第二千八百六十一話
あねらぎさんに連絡したら、すぐに来てくれた。
詳しく調べてもらう間、私はふたりのセダンの後部座席に座って、あねらぎさんがくれたお水のペットボトルをちびちび飲む。あねらぎさんが残ってくれて、佐藤さんが駐車場の管理人に連絡を取ったり、駐車場内にあいつの作業服に刺繍されていた外舘清掃につながる車両はないか調べてみたり、所轄に連絡したりしてくれる。佐藤さん、働きまくりである。
あねらぎさんがさぼっている、というわけでもない。ふたりのセダンを停車させたのは四階。彼女は霊子の糸で、霊子にあいつやおかしな痕跡が残っていないかを調べてくれたし? 私の金色本に収録した、あのもじゃもじゃと壊れた櫛を見てくれた。
「渋谷でしょ? このあたりだと氷川神社があるし、クシナダヒメかな」
「櫛だけに?」
「冗談のつもりじゃなくてね? 諸説あるけど、櫛は彼女の化身と言われているの」
「はあ」
スサノオさま。あのおじさんにも、伴侶がいる。それがクシナダヒメ。で、彼女の象徴が櫛である、と。
「たくさん、櫛がありますけど」
「あるねえ」
「ぜんぶ漏れなく壊れてますけど?」
「そうだねえ」
「おまけにもじゃもじゃの大量の髪とセットでしたけど」
「なんでだろうねえ?」
うう。いなされてしまう!
あねらぎさんにも具体的な推測が立たないみたい。でも、それはそう。あの髪の毛はなに。櫛はなに。あいつとの関係性は? だいたい、あいつはここでなにをしてたんだ。私がいるのをわかっていて待ち伏せ? あり得ない。私は今日、思いつきでここまで来たんだから。たまたまかち合ったか、私を見つけて嫌がらせをしたのか。
いや、なんで嫌がらせするの。目的はいったいなに。私をどうこうせずに、あっさり消えたけど。あいつはいったい、なにがしたかったんだろう。
なんにもわからない!
「でも、いろんな櫛があるね? 木製の櫛の壊れた歯が生えたって言っていたけど」
「櫛の歯」
「え、なに。ちがった?」
「いえ。歯って表現すると、生々しいなって。すみません、あってます」
櫛の歯が折れている。漏れなく。だから、もじゃもじゃ空間で生えた木は、言い換えればぜんぶが歯。櫛の歯だった。
「でも、その本のページにある櫛は美容室で目にする金属製のものから、百均で買えるようなプラスチックのものや、それこそ木製のものまでいろいろあるし、櫛の形も歯の密度も、てんでばらばらじゃない?」
「おぅ」
言われてみればたしかにそうだ。怖くてびびってすぐ閉じちゃったけど、改めて見直してみると、多種多様な櫛が積み重なっている。漏れなく歯がない。歯の根元に折れた痕がある。そう考えると、露骨で象徴的だ。クリミナル・マインドのよくあるフレーズか。でも、これはほんとに露骨。
「じゃあ、もじゃもじゃはなんだと思います?」
「そのページはほんとに不気味。真っ赤な、血まみれの手で叩いてくるんだもの」
もう見たくないと言わんばかりだ。同感。
もじゃもじゃのページは主張が激しい。
「ただ、そのもじゃもじゃと櫛を見ると髪の毛を連想するよね。髪はかつて、とても貴重なものだった」
ううん。なんだろ。
スサノオのおじさんとクシナダヒメ。縁を結んだふたりは縁結びの象徴としてまつられることがある。ヤマタノオロチに八人のうち、七人が食われた。捧げられる予定のクシナダヒメは、童女であったという。で、あのおじさんは「あいつを倒したら、そのチビは俺がもらう」として、見事に退治を成し遂げたので、童女をちょうだいして婚姻。後に、こどもを生ませたのだ。
彼女の名前には諸説あり、私が知るかぎりは、ふたつ。「クシ+ナダ」で、霊妙な稲田を表すもの。あるいは奇稲田。同音でありながら、異同がある。
邪なるものに、女を捧げよ。鎮まれ。鎮まれ。類型する話のひとつである。
鎮めたのであれば、女に産ませよ。増やせ、増やせ。これもセットになる。
女にとっては、どちらも地獄ではないか?
そんな問いを透明化して、なぜか女は自分を救った相手にすべてを捧げなければならなくなる。逃げ場はない。永遠に。自分で自分の人生を選び、生きることは許されない。絶対に。
「女の命、ですか」
「取引されてもいたし、いまでも条件さえ整えれば取引できるみたいよ?」
「途端に生臭い話になった」
「まあ、いろいろな方面からアプローチできるんじゃないかってこと」
「ううん」
あのもじゃもじゃが髪の毛なら、一体どういうことになるんだろうか。
わからないけど、わからないなりに考えてみよう。それはそれとして。
「佐藤さん、時間かかってますね」
「すぐ戻るでしょ。もう所轄と合流してるし、滅多なことは起きないって」
そういうのをフラグというのでは?
思いはしたけど言わなかった。言ったら本当になっちゃいそうで。
杞憂に過ぎず、なにもないまま私は駅まで送ってもらうことになる。男にまつわる情報も、外舘清掃にまつわる情報もなにもなし。まっすぐ帰るように言われて、渋々渋谷の改札を通り、山手線のホームへ。
スマホで検索してみる。
それなりにお見かけする名字だ。田中さんや鈴木さんほどじゃないにしてもね。でもって、一致したのはひとつだけ。北海道は札幌でやってる会社だ。昔ながらのホームページで、とても大きな規模には見えない。だいたい、ここは東京だし? そもそもホームページに映っている、気の良さそうな、薄い髪のおじさんの作業服の胸にある刺繍は、あいつのそれとはフォントもデザインもちがう。会社のロゴなのか、ホウキをデフォルメして、円で縁取るアイコンもある。関連性があるとは思えない。
どういうこった?
服はブラフ? でっちあげ? 変装用の衣装とか?
手が込んでる。でも、あいつはいまや指名手配犯。議事堂から出てきて、大勢を殺した下手人として見なされているんだから当然だ。「この顔にピンときたら」状態。
なにをどれくらい重要視すればいいのか、見当もつかなくて困る。
こういうのは自分で組み立てていけばいいって、最近まなんだばかりだけど、ついつい忘れるね?
「ん?」
なんか背中に圧を感じる。スマホを出して反射で確認してみると、ものすごい近距離にピアスがじゃらじゃらのちゃらいお兄さんが立っていた。ほとんど密着している。
きもちわる! こっわ!
ぞわぞわして、咳き込みながらスマホをいじる素振り。耳に当てて「あ、うんうん」と芝居を打ちながら離れる。せっかく最前列を取ったのに。回りをきょろきょろ見渡す振りをして確認。ついてきてない。気持ちの悪い痴漢野郎だった。
一瞬、右目の視界が真っ赤になる。前から歩いてくるおじさんが、明らかに進路を変更して私のほうに向かってきている。立ち止まってみせてから、小走りで真横にずれて回避。それでも追尾するように追いかけてくるおじさんにうんざりする。
どんだけ連鎖するんだ。駅の二連鎖はきついって。もうお腹いっぱいだ。
ホームの端っこに避難して、スマホで通話をするジェスチャーを継続しながら周囲を見渡す。あわただしい人の流れ。これ以上の厄介ごとがありませんようにと祈りながら待つ。言っても山手線だけに、すぐに次の電車がやってくる。
そのときだった。
私の真後ろに密着していた、あのちゃらいお兄さんが突然、走りだした。ホームドアもなく、すぐ脇に線路がある状況で。みんながぽかんとするか、気にせずにいる。
「え」
飛んだ。線路に向かって。減速する電車がなんのリアクションもなく、ゆっくりと止まっていく。
音はしない。だれもなにも言わない。当たり前にドアが開いて、乗客が乗り降りをする。そしてもちろん、惚けているうちに扉は閉まり、発車してしまう。
まばたきを繰り返した。周囲を見渡す。だれもなにも気にしていない。そんなはずがないのに。
え。心霊現象かなにか?
それにしたって、あまりにもきつい光景だった。恐る恐る、次の人の列ができないうちに線路に近づいてみる。黄色い線の内側から見渡してみるけれど、予期していた惨劇はなかった。というより、飛び降りなんてまるでなかったかのようだ。人もいなければ、人だったものが飛び散っているわけでもなかった。
「みたぁ?」
耳元で声がして、飛び上がりそうになる。
「みたぁ? ねえぇ。みたぁ?」
男の声だった。喉がからからに渇いて、衰弱しきっていそうな、弱々しい声だった。
「いたぁい。いたぁい。よぉ。みたぁ?」
いろいろ経験してきたくせに、こういうシンプルなのが一番怖いまである。何度だってスマホを出しての芝居をするぞ、私は。画面に反射で映りこんでいる。私に覆いかぶさるようにした、つぶれた人間の、のっぺりとしたなにかが。平べったい表面についた耳に、ピアスがじゃらじゃらとついている。赤黒く汚れた状態で。
お構いなしに私の隣に若いスーツ姿のお姉さんが立った。遅れてどこかの学校の制服姿の男子がふたり、私たちの後ろに並ぶ。
「みたぁ? みたぁ?」
男の声は続いている。それにスマホに反射しているってことは、光で認識できるものなわけで。頭がぐるぐるする。それでも声が未だに呼びかけ続けてくるものだからさ?
「あ! うん! やあやあ、ひさしぶりぃ!」
努めて明るい声を出して、その場から逃げた。
こんなところにいたくない。いられない。急いで階段を下りて改札を出る。ハチ公の真ん前まできて、わいわい集まる人のなかで、きょろきょろと見渡した。あいつはついてきていない。
なに。なんなの!? なにぃ!?
あいつのいやがらせか!? ホラー映画で観たような演出ばかり、しかけてきて!
しっかり効いた。あれは幻なのか、それとも過去にあったことなのか。私に幻覚を見せる術なのか。なんであれ、しっかり効いた。おまけにビビりすぎて、金色で霊子保存しとけばいいものを、すっかり忘れてしまった。くそ!
「あのぉ。テレビの撮影してるんですけど、どうですか?」
「おぉん!?」
若いお兄さんに呼びかけられて、思わずメンチを切ってしまった。いけない。荒ぶりすぎた。そそくさと退散する。だけど電車に乗る気にはなれなかった。かといって、タクシーなんてあり得ない。お金がもったいなさすぎる。考えてもみろ。一度もバレてない! 露出のありに! ここ最近は事件とセットで報じられてるわりに! だれにも気づかれていない! 圧倒的オーラ不足! あれか? やっぱり獣憑き状態にならないとわからないってか! そうでしょうよ!
ある意味、便利じゃね!?
便利だねぇ! 普通に活動できるからね!
「ふう」
どこか適当なビルの屋上か、階段から金色雲で上空に行って、とぼとぼ帰ろう。そうしよう。
方針は決まった。スクランブル交差点の前に歩いていく。いまは車の青信号。けっこうな通行量で、セダンタイプからトラックまで、忙しなく車間も狭く行き来している。交差点の向こう側の信号を見ようとして、肝が冷えた。
立っている。車が行き交う中を、女の人が立っている。黒のショートカットで、化粧気もなく、装飾品も身につけていない。赤く汚れたTシャツと下着だけ。靴なんか履いてない。彼女の手元に、男の首がぶら下がっている。白目を剥いて、口を半開きにしていた。それだけでも異様だが、半開きにしていた口から黒い毛が垂れていた。口の奥から、切断された首の下まで貫通している。咽頭から通したのか。毛を。
もう片手に持っているのは、ノコギリだった。血まみれだ。黒い毛が絡みついている。
だれも反応しない。彼女に。まるでいないかのように。
そもそも車も無視して走っている。ひとり混乱していると、大型トラックが彼女の立ち位置を通りすぎた。彼女は吹き飛ばされなかった。トラックが立ち去ると、当たり前のように、そこにいた。
だれも見ていないだけじゃなくて、彼女もまた、だれも見ていない。
なんだ。これ。
なんなんだ。これ。
私だけが、どうかしてしまったみたいだ。
『落ち着け』
十兵衛?
『動じるのは当然だ。動じていい。それを受け入れて、呼吸から整えろ』
平静な彼の提案に、まずは従う。そうだ。今日は散々な体験をした。あんなものを見て、平静でいられるわけがない。この動揺は認めていいもので、あとでめいっぱい慰める必要があるもの。それを認めていい。だいじょうぶ。それでも私は、だいじょうぶ。できることを思い出せ。できないことを意識してもなお、だいじょうぶかどうか考えろ。
邪を相手に戦ってきた。これくらい、なんでもない。はず!
だから深呼吸。そう意識している間に、今度はタマちゃんが「では聞け」と呼びかけてきた。
『ああしたものを見るのは久方ぶりじゃなあ? いつぞやに、成仏を求めて霊魂たちが群れを成してきた』
あの人たちよりも、よっぽど怨霊じみて見えるよ。
『良きにつけ悪しきにつけ、ぬしは力をつけてきた。それゆえに、霊子の記憶が見えたり、聞こえたりするようになってきておる』
『俺にはよくわからんが、それを望んでいるだろう?』
いつでもじゃないよ!? 十兵衛! 望んだときだけだよ!
『刀が生えるのと同じだろう』
『無意識の期待が、あのようなものを見たがる』
厄介! 自分がいっちばん、厄介!
望んでないってぇ! そう訴えても、無意識を切りかえられるはずもない。だって無意識なんだもの。
『関わるのでなければ、近づかぬこと』
タマちゃんの提案はごもっとも。
他の道を探そうとする。だけど、すぐに頓挫した。
あっちに行っても、こっちに行っても、どっちに行ってもいる! 怨霊みたいなのが、そこら中にいる! 霊子が記録した、だれかの痛みや怒り、絶望、その具体的な行為の実態が、見えちゃう見えちゃう!
すこしもうれしくない!
しょうがないから駅チカのでっかいビルに入り、トイレに逃げる。外に繋がる壁を化かして穴を開けて、こっそり抜け出すことにする。なんでもいい。とにかく、いまは人のいる場所から逃げたい。
「痛みの記録はなぜ消えないのかって?」
そんなの私が知りたいよ。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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