第二千八百五十四話
青澄冬音に連れられて緋迎カナタは新宿に向かった。道中は冬音がしきりに「そのマフラー、暑くないか」と指摘してきたので、そのつど問題ないと答えなければならなかった。単車じゃなくて、今日は電車移動。いつもの彼女ならゲーム機持参で遊んでいそうなものなのに、今日は珍しくスマホも持たずに手帳を眺めている。おかげで会話が弾まなかった。
改札を抜けて、どこからどう出たものか悩んでいたら冬音に背中を叩かれる。
「クマができるほど夜更かししてるから、ぼうっとするんだ。こっちだよ」
後ろから前に回り込んで、冬音がマフラーを掴み、引っ張っていく。飼い主の機嫌を損ねないよう気をつけて、あとを追う。人の群れ、その速度を乱さないように歩調を合わせていく。そう気をつけているつもりでも、時折ぶつかりそうになる。獣憑きになってからは、尻尾が窮屈でならなかった。
のぼり階段を抜けて広場に出ると、冬音はさらに先に進む。線路沿いの道に抜けて、信号を渡るのに切りかわるのを待つ。その間にいろんな人にじろじろと見られた。ただ春灯とちがって、役者がいるのだと見抜かれることはなかった。物珍しい存在がいるという奇異な視線を熱エネルギーにでも変換できたら、それだけで冬の寒さをワンシーズンは余裕でやり過ごせそうだった。
馬鹿な考えだと自嘲して、黙って彼女のあとをついていく。何度か道を曲がってたどり着いたのは、ひどく開けた料理店だった。奥のテーブルに行くと、意外な人がいた。
「お母さま」
冬音が呼びかけると、テーブル席のふたりのうち、ひとりが俺たちに顔を向けて微笑んだ。
「冬音、遠くまでご苦労様。カナタくん、おひさしぶりぃって、ほどでもないか! まあ座りなよ」
「はあ」
青澄麗子。春灯と冬音の母親だ。しかし彼女の向かい側には見覚えのない少女がいた。どこかの学校の制服姿である。深い紺のセーターとチェック模様のスラックス。そばにジャケットと巾着が見える。
「あの、彼女は?」
「余がこっち。お前はそっちな」
冬音は質問など無視して麗子の隣に腰掛ける。戸惑っていると、少女が彼を見上げた。冷めた顔で「どうぞ」と伝えてくる。気まずいものを感じながらも「失礼します」と伝えて、通路にぐっと寄せて腰掛けた。なのに彼女は壁際にぐっと寄るように座り直して、距離を開けようとする。
ますます気まずい。
気まずさを察してか麗子が代わりに紹介してくれた。冬音とカナタの名前を聞き終わると、少女は目を伏せて会釈をする。
「花泉真衣と申します」
「私と似たような家業をしてるの。もっとも私たちとちがって、彼女の武器は」
彼女の家業といえば、それはいわゆる「オカルト」絡みの何でも屋。いまの青澄家を若くして購入できたのも、彼女の家業があればこそだと春灯から聞いている。であれば、隣にいる少女、花泉もまた「オカルト」絡みの何でも屋ということか。
武器は、というところで隣の彼女が口を挟んだ。
「麗子さん」
「おっと、ごめんなさいね。しゃべりすぎちゃう」
「困ります」
年上だろうと構わず伝える。
彼女はそのままテーブルに指を下ろした。とん、と叩いたのは、ノートだ。新品のように見える。
「それで? えらいえらいおじさんたちのオカルト調査はどうだった?」
「あなたが自由なら、私は引いていました」
「そんな、文句いわないで。ね? 教えて? 彼らも来たことだし」
「ダメです。料金の支払いを」
「えええ。私とあなたの仲じゃない? あなたのお師匠さん伝いで、いろいろ手ほどきしてあげたしぃ」
「何度目ですか、それ持ち出すの。だめです。キャッシュか品でお願いします」
にべもない。
麗子は唇を重ねてぶるぶると震わせて音を立てた。睨みあいをするが、花泉は引かない。
いまさらになって、店員が水の入ったコップを持ってきた。テーブルには麗子と花泉の食器とコップが既にある。冬音とカナタに「ご注文は」と問いかけてきた。花泉がメニューを取って、手渡しするのではなく、あえてテーブルに置いた。すこしもカナタを見ようとしない。
気まずいなりに「どうも」と礼を告げて、メニューを開く。冬音は一目で決めた。自分はというと、この店がなんの店で、なにがおいしいのかもわからず戸惑いながら文字を眺める。
沖縄料理屋だ。一品料理も多い。でも、どうせ食べるなら、一品ものが欲しい。
「我、確定。これ、このポーク卵の定食」
「え」
先手を取られた。定食というのもあるのか。
だけど胃袋はしっかり食べたいと訴えている。
「俺はソーキそば、あとゴーヤチャンプルーを」
「あ、それなら人参しりしりを追加で」
冬音がすかさず乗ってきた。麗子は笑って「好きにどうぞ。私が出すから」と答えてくれた。それでついカナタはメニューに意識が一瞬戻る。サーターアンダーギーが気になっていたからだ。だが、ここはぐっと堪えた。
注文を済ませて立ち去る店員を横目で見送ってから、麗子が手を伸ばした。ノートの上に置いた花泉の指のそばに、そっと握った拳を置く。それから手を退けると、そこにはディアドロップのピアスが二セット置いてあった。淡い桜色真珠のような色をしている。
「あんまり暇なんで、最近作ったの。用途は簡単。装着している間、あなたに敵意を抱いている人がそばにいたら、ピアスがわずかに揺れる。スマホのバイブ機能の十分の一くらい、ささやかな力加減でね」
麗子の発言にカナタはぎょっとした。彼女が置いたピアスはまるで秘宝のようではないか。そんなものを作り出せる技術があるなんて聞いたことがない。通常、秘宝は霊力の持ち主の鍛錬の結果、生じる可能性が稀にあるもの。春灯が獲得した御珠のようなものだ。そうそう簡単にできあがるものじゃない。
もっとも製造法そのものを自分たち学生はろくに知らない。恐らくは教師たちも、兄であるシュウたち侍隊においても同様ではないか。仮に知っているのなら、教えてほしい。
それとも、あれか。オロチスーツのようなものなのだろうか。春灯が手にするキューブや、卵ガンのようなものなのだろうか。
「もう一声」
「えぇ!? これじゃ足りない?」
「前にツケでって言われて、警察の変死事件を私に回しましたよね」
「ちょうどうちが大変だったからね」
「あれも貸しです。麗子さんでしょう、私を指名したの」
「あの狸め。バラすなって言っておいたのに」
ふたりのやりとりに頭がついていけない。
よほど懇意にしているようだ。ふたりはそれぞれの仕事を通じて、同じ家業でありながら、ある程度のフォローをしあっているようである。
「警察からちゃんともらうものもらったんでしょう?」
「まさか。民間人の協力、誠にありがとうございました、以上。彼からは、あなたに請求するようにと言われましたよ」
「ちっ」
舌打ちをして顔をしかめる麗子を見ていると、カナタはとても複雑な気持ちになる。表情がころころとよく変わるのは、母親譲りなのだろう。そんな風に春灯を思い出しては、彼女がまるで自分の理解を超えた状態にあることの困難も合わせて脳裏をよぎる。よくわからないことだらけだ。出会ったばかりの頃のわからなさとは一線を画している。
これはいい、これはダメ。そういう価値観を増やしすぎていて、彼女の限界をとうに超えているように見える。これは優れていて、これは間違っている。その指標を多く取り入れては、結果的に彼女の生き方をより困難にするばかりになっているようにも。なにせ、彼女が取り入れる指標の多くは、彼女がこれまでの人生で支えにしたり、糧にしたり、栄養源にしていたものを容赦なく批評する。
そう。批評だ。自分からは、そうとしか見えない。
もちろん、そうせずにはいられない体験を彼女は度々しているし、止めるのもはばかられる。
それにいまの春灯にとっては、それが、彼女の世界であり、彼女の生き方だ。いまの、選択だ。
いまの決断と行動が、翻って春灯の心身をさらに痛めつけているように見えてならない。
ふとした拍子に、ぽきりと折れて、もう二度と立ち上がれなくなるのではないか。実際に何度も倒れたり、気絶したりしている。眠りに落ちて、それなりの日数の間、目覚めなかったのが、ここ最近の変事。そんな彼女が活力を見せる営みが学習であったり、調査であったりするのだから、止めるべきかどうかで悩むのだ。自分だけではなく、学校の仲間たちも、教師たちも、みな。春灯の家族でさえ例外ではない。
生々しい話をするなら、高校生というものは国において十代の特定の年齢と極度に結びついていて、切り離せるものではない。切り離した途端に、社会からは異質と見なされる。いくら彼女が歌手活動をしているとはいえ、休みの時期に入って長い。水物の商売で、いったいいつまで続けられるのかもわからないのに、この休みが良く作用するだなんて、だれにも思えない。ならばなおのこと、学業に復帰を。みんな言わずとも、思っている。春灯でさえ例外ではあるまい。
彼女は焦っているし、恐れている。ひどく不安定で、なのに自分で立とう、歩こうとしている。仲間に助けを求めるという慣れないことをしながら。おかげでますます、止めにくい。
今日ここで麗子に会えたのなら、春灯について相談するべきだと考えていた。しかし、タイミングが悪い。マフラーを外せない。痕跡を露わにするのは、あまりにも気まずい。
悩むカナタの横で、少女は人差し指で強くノートを叩いた。
「必要でしょう? あなたには」
「別に私は、きみが直接、隔離世対策室か侍隊にその資料を持ち込んでくれても構わないんだけど」
「そんなことをする義理はありません」
「そう言わないで」
「必要なのは、報酬。私の欲しいものを、あなたはちゃんと持ってきている」
叩いた手をくるりと回して、手のひらを見せる。
下唇を出してぶるぶると震わせて音を立ててから、麗子はしぶしぶ脇に置いたバッグからなにかを取りだして、テーブルに置いてみせた。
「明治時代になって、やっとガスを使った明かりが普及し始めた。ろうそくから、裸火のガス灯に。そしてマントルガス灯へ」
「ガス灯ではなく、ランタンに見えますけど?」
少女の問いはごもっとも。麗子が置いたものはサビが目立つ鉄製のランタンだ。お世辞にも綺麗とは言いがたい。ただ、一応の手入れはされているのか、埃が舞うようなことはない。
「切り裂きジャックが活動していたイギリスの時代の、レプリカ。安く買いたたいたのを改造してある。灯油を注いで、マッチで火をつければランタンとして使用可能」
「それで?」
「あなたが念じて触れたら、本来なら見えないものが浮かびあがる。ピアスの震動を拾ったら、ランタンを使って照らせば、私と同じものが見えるはず」
麗子の説明にカナタは心底から驚く。いま、そんな技術を持っている人間はうちの学校にも、侍隊にさえもいない。教団や魔法使いたちはどうだろうか。怪しいところだ。なのに、なぜ、麗子はこれほどの物品を? 作り出したにせよ、見つけてきたにせよ、謎だらけだ。
謎といえば、これを花泉に渡すというのも、よくわからない。ふたりの関係は具体的にどんなものなのだろうか。黙りこむカナタの横で、少女は不機嫌さを隠さずに麗子を睨みつけた。
「なんで出し渋ったんですか」
「あなたが無茶をしそうだから」
「それはご心配いただき、どうも」
隣の少女がランタンを両手で持ち上げて、小脇に置く。ちょうどカナタとの間に。九尾を生やしたカナタは急いで距離を開けようとして、椅子から落ちそうになった。しかし彼女はすこしも悪びれる素振りがない。
嫌われているのか、それとも警戒されているのか。内心穏やかでないカナタをよそに、麗子は真衣のノートを取り上げて開いた。真衣もそれを咎めることはしない。
「見るだけにしてくださいね。私がだれになにを漏らすのか、気になって仕方のない人たちもいますから」
「あなたの経歴だけで、彼らはあなたを十分、飼い犬にしていると信じ切ってるでしょ」
「実に不愉快です」
「そう? でもね。彼らのような人たちには、そう珍しくもないことじゃない?」
「率直なあなたの物言いが不愉快なんです」
本当にすこしも物怖じしない真衣にカナタは震え上がる。だいじょうぶなんだろうか。このふたりのやりとりは。一触即発の事態にならないか。冬音は気にしていないのだろうか。いまさら気になって向かい側を見ると、彼女は厨房を眺めていた。やっとできあがった料理が運ばれてきて、冬音は歓声をあげて手を合わせる。
麺類だし伸びても困ると思い直して、麗子と真衣にひとことことわり、食事を取ることにした。塩気の強いスープは思ったよりもあっさりとしていて、だしの香りがぷんと匂う。するっと飲めそうな、付き合いやすい味だ。麺はちぢれた箇所もあり、よくスープの汁気をまとっている。そのわりに小麦の香りだろうか、口に入れて噛むと広がる風味がいい。じっくり煮込まれた豚の角煮が箸だけでほぐれそうな状態なものだから、口に入れて舌に当たるだけで崩れていく。脂身もとろとろで、とても柔らかい。炊いた強めの味つけがスープによく混ざって、これがまた実にうまい。だからなのか、刻んだままの生の細ネギが食感としても風味としてもアクセントになって心地いい。ネギが大盛りでもうれしいかもしれない。
「なによこれ。みんなしてだんまりじゃないの。誘われて研修に行っただの、視察に行っただので押し通すだなんて」
「当然でしょう。こんなことになると思っていましたなんて言おうものなら、それこそ大ごとです」
「おまけにだれもなにも知りませんだなんて、あり得るわけ? 実際、会って話したあなたの印象は?」
「印象もなにも。私が確認したかぎりでは、全員シロでしたよ。おかしなものもツいていませんでした」
「じゃあ、今回の一件で怪しいやつは見つからなかった、と。あなたの世話をする”おじいさま”の派閥では」
「ええ。異なる派閥となると、また話が変わってくるかもしれませんけどね」
「現場はどうだった?」
「なにも。見つかるようなら私が出るまでもなく、警察が対応しているでしょう?」
「そりゃそうだ」
「では」
真衣が巾着を広げて、ピアスとランタンを手早く包み始めた。あまりに手際がよく、かつて開いた母の葬儀に来た親戚のひとり、物腰穏やかな伯母の壮年の巧みな手つきと重なって見えるほどだ。
「帰っちゃうの? まだ食べ歩きに付き合わせようと思っていたのに」
「そんなお腹で食べ歩きもないでしょう。店を開けたままですし、学校からレポートを受け取りにこいと矢の催促で。行かないと」
「そうなの? 残念」
「またいずれ」
立ち上がる真衣にあわてて席を離れて道を譲る。
彼女は麗子と冬音に会釈をしたのち、自分に目礼をして去っていった。カナタを中心に距離を置くように、円を描いて回り込む手間をかけて。やっぱり嫌われているのではとカナタは地味にショックを受けながら、席に戻る。
「逃げられちゃった」
「あ、あの。俺、まずかったですか? なにかその、嫌われてしまったような」
「ああ、いいのいいの。基本的に男全般が素朴に嫌いな子だから」
「えええ」
素朴に嫌いなって、そんな無茶な。いったいなにがあったのだろうか。
「え、と。じゃあ、俺が隣に座ったのって、まずかったんじゃあ」
「だめだめ。私が気を遣ったら屈辱みたいに感じて、もっと怒らせるだけなんだから。きみが気にしてもどうにかなるものじゃないの。それより、冬音に連れてきてもらうよう頼んだのは、きみのお兄さんに言付けを頼みたかったの」
「兄にですか? その、さっき彼女と話していたことで?」
「もちろんそう。いまの警察は表だって、特定の立場の人たちに関われない。向こうがそれを望んでいるからね。それがどんなにおかしな状況だとしても、いまは、それがまかり通っているの」
どうにもぴんとこない。だが麗子は構わず話を続けた。
「そうなるとシュウくんたちは、是が非でも知りたいことがあるのに、伝手がない状態に陥る。でもね? 実は特定の人たちもまた、怪物騒ぎだなんだがあった状態では、心穏やかではいられないわけ」
それはそうだろうとカナタはうなずいた。なにせ怪物が出るだの、国会から大勢の人間が消失しただの、騒動に事欠かない状況だ。社長たちの騒動のなかでは何名かの議員が惨殺されていたはずだ。そんな状況で「警察がいるからだいじょうぶでしょう」とたかをくくれるだろうか。後ろ暗いものがなくても、不安になるのではないか。ましてや、なにかやましいところがあるのなら?
「本当なら私が行くところなんだけど、ほら。そろそろ予定日も近いじゃない? そこで彼女がしぶしぶ出張ってるっていうわけ」
「代打ってことですか?」
「あの子の技術や立場を思うと、もうそろそろ私のほうが値段だなんだの意味で代打になってきたかな」
真衣の技術や立場とやらがまるでわからないカナタは、どうにも要領を得ない。
「ま、それはいいのよ」
よくないと思いながらも、ツッコミを入れる勇気がない。なんならマフラーを取る勇気もない。カナタは口を閉ざす。
「それよりもね? シュウくんに伝えてほしいの。私がたどれる線ではシロだって。そう伝えれば伝わるはずだから。よろしくね?」
「はあ」
押し切られてしまう。これまでの経緯を踏まえても、関係性からしても、そう気軽になんでも伝えられる相手ではなかった。弱みもやまほどある。それにしばらく春灯の家に滞在していた時期があったうえでも「恋人の家族にどう接するのがいいか」なんて、未だにさっぱりわからない。
「それで、仕事のほうはどうなの? 春灯から、なにかの映画のオーディションに出るって連絡きてたけど」
い、いつの間に! 内心の動揺を抑えながら、近況を伝える。朝の特撮に出られそうなこと。さりとていまの演技力だとボロクソに言われると役者の先輩たちに言われていること。いろんな関係者が集まる場に連れ回してもらって挨拶したり、なにかやってみせたりとしているので精いっぱいで、なにがなんだかよくわかっていないこと。
相づちも、質問も気持ち良くしてくれるから、ついついなんでもしゃべってしまう。気が緩む。春灯と重なる印象があるし、春灯に感じる優しさを何倍かにしたような包容力を感じることもあって、ついつい余計なことまで言ってしまうし、言いたくなってしまう。こんな接し方でいいのかと、しばしば悩むほどに。
だが油断は禁物だ。
「あ。お客さんが少なくなってきたし、マフラーほどいたら?」
「え」
「いいよ。別に。なにを隠しているのかなんて聞かなくてもわかる」
「うっ」
「注意したいことならやまほどあるけど、別に叱ったりしないから。暑いでしょ?」
「あと普通にマナー違反だぞ、カナタ」
いまさら冬音がツッコミをかぶせてきた。しかしツッコミで返せない。彼女の言うとおりだった。もしかして真衣が嫌悪したのは、マフラーをつけたままでいたことか、それともマフラーをつけた理由のせいか。どちらもあるかもしれない。
なんであれ、いまさらだ。観念してマフラーを外すと、ふたりとも目を丸くした。
「うっ、うわあ」
「う、ううんん」
それからなんともいえない顔をして、背けられてしまった。
噛み痕はない。けれど、びっしりと痕がつけられた。その色がまた、浅黒く染まったり、赤くなっていたりで、グロテスクなのである。
冬音は眉根を寄せて皺を作って、カナタの首筋を睨んでいた。どうやったらそうなるんだと唸りながら。対して麗子は表情をきりっと引き締めてカナタに告げた。
「マフラー、つけなおそうか。ちょっと想像こえてたから」
「は、はい」
恥を掻いただけなのではないかと顔から火が出る思いでマフラーをまき直す間に、
「消毒は? ちゃんとした?」
「仕事に差し支えない? だいじょうぶ?」
「スキャンダルにならない? ああでも、うちの子と付き合ってるのは知れ渡ってるのか。それもどうなの? だいじょうぶそう?」
麗子があれこれと尋ねてくるのだが、どう答えたらいいのかわからないことばかりだった。
「きみも負けじと痕をつけてるの?」
この質問にはほとほと弱り果てた。
なんとかその場はごまかすカナタをさんざんからかったのちに、麗子は釘を刺す。
「ちゃんと避妊しなさい。ゴムをつけてもできるときはできる。で? 私みたいなお腹になる。中絶はすさまじいダメージになって、一生引きずるほどの心的外傷になる。あの子が生理痛対策にピルを飲んでいて、それを経口避妊薬と読み取ってきみが避妊をサボるだけで、すさまじいことになるの」
「あ、の」
カナタは麗子の話の途中で急いで背筋を正す。しかし、目を見ることができない。おざなりだった時期を思い返すと、とてもじゃないが、目を合わせることができなかった。嘘をついてでも目を見るという選択肢さえ浮かばなかったのだ。
「命を、具体的に、どう処理するのか。それを調べてごらんなさい。そして大事に相手と感じ合うことの、本質的な意味について、どうかふたりで考えてほしい。私は春灯を思うから、あなたは二の次三の次になる。でも、せっかく同じご飯をしばらく食べた縁があるから、伝えておきたいの」
語る母の隣で冬音はずっと黙っていた。麗子とちがい実態を心得ているであろう閻魔の娘は、侮るのでも罵るのでもなく、ただ見定めるように自らの契約者を睨んでいる。
「私たちは、まさにきみたちくらいの年齢で冬音と春灯を宿した。それがいかに茨の道であったかを思い返すとね? 絶対に、だれにも、同じ道を、歩いてほしくないの」
麗子の区切りながらの言葉に、カナタは恥じ入りながらもようやく視線を合わせた。揺れている青年の瞳は、少女の母にどう映ったのか。
「大事にしてあげて。そうすることで、自分を大事にしてあげてね」
きみの親なら、ぜったいにちがう言い方をするでしょうけど。そう、麗子は付け足して笑った。カナタはただただ、その笑顔を覚えておこうと強く決意した。
◆
トウヤ、コバトちゃんがうちにいる。ぷちたちも。そしてなぜだか、サクラさんまでもいる。ハロウィーンの計画を手伝ってくれているのだ。おまけに聖歌ちゃんや未来ちゃん、キラリやトモたちも来てくれてパーティーの計画を練ってくれているのだから、そりゃあもう! ぷちたちは顔を真っ赤にするくらい、大はしゃぎだった。
カナタと詰めた台本をもとに、ぷちたちと相談する。なにをどうしたいのかを取り入れていく。内向きの、ぷちたちのための劇だ。だからこそ、ぷちたちが満足できることが大事。こどもたちのお芝居の、あるいはいくつであろうと初心者がやる挑戦ごとの、大事なポイントである。意欲は勝手に生えてこないし、達成感は当たり前に得られるものじゃないからね。
キラリのおかげでダンスの振りつけもできた。あとはひたすら、みんなで練習。それはそれで、たいへんなんだけどね。ひとしきり工程を踏んだから、あとはもう、今日を楽しむだけ。
それでいま、ゲーム大会の真っ最中。お姉ちゃんはカナタと出かけていていないので、帰ってきたら悔しがるのではないか。
台所に引っ込んで、みんなが食べられるお菓子でもとサクラさんと調理に勤しむあいだも、リビングから大騒ぎするみんなの声がする。
「元気ねえ」
「すごいですよね、ほんと」
そう言って笑っていたら、視線を強く感じた。見ればサクラさんが手を止めて私を見つめていた。
「カナタから聞いていた話じゃあ、あなたって暴力のゲームなんて嫌いそうなものだけど。止めなくていいの?」
「ううん」
思わぬ問いだった。
「すこし迷いはありますけど、それはゲームのことなんだよって教えつづけるしかないのかなって」
すごく消極的な決断だとは思うのだけど、ね。
たとえばさ? 世の中の戦いを、戦いで潰していけば、世界が平和になるだろうか。ならない。仮にそのための強さなんかを手に入れちゃったところで、どうにもならない。永遠に兵士をやって、終わるだけだ。大勢が死ぬ。大勢を殺す。そしてより大勢に憎まれる。戦いが生じる膨大な要素はそのまま残るから、またしても戦いは起き続ける。そしてどんどん憎まれていく。
戦いも、暴力も、先はない。
一切ない。断じてない。
その鞘の収め方が、ある意味、あらゆる格闘技なんじゃないかな?
ドラゴンボールの悟空を例にしたけど、あんな感じ? いっちょ戦ってみるかのあれも、結局、殺しはなしの、どっちがつええかバトル。ただ、それだけのもの。
あれを成立させるのだって、生半可なことじゃないよね。ほんとさ。
こういうのも、すぐにはわからなかった。現実のトラブルで、いくらでも一線を越えてしまいたくなる衝動に見舞われて、あのバトルを殺し合いにしたくなることがあり得るのだと、そういう実感のほうがよほど身近だ。私には。
私たちの人生は、日々のあらゆる体験によってできている。
その体験は膨大な依存の影響を受ける。受けすぎるほどに。
依存とは社会的支援・社会的資源・関係性・環境であり、その具体的なものだ。
それをあの子たちに伝え続けるほかにないのかなって、いまは思っている。
「そう? なら、いいんだけど」
そこまで言って、サクラさんが咳払いをした。そして「それ」と呟いて、私の腕を指す。
ねかせておいたパン生地をこねるために、袖をめくった腕が露出している。自分でそうしたから気づいている。問題はそこじゃない。サクラさんに指し示されて、やっと気づいた。痕がついている!
「あんまり立ち入るのもどうかと思って言わずにいたけど、ずいぶんその、激しそうね。息子が変なこと求めたり、無茶なことをさせたりしてない? シュウもカナタも、そのあたり、ちょっと心配で」
「おおぅ」
ふたりが聞いたら致命的な一撃になるであろう発言だ。シュウさんならカグヤさん、カナタなら私でも、その一撃の威力はさほど減衰しない。非常に気まずい!
「あっ、あ、えっと」
言葉に詰まる。カナタも大概だけど、私も大概だから、言いにくい。
「いっ、いろいろありまして、その」
「なにかあったら言ってね? がつんとかますから。特に避妊が雑だったり、いやがるようだったら絶対に言って。あなたが雑になっちゃうなら、それはそれで麗子さんとふたりでなんとかするから!」
なんとかするって、具体的にどうする気なんだ。熱量はありがたいけど、空回っちゃわないかな。
なぜそう危惧するのかって、サクラさんは「だいたいあの人も、なんで十代の男女を同じ部屋で! 顔を合わせて話もしていないのに許可だしちゃいけないでしょ」と怒っているから。ごくごく真っ当な怒りなんだけど、いまとなってはもう、いろいろ手遅れだった。
ちなみにサクラさんの怒りは、私を通じて学校を批判する声のひとつであり、私とカナタの親へと向かう厳しい中傷混じりの訴えでもある。
こんなものじゃない。事務所に届くもの、事務所が処理するもの、事務所が食い止めるもの。いまのコンプラ重視のご時世に、私という人間がどんな生活を送ってきたか。その具体的内容は、そりゃあもう! 違反しまくりなのである! だから当然、こんなものじゃない。
それらは激烈に正そうとする。なくそうとする。消し去ろうとする。
減らせ。なくせ。消えろ。いなくなれ。そういう欲に変換して、叩きつけられるものだ。
「頼りたいときは、そりゃあもう、頼りますから!」
笑顔で答えてみせるけど、心は常に怯んでいる。怯えている。
恥ずかしい。惨めだ。弱くて、情けなくて、汚らわしい。いやらしい。節操がない。裏でだれとなにをしているやら。あれや、これや。
浮かんでくる。次から次へと。高城さんから見るなと言われているのにみちゃった、いまでは事務所が運用してくれている私のアカウントの誹謗中傷の数々。
いっそトシさんと真壁さんたちとやったように、名前も姿も隠してやったときみたいな、あの、ほとんどの人が歌だけで足を止めるかどうかという、あの状態なら? 私はろくに見向きもされず、誹謗中傷の的にさえならなかったろう。だれかが残すか細い中傷は、ぼやけた私に適した、ぼやけたものがせいぜい。
そっちのほうがと願う。そっちのほうが、私の実態なのだから。
やまほどの下駄。やまほどの支援。やまほどの依存が、仕事の私を支えているし、その反動も増えていく。
深呼吸をする。
規定したがる。固めたがる。「私は***である」と定義せずにはいられなくなる。その定義を軸に、答えや解決を据えて、生きたがる。
そんなものはない。「私は***である、に非ず」。
転じて並べられたあらゆる言葉に私は非ず。
認識する私を認識することはできず、定義づけられぬまま、それでもなお生きる。それはあまりに不安定で、怖いから「正しさ」を欲しては、排除したがる。
暴力ゲームだけの話じゃないよね。きっと。
「それならいいんだけど。実際、どう? 変態みたいな要求されてない? だいじょうぶそう? 腕に痕って、なんか心配になるんだけど」
「ううん」
ノーコメントで!
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




