第二千九百十七話
寝起きにテレビをつけた。
地上波が映るの、もはやなんらかのバグのように感じる。
なぜに宝島で地上波が映るのか。
ぼんやりワイドショーを眺めながら振り返る。
姉の一人称問題。私もまあまあ、大概、いろいろ変えてきた。ぼく時代もあったっけ。あったあった。俺時代もあったなあ。大勢いるアイドルさんたちよろしく、一人称が自分の名前の時代もあった。いや、大勢と一緒に活動するんじゃなし、紛れないから。平凡でいいんだから。一人称は。
我に吾輩、で、余でしょ? ぜんぜんよゆー。
お姉ちゃんもいろんな体験を経ているのだろう。お屋敷で見た動画サイトで、かわいい配信者さんがいてさー。鬼の女の子の一人称が余だった。お姉ちゃんも地獄で見て影響されたのかもしれない。
こどもか!
いいじゃないか!
「んぁー」
喉ががらがらだ。だるい体で起き上がり、キッチンに移動。冷やしてある麦茶を出して、グラスに注ぐ。
軽く飲み干してからリビングに戻り、時間を確認。壁にかけた時計は午前十一時過ぎを示している。
テレビから聞こえる話題は昨今の治安悪化にまつわるもの、ではない。私や隔離世への偏見や偏向報道、でもない。なんでだか、今年に不祥事を起こした芸人さんの話題や、国会でずっと話題になっている学校敷地売却問題に戻っていた。
「うそでしょ」
関東事変で年内は持ち切りまであるでしょ。いつもなら。
どういうこった?
「ううん?」
気になってネットで調べられるかぎり、既存の新聞のサイトをチェック。あとは動画配信サイトのテレビ局の公式チャンネルを確認する。地上波と毛色がまるっとちがうことがあるからね。
比較対象がワイドショー限定じゃ、あまりにも頼りないけど、話題はほかにも盛りだくさんで地上波ほど一色染めみたいな印象がない。
最近、テレビは古いとか、見ないとか、そういう言説が広まっている。たぶん、いずれは新聞とかも含めて「古臭い」とか「信用できない」とかになる。そういうタイミングが来ちゃう気がする。
鵜呑みにできないところはあるけど、でも、既存のメディアがまるでだめっていう論調にただ乗るのは危ない。それでいったらむしろ、ネットのほうが信頼性は低いでしょ。さすがに。既存の枠組みから出ていった人たちがネット配信を始めたとして、じゃあいきなりそっちの信頼性が高くなるって道理もないよね。
重要なのは「なにを」「どうやって」「どのようにして」伝えるかじゃない? 「いつ」「どこで」さ。どれくらいの確認を踏まえながらさ?
そういうの知らないまま、なんで一方的に、雑になに目線であれこれ言っちゃうんだろ。
なにを重ねて見てるんだろね?
いったいどうしてそんなに不満をぶつけてるんだろね。
なぞだ。
「ううん」
関東事変について警察の捜査情報に触れているものもちゃんとある。
メインストリームに乗っかっていないだけ? それはそれで疑問符が浮かぶ。ただ、動画サイトの公式チャンネルなら、夜のニュース番組にて関東事変に触れている内容もちゃんとある。
海外メディアはどうか。こういうとき気になるのは私の場合「BBC」が多い。「The New York Times」や「Washington Post」はたまに。極東の島国について触れることはそうそうない。代わりになにかが起きたらちゃんと報道してる。切り口が日本のものと異なることがあり、刺激的。ちなみにワシントンタイムズはまったくの別物なので要注意。
切り口がちがって重要という意味では赤旗もすごい。でもって赤旗のネットニュースを見かけるようになると、今度は新聞各社のスタンスのちがいも見えてくる。そういうのも刺激的で面白い。
一方で「どこの新聞のみが真」みたいな捉え方をするようになったら? そうとう危ない。これは「既存メディアが」「ネットが」でも言えることだ。
そもそも報道とは、という話がある。前に触れたけど、ジャーナリズムの鉄則があるのだ。
BILL KOVACH & TOM ROSENSTIEL「THE ELEMENTS OF JOURNALISM」より十か条を引用する。
『Journalism's first obligation is to the truth』
『Its first loyalty is to citizens』
『Its essence is a discipline of verification』
『Its practitioners must maintain an independence from those they cover』
『It must serve as a monitor of power』
『It must provide a forum for public criticism and compromise』
『It must strive to make the significant interesting and relevant』
『It must present the news in a way that is comprehensive and proportional』
『Its practitioners have an obligation to exercise their personal conscience』
『Citizens have rights and responsibilitiers when it comes to the news as well - even more so as they become producers and editors themselves』
ジャーナリズムに携わる際に大学などで必須で学ぶ。そのなかで触れる十か条だそう。
日本では? 学ぶ機会がない。少なくとも、大学では。
訳書は出ている。新潮社より、澤康臣訳では、次のように翻訳されている。
『ジャーナリズムの第一の責務は真実である』
『ジャーナリズムの第一の忠誠は、市民に対するものである』
『ジャーナリズムの本質は、事実確認の規律にある』
『ジャーナリズムの仕事をする者は、取材対象から独立を保たなければならない』
『ジャーナリズムは、力ある者の監視役を務めなければならない』
『ジャーナリズムは、人々が批判と歩み寄りとを行う議論の場を提供しなければならない』
『ジャーナリズムは重要なことを面白く、かつ、自分につながる問題にするよう努めなくてはならない』
『ジャーナリズムはニュースにおいて、全体像を配分良く伝えなければならない』
『ジャーナリズムの仕事をする者には、個人としての良心を貫く義務がある』
『市民もまた、ニュースに関して権利と責任がある。彼ら自身がプロデューサーや編集者になる時代には、なおさらである』
私は個人的に七つ目の翻訳を批判的にみている。
前にも言ったけどね。
「重要なことを面白く」ではなく「重要なことを興味深く」としたい。「ジャーナリズムは、重要なことを興味深く、(人々に)関連性のあるものにするよう努めなくてはならない」と。
なぜかってさ。
大辞林から引用しよう。
面白いとは、なに? 「楽しい。愉快だ」「興味をそそる。興味深い」「こっけいだ。おかしい」「心にかなう。好ましい。望ましい」「景色などが明るく広々とした感じで、気分がはればれとするようだ。明るく目が覚めるようだ」「心をひかれる。趣が深い。風流だ」。
興味深いはどうか。
まず興味から。「物事に心がひかれおもしろいと感じること。おもしろみ。おもむき」「ある対象に対して特別の関心・注意を向ける心的傾向」。
そして興味深いになると? 「大変おもしろく心がひかれる。関心がもたれる。興味が深い」となる。
どちらにも、そのニュアンスに楽しいや愉快、こっけい、好ましいや望ましいが含まれる。このなかで特に注意を向けるべきなのは「好ましい」や「望ましい」だ。
事実はしばしば「好ましくも望ましくもない」。そのニュアンスが含まれる以上、面白いは妥当じゃない。まあ、それを言ったら興味は面白さを含んでいるからどうなんだって話があるけどね。面白いを直で見るよりも、興味深いのほうが、もうちょっとお堅い。でしょ?
晴れやかになるともかぎらない。事実はしばしばそう。
でね?
馬鹿にする人はとことん馬鹿にしがちな新聞やテレビだけど、言っても勉強熱心な人やまじめな人が多く入社してると思うわけ。言うに及ばず、その人が大学でジャーナリズムについて学ぶ機会がなかったからって、その後もずっと学んでないとはかぎらない。
ただ、その人がアナウンサーだったとして、アナウンサーひとりで番組が成り立つわけでもない。
番組に関わるみんなの力がいる。
逆にいえば、番組ごとのチームが「どこを向いているか」でもある。
もっと言っちゃうとチームだけで成り立つものでもない。
それって、ううん。すっごく政治的!
話しちゃいけない三大話題のひとつ、政治。ほんとに話さないほうがいいの?
どうかなあ。私はそうは思わないなあ。
一方で! そういう話が出る経緯とか、利用・消費される経緯とかもあるよね。きっと。
「そっか」
私たちはなにかを依拠する。
あるいはこれまで抱えてきたものを重ねて、接続し、依存しはじめる。
とりわけ「叶わなかった事実」は強く影響する。
メディアをあれこれ責める人は、メディアに「政治的なこと」、政治は万事に接続しているから日常の不満からなにから、ぜんぶを重ねて「メディアがちゃんとしてくれないからー!」ってなってるのかもしれない。自分の「叶わなかった事実」、その累積や蓄積をつなげて、いらいらをぶつけているのかもしれない。
そんな無茶な、である。
メディアが担う役割は、十か条を振り返ればあまりにも大きくて重たい。
だけど「メディア”だけ”がやる」ものじゃない。ネットとスマホの普及、SNSや各投稿サイトの拡大に伴い「私たちのだれもがやる」ものになって久しい。
それに権利と責任は発信側だけにあるんじゃない。受け手側の権利と責任を透明化するものでもない。
ちゃんといえー! とか、なんでこれを報じないんだー! とか、批判していいし、むしろするべきだ。
一方で批判は中傷ではない。中傷すべきではない。
このあたりは、大前提。
大前提なんだけど、批判と中傷の区別がなかったり、むしろ意図して中傷する人も出てくる。
相手がどうだかわからないし、自分が相手にとってどうだかもわからない。関係性に問題が生じるのみならず、それが仕事の席だと悲惨なことになりかねない。だからすべきじゃないっていう扱いになるのもあるかも。
ひとつの事象に対して、ほんとにとことん、見え方がちがう。
で、それよりもいま私を強く揺さぶるのは「叶わなかった事実」だ。
それは事実の列挙としてのみ認識されるのではない。感覚として、刺激に対する反応として認識されることもある。
「出来事のひとつひとつが、いちいちそう認識されたら、どうだろ」
もっともひどい例で言うなら?
ううん。
タイトルに「寝取られ」が入っている状態で始まる、幼馴染み同士のうぶな告白シーンみたいな?
ひどい! ろくでもない! 絶対どっちかが相手を寝取られるって前提で見ると「その恋、叶いませんから!」ってなる!
もうちょっとマシな例えはないものか。
あ!
タイトルに「犯人はこいつです」って示されてる状態で読む、それがすこしもギミックになっていないふっつーの推理小説みたいな?
推理させろよぉ! 最悪のネタバレをタイトルでするなよぉ! なんにも活かされてないのかよぉ! みたいな!
読んでも読んでもつらい。いったいなにを見ているんだってなる。
そう考えたら、あれじゃない?
タイムスリップはできるんだけど、過去の事象は絶対に変わらない系のSFものなんかだとさ? タイムスリップした人は、なにをやっても「叶わない事実」前提で物事に触れるわけじゃない?
つらいよね。
愛する人の命を取り戻す、とか。言えなかったことを伝える、とか。決死の思いでタイムスリップするのに、絶対に叶わないの。
シュタインズゲートの失敗例みたいだ。「失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した」って具合に。
あれって考えようによっては漂流状態。
漂流といえば「白鯨との闘い」。捕鯨に成功、鯨油を採取していたら連れ合いを殺されて激昂した白鯨に襲われて漂流する羽目に。エセックス号の生き残った船員たちが流れ着いた無人島から、ふたつのボートで帰還を目指す。だけど潮に流されることしかできず、食料も水もない。元気なうちに「くじ引きで当たった者を殺して食肉に加工して、飢えをしのぐ」ことに。それもできないくらいに衰弱するまで、何日、数週間が経過。意識も朦朧としている頃に、幸いなことに発見されて命をつなぐ。
けれどたぶん、元気になるまでの間は確実に、生き延びたあともずっと「叶わなかった事実」、「選択・行動してしまった事実」がのしかかっていたろう。
白鯨をモチーフにした映画で、生き延びた船員に作家が話を聞くという筋書きなんだけどね。まさにボートで生き延びた人は、生き延びるためとはいえ、かつて仲間だった人を”食べた”ことに苦しみつづけていた。それを書くかどうかは、作家次第。さあどうするか。作家は答えていたように思うけど、どうだったろう。
「私たちが感じ取るもの」
元気なとき、安静なときは紐づけない。関連づけない。
だけど世界は残酷で、冷徹で、冷酷だ。不公平で、不平等で、不公正だ。
だれかを搾取して成立する産業に私たちはきゃっきゃと喜ぶ側面がある。
なかには、そのありようを「知らなきゃよかった」「そしたら楽しめたのに」と、ぞっとするようなことを言う人さえいる。「奴隷も人間だったなんて」「それじゃあ奴隷を使いにくいじゃないか」と言うのと、構造的には差がない。
それくらい、人生には切り離せない、つながってしまうものが膨大にある。
だれの人生においてもね。
私たちは膨大なものに依存している。その中には醜悪極まることも含まれている。
まっさら、まっしろ、中立? そんなものはない。そう感じたい心理があるだけ。
でも、そういうことに耐えられないし、耐えたくない心理もあるわけ。
そこまで掘り下げてしまうと、今度はあらゆる人に重ねて見る。無関心を。冷静に考えたら、いつでもどこでも通りすがる人から、関わっている人まで全員に関心を持って生きるなんて、まず無理なのにね。
だから答えも解決も基本的には、たどりつけない。熱意をもっても、そもそも無理なことがあるっていうのにさ? なんでもかんでもなんて、無理!
でも、その無理は、だれかを踏みにじることにつながっている。
拡大解釈気味ではあるけれど。
その気まずさや息苦しさって、生きる以上は知り合うもの、関わるほかにないものだ。
でもって、こういうのも?
人による!
その人の考え方次第で、その人の付き合い方が変わる。
なんといっても、自分自身、奴隷側である。ビリオネアじゃなし。資本主義をどうこうする力もない。乗りこなせる状態でもない。なによりも、死ぬまでずっとそのままでいられるほどのあふれんばかりの資本がない。使われる側、利用される側、消費される側であって、その逆ではない。
あえて言うなら雇用における使用者は事務所だし? 国と民では国が批判の矛先だ。その逆ではない。
だっていうのに、私たちの側でさえ、だれかを踏みにじる。さらに弱い者ほど狙われる。
あるいはその責務を自らが選んだ特定の対象に限定して、限定された依存の履行を求め、救えとすがる。
会社が社員に。元請けが下請けに。国が民に。親が子に。加害者が被害者に。
不幸なのは、救済を受ける立場に自らを置き、すべての救済を他者に強要するケースだ。
製造開発者たちは、私に八尾を注いだあいつを第二のミコさんにする、あらゆる実験を通じて、人権を蹂躙し、強要した。自らが求める目的の達成のために。平塚さんや仲間たち、社長たちも被害者だ。
だけどね?
平塚さんやあいつもまた、製造開発者たちに、同じことをしてしまう。
権利があるとか、善悪とか、そういう話はいったんさておいて! 製造開発者たちに、その能力は恐らくない。意欲もないだろう。すると、どうなる? 製造開発者たちのふるまいのひとつひとつが、あいつや平塚さんたち、社長たちにとって「叶わなかった事実」を突きつけるものになる。
フランクルが記した「夜と霧」におけるナチの虐殺や虐待は、収容された人々に日々、「叶わなかった事実」を、「起きてしまった事実」を突きつけたろう。あらゆる暴力や無関心の表現によって、これまでのストレスやショック、ダメージを、いちいち累積しながら、体感させたろう。
そんなの、人に耐えられるものじゃない。
実際に「夜と霧」で記された人々の中に、どんどん耐えられずに亡くなっていく人の描写がある。
ベッセルの著書では、トラウマ、心的外傷によるストレス障害が収容所を生存した人々をどれほど苦しめたのかについての記述もある。
命はあっても、耐えられていない。生きるどころでなくなる人が大勢出た。
「叶わなかった事実」も、「起きてしまった事実」も、私たちにとっては致命的なのだ。
だけど、生きていると、あらゆる人が直面するものだ。
付き合わざるを得ないものである。
当然だ。
すべてが叶い、起きることはすべて自分にとって都合がいいなんて、あり得ないからね。
なにせまず、自分はもちろんのこと、膨大にいる他者が思いどおりにならないからさ?
生まれる時代も場所も、家庭も選べないし。時代によっては政府を選ぶこともできない。
でもなー。
私たちって正直、「叶わなかった事実」も、「起きてしまった事実」も、どちらも付き合いたくないし、付き合うのが下手じゃないかな? それらは負荷を伴いすぎないかな?
幼い頃は、ぷちたちが私に求めるように養育者に求める。依存労働としても、求める。だけど養育者が応じてくれるとはかぎらない。心理学が発達においてとらえた理想的な経路を経ることのできる人ばかりじゃない。虐待や養育放棄、ことによっては強姦する親さえいる。妊娠・出産を繰り返させる親さえいる。
やがて働きだしたときには、どうか。もう養育者はいない。だけど、養育者に求めるような勢いで、社会学や経済学などの用語を用いながらも、自分に都合のいい養育者的な存在を求めている人は多い。ビジネス本や自己啓発本の帯に顔が乗るような人たちさえ、そういう人を強く求める形で、上から目線のなにさま目線で強い言葉を口の悪い形で表現することを続けているくらいだ。
いつでもどうにかしてくれるパパやママがほしい。
その代わりになるような、すっごいチートがいる。
それがどんなにこどもじみたことか、わかってはいるけど、言葉や表現を変えて、世界にいろんな形で存在しているのも事実だ。
ずるいって思うのも、わかる。
でも、そういうことだけじゃない。
そういうものだけで世界が満ち溢れているわけでもない。
自分なりに「叶わなかった事実」や「起きてしまった事実」と付き合っている人もたくさんいる。それがたとえば、お酒の力を借りていたり、自分へのご褒美をあげてごまかしているのだとしても。病的なところを自認が普通な人さえ持っているのが常態化した社会においても。ぼちぼち、ね。
でもなー。
耐えられなかった人だっていっぱいいるんだ。
あいつも、平塚さんたちも、そういう状態なんじゃないかな。糸さんも、たぶんそう。
どんなに無慈悲な人生であっても、いや、どうにもできなかったことが増える人生ならばこそ、私たちは「どう生きたいか」、「どんな人生や社会を望むのか」を自分で選び、行動によって表現するところに立ち返るのが望ましい。
それがフランクルの哲学だと私は考える。
どれほど「叶わなかった事実」や「起きてしまった事実」が辛辣であっても、私たちから主語を奪う力はない。私たちが自ら選び、行うことを制限し、禁じる力はない。飲み込まれてしまうこともあるだろうけど、どうか、自分を取り戻していきたい。何度だって。
私はどうしたいのか。
「叶わなかった事実」も、「起きてしまった事実」も、それを受けて、なにを望み、願うのか。
答えや解決があるんじゃない。だから残念かもしれないけど、叶わなかったことを、自分の願い百パーセント、そっくりそのまま叶えるっていうのは、まず、むずかしい。不可能なことも多いだろう。
だけど、そこに執着するほど自分を苦しめてしまう。だからどうか、手放すことを許してほしい。
意欲と能力のない者にすがることをやめることを、許してほしい。
むしろ意欲をもって選択、行動する加害者にすがるのをやめることを、許してほしい。
自分に、許してほしい。
「無理かなあ」
他者がどうするかは、常に、他者が決めることだ。
私に代わることはできないし、強要するべきことでもない。
でも、だからこそ、なのかな。
刀を持ち、鉄火場に割って入り、窮地を防ぐ。トムホのスパイディーがやってたように。
そうしてジャーナリズムの十か条のように真実をもとに、議論するし? 必要な安心や安全の確保を具体的に行う。
強要はなし。この条件を付与するだけで、いかに現実が過酷で困難かを思い知る。
基本は結局「よく聞け」「よく話せ」そして「よく聞け」なんだ。
戦闘が起きても、どんなに卑劣な手を打たれても、刀や術と、この身で、みんなに「救いではなく助け」を求めながら挑みつづけるんだ。
しんどいぞぉ?
でも、ひとつ見えたぞ?
いったいなにを抱えて、そんなに苦しんでるのか。
私にできることはないか。
矛先を私に変えて、切っ先を私にずらして、まずはぶつけてみませんか?
その刀を下ろすまで付き合うよ。
そう提案する道筋に必要なものが見えたぞ。
なにを叶えたかったの? なにが叶わなかったの?
その主語は、あなた。
だれかがああしたこうした、どう言ったじゃなくて。
そういう話はあとにして。
まず、主語はあなたの「なにを叶えたかったのか」、「なにが叶わなかったのか」を知りたいよ。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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