第二千八百七十七話
うちに帰るとお姉ちゃんがカボチャたちに飾りつけを施していた。目と鼻、口をくりぬいたかぼちゃにリボンをつけてみたり、方眼紙を切って吹きだしを作り「ようこそ」とか「たのしんで」とかを丸文字で書いていく。
「ただいま」
「お。手伝え。怖くないようにアレンジするぞ」
飾りつけに怖がっていた子もいたから、気にしてくれているんだろう。
さっそく手伝うことにする。手洗いうがいをしてから、荷物を部屋に置いて一階へ。廊下のあちこちにあるものからお姉ちゃんは手がけていた。つけてるリボンは明るくて薄い水色。花を飾りつけてみたり、テープで作ったリボンを玄関のそばに貼りつけてみせたりしている。
明るい色、親しみのあるデザインにしたいのかな。たしかにハロウィンって、おどろおどろしいところあるよね。金色を散らして術を使いながら変えていく。
「便利だな」
「お姉ちゃんはこういうの、しないの?」
「得手不得手がある。武に長けている反面、こういう、ちまっとしたのは性に合わない。春灯とちがって、我の力はこれだからな」
振り返ったお姉ちゃんが手のひらを向けてきた。ぼっと、すこし上に炎が生じる。真っ黒く燃える炎。お姉ちゃんの力の源。会得に苦労したという、地獄の炎。いくつもの段階があって、炎の色は力の段階を示すものだという。
手を握り締めると炎が消える。熱くないのかな。だいじょうぶそう?
「一人称が余だったり我だったりするけど、やっぱり閻魔さまの娘って、重たい?」
「軽くはないよ」
飾りつけに戻るお姉ちゃんを見る。手つきもなにも変わらない。声の調子も。
だけど、わからない。
アートマンの話。「~にあらず」。「ではない」。その繰り返しでしか認識できないもの。
アートマンに限った話じゃない。わかることを頼りにしすぎる私たちは「AはBである」を好む。
ロッククライミング、やったことないけどイメージはそれ。目で見て、手や足で触れて、圧をかけて支えにできるかをたしかめる。「わかる」を頼りにしないと、進んでいけない。そうでしょ?
でも「わかる」は同時に「済ませる」ことでもある。そしてもちろん「済まない」こともある。
カナタと真夜中にやった飾りつけが「暗めの夜」なら、お姉ちゃんと修正している飾りつけは「夜に明かりがともるお祭り会場」イメージ。
ケリはそうそうつかない。
手や足をかけるのに探った「わかる」は、その場のすべての情報を「わかる」わけではないし? 自分の認識に留まる。どう足掻いても、自分の内側から外のものを認識して理解することはできない。
そんなこと言ってたら生きていくのがたいへんすぎるから「わかる」を駆使する。娯楽も交流もなんでも「わかる」を求める。だけど実際は「わからない」ことが常にあり、「わからない」と付き合えないと困ることが多すぎる。
それはブッダの時代も同じだったよう。仏教にはブッダと弟子たちの考えが色濃く受け継がれた南方仏教がある。でも、それだけじゃない。ブッダの死後300年ほどののちにインドで起きた仏教運動が起きて新たに創作された仏典を大乗仏典とする。いわゆる大乗仏教である。中国に伝わり、やがて日本にも広まったのも、大乗仏教だ。
ブッダの教えに最も近く色濃く残っているのが原始仏典なのだそう。
生きることはつらく、苦しい。死んだら輪廻によって別の世界に生まれる。地獄、畜生、餓鬼、人、天の五つの世界を輪廻するのだ。そこでの生もつらくて、苦しい。やがて死に、輪廻。永遠に苦しみつづける。
天って聞くと苦しみがないかのようだけどね!
なのでつらく苦しい状態から解放されるべく、涅槃に至ることを目指す。解脱だ。
それには人間界で自分自身の執着、欲望、愛欲を断滅する。もう二度と輪廻によって別の世界に生まれなくてもいいという境地に達する。この安らぎの境地が、涅槃。
所有物を手放して、他人を愛するのをやめて、愛さない人といるのもやめる。いうなれば「出家ノスゝメ」である。
つらくて苦しい気持ちの消滅方法には原始仏典のひとつ、最古層の「スッタニパータ」にあるふたつの観察を用いる。「これが苦しみであり、その原因はこれである」と観察する第一の観察法。そして「これが苦しみの消滅であり、それを達成するための方法はこれである」と観察する第二の観察法。これを利用するのだ。
この考えをまとめて至ったのが四諦。したいね。
苦しみとはなにか。「なにか原因があって生じるものごとを経験する」ものすべてだ。
ここまでの参考元は変わらず森岡正博「生まれてこないほうが良かったのか?」筑摩書房なんだけど、ここからも面白い。
「すなわち、原因があってこの世に生起するあらゆるものは、時とともにその在り方を変えていき、同一にとどまるものはなにひとつない」。どんなにいいことだって、どんなに素敵な関係だって、必ず変わるでしょ? 愛情さえそうだ。だからブッダは「愛情を持つのは避けろ」とする。
むちゃくちゃネガティブ!
でも、ネガティブさに執着するとき、それはあまりにも合理的に思えてくる。
愛さなければ、愛することによって傷つくことがない。
当時はさ? 人って汚いみたいな感覚も強くあったのだそう。なにせ水を飲めば小便を、飯を食えば大便を出す。どっちも臭い。汚い。欲情を抱けば男は精液を垂らすし? 放っておけば身体がひどく臭く汚くなっていく。なので原始仏典「テーラガーター」には涅槃の境地に至るには「糞にまみれた蛇」のように人間の身体を避けなくてはいけないという趣旨の内容が記されているという。
すごいこと言うよね。
でも興味深いのがさ。私というもの、不滅の自我などというものはないとしているところ。私たちはむしろロッククライミングの例えでしたような「わかる」もの、足跡という形で蓄積する「わかる」ものによって、それがまるで不滅で不変で強固なものであるかのように振る舞う。
でもちがう。そんな自我はない。
思わぬ体験をするだけで自我は崩れる。見ず知らず、まるで言葉の通用しない環境にぽいっと放り出されるだけで、不変で強固であるはずの自我はたやすく崩れ去る。
そもそも死んだらどうなるのさ? って話もある。
なんであれ「わからない」を捨て去ることは、そもそも不可能なんだけど、ぜったいに意地でも意識しないっていう不自然な態度を取るのは危うい。
生きるのはつらくて苦しい。輪廻しちゃう。じゃあどうする? そこから解放されるために、こうする。
古代仏教だと「輪廻しちゃう」が加わる。これが古代ギリシアやヨーロッパ諸国、というよりもキリスト教圏かな。こっちだと「輪廻しちゃう」をとる感じ。
なんであれ「生まれたこと」「生きること」の否定に走りがちなのは、なんでじゃろ。
めげてたのかな。みんな。
わからないという余白や余地を残して備えておく、みたいな発想があまり見当たらないのが不思議。答えや解決ありきにしすぎちゃうところも謎。
傷や痛み、ストレスやダメージの絶対否定。絶対拒絶。
そういう、あり得ない目的を目指して無理を通そうとする。そのうえでの哲学と理論構築が数千年前からずっと繰り返し行われているのだと思うと、なかなかに怯む。
そりゃあ私はたしかにロッククライミングに例えたけど、実際はそんなことはないわけじゃん? 人生。傷や痛み、ストレスやダメージって横文字に言い換えてるだけじゃんかって話だけど、それはさておき失敗ややらかしもなにもかも、まるで踏み外したら直ちに人生が終わるかのような捉え方だ。
原始仏典によると、もっとひどいよね。くそまみれの身体って!
映画やドラマで見るカルトの勧誘に「あなたは罪にまみれてます」ってあるけどさ。実際のカルトはもっとずっと巧妙に人を信者にしつづけて何十年、何百年って規模だろうけども。
原罪という発想。あるいは人体がそも罪や穢れまみれという発想。そこには強烈な自己否定が見て取れる。でもさ。アートマンが「そうではない、そうではない」と否定を重ねて捉えていくとき、私たちのあらゆる体感も、体験も、同じように捉えて探求していくことができるじゃない?
真理の探求も、よりよいものはないか、解決できないか、できないならどうするかを探求するうえでも「そうではない、そうではない」は、「AはBである」と同じくらい大事な手段じゃないかな。
どちらも踏まえて試してみることの繰り返しなんじゃないのかな?
これを***するためには、これをしなければならない。
それを「AはBである」のように真理に据えちゃって「はいもうこれで揺るぎません、だめですぅ!」なんてやるから私たちはいくらでもおかしくなっていく。「そうではない」要素が常にあり、それについてどうするかの思考と行動が欠かせない。その点は、それこそ古代ギリシアや古代仏教の時代にさえあったのではないか。
まあ抽象的だよね。具体的にどうかを個別に捉えていかなきゃ始まらないんだけどさ。
たとえばこの飾りつけにしたって「私はこれでいいと思ったの! だから変えません! だめですぅ!」なんて怒る事例が、きっと世の中には存在するはず。「わかる」にかかる「私は」、その裏に潜む「このままでいい」し「このままがいい、さらにその下にある「もうなにもしたくない」「喜べばいいの!」「文句いうな!」みたいな、いろんな気持ちや情報の多層構造が、ストレスとダメージを伴いながら反応していく。
ふたつの観察法でどうにかなればいいけどさ。観察法を使う、以上おわりとはいかない。判断が生じる。うまくいかない場合はどうするの? 使えないときは? 使う体力や気力がないときは? 見つけた対処がどうにもならなかったら? どうにかなったはずが、どうにもなってなかったら?
現実はいつでも「そうではない、そうではない」ということが存在しつづけるものじゃん。
その苦しみ、つらさが私たちにはあまりにも多すぎるから救われるには「生まれないように」っていうのは極端。その極端さを政治的に「物語って」「AはBである」ことにして「わかる」、転じて「済ませる」具体的対象に求めるという暴挙にだって、私たちは出てきた。ナチや大日本帝国だけの話じゃなく。欧米圏での黒人差別、アジア系差別だけの話でもなく。富裕層の貧困層差別だけでもないし、自己責任論で生活できている層がそうでない層を差別するだけでもなく。際限なく、やまほどの具体例をもって。
そういうときに引きこもって「生まれ直すのをやめるために粛々と修行するのです」っていう生き方それ自体は否定しない。これまでに数えきれないほどの人が関わって、信じてきたものだろうし。
ただ、それにだって「そうではない」余地が常にあるのでは? と考える。
「もっと、こう、わくわくするものを出せないか?」
「たとえば?」
不意にお姉ちゃんに声をかけられて問い返す。
黙りこむお姉ちゃんとしばしのにらめっこ。ふたりして歩みよって、スマホで検索。なにかいいものはないかと探る。お化けのシールは怖すぎるからダメ。ガイコツやコウモリもアウト。同じ理由でクモもなし。
「キャラものはどうだ?」
「やっぱそれかな」
お姉ちゃんとうなずきあう。私の部屋のぬいぐるみたちに出場を願い、飾りつけて置いてみよう。それだけじゃなくて、私も新たにぷちたちに馴染み深いキャラクターのぬいぐるみを金色化け術で作っていく。
常に「そうではない」余地と付き合い、意識するのは苦しい。つらい。
出会いは別れ。生まれれば死ぬ。愛すれば失う。挑めばしくじる。
そんなのはごめんだから「生まれてこなければよかった」「生きていなければよかった」と否定する。
元気なときには「そんな極端な」と笑えても、引いてしまえても、あんまりつらいときには笑えない。むしろ、そう思わずにはいられなくなってしまう。
収容所で自殺したり、生きることをまるでしなくなって衰弱して死んでいったり、あるいは過酷な労働についに死んでしまったり。そんな地獄を体験したフランクルと生存者たちは、フランクルが記してみせたような「あらゆる苦しみ、つらさ、死ぬことさえ含めた生きることの意味を私たちは常に問われている」のであり「具体的な行動によって答えていくほかにない」という、そういう哲学に至る。けれど、常にそのように振る舞えたはずがなく、フランクル自身、それを認める記述を「夜と霧」に残している。
そうではないときが、私たちには常に襲いくる。
それがいやだから、引きこもる。あるいはもう、引きこもるほかになくなってしまう。人はそこまで追いつめられたり、自分を追いつめるものから出ることができなくなったりする。実際にね。
たとえばそれが「自宅」であるケースもあれば「安心して活動できる範囲、行動」であるケースもある。あるいは「行動様式」か、はたまた「価値観」か。
なんであれ、そういう状態に追い込まれると「そうではない」どころではない。とにかく「私はこうである」に引きこもる。それに全力を注ぐか、あるいは注がないと生きられなくなっている。
お姉ちゃんでいえば、閻魔さま夫婦の娘として生まれ変わったこと、そこから始まる様々な価値観や希望が転じて、お姉ちゃんの重荷にもなっている。だけど、閻魔さまたちはお姉ちゃんがすくすく元気に幸せに育ち、過ごせることを願っている。獄卒のみなさんも、そういう空気。だから重荷で終わらせることなく「そうではない」ところを脱力したり、改めたりしたっていい。何層も重なって複雑でややこしいところから、自分がほんとにしたいことはなにか探したっていい。答えや解決ありきよりも、まずは目的から。
実を言うと、それはあいつに対しても、私自身についても言えることだ。
あと、は。あれだね。
私にわかることは、私の一部のことだけ。ぷちたちのことで覚えていられることはあっても、それは残念ながら、ぷちたち自身の内面についてわかることじゃない。”お母さん”というものには、そこをこそわかる魔力があるべきだみたいな概念もあるけど、私は無理かな。
で、これにつらい苦しいをぶつけてわあわあするよりはさ?
「お姉ちゃん。あの子たちも飾りつけで遊べる余地を残しておかない?」
「えええ。完全に仕上げてどうぞのほうがよくないか?」
「それもひとつの形だけどさ。あの子たちみんな趣味ちがうし。好きにやってみたいところもあるんじゃないかなって。そのほうが、記憶に残るかもしれないじゃない?」
「そういうもんか?」
「お姉ちゃんだっていま、楽しいでしょ?」
悪くはないなと私から離れて背中を向ける。
こういうとき、大概、照れかくしなことが多い。恥ずかしがることないのに。
そうではない、そうではない。
姉は見せるのが不慣れなのか、それとも理想の姉像でもあるのか、あんまり私には見せてくれないんだよなあ。トウヤやぷちたちが相手なら、あんまり気にしてないみたいなんだけど。なんかねー。意地なのかな。双子でも年が近いとだめみたいな? 私にはさっぱりわからないけど。
改めてぬいぐるみ作りに戻ろうとしたとき、呼び鈴が鳴った。
「はぁあい!」
「春灯、いってこい」
「ええ?」
しょうがないな。ぬいぐるみたちを飾りつけるのに夢中なお姉ちゃんを見て、仕方なく玄関に向かう。
「はいはい、いまでまぁす」
声をあげながら鍵を解錠して扉を開く。そして、固まった。
「どうも。こんなのが送られてきたから、来ちゃった」
ミコさんが立っていた。スマホの画面を私に向けている。
メッセージアプリの私とのやりとりのなかに、送った覚えのない画像が私から送信されていた。
ぷちたちがそれぞれに、カボチャや人の顔を描いたメッセージカードのようだ。あの子たち、いったいいつの間に。私のスマホのロックを外して、勝手に送ったな!? なんとまあ!
「話したいことがありそうだし? ようやく少しだけ、時間が取れたから。麗子にも会ってきた」
「あ、お母さんどうでした?」
思わず尋ねると、ミコさんは「すこし長引いているみたいね。明日になるかも」と。でもだいじょうぶと、そうはっきり伝えてくれた。もちろん万が一は常に起こりえるけど、いまは、信じる以外に特にできることがない。
つづく!
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