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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千九百十九話

 



 間違えたらもう、許されない?

 だとしたら、それは認知が歪んでいる。

 だけど同時に「間違えた人を排除せずにいられない」人や集団は存在する。

 洗い物をしながら山崎豊子原作の「沈まぬ太陽」のあらすじをぼんやり眺める。航空会社と労組の労働闘争から端を発した騒動、そして航空機事故。日ごろ常態化していた汚職や資金流用などが明るみになるにつれ「間違えたら許さない」人たちが、問題を調べて明るみに出そうとする人たちの邪魔をする。とことん陰湿に、徹底的に。

 いやいや、問題を明るみに出すこと正しいのでは?

 残念ながら正しさは一意に存在するのではない。いろいろと変わるんだよね。

 出世したい、長い物には巻かれろ、儲けたい! そういう人たちにとっては、不正はむしろ手段だ。正当化・責任転嫁・免罪されるべきものだ。

 だけど労組で使用者である企業の無茶で無慈悲で暴力に等しい対応から、自分を含めたすべての労働者のために抗い、交渉を持ち掛け、粘り強く訴えていた主人公たちは? 安全に、かつ、適正に航空機が運用されることを当たり前に必要とする乗客は? その家族は? ちがう。

 企業、使用者は、まず労働者や利用客の損を求める。損を拡大することで利益を確保するし? 足切りすることで一時的な数字を出そうとすることも多い。もちろん「労働者の数は減らす!」し「労働の質はあげさせる!」、しかも「お値段減らして働かせ放題! なんなら給与なんて払いたくない!」。いわゆる「使用者が労働者を労働させるために規制を緩和する、労働規制緩和」いわば「働かせホーダイ」の実施が悲願になることさえ起きる。その悪辣で一方的なふるまいを凝縮したような登場人物が、主人公と対峙し、苦しめる側に回っていく。最初は同じ労組でがんばっていた仲間だったのに。

 いつの間にか労組は全国的に間違えの象徴みたいに捉えられているけど、それもちがう。ちがうけど、だれかの考える「間違い」の内訳を変えることはできない。

 選ぶのは、そもそも、むずかしい。

 選んだことを変えるのも。

 選びつづけることも。

 主人公は労組の仲間や労働者たちの立場から、会社の離反提案を退けて閑職に追いやられる。それも国内のじゃなく、遠い国の。でもって、主人公を裏切った仲間はアメリカへ。露骨な出世コースだ。

 出世という観点で見たら主人公はまさに「間違い」だ。会社の役に立つ、そのためにみんなを消費・利用する。みんなが悲惨な目に遭おうが知ったことじゃない。自分の出世あればこそ。それを選んだ仲間は? 大成功だ。出世という観点で見たら。

 だけど、会社が労働者たちに強いていたことが航空機事故を引き起こす最大の要因作りになっていく。経営のずさんさや、隠ぺい体質の構築と維持を強化しつづけていく。一事が万事、この調子だ。

 航空機事故だけじゃなくて経営が傾く理由も重なり、再建のために派遣された人が会社の陣頭指揮を執るように。主人公のその人の協力のもと、会社の不平や悪事を次々と調査していくし? そんなの旧経営陣はもちろん、労働者たちを裏切ったり売ったり虐げて出世してきた人たちには脅威でしかない。彼らは結託して主人公たちの邪魔をする。

 調査していくなかで政治家たちの裏金作りやドル買い工作などに関与していたことも明るみになっていく。そこまでの利益関係で強固に結ばれていた旧経営陣、その筆頭にかつての仲間がいて、これを切り崩すのは容易ではない。

 でも、そこまでの悪事に胸が痛まない人ばかりじゃない。自死した人が、悪事をまとめたノートを検察に渡していた。これをもって東京地検特捜部は捜査を開始。主人公を裏切った仲間は法の裁きを受けることになる、と。

 だいたいそんな内容らしいよ?

 濃いねええ! 濃い!

 実在の人物を題材に描いた渾身の作品だという。

 会社内の問題も「明るみに出さないのが正しい」となれば? 当然、そのために動くよね。たまーにニュースになるのは「明るみに出せたこと」だし、ニュースバリューがあったことだ。

 だけど、個人がパワハラやセクハラを受けたくらいのニュースが、いちいち出るかっていうと、まず、出ない。大手企業から中小企業まで幅広くあるけれど、一面で取り扱うことかっていうと、ね。実際どうなってる? テレビ、新聞、ネットメディアの扱いはどう?

 自動車会社なら車、電化製品企業なら電化製品のリコールがたまに発表される。企業が自発的に発信するばかりかっていったら、そうでもない。しばしば不正の告発などの形で、やっと発信されることもある。

 なにせ企業にとって不正は正しいのだ。

 文字からすると一致しないけど。あべこべにもほどがあるけど。

 出世するためには労組も売る。会社が労組をつぶせといえばつぶす。会社から労働者が交渉する力と場なんか持たせるなというなら従うし、中心人物が邪魔になるならつぶす。

 納期こそが正しいなら、納期を守るために安全検査の数値をごまかす。

 安価の調達こそ最優先なら、必要な部品強度にぜんぜん足りないけど安い部品に切り替える。

 企業にとっての正しさによって、不正はいくらでも発生するし? 労働者に、その集まりに交渉力がなければ、企業が求めることに唯々諾々と従うほかになくなる。真っ先に労働者の賃金や待遇が狙われるまであるからね。

 これを取り締まったり、交渉したりする力が労働者に必要だし? 会社の暴走や暴力を事前に防いだり、事後に取り締まる法や制度が重要だ。具体的には労組であり、労働基準法などである。

 言い換えれば労働者の正しさは、必ずしも企業の正しさとは一致しないし? しなくていい。別にね。お互いがお互いの求めのもとに調整しあえばいい。けれど、それを適切にってなると? これがけっこうむずかしい。なにより揉めやすい。

 そもそも不公平で不公正で不平等な状態からのスタートだ。体制側は応じることが間違いかつマイナスにしか感じられない。労働者側はプラスを見ている。おまけに体制側のほうが基本的に権力の勾配において優位にある。一見、ね。ほんとは労働者がいないと使用者は成立しない。だから使用者は労働者の生活を人質に取るのが、もっとも「正しい」手段になる。人質を取られた状態で、まっとうな交渉なんかできないじゃん? 労働者側は一見すると不利。少なくとも「自己責任、だからひとりのせい」にするほど不利。逆に団体になり、いっそ労働者全員になったら? 使用者は太刀打ちできない。だって現場に人がいなきゃ、使用者にはどうすることもできないからね。

 お屋敷で見た動画サイトで知った。すこし未来にハリウッドでストライキが起きたとき、著名な俳優たちも率先してこれに参加した。労働者が団結することが力になり、同じ職場で働く人たちの幸福に寄与することを彼らは知っているからだ。そして使用者は基本的には「儲けすぎる」ことも知っている。稼ぐ役者さんほど身に染みてわかっているだろう。まあ、さすがに全員が、とはいかないだろうけど。

 別に美談で終わるものじゃない。政治的議題は世の中に満ち溢れているからね。それはハリウッドの現場でも同じだ。ただ、それでもせめて労働現場と、そこで働くすべての人たちの向上に団結できることが大事だ。とても重要なことなんだ。

 切り離されているかぎり、私たちは無力だ。

 孤独でいるかぎり。

 ぼっちでいるかぎり。

 だけど、同時にぼっちでいられないのも、つらい。

 常にべったりなんじゃない。必要なときに協力しあえたらいい。けど、その必要さえ、人によって意見が異なる。正しさのように。

 こども時代に触れる童話やおとぎ話、特撮ヒーローやプリキュアたちが見せてくれた正しさだけが世界にあるんじゃない。世界にある三大宗教をはじめ、私たちの社会や文化における正しさも実に複雑怪奇だ。

 なにかの正しさが、だれかをひどく踏みにじることがある。

 率先して傷つけていくことさえある。

 沈まぬ太陽で主人公を裏切った仲間のようにね。

 どんなに一方的で暴力で法に反していても、その場における正しさ次第になりやすい。だから個室でやべえ正しさが人を傷つける状況が起こっていく。家庭で、学校で、職場で。人の集まりで。団体の中で。集まりにおいても、いくつかの集合に分かれていく。でしょ?

 学校の勉強なんか全部まちがい! とか。病院や医者はぜんぶ詐欺師! とか。国は国民を欺いている! とか。ガキは叩いてしつけるんだよ! とか。女は男に従っていればいい! とか。地球は真っ平だ! とか。トンチキ日本描写だろうがアメリカさまが描いてくれるならそれでいいんだよぉ、ポリコレくそ、ハリウッドで日本人が作る日本映画とかありえん! とか。

 実際、いろんな集合が存在する。

 儲かれば人をどこまで傷つけるとか。好きな人がいたら相手がいやがろうが、恋人や結婚相手がいようがお構いなしだとか。児童であろうがセックスする、虐待するとか。

 並べだしたら、きりがない。

 それにね?

 たったひとつの正しさに依存すると、もう、その枠内でどうにかするだけになる。

 だけど会社、つまるところ使用者と労働者がそうであるように、最低でもふたつの立場それぞれの正しさがあって、この調整が必要不可欠じゃない? もっといえば労働上の正しさもある。

 だいたい、どの正しさにおいても批判して改めたり、いまは保留にして体制を整えたうえで取り組んだほうがいいものもあるじゃない? 喫緊の状況なら、その状況に応じた正しさと調整したり、さらに保留にするなりの判断も求められる。でしょ?

 正義議論にしばしば立ちはだかる「じゃあ正義はだめか」みたいなのは、極論だ。みんなが共有できているならいい? それは答えや解決にはならない。

 調整だよ。批判して、改めたり、ひとまず取り下げたりすんの。でもってこれでおしまいじゃないよね?

 だって「お前が調整しろよ」のごり押しが成立しちゃ困るもの。歴史が記録している深刻な差別では、実際にそういうことが起きてきたわけだし? 差別の具体化が実行されるときって、なにが加害的かってさ。なんでも利用するからね。

 やべえ集まりも世の中にいろいろあるわけだしさ。

 実際、正しさごり押し状態ほど危ない。正しさひとつだけ限定依存も危ない。

 沈まぬ太陽の主人公の元仲間はそれだよね。

 間違いや誤りがあったときに立ち止まり、批判を受け入れて検証して、改めたり、手放したりできるくらいがいいしさ? かえって人生だなんだ、重たいものがかかりすぎるのが危ない。そうはいっても、そうなっちゃうし、それ以外にないって思い詰めずにはいられない人生だってある。それもきっと、ごまんとね。だから大変だ。

 切り離されているかぎり、私たちは無力だ。

 孤独でいるかぎり。

 ぼっちでいるかぎり。

 だけど、同時にぼっちでいられないのも、つらい。

 常にべったりなんじゃない。必要なときに協力しあえたらいい。けど、その必要さえ、人によって意見が異なる。正しさのように。

 調整を。

 「ウォーキング・デッド」のリックはまさに、その調整役をずーっとしてた。苦労してたなあ。もうこんなのうんざりだって露悪的になった時期もあったっけ。「FROM」のボイドは一度入ったら戻れなくなる町のとりまとめとして、ずーっと調整していた。

 コミュニティに、あるいはチームに必要だ。

 だけど必要なのは調整役だけじゃない。調整役だけに依存したら? 調整役は長くストレスに耐えきれず、いずれ必ず参ってしまう。

 家族にしたってそうだ。父親に権力を集中し、依存を限定するご家庭が少なからずあった。たぶんいまでもある。俗に家父長制と呼ばれる単位では、非常に不健全な関わりが生じやすく、暴力に発展しやすい構造になる。表で「いやもう、うちは彼女が一番ですから」と妻を立てるふるまいをみせる男性が、外よりもっと家の中で女性を立てているなら、ぼちぼち。なんとかなのかも。だけど外ではいい人を演じて、うちでは暴君になる男性も少なからずいる。離婚や熟年離婚、家を出て帰ってこない背景がちゃんとある。いろんな事情があるだろうから、一方的に、一概には言えないけれど。

 その集まりの一番えらい人がいる、という構造は非常に危うい。だから国民、そして憲法を上に置き、その下に政治家や官僚などを配する。政治のトップでさえ、常に、その上に法があり、国民がいる。こういう構造を取る。ちゃんと理由がある。

 そのうえでどうするかなんて問いにたったひとつの正答がある、なんてことはまずないよね。答えや解決のない、痛みや苦しみのある、そういう状況がまずあるわけで。

 あらゆる営みしかり。そこに並列として存在する、デモしかり。ストライキしかり。

 私たちのよそや上に、政治があるのではない。私たちが政治と共にあり、政治を用いるのだ。

 ママあれやって、なんていうのも政治的営みなんだよね。

 だったら、やっぱり「よく話す」それ以上に「よく聞く」ことからしか始まらない気がする。

 糸さんが私のデビュー曲の歌詞に触れてくれたから思い出す。

 関わって、つながり、できるかぎりのことをすることからしか始まらない。そう思えてならない。相手の距離感に合わせて、相手が落ち着けるくらいのぼっち感をキープしつつ、それでいてつながりたいと思えたときにはいつでも声をかけられるくらいの距離感で。芸人さんのコントや、昔の映像作品にみるおせっかいな人たちくらいの余計なお世話度合いで。

 相手の課題は奪わない。相手の選択・行動も奪わない。勝手に解決もしない。救うこともしない。

 助けを求められたときに協力することはあっても、なにも取り上げない。命令しないし、支配もしない。

 その実現のために、なにをどこまでするのか。あるいはなにをどこまですべきじゃないのか。

 自分を守るうえで、なにを許し、なにを手放すのか。その際の条件とは?

 「悪魔を見た」のチョンギョルみたいな連続猟奇殺人鬼が相手だったら、警察と司法の介入ありきだし、彼を捕まえるためにまずは行動する。自分を守るために取る距離はかなりのものになる。

 いきなり完全を求めない。

 完璧にやれないラインを捉えていく。そのうえで、調整していく。目指すラインを高くするのは、大事。だけど一足飛びに、迅速に、初手ですべてを叶えたくて現実を見ないのはダメ。


「どれ?」


 洗い物を終えて備え付けてあるタオルで手を拭く。リビングに戻りがてら、金色を三粒だしていやなことを思い出すと、途端に三本の刀の出来上がり。

 剥き身の刀身。おじいちゃんの指摘通り、出来栄えの悪いもの。

 でも考えてみれば、そうじゃない?

 痛みや苦しみの具体的な形って、どんなに掘り下げても痛くて苦しいばかりじゃない?

 そこから浮き彫りになる正しさに依存を限定することは、転じて、痛みや苦しみをより浮き彫りにしていかない?

 もういやだから手放したいのに、楽になりたいのに、心身はむしろ痛みと苦しみを強く味わうほうにばかり向かってしまう。ご丁寧に、刺激を受けるたんびに、脳が過去の痛みや苦しみ、そのしんどい体験と紐づけては再現してくる。あらゆることが限定されていってしまう。

 沈まぬ太陽なら、会社の論理に閉じていく。汚職だ横領だ、加害だなんだがてんこ盛りになっていく。

 ろくなもんじゃねえ!


「それ、それ、それ」


 金色をいっぱい出しては、過去を振り返る。

 そのたびに一粒ひとつぶが刀に姿を変えていく。

 どんなに出来が悪くても、どれもみんな、切っ先を私に向けている。

 そういう意味では徹底してる。


「こればかりじゃない」


 人生には。

 フランクルが夜と霧にあえて記述していたように。収容所の文字通り地獄そのものの時間のなかに、ふと、暮れゆく夕陽の美しさに男たちで涙して、心打たれたように。

 そればかりじゃない。そればかりじゃないところに行けるなにかができないか。

 ううん! それもむずかしい。エゴでもある。

 自分だけじゃ届かないとして、それでも、なんて。


「中学生時代のよう」


 私の理想の権化、あるいは化身のようなキラリが、学校も友達もなにもかも退屈そうにしていたのも、それらを台無しにするようにしていたのも、どれも私の主観でしかない。

 なのに私はそれがどうにも許せなかった。

 だから、ずーっと! いらいらしてた。一方的にいらいらをぶつけていた。

 思いどおりにしたくてたまらなかった。キラリを。キラリを通じて、私を。

 グロテスクな欲だ。二度と繰り返したくない失敗で、過ちで、加害だ。

 自覚があるぶん、恐ろしい。

 ほっとかないって選択は、過ちを犯す可能性が高まる。失敗を犯すだろう。加害さえするだろう。

 わかっているのに、選べるのか。

 自分の未熟や加害性を見つけては改め、私を調整していけるのか。

 一時的な覚悟じゃない。継続的な覚悟を問われている。

 それでも挑みつづけることを、調整しつづけることを、選び行えるだろうか。


「まるで結婚の誓いみたいだね」


 誓えますか?

 ほっとけないし、ほっとかない道を歩むことを。

 しくじって、傷つけて、傷ついて、過ちを犯しながら、それでもそれらをすこしでもなくすことを。ゼロを常に本気で目指すことを。

 そう望む自分でいることを。

 自分の不可能や限界を知り、助けを求め、ちゃんと休み、よく食べ、よく寝て、よく笑える自分でいることを。みんなもまた、そんな自分でいられることを。そのために、できうるかぎり手を尽くすことを。

 誓えますか?

 人には生まれながらに権利があり、尊重・配慮することを。その法を守ることを。それを通じて、だれもが等しく平等であり、公平かつ公正な社会になるよう、目指して生きることを。


「これじゃあ、なんだか怖い怖いゲームの始まりみたいかな」


 だけど無関係ではいられない問いだ。

 どれも、これも。

 間違いは悪だから、間違いを犯す道は選ばない? そういう感覚の人もたくさんいると思う、けど。

 それじゃあ開けなかった道が文明や社会には膨大にある。

 沈まぬ太陽の会社のルールは、ことによっては事故を引き起こして社員をずっと苦しめるほどのものになる。

 だから、ときに破るためにあるルールさえできあがる。

 もちろんどんなルールも邪魔なら破ればいいという話じゃない。

 よく学び、多くを取り入れてなお、さらによく学んでも終わることのない営みを続けて、よく考え、よく話し、それ以上によく聞く姿勢が欠かせない。

 なんであれ、思いどおりを手放すことだ。

 自らが傷つく覚悟を持つことでもある。傷つけるのではなくね。

 なのに自らを大事にする決意を手放さないことでもある。

 そして自分を大事にするように、あまねくすべての人を大事にすることでもある。

 チョンギョルみたいなやばいやつや、沈まぬ太陽で主人公を裏切った元仲間さえ含めてさ。

 同じように大事にはしないし、できないけど。その欺瞞から目を背けず、よく学びつづけ、よく考えつづけることでもある。


「むちゃくちゃいうよなあ」


 ひとりには到底、無理だ。

 ドラマの推しであるボッシュだって、これまでの事件で未解決のままの被害者たちを、ひとりひとりの良かったときの写真をずっと大事に保管しては「いつでも解決できる情報や糸口を探す」生き方をしている。

 簡単じゃない。終わらないこと、できなかったこと、叶わなかったことを抱え続けるのは。

 ときにドラマシリーズでボッシュが捕まえてきたやつらや、チョンギョルみたいな怪物じみてて、悪魔じみてるような人にさえなっていく。それくらい、簡単なことじゃない。

 実際、ボッシュはしばしば刑務所に送った連中を通じて落としきれなかった犯人や、まだ危険性が高いとにらんだ犯人への脅しや暴力を依頼していたり、警察の監査を踏まえたうえで逃げ切れる状況を作り、手を汚すことさえある。

 それを是とするのか、みたいなところに議論を移行させたらもうおしまいだ。

 わかったうえでボッシュは、全力で捜査をするし? それでも届かないときには悪事に手を染めてきた。

 それくらいの領域に、私はずっと前から、とっくに腰まで入っている。

 誓うなら、選ぶなら、次は肩までじゃ済まない。頭のてっぺんまで入ることになる。


「ここにある正しさの数は、たくさん? それとも、ひとつ? あるいは、少ないかな。多いかな?」


 失恋された歌を面白おかしく歌う人がいれば、とにかくしっとり湿度高めな人もいるし、すっごくこっわい歌にする人もいるだろう。

 映像作品だってそうだ。いろんなアプローチがあり得る。

 ボッシュのような道しかないわけじゃないんだよ。

 選ぶのはいい。だけど正しさやルールを限定しないで。

 まずまちがいなく、自分のそれは、相手のそれとマッチしないから。

 限定するほど手詰まりになっていくものだから。


「むむむ」


 想像して?

 創造しよう。

 接続して、繋がろう。

 自分の行けるかぎり、望むかぎり、探してみよう。


「刀から変える? 材料から、変える?」


 いやなこと、欲望を刀にするのか。それとも。

 絶対的に正しい道などない。いまある限られたもので選べるかぎりのことを用いて道を選び、進んでいくのだ。戻ることもある。障害物でふさがれていたり、道が壊れてしまっていたり、途切れてしまっていたりすることもたくさんあるから。


「はぁあああん! 覚悟もねえ! 勇気もねえ! 正直やる気もあんまりねえ!」


 ふわふわ浮かぶというより、空中にぴたりと静止した刀ひとつひとつを化かしていく。

 小さな二頭身の人形に。ミコさんにそっくりだけど別物の姿をあらわにしたあいつ。平塚さん。社長。


「儲からねえ! 傷つくし? ン罵詈雑言がぁ、増えていぐぅ!」


 私を日本刀で切りつけた子。彼女と社長の赤ちゃん。ワイドショーで私を筆頭にこき下ろす自称識者のコメンテーターたち。


「いそがしい! 余裕もねえ! ンだけど結局ほっとけねぇ!」


 教授。アダム。シュウさんの出した、黒い龍。


「おらこんなシャバいやだぁ! おらこんなシャバいやだぁ! 幸せな場所がいいだぁ!」


 私の見てきた邪たち。黒い御珠。官邸で会った総理らしきなにか。


「ンでも幸せな場所なんざどこにもねえから、みんなで作るしかねえだぁ!」


 増やしていくしかない。幸せ成分。安心・安全・安定成分。

 それを増やしていくしかない。どれもあらゆる正しさで不安定になり変動する。

 私たちはちがいすぎて、不公平で不公正で不平等な世界に生きている。

 みっつの不はほっとくと、すぐに先鋭化して私たちに牙を剥く。

 なによりも弱いほうへ。さらに弱いほうへ。どんどん支配と抑圧、そのための暴力性を強めていく。

 それをほっとけない。明日は我が身だし。身内に降りかかることもあるし? より広範に渡るものも潜在化した形で存在しつづけるから。それをほっとけない。


「つまるところ、あらゆる人が家事から逃れられず、自分の子じゃないとしても育児に遠因的にだけど関わらざるを得ないようなもんだよね」


 住んでる場所の近くに、こどものいる家庭がいるだけで、それはもう! にぎやか!

 うちも絶対そう。周囲ににぎやかさを毎日のようにお届けしていることだろう。

 街中を移動しているときだって、こども連れの人とすれ違う。

 施設を利用しているときに、ふとトイレに行くと見かけることもあるし?

 SNS ではしばしば、こどもによからぬことをしようとした男に声をかけてこどもの被害を防いだ、なんて話があがる。海外で、ファストフードでこどもたちがひとりのこどもをいじめていたら、見て見ぬふりをせずに「待ちなさい」って声をかけて、ほっとかない人たちの動画が回ってくることもある。

 家事にしたって、ね。いろんなものがあるけどさ。ゴミ捨てからなにから、自分の汚れに触れる機会をなくせない。富裕層が使用人とかを雇うといったって限界はある。幼い子が親を呼んで依存労働を頼むのとまったく同じように限界がある。

 居場所を整え、環境や状況をマシにしていく。みっつのあん、安心と安全と安定を築いていく。

 逆にいえば、方針はそれくらい。あとの表現は自由といえる。なんでもよし! ではない。沈まぬ太陽で主人公を裏切った元仲間みたいなのは、だめ。目的は手段を正当化しない。免罪も、責任転嫁もしない。選び行ったことは自分の責任。

 表現の自由というけれど、マッチョで背中に入れ墨の入ったヤのつく家業のおじさんを前に、罵声を浴びせたら? そりゃあ、暴行だろうがなんだろうが、暴力を振るわれるきっかけになるのは目に見えている。でしょ? しないよね。だれも。殴られるだけじゃ済まない可能性だって十分あるわけだしさ。

 政治批判が大事だといったって、いまの例のような「お礼回り」が待ち受けていたら? それに対抗するのは生半可なことじゃない。アメリカ、韓国あたりは、このあたりのドキュメンタリーや映像作品があるね。ってことはたぶん、小説もあるんじゃないかな? 日本で思いつくのは、ううん。新聞記者? もっと増えるといいのに。日帝時代のメディア規制、いまの与党のメディア干渉なんかド直球だし。スピード感からすると、ハリウッドよりも韓国のほうが映画化を先に実現しそう。

 どんな道も険しいぞぉ!

 険しい道しかないわけじゃないけども。

 過酷な登山をするのなら、準備だけじゃなくて練習もするし、装備もいる。ガイドが必要なこともある。それぞれ具体的に、それらができるまでの工程や依存支援・資源、時間などを考えると、さらに途方もないことになっていく。

 険しさのなかで、ぜんぶ一からなんて、無理!

 私と同じく高校二年生で、そのうえ全教科赤点で、SNS もやらず、貯金どころか口座もない人に「いまから量子加速器を作って」「あと株投資で資産を一億にして」「これらの動画配信で登録者三百万人を達成して」「これぜんぶ、今週中に、ひとりでやってね。お願いね」って言うくらいの無茶ぶりだ。

 状況を整理するだけで頭がパンクしちゃう。

 別にここまでわかりやすい例にしなくても、好みも機嫌もみんなちがうぷちたちの食事の要求に応じるだけでてんぱるし? たとえばうちの学食みたいに、ひっきりなしに注文がくるわ、メニューが多くて注文はばらけるわみたいなところでキッチンやるみたいなもんだよね。

 考えなきゃいけないことが、同時に多すぎると?

 無理!


「頭が混乱しちゃうよなあ。何度目だよってね?」


 たまーに主人公が選択できずにぐずぐずしてるように見える作品がある。組み合わせで、主人公が選択しちゃうとろくなことにならないみたいな作品もある。

 両の手のひらを自分に向けて、くたびれた気分を思い出す。それだけで、みるみるうちにシワまみれになって、細くなっていく。関東事変の後に老いた。力を使いすぎた代償は大きいし、気持ちの面でめげてる影響も無視できない。


「こわいよ」


 老化の次はなに? 死じゃない?


「永遠に悩めるな」


 やる理由も、やりたくない気持ちも、やらなきゃやばい事実も、やらないとひどいことになる具体的な事例も、ぜんぶ並べられる。やめたほうがいい理由や状態をいくつも抱えている。

 考えるよりも行動は、これらの検討をぜんぶぶん投げてやるのに等しい。

 だけど、ぷちたちを育てる私は、そんな風にはもう、生きられない。

 結婚していたなら、分け合うのだろう。この負荷も、負担も。いっしょに挑めるのだろう。

 でも、そうじゃない。

 この弱り目に救ってくれたり、なにかを明示してくれたりしたなら?

 防御力がゼロだから、ころっといっちゃうのもわからなくもない。

 行動できる人もいれば、それこそたとえ話になるけど袋小路に行き詰まり「トイレが、も、漏れる!」とばかりに足踏みしては、もうどこにも行けなくなってるような、そんな状態の人もいる。私もそう。


「動かなきゃひどくなる。だけど動いたらもっとひどくなる」


 そんな感じ。

 みんな、どうやって勇気だしてんの?

 考えるより動けってけしかけてるの? とにかくやっちゃう感じ?

 いやな目に遭いに行く! って覚悟きめてやってる感じ?

 死ぬかもしれないのに、しょうがねえっていっちゃう感じ?

 しわしわの手、ぶつぶつやシミが広がっていく腕を見ながら思う。

 これ以上、ひどいことにはなりたくない。

 その点、ドラクエの勇者ってすごいよね。ぼっちでも行くもんね。仲間のほうが強くなるシリーズもあるみたいだけど、それでも続けるもんね。

 アメリカン・スナイパーでは傷病軍人などが大勢出てくる。手や腕、足や下半身を失った人が映る。心的外傷でまともな社会生活に復帰できなくなった人も大勢いる。ベッセルの著書でも触れているけど、こんなものじゃない。

 実際に、この腕に、そしてもちろん全身に現れている老化現象を認識するだけで、本当は事足りる。

 私はもう、舞台に戻れる状態にない。

 話は終わりだ。終わりにしたがっていいだけの状態だ。

 それも、また、私を悩ませる。


「なのに、ほったらかしたら、際限なくひどくなる」


 糸さんに頼まれたとき、糸さんみたいな人がほかにも大勢いると思い描いてしまうから。

 放ってはおけない。

 生きるのはほんとに、たいへんだねえ。

 いろんな依存がじゃんじゃんばりばりあったほうがいいねえ。

 勝手に生えてくるくらいがいいよね。もういっそ。


「あー」


 アメスパのピーターはほんとにすごいよ。えらいよ。

 いろいろありすぎたのに、それでも立ち上がるんだもの。

 それでもいくしかねってことなんだよね。

 悲しいけど。これが生きることなのよね。

 めげるよ。こわいよ。やだよ。

 立ち上がれる人がいて、立ち上がれない人がいる。

 なにかを責めたり攻撃したりせずにはいられない人がいて、だれかをほっとけない人がいる。

 いまの自分はどれか。

 それよりもっと問いたいのは、いまの自分がどうなりたいか。

 不意にスマホが着信を告げる。


「おぅっ」


 メッセージが届いていた。

 糸さんからだ。動画で模型をどう動かせるか送って、とある。

 眺めていたら入力中の表示のあと、次のメッセージが来た。


『私のこと、助けてくれる?』

『よね?』


 ぷちたちが私を呼ぶときの顔や声が脳裏をよぎる。

 幼い頃の情動がいくつか浮かんでくる。

 いやというほどの間違いが情緒に、身体に訴えかけてくる。

 生きるかぎり、間違いは増えていく。

 だけど、増えるのは間違いだけじゃない。間違いだけじゃないけれど。


『ママ』

『そばにいてよ』

『おいてかないで』

『ひとりぼっちにしないで』


 ぷちたちの声が浮かんでくる。私の声や、糸さんの声。教授やシュウさん、いろんな人の声が混じって、反響する。頭の中で、いくらでも。

 それが、私には、とても。




 つづく!

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