第二千八百七十二話
状況を説明する。今日の上野での一件も含めてね。
そこまで聴いて、ようやくカナタの「またまたぁ」という眠そうな顔が険しくなった。
自分の股間を見下ろす。何度見ても、いつもの自分の股間にしか見えないのだろう。ジャージを履いているから、なおさら「まさか」と思うはず。恐る恐るおまたのジャージの布地を摘まんで、前に伸ばして隙間を作った。そして覗いている。パンツ越しに見ても股間は燃えてないのだろう。
「春灯の目の錯覚ってことは、ないんだよな?」
「その可能性もゼロじゃないけどね。でも見えてるものは見えてるものだしさ」
「だよなあ。瞳の力、ね」
パンツの布地も摘まんで引っ張って確認している。
カナタには見えない炎が私には見えている。よりにもよって、股間に!
「え。燃えちゃってるの? 俺の股間、だいじょうぶそう?」
泣き笑いのような顔でカナタが私を見た。
言葉を尽くして安心してもらいたいところだけど、私は目を伏せて顔を背けることしかできない。
「そんな!? え!? 俺の股間、燃えちゃうの!? いや燃えてるのか、じゃあ燃え尽きちゃうの!?」
「それがよくわからないの」
「よくわからないのぉ!? 股間が燃えてるのにぃ!?」
迫真の顔で訴えられても困る。
わからないものはわからないのだ。
「調べて!? 俺の股間の問題だよ!? 助けて!?」
「だよね」
腕を組んで考える。
「狐火を合わせてみる?」
「それ絶対燃えちゃわない!? ほんとに燃えちゃわない!? ねえ!」
「じゃあ、金色を注いで炎を具体化してみる?」
「それもやっぱり燃えちゃわない!? それか俺の股間がバケモノみたいになっちゃわない!?」
元気いいね!
あと可能性はあるね? 毛もじゃ、櫛まみれ。八尾の霊子に、現象ちゃん。これまで、いろんなものを対象に金色と同化させたり、取り込んだりしたうえで化かしてきたけど、どれも私の思うとおりにならないものばかりだったから。
「どうしよう。巨大な象さんになったら!」
カナタは混乱している!
「じゃあ、外で試す?」
「待って! 待ってくれ。これが俺の股間との、最後の別れになるかもしれないだろ?」
両手で股間を押さえて、腰を引く。
ずっと迫真の表情なのがつらい。
「実はずっと我慢していることがあるの」
「だめだ! よせ! いまの俺は、不埒なことはできない! お前の股間まで燃やしてしまうかもしれない!」
今日最大の忍耐を試された瞬間だった。
「わ、わ、笑うの、我慢するのが、ね」
「ひどい! 俺の股間の人生最大のピンチなのに!」
「ぶふっ」
そうだね。そうだよね。カナタのカナタさんのピンチだよね。
だめだ。そうとわかっていても、ちょっと面白いよ。
おかげでだいぶ、緊張が解けた。
「火。といえば喜びかな。あるいは心臓か。カナタは股間が喜ぶことがあった?」
「え!? ないよ」
「ほんとに?」
「そんな、だって。股間が喜ぶって、そんなのもう、さあ。あの、ほら。あれだろ?」
「なに?」
わかっているけどあえて言わないのは、だめかなあ。
「なんにもないから」
目を細めてみせると、カナタが目線をあちこちにさまよわせる。
「ないぞ!? ほんとだぞ!? 狐憑きの嗅覚で確認してもらってもいい!」
「ほんとは?」
「そりゃあ、そのう。いろいろあったけど春灯と過ごせてうれしいなって思って、ほっとしたというか。ぷちたちの舞台終わりにハグして幸せだったというか」
それで股間が喜びの炎に包まれるのは、ありや、なしや。
ちょっとクセがあるな。炎出現におけるありようの。
「ほんとのほんとに? 股間の無事に関わるよ?」
「――……ほんとだよ?」
目を背けても、カナタの尻尾がきゅっと窄まりおまたに逃げているところで感情が丸わかりだ。いまの状態を撮影して去年の出会ったばかりのカナタに見せて、リアクションを見てみたいくらいだ。
人ってほんと、長く付き合ってみても、まだまだ知らないところが出てくるね?
「カナタさん?」
「つ、作ってないもん、俺はまだ、ひとりあそび用のアイディアしか浮かんでないぞ? 春灯が言ったんだしぃ!」
「ふうん」
案外、あっさりと白状したな。
なるほど。喜びだ。あと私が提案したのもほんと。
あと、恥ずかしがりながら隠すことがそれか。
ならいっか。
「お札の喜びはなんだろう。カナタの股間の喜びも。プラスなのかな? マイナス?」
「満たされない欲を勘定したら、そりゃマイナスもあるけど。なにもない状態を基準にしたら、今日はプラスが多いぞ?」
「ハグもできたし?」
「うん」
あ。素直に認めた。
あっさりうなずかれると弱いな。
「ただ、上野で見たお札がプラスかって聞かれたら、けっこう困るな。お金と欲で考えると、火か? 喜びって感じ、あんまりなくないか?」
「そうかな」
思わず返事をしてから、自分で驚く。
だけど疑問を呈してみると、驚くほど納得してしまう。
「考えてみてよ。上野に集まる大半の人はお金に困ってないし、お店なんかまさにお金が動く場でしょ? 食い逃げ犯とか万引き犯とか、そこらじゅうに大勢いるってわけでもなし」
「被害額は大きいそうだけど、まあ、たしかに、そこら中にいたら困るな」
「でしょ?」
アメ横、繁華街。私の行ったお寿司屋さん。
基本的にお金を使う人と、儲けた人の集まりだ。そうなれば、そりゃあ、お金は喜びの炎に包まれていたとしても不思議じゃない。個々に「高えな」とか「ああなけなしなんだけどな」とかはあるだろうけどね。
「パチスロとか、競馬場とか行ったら、また話はちがうのかな?」
「たしかに賭博とお金なら、喜びだけじゃなさそうだけど。そりゃあ、そうか。普通に使う分には対価だもんな? 俺はああ、なくなっちゃうって感じがするけどなあ」
「それはそれで素直な感じ方じゃない?」
できれば安く済ませたい。
できれば無駄遣いしないで済ませたい。
物価高はずっと続いているし。
学生としては破格の報酬を私はもらっているけど、いまの自分の境遇を思えば十分じゃない。日用品や飲食物のグレードなんかあげたら、どうなることか恐ろしくてたまらない。スーパーのやっすいのでいいし、お肉は牛より豚か鶏でいい。野菜だってオーガニックだなんだより、もやしも含めて季節のものを、できるかぎりお安くがいい。
高校になるまで貯めに貯めた膨大なお年玉貯金も、タマちゃんと話して買った服や下着、化粧品だなんだであっという間に減っちゃったし? 出費はあげればきりがない。
だから実のところ、買い物は私がいちいち説明するまでもなく「よかった」「うれしい」喜びがある一方で「ああ、つらい」「こんなにお金がなくなっていくなんて」とうなだれるような悲しみもある。
運に恵まれた私はまだ、いまのところ悲嘆の買い物には、そう遭遇せずに済んでいる。けれど、それがいつまで続くかはわからない。
火垂るの墓で節子ちゃんを抱えて親戚のおばちゃんの家を出た清太は、お父さんの豊富な貯金を持っていた。南京事件に限らず、いろんな当時の大日本帝国軍の実状を記すものでは、しばしば「給与は実家や妻子に仕送り」している人がいたことに触れている。戦地でどんなむごいことをする人でもね。陸軍と海軍では、また趣が異なるそう。清太のお父さんは海軍の将校さんだったよね、たしか。そうなれば給与も仕送りも十分だったろうし? そりゃあ「こんな場所にいることはない」と出た、という。だけど、貯金がいくらあっても、それを引き下ろせなければ? 意味がない。
そうなると、預金通帳って喜びじゃなくなる。もっと複雑なものになる。
いまは私もカナタも、結婚しておらず、お互いにぷちを抱えたシングルだ。現世で見たら、それってシンパパ、シンママ状態。私の場合は大勢いるし、そうなるとお金には常に余裕がない。
なので「使ってうれしい」度合いの買い物って、そうそう身近じゃない。
逆に「使ってうれしい」買い物が当たり前ってなると? それはもう、観光とか、買いたいものを買いにきたとかいう状況じゃない? あねらぎさんと佐藤さんとお詣りした神社やお寺は祈ることによるかな。ああでも、美術館や動物園なんかは「使ってうれしい」じゃない? わくわくだよね。映画館もそうだしさ。
そう考えたら、上野を中心にしてるのは納得かな。浅草や秋葉原も全域をカバーできるくらい、もうちょっと術の対象範囲を広げてもいいくらいだ。電気街のなりを潜めて観光地化しているとよく聞く秋葉原に、いかにも日本の観光地の浅草。寅さんの場所。
「あるいはたんに、喜び以外が見えないだけかも」
「春灯の瞳の変化による、ね。ここが宝島なのに俺の股間が燃えて見えるのは、なんでだと思う?」
「経験値、かなあ。あとは、ううん」
もう両手で隠すのをやめたカナタの股間を見る。
「まあまあ身近で、わかりやすいところだからとか?」
「やめてよ! 見ないで! そんな目で!」
あほなことも言えるようになったカナタさんが感慨深くて泣ける。
ぷちたちのお芝居で涙した私の涙腺がおかしくなっているのか。それとも感動できる変化なのか。
お乳とおまたを手で隠してくねるカナタを見ていると、答えに悩むなあ。
ま、いっか。ユーモア、大事だし。
「勝手に見えちゃうのは困るなあ。ひとまず、股間はだいじょうぶかも」
「むしろ春灯の瞳が鍵になるか」
「もしかしたらね」
五行が見えるようになるのかもしれない、瞳。今度は両目の変化。いまのところは火、喜びだけかもしれない。確信に至らないのは、明確な喜びを、炎と関連づけて観測できるほどじゃないせい。
ぷちたちのゲネプロ終わりにみんなが炎に包まれて見えていたとしても不思議じゃないくらい、みんな大喜びだったのにな。芝居じゃなくさ。
仕組みがもうちょっとわからないぐらいで歯がゆい。
「喜びが可視化されるなら、もっと見えるようになりたいのにな」
「願いながら鍛えればどうにかなるものなのか? それって」
「さあ?」
瞳の術について詳しい知り合いなんていないからなあ。
みんなに相談するにしても、タイミングがなかなかなくってさ。特に今日は、ぷちたちのゲネプロがあったし。お母さんはこどもが産まれる準備に入ったし? もう頭がどうにかなりそうだよ!
欲を言えばもうちょい、普通の喜びから見えるようになりませんかね? とも思う。
けど逆に、お札、カナタの股間に見るのは、転じて私の懸念に繋がっているのでは? と推測することもできる。
カナタをなだめて映画を観るのに付き合いながら、考える。
私は当たり前に、ぷちたちが喜ぶって思ってるし、信じてる。不安に思ってない。不安なのは、あの子たちが劇で失敗して傷ついて泣いちゃわないか、傷ついちゃわないか、ケンカしちゃわないかだけ。
寝る前に買い込んできた飾り付けを、金色たちを使ってリビングから廊下、私の部屋に至るまで、ぜんぶを装飾する予定だ。早朝に起きる案もあったけど、目覚ましなんか仕掛けようものなら、あの子たちごと起こしてしまいかねない。なので、寝る前にやる。
あの子たちが喜んでくれたら、そりゃあうれしいけどね。サプライズな側面もあるし。でも基本は私がやりたいことだから、喜んでくれたらラッキーくらいの感覚だしなあ。
そりゃあ、もちろん、見たいよ? 喜んでくれるところ。
でも、どうだろ。
改めて考えると、見たい喜びって、私、そんなに意識したことないかも。それどころじゃなかったせいもあるだろうけど。
むしろ懸念する喜びとか、身構える喜びとかかな。
お札は上野の術によるものだと仮定するとして、カナタの股間にまつわる喜びとなると、ね。懸念が強い。警戒してるし。
こないだとちがってまじまじと見ているカナタさん。横目で確認するかぎり、集中している。あえて余計なことは言うまい。今日はぷちたちのお芝居を観て、なにか掴んだものがあると言っていたし、邪魔をしたくない。
自分にわからないなにかが自分にあるって、それだけで落ち着かないし、気味が悪い。
だけど現実には、そういうものがやまほどある。私は私の肉体について、細胞について理解していないことが多すぎる。脳細胞に始まり、爪を構成する物質に至るまで。
身体が病んでも、脳に異変が起きても、自分と付き合っていくほかに道はない。未知だらけの道しかないから、この変化とも付き合っていかなきゃならない。
きっかけはなに? 上野を歩いたこと? それだけで? なぜ喜びを懸念しなきゃいけなくて、それが見えるようになるの? なんにもわからないんだけど?
あいつがなにかを仕掛けたゆえの結果だとしたら、あいつはいったい、なにを目的にしてるんだろう。
今日の上野行脚なんか、あいつにはわからないはずじゃない?
いやでも、待て。私の中に潜んでいた。あいつ自身じゃなくて、あいつの一部が、なのかと思っているけどさ。だったら、ある程度のスケジュールは推測できるとしても不思議じゃないのでは?
仮に推測が立つにしても限定的だよね。
ハロウィンにあの子たちとパーティー。上野でお菓子を買った。そこから推測できるくらいのことはできそうだけど、なんでもかんでも見通せるわけじゃないはず。
だったら、その限定的な推測を用いて、あの現象を見せたと仮定する。
やっぱり意味がわからない。
もっとこう、露骨に攻撃するならしてきそうなものだ。でも、あいつは攻撃してこなかった。
黒もじゃと櫛の歯もそう。意味がわからない。
あいつはいったい、私になにをさせたいんだ? なにを見せたくて、なにを感じさせたいのか。
仮に私の瞳に特定のものが見えるようにしたいなら、その目的は、なに?
復讐したいなら、私をどう使いたいというのか。謎だ。さっぱりわからない。
見えているのは喜びなのか。
私が懸念するだれかの喜びで正しいのか。
正しいなら、あいつはいったい、そんなものを私に見えるようにして、なにを見せたいのか。
カナタが見ている映画と同じ。
途中から見始めた物語は謎ばかりが気になって、話に入っていけない。
カナタの股間はいまも燃えている。
気になるものがありすぎると、視野が狭まり、思索がむずかしくなる。
つづく!
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