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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千九百十八話

 



 「なにを叶えたかったのか」、「なにが叶わなかったのか」。

 大好きなビッグバン・セオリーならどうだろう。レナードは「恋人がほしい」「セックスがしたい」、「いじめられない学生生活を過ごしたかった」「運動でみじめな体験をしたくなかった」「お母さんに愛してほしかった。研究対象としてじゃなく、息子として」。お隣に引っ越してきた「オタクに優しいギャル」ことペニーと出会い、ペニーに惹かれていく間も、なんなら念願が叶って付き合うようになってからも、しばしば「恋人がほしい」「セックスがしたい」だけだった。

 ペニーも割といろいろ抱えている。「彼氏がほしい」「自分好みでいてほしい」「セックスだってしたい」「浮気をしない彼氏がいい」「私をひとりにしないでほしい」。もっというと「理想のデート、理想のセックス、理想の関わりの実現」。でもって、レナードと付き合うようになってからは、この「」のいくつかを手放した。マッチョで頭の弱いタイプをやめた。いかにも「男らしい」タイプとの付き合いをすっぱりやめた。なぜって、そういうタイプは「浮気をする」し「自分を大事にしてくれない」。「ずっと自分だけを強く想っていてくれない」。あと、一応、女優志望で出演作品もあるけど、オーディション会場やオーディションの空気、人間関係、みんなの態度にうんざりしてやめた。

 ふたりから学べることがある。

 「叶わなかった」からって「叶えなきゃいけない」わけじゃない。

 やめること、諦めることも一手。

 目標を修正したり、改めたりするのも大事。

 じゃなきゃレナードは「セックスがしたい」だけでペニーと付き合い、ペニーのあれこれを我慢して受け入れたふりをする。そういう態度って、ペニーにとっては許しがたいものだ。

 自分の理想と付き合うのではない。自分とは異なる他者と付き合うのだからね。

 だけど、意外と視野狭窄に陥りやすいものだ。

 それもある意味、必然なのかもしれない。


「お昼たべるかー」


 立ち上がってキッチンへ。現世で買ってきた即席ラーメンか、はたまたパスタか。パスタだな。

 鍋を出して水を張り、火をつける。塩を大さじ一、投入。沸騰したら、折らずに入れる。四分でゆであがる麺だ。その間にフライパンを出して、火をつける。あたたまったらオリーブオイルを投入。冷凍庫にしまってある野菜の端材を入れて、塩コショウ適量とトマトケチャップ、そして沸騰して麺をゆでている鍋からお玉いっぱいの水を投入。水溶き片栗粉を入れてから、卵をひとつ割り入れて、ぐしゃぐしゃに混ぜる。

 ゆであがった麺は一度、ザルに出して湯を切ってから、フライパンへ。ようくかき混ぜたら、できあがり。お皿に盛りつけて、テーブルに戻る。お箸でもそもそ食べながら、テレビをぼんやり眺める。

 あんまり気が乗らないので、動画配信サービスに切り替えた。

 宝島で提供されている配信契約をしたら、天国や地獄で見られるように、過去未来の作品を視聴できる。ただし現世で言えない縛りは変わらない。おまけにちょいと高い。そもそも現世のサービスの契約をしてるしなあ。


「TSUTAYAとかGEOみたいに、陳列されてたら探しやすいのになあ」


 サムネイル表示と棚との乖離を感じながら、リモコン操作。

 山崎豊子原作で検索。白い巨塔はお母さんの蔵書で読んだことがある。華麗なる一族はドラマで見た。沈まぬ太陽は未見。だけど見たら一日が潰れるのは間違いない。大地の子もあったなあ。

 日本作品のページに戻ると新海誠作品がちらちら目に留まる。君の名は、よかったなあ。でもって、言の葉の庭も好きだ。お父さんは秒速5センチメートルに心を焼かれている。

 田舎は外に気軽に行けない。とりわけこども時代は。ここではない場所に行くのが途方もなくむずかしい。そもそも田舎じゃなくたって引っ越したら、もう、たいていはそこでお別れだ。友達にお金を貸したら縁を切ることになるのを覚悟しろっていうけど、それくらい重たい変化が待ち構えている。そして大概、別れたままになっていく。秒速もそういう話だ。

 仕事で会う人たちと話していたら「同じビル内でも現場が変わればそれっきり」なんて、よくあるそう。

 「ともだちにならなきゃ」って強迫観念にかられるタイプはまず無理で、「職場にともだちはいらない」のは真理だけどつながりが浅くなるぶん仕事関係も希薄になりがち。コミュニケーション能力の高い人が結局、重用されていく。なぜなら頼みやすいし、絡みやすいし、安心できるからという、「聞かなきゃよかった」と思うような残酷なことを教えてもらった。

 ともだち。それって露骨に「叶わなかった」「叶えたかった」ものかもしれない。

 恋愛もそうかな。だけど、恋愛と紛れがちなのがセックスだし、恋人ロールプレイだ。相手が大事なんじゃなくて、だから相手をおざなりにしていくくらい、セックス目当てだったり、恋人ロールプレイ目当てだったりする。

 最悪なのは「恋愛した」とか「ともだちがいる」「恋人がいる」のが目的になること。

 で、それを軸に「叶わなかった」「叶えたかった」にすると? もう目も当てられない。

 リゼロ、ちょこっとアニメで見たけどスバルくんがなかなか芯を食った目も当てられなさを表現してた。エミリアに「救ってやった」とかなんとか言って、自分の理想のために利用・消費させろ、従えよと迫っていた。やらかしてたねー!

 なんで、それがやばいのかってさ?

 「他者が自分をなんとかするべきで、自分ができないのは自分のせいではない」に依存を限定するから。

 学校ならさ? 生徒や家族からは「学校や教師が自分をなんとかするべきで、できないのは生徒のせいではない」。教師からは「生徒や家族が自分をなんとかするべきで、できないのは教師のせいではない」。

 かみ合わない! それじゃずっとかみ合わない!

 成否だ善悪だなんだはさておいて、これじゃずっと衝突するだけになる。

 私たちはついつい「こんなことになったのは全部あいつのせいだから、あいつがなんとかするべきで、自分のせいではない」なので「あいつが自分を救うべき」で、「自分はなにもしない」を押し通そうとする。

 実際に、そうなるくらいに打ちのめされる体験が、人生にはしばしば起きる。

 そういうときほど、主語を失っている。

 そして主語を自分に据えたうえで「叶わなかったこと」「叶えたかったこと」を直視できなくなっている。

 傷ついたからかもしれないし、苦しいからかもしれない。現実を直視することが、そのまま「叶わなかったこと」「叶えたかったこと」になり、それが耐え難い刺激となって、とても真に受けられない情緒的・身体的反応が生じるからかもしれない。損だからとか、恥だからとか、みっともないからとか、失敗したからとか、そういうことから目を背けたいのかもしれない。

 でも、主語を自分に据えたうえで「叶わなかったこと」「叶えたかったこと」を直視するところから始めないと、それが「答え・解決のないこと」なのか、「それでも付き合いたいこと」なのかもわからない。それを意識するからつらいのかどうかさえ、実はわからなくなっちゃう。なので、つらさや苦しみとどう付き合うのかさえ、まともに考えられなくなってしまう。

 だってさ?

 あんまりおなかがすいてるのに、熱が出ていて、意識はもうろう。すっごくうんちしたい。喉も乾いている。お風呂に入れてなくて頭がかゆい。銀行の残高が心配。学校か会社やすみすぎてやばい。病院に行けない。救急車よぶ元気もない。買い出しできない。ネットやる元気もない。冷蔵庫は空。食料なし。

 これが一度に襲いかかってきたら、軽くパニックになるじゃん。

 なにからどうするんだってなるじゃん?

 この比じゃないじゃん。実際にしんどいときって。

 要対処事項がやまほどある。それぞれ手がかかる。なのにどれもこれもが急かしてくる。

 無理じゃん。

 人間、一度にそんなにたくさんのことを同時に考えられないじゃん。最低でも元気がないと。削れるだけの余力がないと。

 ないのよ。痛くてつらいときは。余力が。元気も。意欲さえもないのよ。

 だから直視なんてできないんだ。なかなかね。

 ビッグバン・セオリーだと、交際、破局、交際の流れもある程度おちついたレナードとペニーのふたりが、日ごろ思っていたけど言えずにいたことを伝えるカードを贈るっていう回があった。こういうのはだいたいレナードの思いつき。そしてレナードは学歴マウント、知識マウント大好き男で、基本的に上から目線野郎なところがある。デリカシーもあんまりない。当然、ペニーのかちんとくることをカードで伝えた。

 となればケンカ上等、近所のガキ大将、下手な男よりもよっぽど強いし、言うべきことはためらずぶつけるペニーだ。これでもかとカウンターをお見舞いする。とりわけセックスがらみのネタで。

 基本的にケンカのネタにしかならないような試みで、まんまとケンカしまくるんだけど、最後はふわっと仲直りっていう、よくある回なんだけどさ?

 相手からのダメ出しって、まあああ! 直視しがたいよね。

 ペニーはこのカードの回で、レナードが自分に合わせてあれこれ追従していたのは、自分とセックスしたかっただけだと知らされる。そういう事実にしたって、直視しがたい。

 叶っていたと思っていたものの内訳は、自分が思うよりもずっと生々しくて、ときに醜悪だったり、欲望まみれだったりする。直視しがたい!

 でもさ?

 直視しようがしまいが、事実としてそこにあるものは、あるからね。

 だったら、どうしたいか、どうありたいかを前提に自分の選択と行動を繰り返していくほかにないよね。

 希望の話のようであり、諦観の話のようでもある。

 オープニングが好きなアニメ、漫画原作のブラックラグーンに出てくる双子のエピソード。世界の片隅にある極めて危ない地域に殴り込みをかけて、捕らえた男を拷問しぬいた双子はもちろん、やりすぎて殺された。主人公のロックは、こどものふたりが幸せに笑って暮らせる未来を幻視したけど「そうはならなかった」。

 ミッションインポッシブルで味方を失ったとか。ウマ娘で広まったことで競馬ファンじゃない人たちも知ることが増えていった、過去の競走馬の対応や状況とか。山崎豊子原作の話にも多いよなあ。

 せめてこれくらいは。せめて優しいだれかがいたら。こうはならなかったのに。

 でも「そうはならなかった」。そういうことが、人生には起こりえる。一度や二度なんてものじゃない。

 人によって、様々な形で。みんなそれぞれに抱えている。なのに比較してどうこう語れる性質のものではない。直視してどうこうしろなんて、だれにも強要できることじゃない。

 自分がどうするかは自分が決める。だれにも強要されることじゃない。だれかがどうするかは、そのだれかが決めることであって、主語を自分にすり替えることはできない。なので「他者が自分をなんとかするべきで、自分ができないのは自分のせいではない」、「自分はなにもしない」、「だれかがすべてをどうにかするべき」は現実的じゃない。

 そういう依存に限定して、自分を支えないと壊れてしまうような、そういう状況もあり得る。

 悪い悪いって言ったって、あり得る。

 あり得る以上は、そういう状態と付き合っていくほかにない。

 自分においても、他者においても。

 だって、そういうことが”ある”んだから。

 イ・ビョンホン主演の「悪魔を見た」じゃあ、まさに、そういう状態で加害に踏み切った男が出てくる。猟奇殺人鬼を演じるチェ・ミンシクの怪演がやばい。ギョンチョルっていう殺人鬼は女性相手、下はこどもだって見境なく襲う。誘拐するか、その場で殺害。遺体を回収して屍姦したり損壊したりする。

 そんな殺人鬼に妻を殺された国家情報院の捜査官スヒョンはギョンチョルを見つけ出して復讐を遂げようとするのだが、ギョンチョルも頭の回る男で手段を選ばず、抗い、逃げる傍らで関わる人を殺しながら挑発してくる。エスカレートする追走劇。情報院も放っておけずに介入して、スヒョンはさながら24のジャック・バウアーよろしく組織さえも敵に回しながら、復讐にますますのめりこんでいく。

 ギョンチョルはずっと直視を避けて、加害に逃げていた。それだけじゃなくて加害を楽しみ、他者を利用・消費して過ごしていた。そんなギョンチョルに婚約者を殺されて直視しきれず、彼女を殺された憎悪や憤怒、激情を募らせながら、スヒョンはエスカレートしていく。果たして、その復讐は成るのか。

 だれもふたりを止められず、スヒョンがギョンチョルにとって致命的な最期を与える。

 甚大な被害が出る。けれど、だれもふたりを止められなかった。

 悪い悪いって言ったって、起こりえる。

 そういう流れでいったら進撃の巨人も、大概だったよね。

 だれにも他者の選択と行動を取り上げることはできない。主語を奪うことはできない。だけど、そう感じさせること、傷つけることはできてしまえる。もちろん、それだけじゃないけどね。

 「叶わなかった」「叶えたかった」を、なにで、どうやって対処するか。

 そのとき選択肢に加害が浮かぶ人がいる。ここまでなら、実際は潜在的には多いのでは。かちんときて、こいつ! って思うことくらい、だれでもあるでしょ?

 でもって、実際に加害を選択して行動する人がいる。こうなると、話が変わってくる。

 ギョンチョルはまさに、その権化みたいな男だ。

 彼の人生の「叶わなかった」「叶えたかった」こと、そのストレスやショック、ダメージは「他者が自分をなんとかするべきで、自分ができないのは自分のせいではない」。そして彼にとって「女は好き放題するもの」。「セックスする」「死体をもてあそぶ」、そのための「もの」にしたい。それを実現しつづけている。

 包み隠さず言うと、イ・ビョンホンがきれいでしゅっとした役者さんだから見ていられた。だけど、そうじゃなかったら自信がないくらい、胸糞悪い作品だ。ギョンチョルが胸糞悪さの権化みたいな存在だから。その熱演ができるって、正直すごい。ギョンチョルが悪としてばっと印象強く立たなきゃ台無しな映画なんだから。

 そんな悪をどうにかしようとするほど、同じくらい悪に染まっていく。そういう人間の虚しさ、もろさ、弱さみたいなものも見て取れる。激情に染まって先鋭化するほど、二度と引き返せないくらい壊れていく人を描く、そんな作品だった。


「んー」


 小林さんちのメイドラゴン。夜は短し歩けよ乙女。賭けグルイに、宝石の国。エロマンガ先生もあった。ベルセルク、覆面系ノイズ。シンフォギアもやってたなー。NEW GAMEは相変わらずかわいかった。ゲームといえばFateの映画もあるんだったっけ。お父さんがすごいごにょごにょいってた。調べたらすっごくエッチなパートだそう。そりゃあ言えないよなあ。ああ、あとブレンド・Sとか、魔法使いの嫁とかいい感じだ。鬼灯の冷徹やラブライブもやってる。

 いろんな刺激がある。とりわけわかりやすいのは、かわいい、かっこいい。えっち!

 そういうのがないと見続けられない人もいる。意味とは別に刺激がいる人が。

 見方も人によってさまざまだ。

 そして、そうした刺激にどんな「叶わなかった」「叶えたい」を求めるのかも人によってさまざまだ。

 なにを求めるか、なにを感じるかはぶっちゃけ、人による。とことん、人による。

 だけど文化的な背景や、社会的な背景と断絶されるわけではない。それは無理。文化や社会と切り離すことは無理。そういう意味では、極めて政治的だ。どんな作品も、あらゆる表現も、それらから刺激を受けて反応を表現する私たちの言動も、みんなね。

 しかも、エコーチェンバーのように自分の声、自分の刺激、自分の反応からの表現と、その反響で、視野狭窄に陥りやすい。自分が身を置きたい側の主語ですべてを埋め尽くしたくなることさえある。ろくでもないときは、自分の主語だけを消してしまいたくなることだってある。

 ほんとはいろんな意見がわーっとあるのにね。

 おまけにその、いろんな意見を見ては「叶わなかった」「叶えたい」ことがわーっと浮かんでくる。

 つれぇよ。

 その刺激がまず、そもそも痛ぇよ。

 きついのよ。

 「そうはならなかった」ことと付き合うのがきついのよ。

 直視するのを避けても、感じるだけでつらいのよ。

 で、すっごい単純化した見方に陥る。

 レナードはペニーといるとき「セックスがしたい!」ばかりだったろうし、そういう時間のときにはいままで見たポルノをなぞることや、ポルノの文脈でペニーを見たり、声を聴いたりしては、消費・利用することで頭がいっぱいだったんじゃないかなー。

 ギョンチョルは、さらに殺人や損壊、遺棄が加わる。それらの工程に遊びや欲が重なる。そういう”もの”として、見かける女性を見ているし? 人として見ることができない。「セックスのためのもの」。これを俗に「認知のゆがみ」という。ポルノ、犯罪として、そのためのものとしてしか、女性を見ていない。よっぽど深刻だし、加害的だ。だからこそ連続猟奇殺人鬼にまでなっている。

 「叶わなかった」「叶えたい」ことを抱えて、苦しんでいるときほど、ゆがみが生じやすいのでは。だけどそれはだれもが成長・発達して抱えているものでもある。私たちが自分のゆがみを体感するのは、異なる文化や習慣に触れたときじゃないかな?

 ギョンチョルのなにがやばいって、見かける女性をセックスや殺人の相手として見ていること。おっぱい、腰、お尻。セックスの具合。感度はどうかとか、そういうポルノの文脈で見ているだろうし? 殺すうえで手間がかからないかとか、後始末するうえで面倒はないかとかいう犯罪の文脈で見ているだろう。

 実なレナードの抱えるゆがみの延長線上にギョンチョルがいる。

 ペニーがレナードの持ってるポルノの多くがアニメであることを暴く回がある。レナード自身は、シェルドンたちオタク仲間のなかでは女性に紳士的な言動を見せることはあっても、実際は自分の知識フィルター越しに世界を見ることから逃れられない。

 レナードは無意識に、自分のポルノの捉え方や文脈でペニーを見てしまう。セックスに対してもそう。ポルノの文脈で捉えてしまう。相手と一緒に行う行為であることが頭から抜け落ちやすく、ペニーによく聞いて、話せばいいことさえ「ポルノじゃなかった」だけで、選択肢から抜け落ちて、そもそも思考しようとさえしなくなる。考えるのは、ポルノの文脈だけになる、みたいなのが起こりえる。

 さすがに劇中でそこまで赤裸々に描かないけどさ。

 こういうのって、だれにでも起こりえることだ。

 「叶わなかった」「叶えたい」こと。それゆえのゆがみ。あるいは日ごろしていること、触れているものに閉じて生じるエコーチェンバーとしてのゆがみ。

 すっごく単純化した捉え方に陥る私たちが「そうはならなかった」事実を前にしたとき、その体験のさなかにいるとき、どうするか。

 人間の限界として、一度に多くのことを同時並行で考えられない。なのに視野狭窄に陥りやすい。よくいえば集中しているけど、言い換えればどんどん執着していっている。

 そういうことが”ある”うえで、どう付き合うのか。

 たやすくはない。

 いま食べている、どろどろぐちゃぐちゃのパスタよりももっとたくさんの、あらゆるものが同居して存在する。どうこう言っても行っても変わらない現実だ。なのに答えも解決もない、ただ”ある”だけのことを前提に生きるのが、どうにもむずかしい。

 だって「叶わなかった」「叶えたい」ことをほっとけないから。

 「そうはならなかった」ことが痛く深く刺さって残るから。

 こんな世界で生きる勇気や安らぎが欲しくなる。

 人によっては、それがうなるほどのお金や収益、表面的な数字だったりする。

 村正おじいちゃんが言ってたように、いい女を抱く! みたいな、刹那的なセックスの実行とか、あるいは付き合うっていう状態を持ち込む人もいる。

 それを加害でなんとかしようとする人もたくさんいる。

 そういう心理がだれのなかにもあって、私もまた、ついついそれを表現したくなるのだ。


「ふむ」


 ひとしきり食べ終えたので、金色を一粒だしてテレビのほうへと放つ。

 合わせて一年生の頃を思い出す。ラビ先輩につかまれて、おろちになったユリア先輩の蛇の頭に放り込まれたときのことを。

 その瞬間、金色は黒く染まり膨らんで、あっという間に一振りの刀となった。空中でぴたりと静止する。切っ先がこちらに向いているのが、いちいち仰々しい。

 ぶったおして済むなら、それが楽でいいじゃんね。

 それくらい、いつだって思うよね。いいように利用・消費されそうなときには、特にさ。

 だけどスヒョンにはなりたくないのだ。

 じゃあ、私はなにになりたいんだ?

 私の抱える「叶わなかった」「叶えたい」私って、いったいなんなんだ。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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