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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千八百八十六話

 



 思いのほかお母さんはやつれていた。

 壮絶な戦いだったようだ。

 鎮痛剤の切れ目がきたら? もちろん痛む。これが帝王切開なら、切開した箇所がずきずきくる。出血すると体力がぐっと落ちる。いろいろコントロールしてもらえるとしても、術前を維持できるわけじゃない。変化を経ている。

 お父さんがずっと付き添ってくれていて、赤ちゃんも見せてもらえた。しっかりと保護された環境下で、すやすやと眠っている。アダムに連なるなにかを感じることもなく、私みたいに獣憑きということもない。お姉ちゃんみたいに地獄の炎がうんたらーみたいなこともなし。ただただ健やかな赤ちゃん。顔がしわくちゃに見える。まだ触れたり抱っこしたりっていう機会は通そう。構わない。楽しみが増えるから。

 ぷちたちにも見せてあげたい。

 手足がほんとにちんまい。頭がおっきい。私たちは赤ちゃんの、そのずんぐりむっくり度合いに保護したいと願うようにできている、のだそう。ほんとかどうかはわからないけど、同じ哺乳類動物の赤ちゃんたちも含め、そのずんぐりむっくり度合いを模したものはたくさんある。様々なマスコットたち、それこそ「ちいかわ」たちだってそう。

 まだ忙しいみたいで、私は早々に退散する。帰りに金色雲で空を飛びながら「なんとかなったあとなら、なんとでもなると思えるなあ」と振り返る。金色本を出して、足跡をどかどかつけてくるページを開いた。

 最初に討伐した痴漢野郎の触手だまのように、こいつの正体もわかってしまえばなんてことはなかった。えっちなことがしたいっていう、ただそれだけの頭。そして、足。

 足の意味だけよくわからない。最初、一人息子って話じゃなかったっけ。私の勘違い? でも実際には兄弟がいて、おまけにろくでもなく、十分な扱いを受けていなかったというのが本当なら、それはもう扱いが悪そうだ。でも、最初はさ? 祝福されてたんじゃないかな。足形を取って残しておくくらいには。

 自分を肯定してもらえる象徴が、足だったりして。そんでもって、頭部のぞうさんは、している最中は祝福を感じられる、みたいなことなのかな。


「こどもを大事にしているようには見えないけど」


 大事にされないし、しない。そのやり方も知らない。それだけじゃなくて、知ろうとしない。あるいは知っているやり方でいく。そのやり方だけをする。わかる範囲での理解で「大事にする・しない」の具体例を実践する。

 私本人の定義や価値観、知識じゃ推し量れない。他者のそれは。経験も、考えや感じたことも見えない。知らない。見えてこない。でも、まあ、そんなのは当たり前のことだ。

 日本語同士なら言葉が通じる? そうはいかない。それだって、当たり前。

 私たちは答えや解決を共有しているのではない。意味を共有しているのでもない。

 なんとなーく、ふわっと、それっぽく利用しているに過ぎない。

 日本語で「愛」というものが、他の言語だとちがう呼び方に変わる。だけど、呼び方だけじゃなくて捉え方も、意味するものも変わる。フランスは愛にまつわる表現がやまほどあるという。

 そのうえで、日本でも「愛」を語るとき、人によって様々な意味を持つ。

 同じ単語を使っていても、お互いが参照するのは自分自身の捉え方や体験、知識などであって、他者のそれではない。私たちは他者にはなれないしさ? 他者の思考を覗き見することもできないから当然だ。

 どんなに「これが合理的なんだよ」「これが正しいの」「答えはこれでしょ」って自分が思っていても、自分と同じ意見を持っていると見なせる人がいっぱいいても、他者の内面にある捉え方や体験、知識、価値観や定義、論理はすべて、別。

 まあでも、実際のところ、そんなに困らない。マジョリティ向けの社会においては、マジョリティ向けに言葉も定義も価値観や論理も先鋭化していく。なんとなく、ふわっと、そういうものだと思って済ませられるようになっていく。

 問題を感じるのは社会的障壁、バリアに阻まれてからだ。

 世の中はバリアフルにできている。

 不安や恐れ、好き嫌い、正しい間違い、ルール。そう聞いて連想するものが、マジョリティを脅かさないような仕組みになっている。そういう「思想」が強化された状態で生きている。こういう構造下で生きている人ほど、自分のマジョリティ性で押し切れなくなってから、ようやくバリアに気づく。だけど自分が作って、押しつけてきたバリアにはまだ、気づけない。わからない。

 トレンドは長らくバリアフリー。社会的障壁の解除、解消、なくしていく方向性。

 でも、じゃあ、現実には?

 障壁を作り、人を制限する。制限を前提にしている。

 だれもが過ごせるようにはなっていないし? そもそもマジョリティしか想定していない。転じて権力勾配の優位者が規定したものしか、想定していないし? 想定しない。

 財前氏のご家庭なら、それこそ財前氏による規定のみが正義だろう。

 正義も定義はそれぞれ。方法論や手段も、工程も。論理もね。話題を広げるほど誤差は増える。家庭のありようだって例外じゃない。人との関わりもね。

 家庭とは。恋だの愛だのは。こどもを作るということは。親になるということは? 父とはなにか。

 財前氏に不満を抱きながらも財前氏のやり方をトレースするだけになった。そんな過程に到達していたとしたって、別段、なんの不思議もない。

 だけど、本人にとって、それが望ましいか。自覚できるか。自認できるものか。ぜんぶちがう。人によるし? わかるとはかぎらない。わからないことがわかるともかぎらない。認められないかもしれない。


「性欲は、あって。行動力も、お金もあって。なんとなれば、パパに泣きつけるわけで」


 息子氏はずいぶんとまあ、放蕩の限りを尽くしているようだ。十王の裁きののちに地獄に向かうことになるのではないか。しかし現世で、彼を裁く動きに繋がらないなら、彼はまだまだ、何人でも不幸にしていくだろうし? 彼もまた不幸なままだろう。

 叱責、抑圧、支配。その前にそもそも強烈な無関心と軽蔑、蔑視。もしこんな家庭環境で過ごしたのなら、どうだろうか。

 さぞ生きにくかろうと思うけど、それが加害の正当化・責任転嫁・免罪にはならない。

 一方で、それ以外にないと思い込んだ状態における、性欲からの行動だとしたら? どうかな。

 今回、愛人であろうひとりの住まいを覗いたかぎりじゃあ生活感も、愛人との関係性も、こどもとの関係性も見えてくるようなものがひとつもなかった。あそこにはお金と人しかないように見えた。

 関係を結んだ先の具体的なものがなんにもないから、あんなに薄っぺらい生活環境になったのでは。ほったらかす。たまに来て、セックスする。こどもができたら認知しない形で生ませて、金は出すけど、それっきり。興味があるのはセックスだけ。それが長く続くのか。たぶん、続かない。興味の対象から外れたら、それでお金も払わなくなりそうだ。

 支払いが滞らない理由は口止めでも、養育費でも、その必要性があるからでもなく、セックスしたいし、甲斐性があると示したいからじゃないか。父親のように「金を出す」、それが家族であり、夫婦や親子の繋がりと思っているからではないか。

 だけど具体的に関わりにおいて、コミュニケーションを取る気なんかさらさらないし、なかったんだろうから、その手の交流がすこしもない。

 解雇されない。多額の報酬が得られる。遊んでいられる。それなら、そりゃあもう、人生、やりたい放題するしかないよね。それしかないんだろうけど、彼の選択と行動は彼を満たさない。だから、何人も愛人を作り、こどもを生ませて、なお止まらない。むしろ、その関わりを持つ相手を増やしてどうにかしようとしている。どうにもならないのに。

 歴史には明確に淫らな人物だとして記録された人が何名かいる。彫像の例えをしたから振り返るなら、ローマ帝国クラウディウス帝の妻、メッサリナ。帝王の妻になったうえで多くの愛人を持つ。帝や王なら子孫繁栄のために愛人をいくつもーなんて珍しくもない話だけど、妻が負けじとって明確に言われるとなると風向きが変わる。メッサリナは当時、買春する男を相手にする娼婦と性の技術を二十四時間もかけて競った、なんて話も残っているそうだ。すごい。いろんな悪評が残っている。

 性も、セックスも、愛人も、その定義や論理などは人によって異なるし? ということは人が影響を受ける環境や時代によっても異なる。記録した人によっても、記録の内容は変わる。記録はとても繊細な営みだし、それを読み取るのもそう。だから歴史の研究は面白くてたまらないんだろうし、じっくりと時間をかけて行うものなのだろう。

 息子氏は、どうなのか。


「私から見たら、あなたは加害者。くそったれ。うんちだ」


 ページにつけられる足跡を睨みながら呟く。

 でも、同時に彼は人で、情緒的・身体的反応を感じる存在である。

 あの真新しくて物の少ない広々とした部屋は、掃除業者などを頼んでいるのか埃っぽいこともなく、窓はつるつるぴかぴかだった。ぬいぐるみだけが異質なくらい。うちにあったら、むしろぬいぐるみだけが溶け込みそうだったけど。

 そんな彼女と彼の繋がりが伺えるものが、なにひとつとして存在しなかった。

 意味があるんだろうか。あの部屋に。あの生活に。彼女と彼の関わりに。

 私にはわからない。私は彼でも、彼女でもない。私の選択と行動は、彼と彼女の立場で行われたものではない。だから、まるでわからない。ただ、彼女のような人を、あの場所を、そして穏やかさともぬくもりとも無縁な場所で育つほかにないだろうこどもを思うと、それはもう加害にしか見えない。

 ふたりには、たぶん、ちがう。

 スマホが着信を告げる。手に取ってみると、シュウさんからだ。スライドして通話に切りかえる。


「どうしました?」

『見つかったよ。生きている。詳細は明かせないけど、いわゆるデートクラブで大いに楽しんでいる最中だった』

「そうですか」


 連絡がつかなかったのは、スマホの電源を切っていたから。大臣が指示できる範囲の人たちが見つけられなかったのは、そのデートクラブが非合法のもので、会員制という秘匿性の高いものだったから。


『同じようなマンションをいくつも回る羽目にならずに済んでホッとしたよ。生きていたのもね。おかげで気持ち良く報告できた。感謝する』

「いいえ。なによりです」


 既に大臣側には報告済みか。同じようなマンションね。何人もいる愛人たちを訪ねずに済んだのは、実際、朗報だろう。とても平静とはいえない女性たちを訪ねて、こどもがいるのに育児のいの字も見当たらない家を見て回り、男がしているセックスの痕跡ばかりが目に付く。いっそ通報するなり、弁護士に頼るよう伝えたり、福祉に繋がるよう提案したりするべきかと思うものばかり目につく。けれど、それは大臣の気に障る。警察の上司も良い顔をしない。ただ、見て回るだけ。ひたすらに気が滅入る。

 日本のドラマなら? まず間違いなく権力の犬として扱われる。悪役。それも端役。そんな立ち位置。だけど現実に体験するなら、目にするもののすべてがひたすらに陰鬱なものだ。


「こういうのって、通報できないんですか?」

『大金が支払われている。継続的に。物理的な暴力が振るわれているわけでなく、なにより壁になるのは、彼女たち本人がそれを望んでいない点にある』

「こどもたちは」

『私たちが向かう場所にはいないよ。少なくとも、マンションには、いない』


 こども伝いにどうにかする、というアプローチも取れない。会えないから。

 何人もいる。ひとりの男を軸に。だけど考え直してみると、そもそも二十歳にもなっていない私と同世代くらいの子が風俗で働くような状況になっているのも、ね。

 むごいことが起きている。

 ずっと。

 いまも。

 なのに、だれもがそこに触れない。

 そのまま維持される。

 そういう家庭が、やまほどある。家庭だけじゃないよね。学校や企業にも。


『気に病まないでと嘘でも言いたいところだけど、自分のできることをやるほかにない』


 それじゃあねと言って、シュウさんは通話を切った。

 すこし考えてから私は空を見上げる。

 少子高齢化。少子化が進む理由に晩婚化、あるいは未婚率の上昇などが挙げられる。けど、それだけ?

 学校や企業から人が減っている。その理由はなに。東京拒否、派遣の比率の上昇だけ? それだけ?

 家庭も、学校も、仕事も、居場所がない。生きにくい。自分だけじゃない。だれかが、確実につらい。

 放っておかれる。その繰り返し。延々と、繰り返されていく。

 遊園地のコーヒーカップのよう。回転速度が際限なく増していくコーヒーカップ。弾き出された人はもう戻れない。だけど内に留まるためにしがみついたら、今度はなかなか弾かれにくくなる。抜け出しにくくなる。消耗して、外に出る元気がなくなっていく。奪われていく。

 そういう社会に生きている。なかなかのディストピア。

 コーヒーカップの中に留まり、生きるための価値観や論理もあって、それは弾き飛ばした人を責めて苛む構造をしている。どっちもつらいけど、つらさの内訳は異なる。留まった報酬をより良くすることにしか意識は向かわず、排斥されたものすべてを切り捨て、より惨めにする方向にばかり向かっていく。

 ただ、それだけ。それだけの社会に生きている。なかなかどころじゃない。

 みんなで不幸になるための社会だ。

 不幸の度合い、その軽重の差だけがある。だけど、不幸になるための構造であることは変わらない。

 そこを認識しないためには? あとはもう意味や価値を集めて、自分はマシなんだと思えるように振る舞うだけ。考えちゃいけない。感じちゃいけない。消費・利用できる意味や価値だけを集めて、ハッピーで埋め尽くさないと。もう、まともではいられない。酔ってなきゃ。自分が麻痺できる価値観に。

 それで?

 男は今日も腰を振りに行く。射精してないと気がおかしくなるから。

 女はただただ家にいる。なにかを考えると、感じると、気が変になってしまうから。

 そんなふたりの元に戻れないこどもは、どこで、なにを感じて生きるのかもわからない。

 こういう家庭は、でも、きっと珍しくもなんともない。

 あいつや、あいつを作り出した連中をどうこうしたって、こんな現実のすこしも変えられない。財前氏は一次産業の人々が作ったレストランをはじめ、こども食堂なども視察したそうだ。官民が手を取り合い、苦難に対応している、すばらしい! みたいな文脈で。

 大嘘だ。

 政治の失策だ。現状は。政治だけ、そして政治家だけが悪いんじゃない。だけど、政治の問題であるかぎり、政治家がすべきことは「民間がなんとか互助をはじめたなら、それでいいじゃない」じゃない。「民が互助をしないでいいくらい豊かになるよう、あらゆる手を尽くす」ことだ。変えていくことだ。一次産業に補助金を。食費に苦労する家庭や個人を減らす経済や就職に向けた政策を。いずれも具体的に行っていくことだ。そのための不断の努力においては、もちろん私たちがすべき領域もある。

 でも、そういう方向性には決して向かわない。

 早すぎて過酷なコーヒーカップをより深刻にして、弾き飛ばした人は冷遇して、どんどん貧しくしていくばかり。ただ、それだけ。家庭、学校、労働、あらゆる場所が居づらく、生きにくく、つらくなるだけ。厳しさを増すためにより強化されていくばかりのディストピア。

 それでもなお、望みつづけられるのか? みたいな問いをテーマにした作品も、まあまあ見てきた。

 変わらず望み行うほかにない。

 綺麗事がやまほど必要なように、こういう状況だからこそ、あらゆる営みが必要なんだ。

 手を止めたり、離したりする人が増えれば増えるほど、現状は悪化するだけ。

 そうとわかっているから、選びつづける。

 となればもう答えや結果ありきじゃない。望みありきだ。

 いかに生きるのか。

 どんな自分や世界を望むのか。なにを望むのか。

 そこありきだ。


「こんな世界にようこそ、とは言いにくいよね」


 古代ギリシアやインドにはじまる生きること、生まれたことの哲学は、それこそ胎児にさえ向けられる。こんなにろくでもない世界では、そもそも生んでよかったのかという問いさえ立つ。

 それでも私たちは止まれないし、止められない。そのかぎりにおいては、精いっぱい、よかったという世界に向かっていくほかにない。


「だったら、ようこそって言えるようにしてかないと、なんだよね」


 それがいま、届かない人がやまほどいたとしても。できるかぎり。

 なのに同時に、かつ常に、その裾野を制限せず広めていくように。

 排除せず。排斥せず。そのためにも実りを増やして、広めていく。その繰り返しを、果てなく続けていくほかにない。

 だから必要だ。いくらでも、綺麗事が。あらゆる依存が。

 私には、どれだけのものを提供できるだろうか。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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