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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千九百十二話

 



 手を動かす。これまで記録した霊子を注いで、それぞれに委ねてみる。暴れるもの。ハンドサインを見せるもの。とにかく指を折り曲げては伸ばしてを繰り返すだけのもの。なにかを訴えてくれたらと思ったけれど、無理そうだ。

 その理由をついつい、霊子に巻き取らせたくなる。

 だけど本質はちがう。私の術である。記録元が主語じゃない。主語は、私にある。私なのである。

 いくら霊子に主語を巻き取らせようとしても、まず無理だ。

 親戚のおじさんたちがひどい。「うちの嫁がさあ。飯がまずくてえ」とか「うちの嫁はさあ。こどもの愚痴ばかり言ってきてさあ」とか「うちの嫁なんか、食器をしょっちゅう割るの」とか。ずーっと、そういう話をするわけ。

 いつもお世話になっている親戚のお姉ちゃんの堪忍袋の緒が切れた。「で? そのとき、なにしてんの」と尋ねた。飯がまずがる男は家事を一切しないし、そもそもできない。こどもの愚痴ばかりという男は育児をぜんぶ妻に丸投げ。食器を割るとかいう男は配膳も片付けも皿洗いもなにもしたことがない。だからお姉ちゃんは言った。「なにもしないで文句だけ言って。生意気を言うんじゃないよ」と。

 ちなみにお姉ちゃんは青澄のなかでも屈指の実力者である。ただし隔離世がらみの、じゃない。資産管理から法律関連まで精通している。財産分与など、ながぁいながぁい家系でもめがちな一族で、日ごろのもめごとからなにから法律相談を引き受けている人だ。

 だから、おじさんたちも頭が上がらない。ただ、お姉ちゃんはあまりやりたがらない。なぜって? おじさんたちを叱る、その役割をお姉ちゃんに巻き取らせようとしはじめるからだ。おばちゃんたちが! 弁護士ならいいでしょ、とか。お世話してあげたじゃないの、とか。あの手この手でおじさんたちのお世話係をお姉ちゃんに巻き取らせようとする。それがもう、本当にいやでいやでたまらないんだろうね。滅多なことでは、お姉ちゃんも口を出さないようにしている。

 みんな、なにかしら巻き取らせたがる。

 他を責める他責なんていうけどさ。その目的のなかには「あいつにぜんぶやらせよう」という意図が含まれていることがある。褒め殺しとか、みんなでおだてるとか。逆にみんなで責めるときもそう。

 なにかと巻き取らせたい。

 主語を自分から、他者にすり替えたい。

 その問題を、ぜんぶ、他者のものにしたい。

 それって、問題解決からずれてるよね。自分がなにをどうしたいかって話も絡まない。

 とにかく主語を、だれかに押し付けたい! そして「あいつが悪い」って立ち位置にいたい! みたいなの。あるよなあ。あるある。

 あるけど、姑息だよね。

 あと、問題解決には一切つながらないよね。

 ただただずるいだけ。

 それこそ、いつもお世話になってるお姉ちゃんが思わず叱り飛ばしたおじさんたちの、「嫁のせい」にして好き放題いうような、そういうずるさだ。

 でもなー。巻き取らせてるよなー。与党は野党に巻き取らせてる。政治について声をあげたり批判したりする人たちに、だれかがなにかを巻き取らせてるし? 世の中の問題を批判する人たちのなかには、中傷するだけの人が混じっていて、彼らも責めるだれかやなにかに巻き取らせようとしている。

 幼稚園や保育園、学校を中傷する人がいる。批判じゃなくて、中傷。その人たちの中には、巻き取らせたい人たちがいる。「こどもの世話」だけじゃない。「こどものマナー」とかね。場合によっては「こどもの家事能力」とか、あるいは「親の生活が楽になるようななにか」さえ含めている人もいるかもしれない。それが無理なら? こどもを責める親もいるだろう。それこそ、こどもになにかを巻き取らせたいから。

 そんな無茶な、だよね。

 無茶なんだけどさ。

 あるの。そういうことが。

 そういう心理が、私たちのなかにある。

 学校のいじめなんてさ? いじめられてる子に、クラスのしんどさや気まずさ、その責任や悪さをぜんぶ押し付けて巻き取らせてる。主語はいじめている子に置き換えているのであって、いじめている子、傍観している子にない。でも、そこにずるさがある。みんなそれぞれに、主語をもって選択・行動している。しないことも含めてね。

 おじさんたちなら? 家事をしない。育児をしない。文句を言う! それがおじさんたちに主語を”戻して”、主語に合わせて選択・行動を述べたこと。

 ね?

 ずるいじゃん。明らかに。

 親戚のお姉ちゃんはそういうのが許せない性分だ。荒れていた時代は、田舎のヤンキーと毎晩、戦い抜いたそうだ。意外と武闘派。隔離世の才能がまるでない、というわけでもなし。だから、おじさんたちも勝てない。頭があがらない理由はいろいろある。

 そういうお姉ちゃんを言い負かしたい、自分たちに非がない形にしたい! そういう心情がおじさんたちにもあって、いろいろ暗躍していた。陰口をたたいたり、親族の新参者に捏造したり盛ったりした悪評を吹き込んだりしてさ? おばちゃんたちはおばちゃんたちで、おじさんたちを懲らしめてほしいから、お姉ちゃんに働きかけていく。おじさんたちの暗躍を明かしたり、日ごろの悪行を伝えたり、ほのめかしたり、対立しようとしていることを伝えたりする。

 お姉ちゃんにしてみればいい迷惑だ。おじさんたちとおばちゃんたち、それぞれの勢力の巻き取り、押し合いへし合いに飲み込まれていく。「自分でやれ!」「救われようとするな!」「助けが欲しいなら言え、手を貸す! けどな、あたしにぜんぶ押し付けるな!」と、お冠になり、うちのお母さんと葛葉さんちの美希さんがおばあちゃんと手を組んで、親族会議が開かれたくらいだ。

 親族って面倒。そう言ってしまうのは簡単だけどさ。「親族って面倒」に巻き取らせたって、私たちが主語を自分に据えて、なにをどうするかって話をなかったことにはできない。そうじゃない?

 地道にやるほかにない。

 キング牧師を筆頭に、いろんな社会運動が起きている。MeToo だってそう。でも、じゃあ、そうした運動に巻き取らせようとする人もいる。ポリコレもそう。それにまつわる主語を自分に据えてる人って、どれくらいいるんだろう。そんな問いを考えてみるとね? 私って、まあ、ろくでもないよ。自分のろくでもなさに気づくと、ついついよそに巻き取らせたくなるけど、それじゃだめなんだよなあ。

 だめなんだよね。

 主語が自分の、あらゆることとやりくりしてかなきゃなんだよね。助けは求める! ぜんぶを自分で背負い込まない! たとえば、ぷちたちが主語のことは、ぷちたちそれぞれのこと! 私のことじゃない! そういう感じが欲しいのだ。

 変えられないことがあるからって、それはあきらめる理由にならない。変えられないならなにをしても無駄、なんてものに巻き取らせたって? 自分を主語にしての選択・行動は? どんな自分や未来を望むのかは? 自分だけが決めることだ。だれにとっても。残り続けるんだ。だから、巻き取らせてごまかしたって逃げられない。ずるさと後味の悪さが残るだけ。

 休みたくて利用することもある。けど、いつまでもは、ね。

 正当化・責任転嫁・免罪されないって言ったって、すぐには向き合えない、しんどいこともいっぱいあるからね。なんの助けもないどころか、学校の”いじめ”に巻き取られている、ありとあらゆる加害の対象になったら? そういう加害は学校だけにあるんじゃない。家庭にも、会社などの労働の場所でも、それだけじゃない、ありとあらゆるところにある。

 手を動かす。術で動かす。私が動かす。記録した霊子も、私の再現で動かしている。私が主語の領域がいっぱいある。私が記録した。私の媒体にね。一定の、私のした部分がどれくらい干渉していて、どれくらい影響を与えているのか、私はまだ具体的に調べていない。

 もちろん、なんでもかんでも主語を自分に奪い取れ! っていう話じゃない。記録した霊子は私だけのものじゃない。ちゃんと切り分けて捉えることができないと? そのつもりがないのに、巻き取らせることばかりしてる状態になりかねない。

 研究も、実験も、そのあたりの整理が欠かせないんだろうなあ。

 ふわっと「とにかくなにかまずいことがあったら、だれかが悪くて、それは自分じゃない」みたいなノリで生きてる人も、世の中にはぼちぼちいるよねえ。そして、いつだって自分もそういうノリになりかねないところがある。気をつけないと、すぐになる!

 疲れたカナタが先に眠り、私も限界になって模型を片付けた。

 眠って、天国修行でアマテラスさまのお屋敷へ。ここでも模型を金色で再現して動かす練習に取り組む。

 取り組みながら考える。

 私が手に限定したから、うまくいかないみたいなことはないんだろうか。ないとも言えない。自由に動かれると怖い。だれが? 私が!

 情緒の確認さえ、巻き取り癖がつくと自分を見失ってむずかしくなる。その感情の主語はだれ? 私。こんな簡単なことさえ見失う。よくないよねえ。

 自分の感情とお付き合いできなきゃ、記録した霊子の抱く感情とお付き合いすることなんて、できやしない。話すも聞くもおんなじだ。自分とお付き合いできないことは、他者にはよくできないよ。それか、自分か他者にできないくらい均衡が崩れて、疲れすぎちゃうよ。めげるしさ? よくない。


「ううん」


 私の整理をつけなきゃ、記録した霊子をフィギュアや模型に宿して再現するのはむずかしそうだ。

 でもって、その整理が問題。


「むりぃ」


 座布団に寝転がる。ぷちサイズの身体になることで実感する。こどものころの身体の小ささって、すごくいい。過ごしやすい。布地に頬をこすりつけながら、手足を思いきり伸ばす。

 どう考えても、無理。振り返れないことや、振り返りたくないことが盛りだくさんだ。教授がらみは特にそう。生理的に無理という、あまりにも単純でわかりやすいものが、無理矢理に包み込めないものを押し込めて、凝縮しようとしつづけている。どっきりで、巨大風船を一気に膨らませて割れて、大きな音で驚かす企画がちょいちょいある。機械で空気を送って急速に膨らんでいく風船を、ハンカチで抑え込もうとするようなもの。どんなに力を込めても、風船が膨らむ力と速度のほうが強くて、無理になる。

 それによる刺激は、痛みや苦しみを与える。ふわっと言えば。だけど、そんなもので巻き取れないくらい膨大な情報が刺激にも、刺激によって生じる情緒的・身体的反応にもある。

 巻き取るのは、世の中や自分、他者を「わかりやすく」する。だけど、お台場でコップ一杯の海水を採取して「太平洋の情報が! すべて! ここに!」っていうくらい、無茶だ。

 そんなわけない。

 しーっ。やめとけって。おばかをさらしてるって!

 世界はもちろん、そんなに「わかりやすく」ない。自分も、他者もね。当然だ。

 そのわかりやすさに生きてる人、生きたい人、依存してる人、依存したがってる人がいる。あるいは、そういう心理がだれのなかにもある。

 そもそも最初は「わかりやすい」ところからしか認識できないってこともざらにある。なので「わかりやすさ」よりも、むしろ「わかりやすさ」に巻き取らせること、「わかりやすさ」でおしまいにしたがることや、おしまいにさせたがることのほうが問題かな。

 問題って言われたって、じゃあ、自分のつらいことを振り返れる?

 無理だ。いまの私には、まだ、それを望む力がない。

 つらくて、しんどくて、いや。

 いやならいやで、落ち着けるようにしたいんだけどね?

 どうしたらいいのか、わからないのだ。私が!


「桐生ちゃんならどうするのかなあ」


 ゲームで気分転換を試みる。せっせと先を進めたくなるのに、気になるおかしなサブクエストが多くて困る。フックが強いんじゃあ!

 やっててなにが頭に残るって、桐生ちゃんの「なに?」「なんだと?」だよね。「どういうことだ」とか「なにが言いてぇ」とかもかな。「うるせえ!」も印象的。

 こぶしと背中で突っ切っていく男だから、語彙でどうこうってタイプじゃない。話すのが上手っていうタイプでもない。内心のツッコミは毎回おもしろすぎてずるい。割と素朴なのかわいい。

 ただ、極道で、ヤクザで、反社会的勢力っていう、その烙印の重さはきっちり描かれてる。ある意味、生きるのに毎回まいかい、泣けてくるほど苦労していて、不器用なあたりもそう。

 桐生ちゃんほどパンチでいくことなしでも、まあ、「なんて」で押し通してる人はいる。仕事先で見かけたことがある。「俺のわかるように言えないお前が悪い」で押し通してる人もいる。みんな、ほんとにひどい。ろくでもない。

 いっても、みんな別に完璧でもなんでもないのに、完璧ですみたいな演技しながら生きなきゃいけないかのような顔してるとこあるよね。でもって、アドリブは別にそんなという。

 はい。いまのも巻き取ってるよ? すっごい巻き取ってるよ?

 めんどいツッコミ!

 でもほんと。


「パンチでいけちゃうのも、それはそれでつらいよなあ」


 とことこ桐生ちゃんを歩かせながら思う。でっかい極道組織の四代目を襲名した桐生ちゃんを意識する極道はたくさんいる。憧れ、崇拝、敵視、憎悪。あれやこれや。だけど、いろんな人が見る「堂島の龍」という巻き取られたものは、でっかくて、厄介で、困った存在だ。腕っぷしがすごすぎて、伝説でもある。そのぶん、「龍退治」したがる人も大勢いる。

 だけどプレイヤーから見た桐生ちゃんは、いろんなことを素直に全力投球でやる。というか、やっちゃう。生粋の巻き込まれ体質で、テレビ番組のディレクターの代役をさせられたり、モデルをやってみたり、かと思えば巨大なサメと銛を片手に戦ったり、もうめちゃくちゃだ。尾道のマスコットキャラクターになることさえあった。なにそれ。どういうことだ? うるせえ! なにが言いてぇ! 言いたいだけですぅ。

 答えのない、解決しようのないことにやまほどぶちあたっていくし、できるかぎりこぶしで切り抜けていくけど満点完璧大満足とはほど遠いこともやまほど起きていくし、傷ついていく。

 そうやって抱えていくたびに、自分を主語に据えて語るには「酒が足りねえな」とか「気分じゃねえ」とかって、なってくんだろうね。みんなさ。あえてくどいこというと、「」の内訳は人によるよ。

 じゃあ、私は?

 わかりやすいところからつまずく。

 つらいんだと思う。苦しいんだと思う。だけど、その先を見たくない。感じたくない。考えたくない。

 健康とはいいがたいけどね。

 どうしようもないんだよね。

 こういうときに私たちは嗜癖に頼るんだろう。お酒、たばこ、薬物。買い物、賭博に、運動や労働。あれや、これや。巻き取らせることも含められるだろうなあ。

 そんなのに頼るくらいなら「忘れちゃえば?」や「考えなければよくない?」「いちいち感じてたら体がもたないよ」などもある。でも、これって端的にいえば巻き取らせてるだけだ。できるともかぎらない。火に焼かれているときに同じこと言って通用する? するわけない。たとえが怖い。でも、それくらい的外れだ。

 答えも解決もないので、ある程度は棚上げしながら生きていく。だけど、その棚上げがだれかの選択や行動を踏みにじることも、まあまあある。欺瞞になったり、社会的障壁になったりもする。

 それはずるいよっていうのは簡単なのに、対処するのはほんとに骨が折れる。

 私の好きなドラマ「ボッシュ」で、主人公のボッシュは、そういうものに出会ったときは静かに挨拶をして、箱にしまって棚に戻すって娘のマディに言っていた。父親は自分と母親を捨てた。母親は娼婦でなんとか稼いでいた。だけど、だれかに殺された。警察は娼婦の殺害事件だからとまともに調べなかった。ボッシュは孤児になって、やがては孤児院へ。そこでは様々な虐待が起きていた。いろいろあって、軍に入ったり、警察官になったりしてさ? 刑事にまで出世して、刑事課で働くように。その捜査のひとつが映画の原作脚本に選ばれて、ハリウッドを一望できる場所にリッチな家を持つに至った。結婚して、娘が生まれた。けど離婚。元妻は中国のリッチな大富豪と再婚。あまり娘に会えない。シーズンを重ねて妻が撃ち殺されるわ、いろんなひどい目に遭うわ。刑事課で働く以上は、悲惨な境遇の人や、悲惨な亡骸もやまほど見る。そういうものを、箱にしまって、棚に戻す。軍隊時代にアフガンに行った。グリーンベレーにもなった。そこでも悲惨なものをいろいろ見たろう。体験したろう。それらも、棚に戻す。

 生きることは抱えていくことなのだろう。背負っていくことなのだろう。

 だれもかれもが声をあげられるわけじゃない。これは問題なんだと訴えられる力が、だれにでもあるわけじゃない。

 そりゃ酷だよ。

 虎に翼で取り上げた尊属殺人。父親の長年の性的虐待、強姦、妊娠・出産・育児、どれもあまりにも酷すぎるよ。どうして父親から助けられなかったんだろう。どうして性的虐待から守られなかったんだろう。それは「父親を殺した」に巻き取らせちゃいけないことだ。

 罪があるとき、よく調べて、きちんと取り上げないと、巻き取られちゃうことや、巻き取らせちゃうことが増えすぎてしまう。それは問題だよ。

 私は? 私の選択、行動は。私の願望、欲望は?

 巻き取らせないで。巻き取られないで。

 主語を私に据えて、私を取り戻して。

 そのうえで、なにがどれほど見えてくるだろう。


「逃げるのに疲れたら? 逃げるのが壁になるなら、別のことを試してみたっていい、よね?」


 そっとコントローラーを畳の上に置いて、腕を組む。

 どうしたい?

 どうしたかったろう。

 思い描いてみようよ。自分のペースで。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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