第二千八百九十話
渋谷の現場は相も変わらず警戒が続けられていて、警察による交通整備も行われていた。いくらなんでも繁華街なのに勘弁してほしいと、警官らの顔にうんざり成分がにじみ出ていた。顔のしわや隠せない疲労によってね。だけど捜査は進展していないようである。
ある程度さらって調べたあとでも警官が立っているのは、まだなにか調べたいからなのか。だとしたら警備に割かれた人は、さながらショップ店員が外で営業をするような感じ。座れない、休めない、気が抜けない。外れくじみたいなもの。
ようやくジロウ先輩が通りに入ってみた感じ、すこしも近づけそうにない。先生がたがいなければ隔離世から覗き見しにいくくらいの案が出せたけど、さすがにね。
「なにかあればいいけどね」
「なにもなかったりして」
愛生先輩とジロウ先輩が言いあうなか、後ろの車からクラクションを鳴らされてしまった。ジロウ先輩が「もう、いやなことするなあ」と文句を言いながらもアクセルペダルを踏む。緩やかに発進して坂道を進んでいく。
リエちゃん先生が高速に乗るよう伝えて、ジロウ先輩がぎゅっと緊張した。それを見て愛生先輩が「それじゃ寄り道してからにしません?」と提案。道案内をして、あれよあれよのうちに中目黒に到着。意外と近い。途中、あまり見慣れない開けた通りに日本らしからぬ建物や大きな建築物が並ぶ通りがあった。旧山手通りだ。ホノカさんが教えてくれたところによればデンマーク大使館とか、代官山のいろんな建物が建ち並ぶ場所とのこと。レストランだのなんだの、いちいち小洒落ていて圧倒される。あと、旧朝倉家住宅もある。一般公開されている、大正時代の邸宅と庭園である。それこそ映像作品の撮影に使えそうな風光明媚な場所なんだってさ。へええ。
坂を下り進んで、そのまま直進。片側一車線の道をうねうね進むと、途中で右手に日本体育大学を横切ることに。こんなところにあるんだ。日体大。その前には大きな駒沢オリンピック公園があったし? ファミレスもあったりするんだけど、愛生先輩はあれこれ話を振りながら案内。ようやく国道466号線にて右折。いわゆる環八通りである。そこから左折進入して東名高速道路に乗った。途中でファストフードのハンバーガーショップに寄ったけど、ぜんぶジロウ先輩が「まだ走りやすい」ルートなのだといまさら気づく。
期間限定バーガーのセットを選択。マドカとちまちまポテトを摘まみながら、ぼんやりと思案する。
世界は意味があるんじゃない。生まれたこと、生きていることに意味があるんじゃないように。
ただ、ある。
私たちは認識する過程であれこれ意味や定義、情報や物語、論理や価値なんかを付与している。個々人に好き勝手にやっているところ、ひとまず集団ではこれくらいの内容にしておくのが無難なものや幅などもあるし? それも結局は個々人が自分でどうにか調整するほかにないことだ。
意味にはじまり、あらゆるものが個々人や時と場所で変わる。
平塚さんが真夜中にぬっと背後からあらわれて「友達になろう」と言うのと、同じ学校に通うことになったキラリが照れながら「ともだちにならない?」っていうのとだと、おんなじ友達のお誘いでも、意味がぐっと変わる。
だいたい、友達の定義自体、人によってあんまり違いすぎるよね。恋愛とおんなじくらいちがう。
基本的には一事が万事こんな調子。だから「わかる」ことや「意味」を求める。「答え・解決」を求めるように。当たり前に。かつ切実に。でも、ちがう。世の中はまず、ただ「ある」ものに満ちあふれている。おまけにそれらはいずれも多種多様である。くくれるものじゃない。
その雑多な「ある」を許せない、というよりも、馴染めない。
シュウさんと訪ねたビルの女性は、とてもまともな生活をしているようには見えなかった。なによりも、あそこには「男が愛人と過ごす」以外のものが「ない」。「ある」のは「愛人」と「セックスを楽しめる部屋」、そして「すこしの間くつろげる場所」だけ。それ以外の「ある」は一切、排除されていた。
排除されているのは「女性が名前のあるひとりの人間として、まずあることによって生じるすべて」であったり「男が妊娠させて女性が生んだこども」であったり「こどもが「ひとりの人間」として「ある」ことによって生じるすべて」であったりする。男のための「ある」も、ない。あそこにはただ、愛人とセックスするため、すこしの間だけリラックスできる場所だけがある。それだけ。
それが逆に生々しくて、きつかった。すこし汚れてくたびれていたウサギの人形くらいだ。あの無駄を拒んで片づけられた空間に、彼女の生活が「ある」と感じられた要素は。ただ、それだけ。
あんな場所で過ごしていたら、頭がどうにかなってしまいそう。男の求める役割、生活だけが、あの場所では許されている。それ以外はすべて「ない」んだ。「いらない」のでさえない。ただ「ない」。
彼女の意志や選択、行動の余地が一切ない。もしそれでぼんやり過ごせているのなら、それがもう、かなり心配な状態だ。
彼女のような人が、他にもいる。たくさんいる。
警察はスルー。彼女も別にそれを望まない。そんな状況が、たくさん。
どうにかなりそうだ。
でも、やっぱり私の論理でなぎ倒していくことはできない。いろんな背景や経緯があって、私と異なる他者がそれぞれに多種多様な人生観のもとに、いまを生きているのだから。どうしたいのか尋ねたり、なにかあったら教えてって言ったりするのが精いっぱい。それさえできずに立ち去るしかなかったのが、小骨のように引っかかっている。
そんなの世の中にごまんとある、なんてシュウさんは仄めかしていたけど、それは目の前のことをほったらかす理由にはならない。だけど押しつけることを正当化する理由もない。
基本、面倒なのだ。私たちがお互いを配慮、尊重して生きるのは。ずっとその繰り返し。
なにかをなんとかできないか。ずっと、その焦燥感にお尻を蹴飛ばされるような気分だ。
逆にいえば「意味」や「ある」ものを求めてやまず、すべてに重ねて見るときにはもう、かなりやられてる。強迫観念をやまほど抱えてそうでもある。私たちが自然のなかでぼんやりしたり、星や海をただじーっと眺めていることで楽になるのは、私たちの意味づけやあるという定義付けがとても追いつかないものに囲まれることで、ようやく、「意味」や「ある」ことへの執着からひとときだけ解放されるからなのかもしれない。
いちいち考えないじゃん。ね?
波音のひとつひとつの意味も。砂の先の意味も。木々の意味も。落ちた葉っぱの意味も。昆虫や動物たちの意味も。それを眺めることの意味も。「ある」も。考えたってわからないし、わからなくたっていい。でしょ?
川の水音を聞くのも心地いい。川底の石や、その下で生きる水生昆虫たちとかの意味も。
もちろん考えたっていい。調べたっていい。物語を思い描いたり、思案したって構わない。答えに到達できなくたっていいし? 水質調査や生態系の検査なども、即座に答えを出せるものじゃない。手間がかかるし、かけていいじゃない。ね?
たださ。
「まずあるもの」から読み取るのと、自分の「意味」や「ある」を通して「まずあるもの」を捉えるのって、まるで異なる。研究や調査、検査は前者。だけど私たちがしがちなのは、後者。なんなら書籍を読むかぎり、研究者たちさえしばしば前者をやりがち。
切りかえるのは、簡単じゃない。
世界のあらゆる「ただある」「まずある」ものを、そのまま見つめて、聞いて、感じて、考えるのは本当にむずかしい。
そもそも自分自身が「ただある」「まずある」ところから始めるのも、再開するのも、まああ。むずかしいよね。
なにかを成し遂げなくても、なにかをしなきゃいけないわけでもなくて、まず、ただ「ある」。
でも、それを許せない人たちがいる。それこそ「ある」から許せないし? 「意味」が許せない。具体的に排除したり攻撃したり、差別したりする。能力主義者なら「能力がない」という「ある」「意味」を許せない。「効率・合理」の主義者なら「主義に反する人・状態・もの」という「ある」「意味」を許せない。転じて彼らはまさに自分の許せなさという強迫観念に苛まれて生きているし? それによって他者への関わりや加害を正当化・責任転嫁・免罪しているとも言える。
社会運動や改革、革命が必要だと思う。だけど暴力を積極的に行使したり、差別を振りまいたりみたいなのも混じる。それこそ「困っている人たち」への支援に「そこでの支援がなくても対応できる人たち」がただ乗りするような感じで、混じる。
アメリカの社会福祉の話だったかなー。それでも「ただ乗りする人がいる」から「やらない」よりも、「やる」ことで「困っている人たち」への支援を実現したほうがよっぽどマシだから「やる」っていう。
実際、それはそう。
ああだこうだと「やらない」よりも、やって「困っている人たち」がすこしでも助かるほうがマシ。だから、その選択はよくわかる。そのための行動だって、よくわかる。
過去には剣、日本なら刀、やがて銃や爆弾で世界は切り拓かれてきた。大勢の犠牲を出して、取り返しのつかない悲劇を何度も繰り返して、いまに至る。日本は不戦の誓いを立てた。世界の恒久平和を掲げた。私はそれを尊くて、張る価値のあるものだと信じている。だ、け、ど。敗戦前の日本のろくでもなさが、敗戦によってまるっと綺麗に切りかわったわけじゃない。
アニメ映画「ゲゲゲの謎」がちょこっと触れていたけど、戦時中にろくでもない人たちが戦後にどんな躍進を遂げたのか、調べてみるとけっこうめまいがするレベル。
戦前の闘争は戦後になってまるっと綺麗になくなったのかっていったら、そんなこともない。日本の社会運動が世界に負けじと、ものによっては猛烈に暴力的なのだって「経緯」がある。悪名高い特高だってまるっと綺麗に漂白されたわけじゃない。
私は小学校になじめなかったけど、中学校はすっごく大事にしてもらえた実感がある。そういう価値基準は、なんとなく全体にも適用されるとふんわり思っていたけど、もちろん、そんなことはない。
まずある、ただあるものに、いろんな経緯だなんだも「ある」。それってまあまあ手に負えない膨大な情報量でさ?
あの子だけじゃないよね。貧困のスラムで身を売る人生も、やまほどあり。出生証明書もなくて生きるのに苦労するばかりのこどももいてさ。映画「存在のない子供たち」じゃ、それこそ地域暮らしの人たちの貧困の実態や、難民になりかねない状態で働く瀬戸際の人の人生を描いていた。
あるんだ。あらゆるものが、ある。
貧困だけじゃない。飢餓も、紛争や戦争も。そこまで極端じゃないものだって、膨大に「ある」。
浮き彫りになるのは、足りないこと。とにかくもう、あらゆることが足りないんだ。
たとえばこどもの頃には当たり前に信じられる完全なる平和を実際に目指すのなら、その基盤に民主主義を選び、その成長・発達を目指すなら? 足りないだらけ。政治や宗教、主義主張の正しさ、つぶし合いになる。資本があるほど、多くを責める権利があるかのように振る舞う。そんな世の中では、足りないものが多すぎる。
それでなくても、私たちはひとりが生きるために多くのものを必要とする。そして、その多くのものを十分すぎるほど得られる人もいれば、あまりにも足りなすぎる人もいる。そこには明確に格差があるし? 生まれによって、運によって、あまりに大きく左右されすぎる。
資本主義をひとまず継続するとして、その問題をあきらかにしては修正、対応していくのが現状なのだとして、その場合にはサンデルやピケティが言うとおり、競争と格差が生じる。ある程度の競争と格差が生じることを前提にしたとき、その調整弁として期待するものは多い。富裕層や企業への税徴収能力の向上と拡大だ。とりわけビリオネアをはじめとする、あまりにも巨大な資本への介入能力の向上。それによる資本の再分配能力の向上と発展が欠かせない。
それにしたって、結局は、足りないものが多すぎる。それに基本的に政府や政治は富める者側に立脚することが多いし? 実際、政治にお金は必要だ。政治家はお金を欲しがる人をゼロにすることなんかできやしないだろうしさ? むずかしいよね。そのへん。むずかしいのに、なにが足りないのかさえ私にはよくわからないくらいだ。
だからだろうか。
あるのと、ないのとの調整をし始めるのは。
あるのを前提に対応しようとすると、面倒なことが増えすぎるから。手間で、厄介で、うんざりするから、あるのをなくそうとする。とりわけ、ストレス・ダメージにつながる「ある」ものを。
本当に必要なのは、ちがう。寛容を私は選ぶ。寛容を実現するために必要な、あらゆるものを欲しながら。ただ寛容であれなんて実現不可能な夢を見るのではなくて、実現のために、足りないものを探して、補っていくべきだと考える。
「うん?」
「どしたの」
マドカが隣でごそごそとスマホを出した。ロックを外して画面をじっと眺める。
覗きこむと私にも見えるように角度を調節してくれる。
理華ちゃんからのメッセージだった。
『だれかをクローンにできるなら、なにをしますか?』
それだけ。
それだけの問いからの、長い長い入力中表示。
マドカが首を傾げる横で、私は思い描いていた。千葉の住宅街の人々がまるごとごっそり「入れ替わっていた」こと。そばに私塾があったこと。無関係とは思えない。いまさらだけどね。
なんらかの実験なのだとして、その目的とはなにか。社長たちへの対処を通じて、気づけば後回しになっていた問いかけだ。それに何度か振り返ってはみたものの、どうアプローチすればいいのかわからない問いでもあった。
だけど、もしも「だれかをクローンにできるなら、なにをするのか」というアプローチで見るのなら、どうなるだろう。
社長たちがプロトタイプや、その過程ないし後に”作られた”として千葉の住宅街の人々はどうか。果たして”いつ”なのか。黒輪廻の黒澄さんがいなくなって、世界に霊子が溢れてからだとしたら? そう何段階も試みたり、投資したりする時間的な余裕などなかったはずだ。
だとしたら、千葉の住宅街の実験は、それこそ肝いりだったのではないか。初手の、大事な実験だったのではないか?
それなら、その目的はかなり敵にとって重要なものになる。少なくとも優先度の点においてはね。
「政治家の殺害や富豪への攻撃はなぜか。社長たちがいちいち関与したのはなぜなのか」
見れば理華ちゃんから追加のメッセージが送られてきていた。それをマドカが読みあげては思案している。どう共有するのか。あまりにも散文的な内容で、整理がつかないんだろう。
それよりも私は気になって気になって仕方がなくなってきた。
あの街にはいったい、なにが「あった」のか。そしていったいなにが「ない」ことにされたのか。
車は西に向かって快調に走っている。だけど気持ちは東に向かう。
どんな夢見がちなことさえ、それを唱える戦いをする人が必要だ。日常をきちんと生きる、そういう戦いをする人がいる。そんな社会じゃとても生きていけやしないことを訴える、そういう戦いをする人だっている。
なくしたいから、責めたり奪ったりする人もいる。
世界から戦いがなくなる日は来ないのかもしれない。
だれかがなにかを引いたのかもしれない。そこに挑むことになるのかもしれない。
あの街にはいったい、なにがあって、なにが取り去られたんだろう。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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