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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千八百九十三話

 



 千葉につくまでは紆余曲折があった。

 トモの新装備は思いのほか好調だった。ただ完璧でもなくて、私の霊子を注いだボトルの中身がすぐに尽きてしまうのだ。それこそ最高速度はカゲくんのバイクなんか目じゃないくらい速いんだけど、代わりに持久力がない。コユキ先輩の設定でトモのボトルの中身が切れる直前に自動的に減速しながら、トモの身体を保護するクッションが出るようになっている。そのクッションとは、巨大なボールだ。地方のテーマパークにある、人が中に入って転がるバブルボールである。私の注いだ霊子が一定量になった段階で、絶対保護ボールに化けちゃうので、トモは何度も地面を転がる羽目になった。

 もちろんコユキ先輩なりに霊子量や供給と消費の効率などを計算して、作りあげた装備の仕組みなのだけど、想定を上回る霊子消費量になってしまっているという。

 そんなトモにずっと引っ張ってもらうわけにもいかないので、カゲくんのバイクに引っ張ってもらう形で千葉を目指すのだけど、移動中にふたりがああでもない、こうでもないと言いあうし、刀鍛冶たちで霊子消費量の謎を解くのに会議を始めちゃうしで、よくいえば賑やか。悪くいえば結論を出せず、移動中に試すこともできないので、ずっと揉めている。

 おお! ぐだぐだよ!

 ぐだぐだのなかでも私は千葉の住宅街でなにをどのように調べるのかをよく考えておかなきゃならない。

 幸い、アイディアはあった。

 それを試すべく、議論の輪から一端離れたトモのそばへ。

 オロチバイクを軸にエンジンまわりを巨大化。日下部さんや柊さんが手を加えて作りあげたのは、外観上、バスと言って差し支えないものだ。トモはコユキ先輩の席から離れて、後部座席に移ってきた。だけど私たちのそばに戻ってきたわけでもなかった。

 隣に座ってもいいか尋ねると、トモは肩を竦めた。腰掛ける。へこたれているんじゃない。


「まだやれると思わない? あたしのほうが速い」

「私がトモのボトル装着部にホースを繋いで、大量に供給する?」

「それならもつはず」


 ただし、私の霊子がもつかどうかがわからない。そもそも私はこのところ、ずっと不安定なのだ。なにをどこまでできるのか、そしてなにをしたらどんな暴走をしてしまうのか。なにもわからない。そんな私じゃないと千葉で術を使って調べ物ができないっていうんだから「無理は禁物」に傾くのも仕方がない。

 そういう理屈だ。

 トモの保護装置はちゃんと起動していて、カゲくんの影領域における建築物にぶつかっても守り切ってみせた。保護装置分の霊子はちゃんと、コユキ先輩の想定どおり、消費と活用に働いた。

 おかしいのは、走行時の消耗だ。雲は? こちらもコユキ先輩の想定どおり。獣耳があるから、ばっちり会話が聞こえていたよ? なので、ふたりや刀鍛冶の話から伺える問題がなにかわかった。

 雷だ。トモが雷を使おうとすると、私の注いだ霊子ががくっと減るのだ。

 だけどトモは雷の話題になると、途端に話を逸らそうとする。触れないし、広げない。応じない。返事さえしない。それがなぜか心当たりがあるようで、コユキ先輩はトモを相手に決して深掘りしなかった。いまだって刀鍛冶たちとの談義で霊子の消耗を防ぐアイディアや、他に移動するアイディアはないかに話を向けることはあっても、雷の消耗が激しすぎることについては決して触れない。

 理由は、わかる。

 トモは雷を扱うのに恐れを感じている。自分の力を使うんじゃなくて、私の金色でなんとかごまかせないかって考えてる。トモ本人に、どこまで自覚があるのかはわからない。だけど、たぶん、怯んでる。

 残念だけど私の金色は、私にできないことはできない。それっぽいことをなんとか再現しようと、私がやるように無茶をしたのだろう。だから、コユキ先輩が想定するよりも早く、異様な速度でボトルの中身が空になる。本来なら、雲と保護装置だけで済ませるはずが、雷まで負担しようとなると、これはもう無理だ。

 そこまで見越しているからコユキ先輩はGOサインを出さない。トモだって、痛い部分を話す気がないから、絶対に踏み込まない。だけど納得しきれないんだろう。とりわけ、かつてと同じくらい、あるいはそれよりも速く走れたんだから。すこしの間だけだとしてもね。

 友達としてはフォローしたい。だけど、どれくらいフォローできるかわからない。

 それに、ごまかすべきだとも思えない。かといって、踏み込んでいいこととも思えない。

 勇気を出すべき? それとも耐えるべき?


「ハルは顔がころころ変わるね?」

「えっ」

「うちの子を思い出すんだよね。困り眉で、そばに来てくれるんだけど、なにをしたものかわからないって顔して、ずーっといるの」


 ワンちゃんですよね? それって。


「わんちゃんですよね」

「一番仲の良い子なんだよね。そっくりなんだよ、ほんと」

「喜んでいいのかなあ」

「優しくてさ。甘えん坊で、みんなのことを気にしてる。でも、なんていうか、自己主張があんまり上手じゃなくて、ボールで遊ぶときも遠慮がちなんだよね。他の子たちがボールを取っちゃうと、しゅんとするけど、それっきり」


 なんだろう。

 とても悲しくなってきた。他人事とは思えない。


「臆病の気にしい」

「きにしい?」

「気にする子ってこと。あたしは優しさのあらわれだと思ってたけど、お兄ちゃんたちは臆病だ、怖がりだからって言ってた。引っ込み思案とも。いまなら、あたしもそう思う。でも、ほっといても主張しまくる子たちが多くてさ? その子たちと比較すると、足りなく見えて、やな感じに見えちゃうだけだって言い返したくもなるの」


 私の話じゃないよね? 思わず顔を覗きこんじゃうけど、トモは遠くを見ている。実家のわんちゃんたちを思い描いているのか。


「そのままでいいと思いたかった。だけど、そのままじゃだめだって言わずにはいられなかった」


 ちがうぞ? これは。


「負けてないって。勝てるって」


 どこか、ずれてる。私の話じゃない。私を通じて思い出したわんちゃんのことでもない。だけど完全にちがうというわけでもない。トモの話だ。トモが重ねるなにかの話だ。


「勝ち負けの話じゃないのにな」

「その子も大事な子ってこと?」

「いちいち、上とか下とか、いいとかわるいとか持ち込んで、差を作るのが納得できないの」


 ちがうみたい。

 唇を結んで、トモが大きく息を吸いこんだ。胸が上下する。

 いまはもうキューブスーツじゃない。スーツを解除して制服姿に戻っている。

 語りつづける。とりとめもなく。雨降る池の波紋のように。

 相づちを打ちながら聞き役に徹する。

 思うところ、感じるところから言葉が生まれる。生まれた言葉が自分の輪郭を僅かに映す。それは人間の形をしていない。だから私たちは歌ったり、絵を描いたり、踊ったり、像を彫ったり、物語を作ったりするし? 叫んだり、山を登ったり、海に飛び込んだりする。

 なにも思わない、感じないものを相手に、いままでの人生で集まった言葉を引っ張り出すのとはわけがちがう。

 トモの心は動いている。

 激しく荒ぶる雷雨と風は池をかき乱す。だから捉えるのがむずかしい。

 おかめはちもく。トモを見ていると、自分で探ろうとするよりも露骨に見て取れるものがある。トモについてじゃない。トモに重ねてみる私について。

 でも、それを伝えていいものかわからないし、いまはトモの話をちゃんと聞くときだし、話してくれることを受けとめて考えてると、ますますどうしたものかわからなくなる。

 トモが私から連想するわんちゃんへの親近感が増すね! 勝手に!

 なんとなくいいことを言おうとしたり、まとめてみようとしたりするような、そんな言葉が浮かんでくる。けど、それもいまじゃない。いまじゃないから、心の中で留めておく。

 話さずにいられないトモには、それだけトモがどうにかしたかったり、耐えられなかったりする願いや求めがあるんだろう。ほっとけない痛みや苦しみがあるんだろう。

 頭がわーってなっちゃうくらい、浮かんでくるものがあったかい気持ちだけだったらいいんだけどね。そうもいかないよね。

 おまけに、そのいろいろがなにを訴えたいのか、なにを求めているのかって、案外、わかりにくい。そっくりそのまま受けとめればいいときもあれば、それじゃいけないような気もするときだってあるし? そもそもそれどころじゃないくらい、頭も心も身体もうるさくてたまらないときさえある。そのうるささが完全にひとつに集約されているときも、かなり危ない。

 元気なとき、穏やかなとき、みっつのあん、つまり安心・安全・安定が保たれているときって、どれも静かでおとなしいもの。どんなに賑やかなときだって、授業中の先生の喋り声だけの教室くらい。夏場のセミみたいなことにはならない。おばあちゃんちで過ごす夜の虫たちの賑やかさほどでもない。

 だけど、ほっとけないし、ほっとけなかったこととか、痛かったりいやだったりすることは、とにかく賑やかだ。なにかの物音に敏感に反応しては、騒ぎ出す。親鳥が餌を運んでくるのを喜び鳴く小鳥たちよりも大きく絶え間なく。

 一貫した語りの場合もあれば、電化製品店のテレビたちがぜんぶちがう番組を大きな音量で同時に放送しているくらいのやかましさの場合もあり、あるいは商店街を歩いているときにパチンコ店の前を通りすぎるときのような洪水みたいな音の場合もある。

 それらの音を声に出すと決めたとき、箱根の山奥で見た彫刻のように「ノミで石を削る」ようにすることでしか、表現できない。常にその繰り返しを思考で、会話で鍛錬していても、一撃でヴィーナス像のようなものを掘り当てることなんかできやしない。言葉はノミで石を削る行為のようなもので、手間を求める。精度も。なのに? 台無しになることもある。

 音を声に出すかぎり、私たちは台無し作品を仕上げることを避けられない。どのくらい、ノミを当てて削るのか。もうやめたくなることだって、やまほどある。時代ごとに「言語化がうまい」と見なされる型はあっても、真実、彫り上げられたものを私たちが語っているとは限らない。彫った人や、その彫りをちやほやしているだけで、実態なんかすこしも考えちゃいないことだって、ざらにある。

 だれも、だれかに自分の石を彫ってもらうことなどできやしないのだから。

 それでも私たちがだれかの言葉の表現に感銘を受けるのは、石との付き合い方の一例を知ることができるからだ。その一例は彫り方とか、どう彫っていくのかという工程とか、なにを目指して彫るのかという目的とかかもしれないし? あるいは「私はこれを彫ってみたい」という彫像か、あるいは彫像になっていく過程に惹かれるからじゃないか。その刺激が、ざわつく声をなだめてくれるからじゃないか。

 だれかの表現を代わることはできない。

 刺激から生じる反応を代わりに引き受けることだってできない。それは他者の身体で起きていることだから。まず、無理。

 トモはいま、ノミで石を彫っている。

 よく「そんなこと考えてもしょうがない」「考えすぎ」と声をかける人がいるけれど、相手はまさに、石を彫っている。あるいは彫らずにはいられないなにかを抱えている。ただし、それは別になにかを正当化・責任転嫁・免罪するものではない。ただ、抱えていて、彫っているっていう話でしかない。

 考える必要も、言葉にする必要もないことは、いちいち考えない。聞いたら興味が湧くことでも、たとえば私は「宇宙がどれくらいの速度で膨張しているか」について、石を彫らないし、ずっと考えたりしない。だけど、ベッセルの著書で見る虐待や性暴力の加害に遭った人や、なにせベッセルがアメリカの人だから「9.11」を目撃した人とか、あるいは自動車事故に遭った人とかさ? 戦争や紛争で想像を絶する加害・被害の体験をした人とかは、そうはいかない。

 彼らが直ちに常に、体験を連想して思考するのか。石を彫るのか。そういうわけでもない。様々な事由から記憶がすっぽり抜け落ちたり、あんまり刺激が強すぎて圧倒されてしまって、言葉にするどころでなくなることが、人には起きる。

 体験したら石を彫るのか。そうとは言えないし、限らない。ジャーナリストのカロリン・エムケの書籍のタイトルの一部にあるように「それは言葉にできる」のか。人によるのだ。だから性加害の告発に時効はあるべきじゃない、みたいな話だってあるし? 実際に時効をずいぶん長く設定したり、そのように変えようしたりする動きだって出てくる。

 認識できるようになったとしたって、ずっと言えない人もいる。

 だれもが石を彫るとも、彫ることができるともかぎらない。

 世情的に彫ってもしかたがないということや、そういう同調圧力が生じることもある。差別まっただ中のテーマならどうか。「女はこどもの世話、家事をやる」、それ以外はあり得ないみたいな価値観の人が大勢いるなかで「私は働きたい」ってことを、表現しぬくのは本当に至難の業だ。その表現が、じゃない。表現した先の抵抗が、あまりにも大きすぎるから。

 自分にまつわることでさえ、わけがわからないんだよね。

 どうしたらいいのか、わかるとはかぎらないんだよね。

 トモはいっぱいしゃべってくれる。いままでに聞いたことがないことばかり。とりとめがないし、まとまりもないし、話が繋がっていなかったりもする。時間軸だってあちこち行き来する。なんの話なんだろうと、しばしば置いてかれてしまう。

 だけど、そういうことをこそ、声に出さないと始まらないってときがある。

 お兄さんたちそれぞれの話。わんちゃんたちの話。剣道を始めたときのこと。勝ったとき。負けたとき。そのとき言われたこと。私に重ねたわんちゃんがどんなに寄り添ってくれたのか、から始まり、みんな自分のことしか考えてないという兄弟への愚痴に入って、それがなぜかお父さんへの文句にすり替わり、親族から言われたやなこととか、地元の剣道で女性差別モロだしおじさん有段者からの嫌がらせ話とかに繋がっていく。

 たまってたフラストレーションは、転じてなにか、願い、求めることを訴えているような気がする。直接、裏返しにしてわかるようなものかもしれないし、それらが壁となっていることで見えないなにかがトモに必死に呼びかけているのかもしれない。

 だけど、それはトモが見つけて出会うものだ。そしてしゃべればしゃべるほど、答えに近づけていけることがあるし? どうにも行きづまることもある。

 いまはどちらだろう。私にはわからない。

 こういうとき、どうしたらいいのか、ほんとによくわからないのだ。

 だけど、そばにいて、話を聞くことはできる。それを精いっぱいにする。

 少なくとも、トモの心は刺激に反応して、揺れている。そしてトモはこれを彫っている。雷に対する恐怖に直接アプローチしているようには思えないかもしれないけど、そんなことないんじゃないかなあ。

 たぶん、トモなりの進路と速度で歩いている。走りたいトモが、走れなくても歩きだしている。

 揺らぎ、刺激への反応には、その人がにじみ出る。

 私はそれを千葉に探しに行こうとしているし? トモも、私自身さえも、まさに、彫ることで至るなにかを探している。

 駄作になろうと構わない。

 彫らなきゃ、始まらない。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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