第二千九百十五話
困ったよ?
欲望といわれてもって話だよ!
大辞林いわく「ほしいと思う心。不足を満たそうと強く求める気持ち」だ。
つまり不足が欲望の源だし? 欲する気持ちが重要だ。
じゃあ、どんな不足がある? 満たしたい不足ってなに?
私はいったい、なにが欲しい?
「身長?」
たぶんそういうことじゃない。
普通、伸びない。十代半ばでこれからさらに身長が伸びることはない。
残念でした!
「くっ」
地獄の街を目指しながら金色雲で移動する。
そのさなかにぼんやりと思案する。
私の欲って、なんじゃろな?
「ううん」
ないものねだりでもいい。それを手に入れるのはアウトだろっていうものでも、ひとまず勘定に入れる。ブレインストーミング方式で。
「卒業するまで戦闘に巻き込まれる的な意味でなにごともない学生生活?」
ないものねだりぃ!
「突然、襲撃されたり闘争に引っ張り込まれない人生?」
ないものぉ!
「全員をぶっ飛ばして黙らせて従わせる力?」
アウトぉ!
「負けないこと」
ないものかなあ。これも。
「なにも投げ出さずに済むこと」
やりたくなることたくさんあるから、これはむずかしい。
「逃げ出さずに済むこと」
制限したら危ない。「逃げ出す」選択肢は残したほうがいい。
「信じぬくこと!」
これも盲目になりかねないので、むしろ信じられないときはちゃんと自覚できるほうがいい。
いやいや。トシさんの行きつけのお店でマスターが熱唱する歌か。大事MANブラザーズバンドの「それが大事」か。
視野が狭まった状態で意固地になっちゃうのは、危ない。
そうじゃなくて、大事にしたいことがあって、そのために柔軟に対応できるなら、いいんじゃない? って話だよね。いけないいけない。
「ううん」
私が自分でツッコミ入れたり、ダメだししちゃうから、欲望を勘定できないんだなあ。
下手っぴだ。おじいちゃんの言うとおり。慣れてないなあ。
ダメ出し前提になるから、そもそも議題にならないんだよ。よくないね?
「おじいちゃんのは、なあ」
教えてくれたやつがどれもこれも私の勘定じゃアウトになるものばかりだ。
だけど、世の中に流されているだけじゃあ、ありませんか? みたいなツッコミは成り立つ。
合意形成とか調整とか、いろいろ含めてできることってなんだろなっていう、ね。
そのへんほんとにむずかしくて追いつかないことだらけだ。
教授の一件もあって、どうすればいいのかわからないことまみれなんだよな。
「どうしたらいいのか、わかりたいな」
でもなー。
だれかとのことはさ。だれかと話し合って探りあっていきゃいいじゃんね?
カナタとそのへん、なんとかやってる、けど。じゃあ、できてるの? みたいな不安もある。
たぶん、ばちっとした答えや解決のないもので、あとから振り返って調整していくことさえあるのでは。
やるせないねえ。
揺れるねえ。
不安定だねえ?
だから、これもあんまし、叶うものじゃないねえ。
どっちかといえば?
「このぐらぐらでも、やっていけるようになりたいな」
そっちかな。むしろ。
これは叶えたい欲望かな!
まあ、抽象的だけど。とびきり抽象的で、さっぱりわかんないけど。
これは勘定しといていいものじゃないかな。
「ほんとはいっぱいあるはずだよなあ」
デートしたい。遊びたい。楽しいことしたい。
キラリに靴を選んでもらいたいし、キラリにメイクとか髪のセットとか教えてもらいたい。やってもらいたいまである。
そこからあれこれ浮かんでくる。
我慢しているだけで、本当はたくさん、欲望がある。
あいつがきらいとか、こういうの無理とか、そういうのもやまほど浮かんでくる。
ほんとはもっと素直に考えていいのに。たしかに私は下手だ。
家族相手にも言えてないこと、やまほどあるし? カナタ相手に言えないこともいっぱいあるし。キラリやトモにも言えないことだって、やまほどあるし。ぷちたち相手でもそう。
なにをひけめに感じているんだか、と。いまなら浮かぶけど、ね。うちは以前、ほんとにぎりぎりだった。いまのおうちにきて、トウヤが生まれて、お父さんとお母さんがすこしずつ家にいる時間が増えていって。ふわふわしていた私がすこしずつ、落ち着いていって。
いつになってから、かな。思い出せないけど。家族四人で話せる状態になるまで、まあまあ時間がかかった。親戚の葛葉さんちがふたりのこどもを連れてやってきて、結局こども四人で過ごすみたいなことも、まあまああったしなあ。
ぎりぎりだった。
いろいろあるもんだよね。人生。
カナタから聞く緋迎さんちの事情もなかなかだけど、うちになにもないってわけじゃなし。
みんないろいろ抱えて生きてるよねえ。
だからかなー。
あれしたい、これしたいっていう自分の欲望に素直なの、良し悪しはさておいて、いいなーって思う。それができるのって、得だよ。
私よりも悲惨で残酷な理由で無理な人、憎んじゃう人もいるくらいには、得じゃないかな。
ぼんやりしていたら、不意に落下するような感覚に陥った。金色雲の中に落ちていく。そして、だれかにひょいっと抱き寄せられた。
「おかえりなさい」
アマテラスさまだ! 天国に呼び寄せられたんだ。
晩御飯はもう済んでいた。私の用事をおイヌさまたちから聞いて察して、待っていたみたいだ。
「もしかしてみてました?」
「テレビでね」
テレビで。遠見。なんか、ありがたみが。
お父さんのビデオライブラリに見る、昔むかしの魔法少女ものとか、特撮の監視のやり方みたいな。
「私のあげた修行用道具で、いろんな人の欲望に触れてきたんじゃない?」
「あ! そういえば!」
「忘れてたの? まったくもう」
おでこをてのひらで、ぺちんと当てられる。
参るぅ!
「今日は遅いから、ゲームはほどほどにね?」
私を座布団に下ろして、アマテラスさまは早々に帰っていった。
おイヌさまたちも、もうみんな帰っている。
だからもう、気づけばひとりぼっち。あとは眠れば、現世の朝に戻る。
でも、もうゲームをやるより考えごとに意識が向く。
飴玉修行で追体験した、いろんな人たちの人生は、正直、順風満帆なものなんかひとつもなかった。
物語ほど整理されてない。私たちは読んで、視聴して、”意味”を感じ取る。まず、なにより”意味”から入る。逆にいえば、私たちは”意味のないこと”に耐性がない。苦手な人のほうが多いまであるんじゃないかな?
でもなー。
それはフィクションの話でさ。
私たちは人生で”意味”が先だって生きてるわけじゃないからさ?
飴玉修行で追体験したみんなの人生は、まず、あって。遅れて”意味”がくるわけでもなくてさ。
私たちがただ、見て、聞いて、考えたり感じたりするもののなかに、意味づけがあるだけだ。でもって、そういう意味づけと、その共有をするという文化があるから、コミュニケーションが取れたり、争ったりする。仲たがいしたりね。
早い話がね?
意味だけで構成されてないんだよね。
でも、現実に私たちがそうであるように、意味を求めちゃうし、与えちゃうんだ。人生の体験に。過去に。考えたことや、感じたことに。みたこと、聞いたことに。だれかに。自分に。
多くの人が、そうだった。
元気なうちにやるのと、本当にもう首が回らないくらい不幸な状態でやるのとだと、また変わってくる。
生きるのに精いっぱいなときの首の回らなさはまた、意味合いが変わってくるしなあ。
「そっか」
自由になりたい、というのも。
冴えない武家の末っ子の、家に役立てる立場とは遠くかけ離れた人生で思う欲望と。男に身売りする夜を毎晩過ごして病を恐れながら、ひたすら過ごすなかで思う欲望と。まるでちがう。だけど、それぞれに切実だ。比較するものでもない。
飢饉のなかで、まだ五歳になったかどうかくらいのときに人買いに売られた子の「どうして一緒じゃだめなんだろう」という、不満という言葉じゃ足りないくらい、底なしのどろどろしたつらさと苦しさのごった煮からなるものは。そこから生じる欲望は。
足しげく通い熱心に口説かれて「嘘でも抱かれりゃ気持ちいい」と思いながら、どこかでこの人とならと期待する。なのによその店の子にかすめ取られた、とか。金ほしさに馬鹿な盗みを働いて罰を与えられて殺された、とか。そういうことが続くたびに心がこそげ落ちていく、その底なしの不満は。そこから生じる欲望は。
一言じゃ語れないものが、いっぱいある。
私はもう、それを知っているんだ。
「ううん?」
飴玉を入れた化粧箱を棚から取り出して、ふたを開ける。
色とりどりの飴玉が並ぶ。それぞれに語りつくせない、意味に加工されていない欲望がある。不満が。願いが。それだけじゃ捉えきれない情動も、感覚も、やまほど凝縮されている。
「ううん」
いまの価値観なら。
あるいは、いまの倫理観や学識なら。私の知るかぎりなら?
それこそ議題にあげるまえに、台無しにしちゃいかねないものもやまほどある。
正論でぶった切って済ませてしまいそうなものまで。
だけど、そんなの欲望の足しになんてなりゃしない。
抱いたものを、まずは抱いたままに真に受ける。じゃないと扱えない。そういうものだ。
印象に残っているのは、さっきも例にした、売られて花街で男に身を買われる人生でさ。居場所を欲していた。帰る場所。安らぎ。もう売り買いなんかに関わらないでいられること。ただ、生きているだけでいいことを。
そんなの”商品”には求められない。”女”には。”もの”には。
そういう罵声や見下しも、偏見も、やまほどあるなかで。うんざりして。自由を、解放を欲する。
ばかだといわれることも多い。だけど、自分をそう罵った人さえ梅毒が進行して苦しんでいったり、あるいは見受け寸前に男が逃げて心が壊れてしまったりする姿を見ていくと、どうすればいいのかわからなくなっていく。男など、と。そう思っても、切り離せない人生で、境遇で、環境で、いったいなにができるのか。懊悩しつづけた。
そう。
欲望は答えや解決とは、まず無縁に”ある”んだ。
正しいかどうかとは、まず無縁に”ある”んだよね。
だから欲望は実現するか、選び行うかどうかと、まず無縁に”ある”し?
やらないこと、手放すことだってたくさんある。
そうして欲望と付き合っていくんだ。
逆にいえば、欲望と付き合うなら、まず答えや解決、正しいかどうか、実現するか、選び行うかどうかと切り離して、認識することから始まる。
まず”ある”欲望をちゃんと認めるところから、話が始まるんだ。
言い換えるとね?
議題にあげる前に却下する癖をつければつけるほど、始まらない話が増えていく。
それは困るぅ!
どんどん下手になっちゃうよ。
「なんだろな」
私はどうしたいんだろ。
自分のことなのに。ありふれたことでもいいのに。さっきだっていろいろ思い浮かべられたはずなのに。
なんでか、途方に暮れてしまう。いっそ答えを教えてほしいくらいだ。だけど、ずれてる。欲望を、答えとは無縁に、まずあるものを見つけるっていってんのに。
価値がなきゃだめとか、結果に結びつかなきゃ無駄とか、そういう邪魔なものがいっぱいある。
まず”ある”ものを見つけるって段階で邪魔になるものは、いったんよけてしまいたい。
なのに、私は私が思うよりも不自由にしたがっている。
あとは、実際のところ、いつでも当たり前に生じるものじゃないとも思う。
「不足を感じたら。ほしいと思ったら」
世界を歩いて。だれかと会って。なにかをしてみて。
そうして芽生えていくものなんじゃないかな?
キラリにつながる欲は、キラリに出会って、ふたりでいるから生じていくものだ。それがどういう欲望であろうとも。ほかのだれが相手でもそう。
つまるところ?
「ここでこうしててもしょうがないか」
刀の素振りをして不満に出会うから、もっと素振りをどうこうしたいっていう欲につながる。
下手だなあ、うまくなりたいなあ、とか。巧拙じゃなくて、これで自分を知りたいなあ、とか。
もっと山にのぼりたい、あちこち走ってみたいとかさ?
行動から芽生えていくものなんじゃないかな。
もちろん行動すれば必ず欲望が生じるとか、それがずっと持続するとかってことでもない。
自分でもびっくりするほど、粘土遊びが下手だった。できれば、もうちょいまともにならないかって思ったけどさ? じゃあ、その欲望が「毎日、粘土あそびの練習をする」そして「下手っぴな出来栄えと付き合っていく」ほどの熱量か、ないし、足りない熱量を補おうとするほどかっていうと? 案外、そうでもないかもしれない。
仮に熱量をそのままカロリーと言い直すなら、そのカロリーはすぐに消費されてなくなっちゃうくらいのものかもしれないし? 箱根で会った彫刻家や、彼をよく訪ねる女性のように、日々の営みとして持続するほどかもしれない。
私たちがごはんで摂取するように、なにか補うものがあるのかもしれないしさ。
そこんところはわかんないけど!
行動して、”ある”欲望に出会っていくんじゃない?
だとしたら、忙殺されてる状態だと、それどころじゃなくなったり、気づける欲望がかなり限られたものになっちゃいそうだね!
決まったことだけ消化していくような過ごし方だと、気づける欲望も偏ってしまいそうだ。
ままならないんだなあ。欲望とお付き合いするために、まず出会う時点で。
そこまでわかったなら、いっか! そろそろ寝たくなってきたよ。
こういう欲望なら、すぐに気づけるんだけど。
つづく!
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