第二千八百五十六話
首筋に手を掛けられる。容赦なく締めつけられながら、見やる。
男は泣いていた。口角から泡を吹いて、眉間に尋常でない力を宿して私を睨みつけていた。手の力が強くなる。無駄に豪奢なベッドのマットに沈められる。
その衝動に疑う余地はない。お互いに承知している。なのに私が彼の頬に手を当てると、彼はひどく狼狽した。手の力が弱まる。微かに。
笑ったのだろう。私は。
「お前が」
彼は吠えて、力を取り戻した。肌と肉を通り越して骨まで食い込んできそうな彼の指に躊躇いはもはやない。
「どうして」
私よりも彼のほうが、よく喘ぐ。
「なんで、あんな」
見開いた瞳は私を探ろうと必死だった。それ以上に止められない殺意が、敵意が、憎悪のすべてが私から生きる力を奪い続けている。
「俺は」
涙は拭わない。私を殺そうとする男の涙などは。
「信じてたのに」
両の親指が首の中心にあてがわれて、ぐっと押し込まれる。貯めこんだ空気はもう残り少なく、意識が遠のいていく。だというのに痛みが増している。
「なんで、あんなヤツと」
よりにもよって。よりにもよって。
呪詛のように男は繰り返した。いつかは愛を交わしたベッドのうえで、いまでは殺意に覆いかぶさられて逃げ場を失っている。
これもひとつの結末なのかもしれない。それなら今際の際に一言残すくらいの贅沢を嗜んでみたっていい。
「あなただって、したくせに」
かすれた声で、自分で言ったよりはきっとたどたどしい響きであったろう。にも関わらず、男を打ちのめして、怯ませるには十分すぎた。
彼の手が離れる。その手で顔を拭い、それでもあふれる涙に諦めた。今度は私の胸元に伸びる。咳き込み、酸素を求める私の意志など確認することもない。
ぶつぶつと文句を口にする。俺が。あいつなんか。その他にもいろいろと言っているのだが、あまり頭に血が上っているのか、まともな単語にならない。
ブラウスが引き千切られて、下着を上にずらされる。そのまま胸に吸いついてくる。それだけじゃ足りないと気づいて、噛みついてきた。覆いかぶさった姿勢のままでスカートをめくり、下着を掴み、引きずり下ろす。乱暴に。引きちぎれたって構わないほどの力加減で。胸元に顔を埋めたままで腰を浮かして、ベルトを外そうと手間取り、うんざりしてスラックスごとずり下げて、そのまま腰を密着させようとしてきた。
まさにそのとき、鈍い音。
遅れて彼の身体から力が抜けて、のしかかってくる。
見ると、血相を変えた女性が私を見下ろしていた。その手に我が家の調度品であるランプシェードを持って、肩で呼吸をしていた。
「ぶっ、ぶぶぶ、無事ですか!?」
「ごほっ! ごほっ、はあ」
呼吸を落ち着かせながら、彼女にうなずいてみせる。
身体に力が入らない。男の身体があまりにも重たい。逃げられた試しがない。
「来てください!」
彼女が叫び、店員として対応を任せている男が車椅子を押してやってきた。そして状況を見るなり「なんて野郎だ!」と怒鳴り、顔を真っ赤にして近づいてくる。ふたりをなんとかなだめて、彼の下から引っ張り出してもらった。
ごろんと真横に転がして、着衣は直しておく。それだけでもふたりは怒りが収まらないのか、スマホで撮影を、いますぐ警察に通報を、なんて訴えてきた。
おかげでますますなだめるのに苦労した。
「なんで許すんですか!?」
「そうだよ、もうちょっとで殺されるところだったんでしょ!?」
妙齢の女性、そしてシニアになりかけている男性のふたりは、店の雇い主というだけの私をひどく心配していて、私のぶんまで怒ってくれている。そのことに心からの感謝を伝えながら、私は、首に手を当てる。痕が残ったろうか。そう思うと憂うつだった。説明に困るから。それから気絶している男を見下ろした。
恐れはある。手先の震えに気づく。止められそうにない。
ああそれでも、この哀れで惨めで弱くてみすぼらしい男に、抱いていた。
賭けていたのだ。
責めるのではなく、思いと共に尋ねてくれたら。
なじるのではなく、なにを捨ててでも共にいると誓ってくれたら。
暴力で支配するのではなく、犯そうとするのでもなく、ただただ抱き締めてくれたなら、彼を愛そうと。
賭けていたのだ。
「いま、オヤジさんが来てくれますから!」
「こんなとこいちゃだめだ。お嬢さま、ここを出て!」
「筋から言ったら、この男をたたき出すべきでしょう!」
「俺には手足がねえの!」
ふたりが言い争うなか、気絶して白目を剥いた男の醜い顔を眺める。
底は浅く、思慮に欠ける男だ。コンプレックスの固まりで、親への反抗心は強くても反比例して従うほかにない人生を過ごしてきた。そんな彼が、たぶん真っ当に人として捉えた最初の相手が自分なのだという自負があった。幼い自分と、年の離れた彼の関係は世間的には明らかに不適切でありながら、不適切まみれの人生を過ごした自分には、彼が救いだった。こんなに、ばかで、愚かで、みすぼらしい男が。
顔を寄せて、耳元にささやきかける。
「痛みにさようなら。不幸から卒業しないとね」
気絶している彼には聞こえないだろう。記録されないメッセージは、いっそ、通っていたつもりの心が空っぽのまま、身体だけいたずらに重ねて着た自分たちの最後にお似合いの幕引きだ。
五分も待たずに私服警官で馴染み深い男が狸みたいな愛きょうのある顔を歪ませて、現状を察した。彼は男の立場をよくよく理解しており、ベッドに膝をついて、気絶した男をなんとか苦労して肩を貸す形で立たせると、外に連れて行く。
「アオイさん。これ。ジャケット、持っていってあげて」
「え、あ、はい」
部屋の箪笥にかけたハンガーからジャケットを外して彼女に持たせた。議員バッジが隠れるように畳んで。
疲れ果てた思いで縁側へと逃れる。そうして、やっとひとり、寝転がる。
消化しきれないショックの数々に泣いてもいいよと自分を許したのに、涙はすこしも流れてくれない。あの男が自分のぶんまで勝手に涙を吸い取ってしまったかのように。
車のエンジン音が聞こえて、稼働音と共に遠ざかっていく。彼を連れ出してくれたのだろう。ひとり分の足音が戻ってくる。
「あの、真衣さん。病院に行きますか? 証拠保全と、あと、首。診てもらわないと」
「証拠はいりません。首は、ああ。そうか。痕が残ると、あの子たちが驚いちゃうか」
「みんな心配しますよ」
「キスマークは暖かい布を当てれば血流がよくなって色が消えやすくなるんです。これもその類いじゃないかな」
「無茶な力で圧迫されての内出血ですよ? 爪が刺さっているところもあるかも。感染症が心配です」
「大げさ」
「ちがいます」
側鎖に否定されて、渋々、病院に連れて行ってもらうことにした。マフラーで首回りを覆って隠す。肌寒い十月末。ちょうど都合がよかった。
近くの馴染みの個人経営クリニックを目指そうとしたが、付き添うと言ってきかないアオイによって総合病院に連れて行かれた。外傷の確認。首を絞められたので脳への影響はないか、いくつかの検査を受けさせられる。精神神経科にまで連れて行かれて「心的外傷を負ったかもしれないんです! 調べてください!」とアオイが言いだしたときには、ほとほと弱り果ててしまった。
おかげで一日仕事になってしまった。言葉を濁すとアオイが勝手に説明してしまうのでごまかそうにもごまかせず、本当に必要なのかどうかもわからない処方箋をいっぱいと、検査費用のかさんだ領収書に頭を抱えることにもなった。
「よかったです、ひとまず脳には悪い影響がないって」
「首筋の痕もいずれ消えるって言われたでしょう? 心配しすぎ」
「いや、真衣さんが心配しなさすぎです! 強姦される寸前だったんですよ!?」
急いで彼女の口を両手で覆ったが、遅すぎた。
病院の入り口で大きな声で余計なことを言ってしまったものだから、注目を浴びている。いたたまれず、アオイの手を握って引っ張り、逃げるように病院を出た。
その間にもアオイは「恋人同士や夫婦間でも合意のない性行為は暴力となります」などと法知識を元に、いかにあの男を裁くかを提案してくる。男に裁きを。彼女の運命は、歯車が噛みあって素早く回転しはじめているが、それは私の運命ではない。
代わりに「私がどうするかはさておいて、仮に訴えるとしたらどういう経緯になるの?」と尋ねると、アオイは司法修習生としていくつかの知識を復習するように述べて、説明してくれた。
それを音楽の代わりにして家に戻り、店はふたりに預けて奥に引っ込んだ。自室は気づけば綺麗に片づけられている。気を遣いにだれかがやってきたのか。やれやれ。
目を伏せる。彼の顔が浮かぶ。壊れきってしまったのに、まだ壊れかけている状態なのだと信じて繋ぎ止めているような、無理だらけの表情が訴えている。
すべて、おまえのせいだ。
すべて、きみが俺の思いどおりにならないせいだ。
きみがいてくれなきゃ困るのに。
どうして俺の願いのひとつも聞いちゃくれないんだ。
凝縮された私を食い破る欲のひとつひとつは、彼のためのものであって、私にはちり紙一枚の役にも立たない。
いままさにふたりでいるとき、ふたりに必要なのはふたりのための栄養。それ以外にない。じゃなきゃふたりという繋がりの花はあっという間に萎れて、枯れて、二度と次の花が咲かなくなる。けれど、彼はそんな摂理を理解していない。自分の欲しか見えていない。自分の人生の痛みに苦しみ、その安全基地に私を見出しただけ。その手段が未成年への淫行なのだから、私はとうに気づいていた。
この関係性に先はなく、賭けるまでもなく負けているのだと。
どれくらい横になって伏せっていたのだろう。アオイに「電話です」と揺り起こされて、受けとった受話器で用向きを聞く。有無を言わさぬ調子で呼び出されてしまい、受話器をアオイに返して、寝室で手短に制服姿に着替えた。裏手から家を出ると、当たり前のようにリムジンが停車している。あまりに目立つ出迎えにうんざりしながら、運転手が出てきて扉を開けるのを待ち、座席に腰掛ける。
抵抗の少ない振動のなか発進する車で会話はない。運転手と私のふたりしかいないのだから。やることもないので、腕を組んで疲れ果てた身体で目を伏せる。
「お疲れですか?」
「いろいろあったんです。今日の呼び出しも、たぶんそれ」
「左様でしたか。三十分ほどですが、お休みになりますか?」
「そうさせていただきます」
「では」
後部座席を見るための窓に仕切りが伸びて見えないようになる。
ゆったりとしたチェアに寝転がり、目を伏せた。
たちどころに脳裏にあの男の顔がよぎる。今日の、あの壊れた顔だけではない。いいときもあった。愛して、愛されていたと錯覚できたときもあった。そんなときの顔だって思い浮かべられるはずなのに、浮かばない。浮かぶのは、今日の顔。そして、今日の顔によく似て、老いた男の――……。
「花泉さま、到着しました」
運転手の声で、いまここが車内であることを思い出す。けだるい身体のなかで首筋が熱を帯びていた。枕を顔に押しつけられたときよりも触覚として残る、恨みの感触に目を伏せる。しかし、ずっと留まってはいられない。
扉に回って開けて待ってくれる運転手に礼を告げて、外に出る。石柱の門構えの先に三階建ての日本家屋がある。木はいずれも深い色が艶めいていて接ぐ箇所の装飾や金具よりもよほど優美さを主張していた。振り返ると高い壁とゲート付きの門が見える。門の先に至るまではまがりくねり、そうそう気軽に入ってくることのできない高級住宅街が並ぶ。
玄関に近づくと、ゆっくりとスムーズに扉が開かれる。左右に老いた女中がふたり。目を伏せて、決して来訪者を見ない。人による自動。電動のそれよりも無駄に金がかかっている。端に寄り、靴を脱いであがる。屈んで靴の向きを改めてから、立ち上がると、既に女中ふたりが先にあがって通路に立っていた。背中を向けている。
ふたりの後ろに立つと、彼女たちは歩きだす。互いに慇懃無礼。挨拶もしない。
屋内は寒々しい。掃除は行き届いている。資産として守るよう手入れを欠かすことのないよう、人を使っているのだ。料亭や旅館のように、あるいはそれ以上に廊下が綺麗に磨かれている。木材だけではない。前を歩くふたりから、ぷんと甘い香が匂う。
すこし日が暮れてきたが、明かりのついた部屋はない。襖越し、あるいは襖にあるガラス越しには人がいないことを示すようにほの暗い。
何度か通路を曲がり、統一感のない日本庭園を横目に長い通路を進んだ先にある茶室に案内された。ふたりは左右に分かれる。ただし、目を閉じた状態だ。その場に伏せて、神戸を垂れる。私が近づくと、ふたりが手を伸ばして襖を開けるのだ。
畳の並ぶ十二畳一間に呼び出し人がいた。座椅子に腰掛けて、棋譜を眺めている。口周りの白いヒゲ、禿頭。浅黒い肌をしているから、頭頂部に白い円の痣があるのがいやに目立つ。目元も額にも、口回りにも皺が深く刻まれていた。細く鋭い目つきは棋譜に向けられるばかりで、こちらを一瞥さえしない。ただ、
「入れ」
とだけ告げる。聞き馴染みのある、低く、太く、ひび割れた声で告げられた命令口調に内心うんざりしながらも部屋の中へ。背後で襖が滑らかに動き、そっと閉じられた。すり足でふたりして去っていく。
「真衣、座れ。話がある」
こちらの意志などすこしも気にしない。気にしたことがない。
背が低く傷ひとつない長卓に白い布が張られて透明なシートがかぶせられている。自分用に置かれているのであろう膨らんだ座布団に正座で座る。ちょうど手元に紙とペンが置いてある。
「署名しろ。アレを訴えず、騒がないと」
「息子の名前を呼ぶこともしないんですか」
「大勢を孕ませ生ませたなかで、最もマシな出来映えが、ただ政治家になるだけの男だった。アレで十分よ」
こともなげに言い放つ。これが彼にとっての当たり前。コンプライアンスだの配慮だのなんだの、すべて彼には不要物。人権のじの字も頭にはない。
「お前に生ませたアレが女でなければな」
全身が凍りつく。何度も浴びせられた言葉。いつまでも慣れることのできない、暴力。
「孝太朗がお前を孕ませて生んだのは男児だった。その点については評価しているよ」
彼はすこしも目線をあげない。こちらを見る必要がない。
「早く書きなさい。案ずるな。金はきちんと払う」
彼にとっての処理方法。取引のつもりなのだ。今日、花泉真衣の家を訪ねた大泉孝太朗がしでかした暴力に対する「対価」を支払い、終わりにする。
「それともなにか。孝太朗に未練でもあるのか? あんなでも、いまはスキャンダルは困る。無駄金を使わせないでくれ」
「ありません。ですから、ご心配に及びません。もっとも、今回はきちんといただきますが」
胆力を振り絞って答えて、書面を確認する。これが初めてではない。弁護士を入れることなど、目の前の男が相手では不可能だ。ただ粛々と対応する。この座布団に座ったであろう、他のあらゆる人たちと同じように。自分の首を絞めた、あの男のように。
「先日、議事堂に顔を出したそうだな。青澄の名代として」
麗子のことを名前で呼ばなかった点だけ、微かにではあるが、安堵した。目の前の男にとって女は道具であり、手段であることを自分は身をもって知っているから。
「なにも出ませんでした。彼女の、そしてあなたの想像どおり」
「どこの小倅が余計な真似をしたのかと思いきや、みな駒か」
「ご慧眼のとおりでございます」
揶揄するつもりで敬ってみせても刺さらない。
「つまらんな」
「背後に一連の事件を引き起こし、議事堂を占拠した者がいると専らの噂です」
「警察連中のくだらん噂など聞き流せ。お前も無駄なことに首を突っ込むな」
言い換えれば、これ以上関わるな、となる。
「なにかご存じなんですか?」
「真衣。お前に手に負える話ではない。娘と従業員を守り、己を守りたいのであれば、黙っていなさい」
名前で呼ばれることも、無力であると告げられることも、どちらも甚だしく認めがたく許しがたい。なによりも男は一度として自分を見ない。見る価値がないかのように。
ただ気になる点もある。彼は明らかになにかを知っている。
「三人目」
彼は不意に、奇妙なことを言いだした。
違和感から顔をあげると、初めて彼は私を見ていた。
「腹が空いているな。青澄が子を生むと聞いた。お前も頃合いではないか? 三人目。孕む気があるなら、話してやってもいい」
全身が瞬間的に熱を帯びた。激して怒鳴りつけたい、卓を叩きたい、そんなものでは済まない衝動が体内で暴れ狂う。
「それとも、お前の家に来た少女の腹を使うか。立沢とか言っていたな?」
「お戯れを」
必死に堪える。爪を肌に食い込ませて、耐える。ひたすらに。
監視されていて当然。自宅を訪れる者の人相と名前を把握されていて当然。対峙しているのは現代の妖怪、あるいは怪異のごとき権力を有する者。
大泉信太郎。過去に総理大臣にのぼりつめた、というだけではない。それだけでは説明できない様々な力を有する者。黒い噂の絶えない、底の知れない男。金だけではなく、数えきれない女性に加害を行い、こどもを生ませ、育てさせている。齢八十を超えて今なお筋肉質で太い体つきをしている。息子である孝太朗と同様に癇癪持ちで、一度頭に血が上ると手がつけられない。
「ならば、わかるな? 三人目だ。それ以外にないぞ、真衣」
これが初めてじゃない。
腹が空いていると。何度、言われてきた。この男に。
「価値なき者に金はいらん。酸素さえ無駄だ。環境を汚染する畜生にも劣る。そろそろ時限だぞ、真衣。そう長くは待たん。親のようには散りたくあるまい?」
歯を食いしばり、ひたすらに、耐える。
「真衣。今年の末まで待つ。記したなら帰りなさい」
紙を確認することさえしない。だれもそんなことなどできるはずがないのだと、彼はよく心得ている。だからただただ黙って、署名したのちに立ち上がり、踵を返す。当たり前に襖が開いて、女ふたりが待ち構えていた。
会釈もなにもしない。どうせ男はもう自分を見ていない。
ふたりの女の案内で玄関へと戻り、靴を履いて外に出る。待機していたリムジンの運転手が扉を開けてくれるので車内に戻り、己の身体を抱いた。鳥肌が立っている。ずっと。震えてもいた。怒りは当然ある。気持ち悪いと全身が叫んでいる。けれど、なによりもただただ恐ろしい。条件反射とはいえ、凍りついて固まってしまう己に、男による影響が傷として刻みつけられている事実が恐ろしい。
言うまでもなく男は犯罪者だ。女を「こどもを孕ませ生ませ、育てさせる」、ただそれだけの道具として見ている。かつての大名気取りで「自分は多くの子を生ませ、選りすぐりの子から後継者を選ぶ権利がある」と本気で思っている。あの邸宅で働いていた年かさの女たちは、いずれも男の寵愛をかつて受けた存在だ、と男は思っている。実際は男のせいで人生を狂わせ、他に行き場のない女性が身を寄せることを諦念と共に承諾せざるを得なかった、というのが実態だ。
あの男を仕留めるには、まだ、足りない。迂闊に挑めない。検察もあの男を仕留めようと何度か挑もうとして、その都度、必ず阻まれてきた。老獪な王を仕留めるのは、並大抵のことではない。
「お早いお戻りでほっとしました」
「滅多なことを言うものではないですよ」
運転手の言葉にそう返す。彼は大泉の運転手を務めて長いが、彼だけが一手に担っているわけではない。そして、彼の代打を務めた者は長続きした試しがない。ただ辞めた、といかないのが、あの男の怖いところである。
「いまならまだ、道が空いておりますからね」
「それはなによりです」
すこしも悪びれることなく、動じることなくごまかす運転手は一線を心得ている。自分の身を守るために超えてはならない一線を。だから運転手はだれも助けない。そもそも彼ごときにどうにかできるような、そんなたやすい相手ではない。
ぱりっとしたスーツに白い手袋。刈り揃えた白髪。眉毛に白髪が交じる壮年の運転手は、いったいどれだけの女を送り届けてきたのだろう。それが年端もいかない幼い女の子だったことが、いったいどれだけあったのだろう。
あの男の行為それ自体が、あの男を社会的破滅に追い込むものばかりだ。でありながら、男はいまも立派な邸宅で隠遁している。世の情報を敏感に察知しては、邸宅から駒を動かすように指示を出す。それだけで世界のすべてを掌握しているような気分なのだろう。
女に対してもそうだ。一度でも関心を抱き、関わりを持った女の全権は自分のものだと考えている。彼の言う腹、つまり子宮も、妊娠・出産も、育児も、すべて、彼の思いどおりになるべきだと当たり前に考えている。
異常者だ。
しかし、だれも彼に逆らえない。
いまの自分ではまだ、彼を仕留めることができない。脅されてしまった現状では、あまりにもむずかしい。立沢理華についてまで承知されているとなれば警戒せざるを得ない。
あの男は、だれがなにをどう嫌がるのかをようく承知している。娘にひとこと「私がお前の父だ」などと言われたら、私はきっと、生きていけない。なぜ孝太朗が気づき、問いつめてきたのか。その理由も定かではないが、親子喧嘩の末のことだと言われても納得はする。それくらい、頭に血がのぼると、ふたりともおかしくなる。その点においては、親子とも、よく似ている。
スマートフォンが通知音を鳴らした。取りだしてみるとアオイからメッセージが来ている。ニュースが出ているとあるので確認すると孝太朗が遊説中に暴行を受けたとあった。動画配信サービスで各メディアが既に病院から“妻”と出てきて、笑顔で愛想を振りまく場面を含めて配信していた。
ミス・インターナショナルで華々しい成果を残してNGOで活躍する才女が孝太朗の妻である。若く、美しく、おまけに賢い。さらには前に出ず、夫を立てる。第一子を出産、いまは育児に励んでいる。
そんな彼女が妊娠を発表する以前に、あの邸宅で、私は彼女を見ている。それがいったいどういう意味を持つのか、改めて説明するまでもない。そもそも彼女の父親が本当はだれなのか、という疑問の答えさえ、その出自と振る舞いからして明白すぎるように思える。
孝太朗に同情していたときもあった。
それももう、過去のこと。
物思いに耽っていたら車が停車した。聖徳記念絵画館、国立競技場などがある、自然あふれる場所。神宮についたのだ。
「いつものように、こちらでよろしいので?」
「ええ、どうも。帰りも気をつけて」
「花泉さまも」
ドアを開けて会釈をする彼に別れを告げて、神宮バッティングドームに向かう。プリペイドカードを購入して、とにかくバッティングに勤しむ。
怒りも恐れもなにもかも、すべて、打って、打って、打ちまくる。当たらなくても全力のフルスイングが肝心だ。
「いつまでも」
自分の思いどおりになると思うな。時代錯誤の変態クソ野郎が。
あいつもあいつだ。なんでもかんでもオヤジの言いなりか? バケモノじじいの息子がいやなら、それを上回るバケモノになってみせろ。人の首しめといて、許せないって、お前の怒りや憎悪は結局、オヤジへの敵意や対抗心に過ぎないんだろうが。気の迷いでも一度吐いた「愛してる」は生涯貫け! 二度と顔を見せるな。経緯がどうあれこどもができたんなら、奥さん共々大事にしろや、くそが!
「黙っていると、思うなよ!」
真芯で捉えて、思いきり振っていく。
◆
士道誠心学院高等部の生徒指導室に呼び出された立沢理華は、己の耳を疑った。
指導室には警視庁から来た隔離世対策室の佐藤と柊の両名だけではなく、緋迎シュウもいた。対して、こちらは教師が二名がいる。獅子王ライとニナの夫妻が自分のそばについている。
「信じられないかな。私の霊力は、獅子王ライ先生の自白を、刀で斬りつけずとも行える、というものだ。最もライ先生とは異なり、およそ加害的な欲に限るが」
「二年生、山吹マドカが似通った霊力を宿している。より広範にわたる欲の声を聞く、というものだ」
「彼女にも協力を依頼して国会を調べた。省庁にも回ってみた。被害の確認という名目で。しかし、一連の事件に連なる声を聞くことができなかった」
可能なかぎり思いつく相手に会ってもみたが、三名が会える範囲では、シロ。少なくとも議事堂の襲撃も、それ以前の専横な濫用状態においても、シロ。そもそも「人型に変えられていなかった者」も与党でさえ複数名おり、ことのほか単純な事例ではないことがわかった。捜査の難航から痛感するばかりである。
「そこで立沢理華くん。君の術について思い出したのだ。因果応報の術を使うと言うね?」
シュウの問いに理華はうなずく。
「それは相手の振る舞いを整理して、術者が選択した対象の具体的言動を、対象にそのまま返す、という性質だと理解しているが、合っているかな?」
これに理華はしばらく悩み、恐らくは、といくらかの留保を置いてうなずいてみせる。しかし、シュウにはそれで十分だった。
「なら、術の習熟次第では、対象の過去の振る舞いを具体的に覗き見ることができるようにはならないだろうか?」
まさにその提案こそがシュウの今日の来訪の狙いだと理華は察した。彼女が入室する以前には、平塚などの教師が呼び出されて質問に応じていたが、それが十分な情報に繋がった様子はない。望ましい進展を見せているのなら、いまさら自分に声を掛けるまいと理華は推察する。そもそも山吹マドカが連れられていった時点で、現状いかに苦しんでいるのか、想像するに余りある。
「わらにもすがる思い、ということでしょうか」
「思ったよりもあぶり出しに苦労しているんだ。青澄くんが名づけた製造開発者たちとやらについてね」
「そのネーミングが適切な相手か、という話もあります」
シュウの話を補足する柊に、理華は腕を組む。
政界のフィクサーと目される人物がいれば、なら、その人物が手を引いている?
そう単純なものでもないし、それくらいの見立てで済むのなら、いまさらシュウが理華に頼み事をするはずもない。
様々な具体的要求や、術についての話を詰めた後に退散を促されて、理華はひとりで廊下に出た。そのままゆっくりと一年九組の教室に向かって歩きだす。緩く握った左手の薬指の指輪を時折、唇に寄せてはささやく。
教室にたどりつき、扉を後ろ手に閉めた。どの教室も、休日ゆえに閑散としている。だれもいない。
「というわけで、みなさん。とても時間がかかっている、一連の事件の黒幕捜し。春灯ちゃんは似たような日々を繰り返して、マイペースに治療を継続中ですし、警察は行きづまっています。オカルトの力をもってしても、足取りさえ掴めない状況で、いったいどうすればよいのでしょうか?」
朗々と語りながら黒板の前へ。チョークを手に取り、数行にかけて実際の事件の発生日と、犯人が見つかって逮捕された日を記していく。必ずしも、直ちに証拠から犯人が特定されるわけではない。証言から取っかかりが確実に掴めるというわけでもない。殺害事件から数年が経過しての、犯人の特定に至らず、逮捕に及んでいない事件もある。
でっちあげられるよりも捜査を慎重かつ適切に行う方がよほど望ましいが、その結果として容疑のある人物を特定することにさえ至らないとなると、それはそれで不足がある。
チョークを置き、手を叩いて粉を落とす。それから振り返り、教卓に両手を置いた。
「頼るべきは、より強固なオカルト?」
自身の薬指に触れて、微笑む。
「春灯ちゃんがやっている、情報を読み取るアプローチ? それとも」
たっぷりと間を置いてから、理華は俯き、目を閉じた。
「見つけるべきは、関東事変を起こした下手人か。はたまた下手人や平塚さんたちを苦しめた通称、製造開発者たちなのか」
いっそ、両者が競いあうよう仕向けるのか。そう呟いてから、彼女は笑い飛ばす。
「事件が解決できずに十年なんてこともあり得る世の中ですが、そうはならないようにがんばってみましょうか。実際、理華はまだ、あの赤ん坊が大勢遺棄された友人の事件の真相を暴いたとはとても言えないのですから」
両手を握り、唇を結ぶ。鼻からたくさんの息を吸って、ゆっくりと吐きだした。忸怩たる思いをなだめながら深呼吸を繰り返す。
「王よ。あなたは現状に、どのような課題を提示する?」
『無論、解決を』
理華の問いに指輪は明快に答える。だれもが決め手に欠けて手も足も出せない現状に対し、あまりにも過大な要求だ。しかし少女は、あらゆる難題のひとつに生涯を捧げる人々のように、あるいは不作に嘆き生涯の豊作を導き出す術を探る農夫のように「挑みましょう」と決意する。
スマホの通知音がして、スカートのポケットから取りだした。花泉真衣からのメッセージを確認して、理華は思案する。
議事堂で会った議員はシロ。内容は簡潔。その後のメッセージに、名前のリストが必要なら会いに来るよう記されていた。
シュウとマドカの調査を踏まえると、どうだろう。
あえて、まずは仮に議員をクロとするなら、ひとりでどうにかできるほどの規模の結果だろうか。それはない。下手人が議事堂から出てきて消されたと見なされている議員は十じゃ効かない。偉ければできる、というものでもない。集団によるもの、組織的な行動でないかぎり、大勢をすげ替えることはむずかしい。
特定派閥によるものか。それはそれで単純な見方だし、そんな見立てで済むような話なら、やはりシュウらの調べで、とうに事態が動いているはず。
疑わしいし、正直に言えば不満ばかり先立つが、それでも議員はシロだとしたら?
いったい、クロはどこにいる。
柊は先入観の危険性を説いていた。
オカルトさえ含めて見なすなら、可能性はどれくらい広がるだろう。
「すべて検討しなおすのが最も手っ取り早いですね? 以上、立沢理華でした」
会釈と共に彼女は締めくくった。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




