第二千八百八十話
デイヴィッド・ベネターは2006年に刊行した「生まれてこないほうが良かった」にて、誕生否定、あるいは非誕生優良の思想に論理的な裏づけを与えようとした。
生まれたら、快楽を得るか、苦しみを得るかする。
生まれなかったら? 快楽は生じないが、苦しみも生じない。
だったら生まれないほうが苦しみが増えない! ほら! 生まれないほうがいい! という具合。
そんな無茶な! そう思うけどさ? お父さんのビデオライブラリに見るアニメやドラマの悪党も、お母さんと見る昔の映画の悪党も、まあまあの比率で、この極端さに傾倒している。
すごく雑多に見ている。でも「快楽だけの人生などあり得ない。苦しみのほうが必然的に多い。だから人はそもそも生まれてこないほうが、生まれてくるよりも楽」っていう暴論が、なんだかそれっぽく響いてしまうことがあるのだろう。
原罪。生まれながらに人は罪を犯している。そういう教義もあるし? まさにその教義を曲解し、さらには曲解させて引きずり込む新興宗教やカルトが存在する。
「***しなければ価値がない」。このように紐づけて「価値がない状態だから、あなたは苦しい」し「救われない」とする。
救われるには「がんばって働いて生活する」のが資本主義、とりわけ新自由主義。「がんばって修行して生活する」のがいくつかのカルト教団の実態。そこには本質的には、あまり差がない。そして「価値がない」ものは「弱い」ので「利用・消費される」、それを正当化・責任転嫁・免罪する向きさえある。カルトなら教祖が若い少女たちを自らの性的加害の対象に好き放題。新自由主義なら搾取や対価の搾り取りに好き放題。それだけじゃあないけれど。
差別。差別に繋がる偏見、先入観、無知。干渉を極端に拒む姿勢。そして具体的な、加害。
それらを悪とするなら、どうだろうか。
生まれたら、人は善良でいるか、悪になるかする。一面的でないので、どんなに善良な人でも、ある側面では悪でいることも多い。
けれど生まれてこなければ、人は善良になることはないが、悪になることもない。
ほら! 生まれてこないほうが良い!
そんな無茶な。
そう思いはするけど、さっきよりも言い返しにくい。正直ね。
悪をなす者は死ねばいい、殺してしまおう。そんな無茶を言いだす人は、いる。なにか悲惨な加害事件が判明すると、必ず何割かはSNSに留まらず、野のどこかで口にする。口にしないまでも考える。
だから、そうした考えを体現するキャラクターが漫画やアニメやドラマ、映画、舞台にもいる。数えだしたらたぶん、きりがないくらい、多くいるだろう。
だけど要因をひとつ潰そうとすると、際限なく死と殺害を求めることになり、人が生まれること自体を肯定できなくなる。生きていることを肯定できなくなっていく。なぜなら「だれもがいつ悪をなすようになってもおかしくない」のだから。
なによりもまず死と殺害を始めると、今度は自分自身が死と殺害の対象にする必要性が生じる。自分を肯定できず、自分の行動を肯定できなくなるのだ。苦しみを感じるのなら生きているべきではないし、感じとれないのなら生まれるべきでさえないかもしれない。
するとベネターの無茶な理屈をはね除けられないことになる。転じてそれは、私たちは「生まれてくるべきではなかった」前提に立たねばならず、あらゆる快楽は苦しみをまぎらわすためのものでしかなくなっていく。
ニーチェは永遠回帰、そして運命愛の両輪をもって「生まれてきてよかった」、その方向へと生きる、その大いなる実験を個々人が挑んでいると考えたと私は見ている。まだ読んでいる途中だけど森岡正博「生まれてこないほうが良かったのか?」筑摩書房で、ニーチェの章まで目を通してきた感じ、ニーチェは答えや解決としての哲学を提示したのではなく、生きるという運動について、私はこのようにするという指針を打ち出したのだと思う。これまでのあらゆる哲学に接続して、自分の人生の、私から見てかなり悲惨な体験も取り入れながら、それでも「私はあらゆることが永遠のように回帰する人生、その運命を愛する」という方向性を見出したのではないか、と。
逆にいえば私たちは脳と身体が処理して引き起こす情緒的・身体的反応、そのなかでも痛みや苦しみにまつわるものに脆く、弱い。
新自由主義の観点から見たらギャツビーはとんでもない成功者だ。仮に大金を稼ぐ手段が密造などの犯罪にまつわるものでも、結果を出した。豪邸を建てて、毎晩のようにパーティーを開催する。あからさまなくらいの成功者。
だけど実際はちがう。
彼はそうした主義の優位者に猛烈なコンプレックスを抱えている。戦後、稼いで戻ると伝えた手紙を送ったのに、愛する人が選んだのはろくでもない富豪だ。浮気をする。ずっと同じ相手とよろしくやってるような富豪は、彼女を支配している。さして大事にしていない。こどもを生ませて世間体は保つが、その程度。その程度の男に、自分の望む「彼女との人生」を奪われて、ずっと、踏みにじられている。
あらゆる否定が彼に降り注ぐ。
生まれ。育ち。お金。彼女に選ばれなかったこと。選びなおしてもらえないこと。そんな彼女がいまも富豪を選んでいること。選びつづけていること。
苦しみだ。
富豪は悪だろう。
だけどギャツビーは彼女までは否定しない。できない。悪とも見なせない。なぜなら彼女こそ必要だからだ。自分の求める人生に。彼女が自分を選び、共に生きることを望んでやまないのだから。
彼は彼女からの肯定が欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。それさえあれば、ようやく、これまでの否定をなぎ払える。なかったことにできる。もう一度、やり直せる。
それって、結局、彼女自身を見ていないし? たとえば肯定・否定にせよ、考えや感じたことにせよ、彼女の表現を受けとめようとしていない。ただただ、ひたすらに自分の表現を認めることのみを求めているだけだ。
彼女は支えを必要としている。夫には、ない。ないけど、一度は愛していたし、家族として過ごしてもいるし、そのアドバンテージは彼女の片思いだとしても、一方通行だとしても、まだ、ある。だけど彼女にとって、ギャツビーにはない。
一見すると成功者のギャツビーだけど、彼は求めているのであって、支えになろうとはしていない。彼に応じたら一見して支えてくれるかのように振る舞うだろうけど、それは彼女に肯定してほしいからであって、彼女を支えたいからじゃあない。
ギャツビーは彼女を愛しているだろう。だけど、それ以上に救いを求めていて、肯定してもらいたがっていて、否定をなかったことにしてもらいたがっている。
サム・ライミが監督したスパイダーマン主演、トビー・マグワイアが演じるニック・キャラウェイはギャツビーに「人妻に求めすぎ」と指摘したけれど、無理だよね。ギャツビーは求めずにはいられない。
鞘から抜いた刀を収めるところが、彼女にしかないと決めてしまっている。彼が自分で、その刀を下ろして、落ち着くという選択を最初から除外している。
自分の抱える否定、痛み、苦しみは「彼女が自分を選び、共に未来を生きる」ことによってのみ救われるっていう選択と行動だ。そのために犯罪してでも大金を稼ぎ、豪邸を建てて、毎晩のようにパーティー。そこまでできるんならさ、と思いがちだけど、ちがう。すべてはみな「」の目的を達成するため。
そこまでした人生を、まるごと「さあ! きみが救って!」とぶつけるの。
重たいって。
支えを求めている人には、とりわけ重たすぎるって。
ギャツビーは「出会わなければよかった」「再会できなければよかった」みたいな否定にも向かわない。ひととき付き合っていた彼女のことを「付き合わなければよかった」と否定することもできない。
焦がれている。飢餓にある。
ゆるふわ恋愛漫画なら、その情熱と一途さは美化できる。そうとう薄めるから。だけど現実には? 無理だ。いつなにがどうなってもおかしくないくらい、ギャツビーは貯めこんでいる。ニックが忠告するくらい。だけど忠告じゃ足りなすぎる。
もしも本当に彼女と結ばれたいのなら、彼女の支えやこれまでの選択・行動を肯定できるくらいには、自分の否定とお付き合いできるようにならなきゃだし? そのために必要なのはお金でも社会的成功でもなんでもない。友人だ。腹を割って話す時間だ。関わりだ。
結ばれることをひととき置いて、再会した彼女との付き合いを続けられるよう調整することだ。それを目的とするにしたって必要なものは変わらない。
だけど彼は、それを選ばない。
求めているものしか見てないし、見えていないし、見たくないから。
そんなギャツビーの選択と行動を見ている本の読者や映画の観客である私たちは、それこそ気軽に言えちゃう。「***ならよかった」と。彼女以外を選んだら、とか。出会わなければ、とか。ギャツビーだけじゃなく、彼女や富豪についても好き勝手に言える。
でも、本人がどうかっていう話には踏み込めない。
その点についてニーチェも指摘しているようだ。とりわけ人生について哲学するなら、批評をするなら? 好き勝手に他者のありようにまで口だしできてしまえる。けれど、それはさながら哲学や批評が人よりも優位で、すべての仕組みに口だしできる権威があるかのような振る舞いだ。
余計なお世話である。
そのうえでニーチェはいかにして生きるのか、そのうえで「永遠回帰」「運命愛」に至ったのではないか。
永遠回帰。一瞬一瞬は永遠に回帰する。少年漫画の必殺技みたいだし? 映画ドクター・ストレンジが宇宙の怪物ドルマムゥを相手に使用した魔法のようでもある。お父さんが話してくれた谷川流「涼宮ハルヒの暴走」短編のアニメ版で、エンドレスエイトと呼ばれる回のように、同じことが起きる。アニメではほとんど同じことが繰り返されたそうで、転じて微細なちがいがあったそうだけどね。永遠回帰は、同じことが繰り返し起きる。永遠に何度だって。
運命愛。必然的なものを美しいものとして見てとること。欠けてはならないものを必然性と見なすこと。人生のすべてを欠けてはならないものと見なすこと。何事によらず現にそれがあるのとは違ったふうな在り方であってほしいなどとは思わないこと。決してね。前に向かっても後ろに向かっても、永劫にわたって絶対にだ。必然的なものを、愛すること。これまで否定されてきた生存の側面を、必然的としてのみならず、望ましいとしてとらえるということ。
ニーチェは「私の生きぬくがごときそうした実験哲学」と、自分の人生を称している。著者はこれを「自分の人生をひとつの「実験」として捉え、その実験としての人生を実際に生きぬくことを「哲学」としてみなしているのである」。「ニーチェにとって「哲学」とは、アカデミックな知の冒険というよりも、自分の人生とはいったい何なのか、その人生をどう生きていけばいいのかを、実際に生きながら実験的に探求していく知の営みであったのだ」。
私たちは観測する主体を主観から切り離すことができない。
となればもちろん「華麗なるギャツビー」を見るとき、私はギャツビーになることも、ニックになることもできない。彼女や富豪になることだって不可能だ。すべて、私という影響のもとに、私が観測するほかにない。他者の苦しみ、快楽を見たときも同じだ。
でもさ。著者が指摘するんだけど、ニーチェの永遠回帰と運命愛の両輪も、その方針による運動も、生半可には肯定できない。著者が挙げたのは長崎、広島への核投下。各地への空襲や東京大空襲。日本による中国侵略と虐殺。他にも足すなら沖縄戦における民間人への加害とか、関東大震災の際の虐殺行為とか。もうきりがない。国内に閉じても、まだまだある。世界中に裾野を広げれば、こんなものじゃなくなる。そんなものさえ「また起きる」ことを前提にできるか。受け入れられるか。無理だ。それらはなくすべきことであって、繰り返されてはならないものであり、私たちの営みはそのための支えとなるのがいい。
過去の敗北を帳消しにするために、もう一度? まさか。
否定のための行動は結局、苦しみと痛みに接続したままの表現だから、根本的に加害的になる。侵襲性の高いものになる。いや、なりかねない。
否定が悪ってことでもなし。肯定が善ってことでもなし。
そうではない、そうではない。
生まれるかぎり、生じる。苦しみも。否定も。でもね? 命が宿るときだって生じる。苦しみも。否定も。それだけじゃない。肯定も。快楽も。つまるところ、喜びもね。あらゆる過程が、あらゆる結果に存在する。結果さえ過程であり、語りきれるものではない。
だからこそニーチェは私はこう生きると表明するような哲学にたどり着いたのではないか。それは答えでも解決でもなく、彼なりの実験哲学とも言うべき境地に。
ここまで長く、私なりに整理してみたけれど、そこに答えも解決もない。
真理を示したのではなく、探求の道を示したとも言えるよね。ニーチェは。
彼の価値観からしたら、ギャツビーが彼女の愛と選択を求めて生きたのだって、ギャツビーにとっての探求の道だった。
私たちは「存在」している。一方で「生成」されるものがある。
ニーチェは「存在するものは、生成しない」「生成するものは、存在しない」としている。どちらも常に「ある」ものだ。固定化してどこまでもあり続けようとする「存在」と、たえず移り変わり破壊しつつ生み出していく「生成」。より根本的なのは「生成」。だけど、「生成に存在の性格を刻印すること」が権力への最高の意志となる。「すべてのものが回帰するということは、生成の世界の存在の世界への極限的近接である」。生成の世界が、存在の世界に極限的に近接する。永遠回帰においてはね。
すると「生成」のほうがより根源的であったはずで、価値が高いはずだったのに、気づけば「存在」の支配下に「生成」を置くことになっている。権力への最高の意志においては。
ハイデガーをはじめ、いろんな人が分析、検討しているようだけど、ひとまずそれは、おいといて!
246ページの著者の引用をすると「(…)「在るところのものに成ることを欲する」という文章に表われた、「存在」へと「成ろう」とする「生成」への意志およびその両者への愛がニーチェの到達点であると考えたい。そこでは「生成」が「存在」よりも根本的である」。
これっていきなり始めると、ぴんとこない。
存在と生成の話をする必要とは?
世界にものごとが「ある」というふうにだけ考えてしまうと、「ある」という形でしか考えられなくなる。そうとしか見なくなる。物事の変化を捉えられなくなる。「ある」という固定化、永続性に固執すると問題。
世界でものごとに「成る」というふうにだけ考えてしまうと、物事は常に「成る」そして「成りつづける」という形しか取れなくなる。そうなると今度は「ある」という固定化、永続性を捉えられなくなる。そうなっちゃうと「変化が前提」になるので「あるのかないのかわからない」。変化によってしか観測できなくなってしまう。
だからものごとには「ある」と「成る」の両側面があると捉えるのが受け入れられやすいという。
じゃあ、どう関わりあっているのかは? わからない。見えてこない。世界中の「生命の哲学」が格闘しつづけている問題なのだそうだ。てごわいね!
それぞれの一面をきちんと捉えるのは、かなりむずかしい。
ここまでの情報をまとめたうえで、私たちは他者をどれほど観測しきれるのだろうか?
まあ!
限界があるんだよね!
目的が噛みあわないこともある。
ニックはギャツビーに訴えたけど、どうにもならなかった。ギャツビーにある目的は、ギャツビーにしか変えられない。
いろんなドラマを見てきたけどさ。たとえば刑事モノなら、ギャツビーのような目的に犯罪が据えられていたら、それを止めるのは生半可なことではない。TOKYO MERなら? 現場医療に取り組む人たちの目的と、政治で点数を稼ぎたかったり対抗馬を潰したかったりする目的とがぶつかりあって、現場は常に大混乱だった。
選んで、行う。
それだけのことが、いつだってままならない。
これだと捉えた考えでさえ、フランクルも、そしてたぶんニーチェも、抱きつづけられたわけでもなければ、選び、行いつづけられたわけでもない。
考えることさえままならないのが私たちだ。
当たり前はないね。
捉えきれるものもないね?
すると「生まれてこないほうがよかった」として並べた捉え方が、どれほど「それっぽい」としても断言できるものではないし、ましてや他者をどうこうする根拠にも、正当化・責任転嫁・免罪の根拠にもならないことがわかるね。
世の中は混沌としているままだから、そりゃあもう! 数十億の人間がいて、もっと膨大な数の命がいてさ? 捉えきれないね!
ここまでやっても、まだ、わかることを前提にする?
「お疲れ」
「うん」
カナタが持ってきてくれたジョッキを受け取る。中身は果物ジュース。念のため。
ぷちたちがお気に入りのぬいぐるみを抱いて、お姉ちゃんたちと寝ている。キラリたちも泊まりに来ていて、リビングはソファやテーブルを端に寄せて、布団を並べている。和室もそう。リビングが女子、和室が男子の割り当て。今日は大入りだ。
怖いよな。
わからないことは、怖いよね。
終わらないかもしれない。ずっと続くのかもしれない。
それが怖くて、動けなくなる。飛び出せなくなる。
だめだ。それじゃ。
だけど、そういう人が安らげることも必要なんだ。
足りない。だから、足す。
理屈としてはわかりやすい。
医者が現場に行かなきゃ助けられない人がいるとかさ。ガン監督版のスーパーマンが「こどもが殺されているんだ!」と訴えて、できるかぎりのことをして戦争を止めようとするとかさ。
それだけのことが、ほんとにもう、むずかしい。
みんな、わかって生きてるんじゃない。みんな、正しくて生きてるわけでもない。
生まれて、生きている。
そのうえで、望みに向かって、生きている。
生きるかぎり、行動するかぎり、繋がるかぎり、快楽も苦悩も、あらゆる痛みも安らぎも生じる。
なのに選べない。選べるのはせいぜい、なにを望むのか。どう動くのか。それさえままならない。
それでも、生まれて、生きている。
怖いのに挑めるのは、ひとりじゃないからじゃない? 安らげる場所が待っていると、当たり前に信じられるからじゃない? 思い描ける安らぎの数が、支えがあるっていう実感があればこそじゃない?
だれも決死になんか、させちゃいけない。それはひとりぼっちだということだから。
みんなで決死になってもいけない。それは切り離して、孤独にさせることだから。
神は死んだ。でも、
「みんながいてよかった」
「ああ」
月夜にささやかな乾杯を。訪れる十一月に、去る十月に祝福を。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




