第二千九百八話
私たちは主義主張で生きているのか。
そんなに限定したものを軸にできるほど、世界は単純か? ちがう。
ミコさんの薫陶を受けたルルコ先輩が舵取りをして、士道誠心に即席の対応チームをこしらえる。みんなで集まって話したからこそ共有できた情報はあまりにも多いけど、みんなで協力して動くほどには協働しがたい。それぞれにあまりにも余裕がなさすぎるから。情報の共有がせいぜいだ。
生きるうえで求められることが多すぎて、その対応さえ困難だ。
人はしょくだけで生きるにあらず。しょく。食、職。
私たちだれもが当たり前に抱く思想も。倫理も。信条でさえも、「これだけ」にはならない。
たとえば「政治なんか語らない」「私は無関係に生きる!」という思想も。それがどんなに強くても、それだけに閉じて生きることは不可能だ。もしもそんなことが可能なら、どれほどの人が加害にも被害にも巻き込まれずに生きていけたろうか。まあ、無理だ。関わらないし語らないという政治信条の強さは、自分を守る鉄壁の防壁たり得ない。
世の中にはいろんな関心事がある。
たとえばぁ。そうだなあ。大きな主題でいえば、人権、戦争・紛争、環境汚染あたり? これが世界の巨大な主題。国ごとに内訳は変わるし、細かな主題や副題があってさ?
アメリカの大統領選では雇用が重要な議題だった。だけど、議題も「どう語るのか」が、転じて大衆のウケを得られるのかに繋がるじゃない? それこそ「みんなのがんばりが足りないから、儲かってないんだ」か、それとも「みんなの儲けを台無しにするヤツがいるから、みんな大変なんだ。じゃあ、どいつが台無しにしているかって?」ここで貯めて「あいつらだ」と名指しするか。どっちがウケる? 間違いなく、後者だ。前者はみんなを責めてるし。苦労している人ほど「はぁ!?」ってなる。反感を買うよね。それならいっそ「みんなの敵を作る」、そして差別心を刺激して、怒りを煽ったほうが? ウケる。
これぞポピュリズム。大衆を扇動して、人気を主軸にすり替えてしまう。
本当なら「みんなの雇用が足りない」「具体的にはこれが課題」「政府の政策のここがダメだった」「市場の動勢のここを変えるほかにない」「みんな、どうか協力してことにあたろう」だし「政府はちゃんと、もっとしっかり改めていくよ」という筋が王道だ。
具体的な課題はひとつやふたつじゃないだろう。前の政権が自分たちとはちがう党かもしれない。そこで責め合うと、やっぱりそれもポピュリズムに回収されて、話がどんどん逸れてしまう。たぶん、このズレはこの先も長い間、なくなることはないだろう。みんなで付き合っていくほかにない、答えも解決もない課題だろう。
でも、やっぱり課題をひとつひとつ捉えてやりくりしていくしかない。
あいつらのせい。こいつらがわるい。そういう話に回収されては、責め合う政治は日本もアメリカも、他のあらゆる国でも起きている。なんなら世界中の企業や職場、学校、ご家庭でも発生している。
課題を端的に捉えて、解決したり、負荷を低減・緩和したりしていくべく集中するのは、ほんとのほんとに、困難なのだ。
たったひとつの課題でさえ、この調子だよ?
小学校や中学校で、学級委員長になった子が張り切りすぎて仕切りたがりすぎて、自分の関心事しか意識できずに、みんな自分の思うとおりに振る舞ってと求めては空振りして泣いちゃう。そんな光景を見たことがある。
うまくはいかない。また、そうあるべきでさえある。
大河「青天を衝け」じゃ「お武家さま」や「将軍さま」の言うとおり。やがては「天皇」の言うとおりの時代になる。第二次大戦期になるすこし前からドイツじゃ「ヒトラー」「ナチ」「親衛隊」の言うとおりだったけど、日帝時代の日本といえば「兵隊さん」「特高」の言うとおりでもあった。地域の乱暴者とか、犯罪に及ぶ暴力者が軍の上官について出世していく、なんていうのは珍しい話でもなくて、日本でもアメリカでも、まあ、ろくなことはしないよね。日本じゃ「上官さま」の言うとおり。そして話す代わりにビンタや暴言、飯抜きや過剰労働が強制される。
「だれかさん」の言うとおりは、まさに、そういうことが起きる世の中になることを意味する。昭和の家庭像も、父親が癇癪を起こしたりなんだりで、「お父さん」の言うとおりは父親天国だった。それ以外に暴力だなんだが浴びせられていくばかり。すべての「お父さん」がそんな狼藉者なわけじゃないけど、もしも狼藉者の「お父さん」家庭だったら、逃げ場はない。自殺したり心中したりした人もいる。「お父さん」が娘を強姦して妊娠・出産させた事例もある。息子なら止まることのない暴力が待ち構えている。
でも、いつの世も、いかなる場所においても「だれかさんの言うとおり」を思想として強く求める人がいる。そして少なくない人が、その「だれかさん」になりたがる。
「リーダーシップが取れたら楽なのに、なんでだれもやりたがらないかな」
だれかが呟いた言葉にドキッとした。
私たちもまた、その「だれかさん」を求めている。
ミコさんや警察、忍びや教団に声をかけたのも、小楠ちゃん先輩たち三年生やルルコ先輩たち卒業生に声をかけたのも、内心、どこかで「だれかさん」になってもらいたかったからではないか。
無知と未知は、無思考無批判とほとんど同じ領域にある。そして、その領域と重なるのが妄執や妄想、盲信であり、すぐそばに尊敬や憧れがある。
漫画じゃ理解とほど遠い感情だとしていた。別に理解とほど遠かろうが、それはそれ。別にいい。
肝心なのは、批判も思考もないことによるまずさだ。
中傷と批判はちがう。罵声や罵倒と批判もちがう。批判は必要な振る舞いだ。
どんな人物でも、どんなに賞賛されるものでも、批判は可能だし? 自由だ。むしろ批判がないと、私たちは改善点を見いだせなくなる。
大辞林いわく「物事の可否に検討を加え、評価・判定すること」「誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと」「人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること」。あげつらう必要性はないけどね。
小林多喜二原作の蟹工船、二度の映像化に恵まれたもので、後発の映画をお屋敷で見た。「成果ありき」の「目標ありき」、「俺の考えしかあり得ない」指揮者が現場作業員に無理難題を押しつけて、過剰労働させる場面が、けっこう長めの尺で描かれる。ブラック企業丸出しだ。
ちなみに偏る社会は、こういうのを称揚・礼賛する。
なにかを尊敬し、崇め、崇拝する社会でも同様だ。
私たちが、文明が越えてはいけない一線である。
なん、だけ、ど。
「やばいってことがわかるばかりなんだから、とっととどうにかすべきだろ」
「なによりも優先すべきじゃね?」
危機感を抱くからこそ、こういう声も出てくる。
一方で、解決を重要視するあまりに一線を越える人も出てくる。”自分の求める解決”以外を軽視する姿勢が顕在化するっていうことでもあるかもしれないけどね。
優先される事項が、同時に物事に優劣をつけて、劣位を一斉に攻撃するなんていう妙な展開を見せることがある。まるで優先事項を作りあげて、邪魔なことをどうにかすることこそが目的だったんじゃないかっていうくらいにね。
問題解決ひとつとっても、この有様だ。
対応は、ほんとに、骨が折れる。
捉えることが全部じゃない。捉えたことが全部じゃない。いつだってそうなのに、全部にしたがってしまう。そういうところが私たちにはあって、いつだって視野狭窄に陥るつもりで生きているまである。
お父さんの本棚にあるラノベ、私が気に入って読んだなかには密室下でのデスゲームになるやつ。扉の外、だったかな? 密室下も、デスゲームも、その状況に思考が限定されて閉じていく。だけど、それはまだ、主体的かつ能動的に対応していく方向性だ。
そうじゃなくて「救われる」みたいな、「救世主がいる」みたいな、そういう方向性に向かっていくこともある。
どちらとも、自分の問題を取り組めるのか。自分の問題を棚上げにするのか。そういう方向性の視野狭窄もあるしなー。他者に向ける、なにかになすりつけるだけじゃなく、そもそも考えないっていう方向性もある。
実際さ?
私たちは、自分たちでどうにかするっていう方向性を模索しない。
後方参謀面というか、なんというか。だれかがどうにかするべきだ、に向かっていきがちだ。
助けてください、じゃなくて「できるんだろ? だったらできるやつがやったほうが早いし確実だよな。じゃあ、ほら。救えよ」みたいな感じになりがちなの、なんでじゃろ?
こういうスイッチが入ると、この「救えよ」に反した内容って、もう邪魔でしかなくなる。いくらでも悪く見えてくる。問題そのものに思えてならなくなるんだけど、明らかにそう感じる自分がどうかしちゃってる。
だって無関心でいられない。関心を向けずにいられない。邪魔だ。くそだ。うんちめ! って。
控えめに言っても、だいぶどうかしてる。
どうかしてるんだけど、まさに、そういう感覚になって、協力してくれない人たちに不満を示したり、悪態をつく人もちらほらいる。
私が思うよりも、そういう態度って身近なものなんだろう。私自身も含めてね。
きっと、私に八尾を注いだあいつも、製造開発者たちでさえも同じなんじゃないかなあ。
だれも、主義主張だけに生きられやしない。
衣食住。最低でも、そこをなくすことはできない。単独で生活できるような、そういう社会でもない。ある程度の関わりを要する。あの、ねずみのおじさんやヒゲのおじさんでさえそうだ。
ひとつの行動は、多くの関わりを求める。多くの依存によって成り立つ。種々様々な思想も絡む。だれにだって、どんな行動にだって思想がある。私たちは考える生きものだ。無意識であろうと、無自覚であろうと、私たちは立場を明確にして生きている。傍観者になることでさえ、思想の元に行われている。考えないようにすることさえ同じだ。
実際のところ、みんなが表現して生きているし、だれも表現から逃れることはできない。
ちゃんと学習したら「そうはならねえだろ」みたいな与太話を本気で主張する人もいる。そりゃあ犯罪だって起きるんだし、そういう人も出てくる。ヒトラーとナチ党も最初はそういう受け取られ方をしていたわけでしょ? なのに世紀の虐殺を成し遂げるまで巨大化してしまうことが起こるんだから、恐ろしい。それが与太話でも、ちゃんと「ちがうよ」って伝えていくのは重要だ。
義務を持ち出せば人権をどうにかできる、みたいな与太話も、本気で主張しはじめている人が増えているという。どうかしてる。
それはそれ。これはこれ。
人権を前提にして、構築していきましょうねっていう、それだけのこともゴールをずらしたい人が増えている、と考えると、だいぶおぞましい。
クローンとして作られた人々は義務だけを求められた。義務の行使なくして権利は与えられないという、倒錯した話だ。
ちがう、ちがう。
権利を前提にして、権利があるのにじゃあどうするの? をみんなで考えて、やってくのよ。他国との軍事的緊張も、経済的成鳥や実態も、労使の関係性も、まず権利ありきなのよ。そのうえで、みんなでなんとかやってきましょうねっていう話なの。そこを義務ありきで、倒錯した形でみんなに押しつけて成立させようっていうのが間違いなの。義務ありきは奴隷の論理なんだよ。権利ありきはだれも奴隷にすることを拒絶して否定するための、重要な柱だ。完璧ではない。だけど、義務ありきよりは明らかにマシだ。
ちゃんと勉強したらわかることなんだけどな。
でも、明らかな間違いや勉強不足を前提にした、この手の倒錯がいろんなことで起きている。
この事件に閉じて考えたくなるけど、でも、私たちの思考や行動にも内面化されている。この危うさにいかに対応するかは、けっこうな難問だ。
トランプを批判するのはたやすい。だけど、トランプと選挙を競ったヒラリーはどうか。もちろん批判点はある。民主党に見られる批判点は、共和党の利点に活用された点でもあり、民主党が切り離したもの、取り入れたものがいかに国土の広くていくつもの州のあるアメリカで分断の土壌に栄養をまいたのか。そういう話になっていく。民主党にも、民主党の掲げた理念にも、内面化されている倒錯がある。それがトランプ支持の基盤を明確にした、とも言えなくもないのでは。
日本はどうだろう。いまの与党は連立を組んでいる。その連立先の党が、ながらく一大組織のバックがついていて、そちらの党員が揶揄されることはめちゃくちゃある。だけど、いまの与党そのものの党員が揶揄されることは、驚くほどない。なんでなのか、疑問になるとぞわっとしてくるくらい、透明化されている。されすぎているくらいだ。でも、実際はいろんな支持母体や宗教団体の繋がりがある。連立先の党よりも複雑だ。派閥もある。企業献金もあって、献金先の企業にもいろんな層がありそうだ。
ハウス・オブ・カードじゃあ政治を題材に資本家もしのぎを削ってたっけ。主演の人は過去の性加害などの疑いから裁判沙汰になり舞台から排斥されたのも、ある意味じゃ、かなり皮肉だけど繋がりを感じる出来事だ。政治の舞台は「アメリカ国民の政治のため」にあるのではない。それをとことん描いていた。なかなかの傑作だ。
政治さえ、主義主張だけではいられない。
だからこそ歩みの鈍さが、この不完全で不平等で不公平で不公正な世の中で、ぎりぎり健全でいられていることを示す指標になるのかもしれない。
本来、多くの手間と段取りを要する。コミュニケーションを始め、負荷に接していくことを要する。
義務ありきではない。
私たちはだれもが権利を有する。この権利を上回るものはない。
だから命令だなんだ、こう動くべきだなんだで生きているのでもない。
当たり前だ。
まず産まれて、生きている。
そのうえで幸福を追求していく。
だれもが。
そこを第一に考えられるようにするには、みんなの権利が重要だ。
当たり前なんだけどね。
いまこの集まりで、みんなに「義務だから! 解決は義務だから! それしなきゃ、学校にいられなくしてやるぞ!」なんて言いだしたら、おかしいでしょ? 頭おかしいことなのよ。
みんなそれぞれどうするかを選ぶの。みんなに選択の権利がある。自由なのよ。やばかろうが、まずかろうが、権利ありきなの。敵がどんなにやばかろうが、関東事変規模のことをやられようがね。
「はい、ピリピリしなーい」
「気が乗らない人は退散してだいじょうぶだよー。あとはまかせてね」
愛生先輩やジロウ先輩が呼びかけて、なだめていく。
これで三々五々に散っていくかぎりは、まだ平穏だ。ここで先輩たちがビンタしはじめて「お前らの義務だ!」なんて強要しはじめたら、それはもうやばい軍隊なのよ。カルトかなにかの集団なのよ。お父さんの本棚で色褪せた昭和の根性漫画なのよ。あるいはお父さんのビデオライブラリにある昭和のスポ根ドラマなのよ。いまはアウトなのよ。ブラック体質そのまま濃縮還元スープ状態なのよ。
あれ? 日本だいじょぶそ?
ごほんごほん。
「なんか大ごとになってきたな」
わくわくしてる顔のカナタがやってきた。
ミコさんのお見送りだ情報共有だなんだ、あれこれ済んで、ようやく生徒会の集まりから離れてきたみたいだ。
「うれしそうだね?」
「いままでは防戦一方で、為す術もなく、予告もなかった。だけど今度はちがうだろ?」
「予告どおりにいくとはかぎらないんだけどなあ」
浮かれている場合じゃないとは思いつつも、すこしだけ、ぴりつくみんなの動機のひとつがわかったかもしれない。
明日か明後日になにかが起きるかもしれない。
こんな予告があったこと、いままでなかった。それだけでも、なにかが明確にちがっていて、なにかの可能性が見いだせるような気がする。
反面、予告があるからこそ、これまでの大変なことを思い出すほど、なんとしてでもどうにかするべきだって気負ってしまう。それはもう、ほとんど義務であるかのように。
だけど私たちに他者に義務を強要できる権利などない。だれにもない。
みんなで自発的に選び、行う。やまほどの手間を惜しまずに。みんな、それぞれ多種多様なままに、それぞれが求めるかぎり、よりよくなるように。そう望まない人とさえ共にいる社会のなかで、あくまでも自分において、選び、行うのだ。
それさえ満足にできなくなることなんか、ざらにあるんだからさ?
落ち着こう。義務の下に人がいるんじゃないのだ。
もちろん、だれかが求める義務に従うために人がいるのでもない。
おおまちがい!
それに主義主張に従うために人がいるのでもない。
まず、人が産まれて、生きているのだ。
ぼちぼちやってこうか。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




