハリウッド映画はこの手の内容をちょこちょこやってて、まあ、だいたいおんなじ流れになりがちだ。主演のヒーローが単身か、あるいは仲間たちと防ぐんだよね。あんまりお決まりのシチュエーションだから、映画だと核がワンパターンになっててさ? 核の代わりに細菌兵器になったり、原子力潜水艦が盗まれたりする。
幼い頃からずっと見てきた。学校で何度も体験してきた。
悪の組織がいるのなら?
頭をつぶす。
世の中にいるだれかや集団を「悪党」と見なすときには?
そいつらをつぶす。
だめなやつがいたら?
そいつのせい。
輪を乱す人がいたら?
そいつのせい!
だからみんなでつぶすんだ。
でもさ?
実際にはそれってただの犯罪だからね。
みんなでせっせと嫌味合戦したり、差別しあったりするし? とうとうタガが外れて「はいみなさん! こいつらが悪です! クソです! 我々の幸せを台無しにするうんちです!」みたいな扇動をし始める。
印象論や偏見、差別が先に立ち、事実の認識も、学識も、研究も観察もすべてが踏みにじられていく。
大事なのは自分の印象を変えないこと。
いまの自分のままでいること。
それがどんなにまともじゃなくても、主観においては「当たり前の自分」の延長線に当たり前に存在するから、わからない。
なんだかもう「大丈夫じゃない」のも「大丈夫じゃないことが起きるのでは」というのも、どちらも陥った時点で抜け道がないような?
「それじゃあ、どうしようもなくないですか?」
「そんなことないよ?」
「「「 だって私たちはヒーローが好きだから 」」」
虚を突かれた。
「ジャンプもニチアサも、みんな、弱くて困ってる人の味方でしょ?」
「大丈夫じゃない人の、大丈夫じゃないことが起きるかもと怖くてたまらない人の味方なんだよ」
「「「 助けてくれる人がいるし、なるの 」」」
スパイダーマンだったら? ピーターを育てたメイおばさんは、作品によってはお金に困窮してる人を社会福祉に繋げたり、生活保護の需給が得られるよう手伝ったりする活動をしている。ピーターもお手伝いをしているよ。
日本のネットの薄暗いところで蔓延してる冷笑や冷淡な言動を、ヒーローは取らない。
助ける。絶対に。
ほっとかない。
「きつくて、つらくて、さみしくて、痛くて、苦しいかもしれない」
「だけど、世界はそれだけに満ち溢れているわけじゃない」
「だれもがその、それだけじゃないほうに行けるように、助けるの」
「「「 そういうヒーローになるんだよ 」」」
それは、対立を煽るような人じゃない。
あいつがうんちだ、クソだと吹聴するような人でもない。
みんなに褒めたたえられなきゃならず、みんなに敵を糾弾してもらわなきゃならない人でもない。
言うに及ばず、それをほっとく人でもないよね。
勇ましさが重要なのでも、根性論や情緒のみで突き進むものでもない。ハイリスクであっても大胆で、なんだかそれっぽければよし! みたいなほうへ突き進むものでもない。
答えや解決ありきというのも誤りだ。
事実を、過去を、これまでを直視して接する誠実さや、他者の主張に耳を傾ける謙虚さ、寛容さを持つことが欠かせない。
平和と、ひとりも取りこぼさない道を模索しつづける。
そういうヒーローになる。
日本のヒーローたちも、海の向こうのいろんな国のヒーローたちも、差別に抗うだろう。現実の私たちにはなかなか選べないことや苦境に挑んでいく、のではない。現実の私たちが戸惑ったり、力が及ばなかったり、ろくに学んでなかったり、気後れするような人助けに挑んでいくのだ。
だれかの代わりにだれかをぶっ飛ばしたり、なにかを壊したり、暴力で屈服させたり、支配したりするんじゃない。だれかの意見を代弁するためでもない。
みんなが、自分を生きられるようにするために、立つのだ。
だれかのそばに飛んでいって助けるのは、そこにいるひとりひとりが自分を生きられるようにするためだ。
そんなものじゃ正当化も責任転嫁も免罪もできないことを進んでするのがヒーローなんじゃない。それはただの汚れ役でしかない。
つらいばかりじゃないし、ひどい人ばかりじゃない。
つらさやひどさを暴力に変えてどうにかせずにはいられない、そんな居場所から、そうじゃない、安らげる居場所へと伴走していくのが、ヒーローじゃないか。
それだけじゃない世界や居場所を作り、守り、道を作り、だれもがこれるようにする、そういうことをするのがヒーローなんじゃないのか。
よく学び、よく行い、よく試し、よくしくじっては、よく改めていく。
痛みを知る人じゃないか。ヒーローは。
世界がそれだけじゃないことを知り、信じられる人じゃないのか。ヒーローなら。
「たまに正気を失いそうになるほど叫びたくなる夜もある」
「メンタルへらへらになっちゃうこともあるよね」
「でも、糸さんには職場やあそび場、趣味や術の鍛錬ができる居場所がある」
「それぞれの居場所で知り合った人たちがいる」
「そういうところへ糸さんをつなげてくれた人たちがいる」
「あの鬼を筆頭にね」
「優しい人たちのおかげで、糸さんは今日を生きていけているんだよ」
「「「 そうは言っても怖いものは怖いから、助けてほしいんだけどね! てへえ! 」」」
「はあ」とあいまいに返事をしつつも、どこかでほっとしている。
なんだかひとつ、見えてきた気がするのだ。
抽象的な指針しか見いだせなかったばかりか、自分でも考えにくいむずかしい骨組みとして見ていた私のこわばりを、糸さんが具体的な話とともにほぐしてくれた。
つらさに負けない、めげない、心奪われないくらいの幸福を。ぬくもりを。安らぎを。
不幸せに比べて幸せを定量的に示すのではない。
そうではなくて、だれもが世界に、たしかな居場所があるのだと、そう心から抱ける実感を。
区別も差別もなく、公平で、公正で、平等である道を模索しぬく。築き上げていく。その道を。
ヒーローは歩み、示す。助け、共に行くのだ。
だれもひとりにしない、その道を進むのだ。
目指す価値のある道じゃないか。
悪いことばかりじゃだめだ。目を背けるのもちがう。いいことも、きらめく景色も、心奪われる夕景も、あらゆるいいこともこみこみで、現実のあらゆる苦難や困窮を見つめ、これを認め、挑んでいくのだ。
それってめちゃくちゃ、かっこいいじゃないか!
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




