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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千八百五十話

 



 痛みやストレスって、そもそもどう表現するんだろ。

 熱が出たときは、どうしてる? 頭が痛い、鼻が詰まる、喉がイガイガする、体がだるい、下痢しちゃったみたいな訴えにならない? そういう表現になるんじゃないかな?

 逆にそれらがぴんとこなかったら、どうなる?

 なんか体がきつい気がするけど、それがなにかわからない、みたいなの。

 そりゃあツッコミどころはある。「熱なんて人生で何度か出るだろ」「そのときどうするか、なんとなくわかるんじゃない?」って。でも、そんなことはねえ!

 熱に限らないしさ。痛みやストレスの具体例って。でしょ?


「ううううん」


 一日のあれこれを済ませて、カナタと相談や報告会もたっぷりして眠り、いまはアマテラスさまのお屋敷で本を読んでいる。畳が敷き詰められた六畳の部屋に座布団を置いて寝転がるようにして、広げた本の文章を睨む。開いた襖から秋区画の花々の香りが漂ってくる。そばには台所番のおイヌさまおばちゃんのくれたおまんじゅうがふたつ。蜂蜜漬けの蜜柑の切れ端が入った、こしあんのもの。薄い皮もみかん色。あとぬるめのお茶がある。覗いてないけど、たぶん、緑茶。匂いでわかる範囲では。

 いま読んでいるのは、フィジカルアセスメント。看護師になる人が学ぶもの。たぶん。

 未来ちゃんや結ちゃんに教えてもらった本は基本的には心理領域。でもって、心理士向け。ドラマ「ニュー・アムステルダム」で触れられていたけど、心理に関わるとき、触れることをしない。カウンセリングにおいて禁止されている。こどもが相手でも触れない。決してね。特定の療法において必要な場合といっても、事前説明や合意などが重要になる。それくらい、心の領域において、接触はない。

 だけど看護はもちろん、医療においても、一定の接触を伴う。

 検診時の触診、器具を用いた検査などで触れる。採血をするときだって血管の場所の確認などにおいて触れる。

 そこが明確にちがう。

 多くのカウンセリングにかかる学派において、それが災害支援や緊急時の支援においてでさえ、身体接触は控えるものだ。関係性に影響を与えすぎるし、その効果や反応の予測が立てられず、治療・ケアに影響を与えすぎる。また、治療過程において患者・クライエントが転移を起こして治療者に強い感情を抱き、ひどく不安定な状態になりかねないのだけど、接触はそれを促進しかねない。

 だいたいさ?

 ジョークめかして投稿されることがある。若い店員からおつりを手渡しで、ぎゅっと握り締められるように渡されて「きゅん」ときた、みたいなの。大概、発信者は男性だ。そういう男性を仮に一万人集めたとき、いったいどれくらいの人が付きまといやストーカー行為に及ぶようになるのか。十人いたって、十分問題。

 手を握った側じゃない。手を握られたくらいで付きまといやストーカー行為をする、その正当化・責任転嫁・免罪、および具体的な行動を選択して実行する人は問題を抱えている。付きまとい、ストーカー行為は正当化・責任転嫁・免罪できるものじゃない。

 でも、実際にそういうことをする人さえいる世の中で、治療者が触れることはお互いにかなりきわどい状況を招きかねない行為になるからさ? まず、しない。

 だけど医療従事者においては、ってもう言ったか。それは。

 検診で探る。いったいなにが起きているのか。風邪や熱なら基本は検温。お医者さんに口をがぱっと開けて、喉、扁桃腺を見てもらう。場合によっては金属のヘラで舌の付け根あたりまで押さえられる人もいるという。腹痛なら服をめくって、お腹に聴診器を当てたり、触診で触れて状態を確かめる。

 検査器具は様々。X線やCTスキャン、MRIや超音波検査など。あれや、これや。そのための介助をすることもある。介助。そう、介助だ。看護に至っては介助をすることもある。介護領域も同じ。

 だから、触れる。

 フィジカルアセスメントは「患者の症状や徴候から情報を収集し、必要に応じて触診や聴診を行い、状態を判断する」もの。痛みを探るため。ストレスを探るため。いまを知るために行われる。

 痛みの当事者に、それがどこまで行えるのか。当事者に接する人が、それをどこまで行えるのか。自分の見立て、検査の結果、その他のあらゆる情報、そこからいったいどれだけの実態を明らかにできる?

 むずかしい。

 だからそりゃあ、看護師になるのはすっごくむずかしいし? 看護師でいるのはきっと、私が想像するよりもはるかに大変なのだろう。医師も、心理士もそう。女性の看護師に懸想するポルノはごまんとあるけれど、それは触れることの加害性を晴らしたい人の欲や願いでできている。それは、あまりにも、他者の尊厳を、職責を、無視したものだ。


「ううん」


 体を調べるアプローチから、なにかが学べるのではないかと思ったけれど、浅知恵だった。いまの私の土台じゃあ、まだ無理だ。

 ただ、ここで折れずにもうすこしいろいろと読んでみる。

 看護師向けのポケットブックに、あらゆる診療科ごとに分かれたものが出ていてさ? 心理的な問題とくれば精神科だから、それっぽいのを三冊ほど選んで手元に置いておいた。

 診察とはなにか。一般的に、医師によってクライエントの病状や病因を判断するために、質問したり調べたりすることであるが、病気を特定することだけをさしているのではなく、その診断のプロセスをクライエントと共有して、最善の方法で治療を進めるための重要な治療プロセスでもある。

 以上、学研の「精神科ナースポケットブックmini」より。

 心と身体は相関している。身体的な問題を呈している場合は、その病気の特定のうえで薬物療法などの治療が開始されるとある。それにクライエントの病状によって診察のあり方は異なるとあるし? 診断基準のみで判断するのでなく、クライエントの生活状況、環境、ストレスなども含めた総合的な状態を判断して治療計画を立案していく。

 多角的な評価が求められるんだ。

 たとえば精神疾患においては人とのかかわりに障害が現れやすい。社会的障壁によって病状の程度や現れ方が異なることも多い。障害の社会モデルに移行して久しい現在、言い換えれば、痛み、ストレスを感じる人を苛む社会的障壁や、人との関係性に、多くの問題が潜んでいると言える。

 治療関係においては信頼関係の構築が欠かせない。良好な関係性はその後の治療を左右する。ストレスが生じる関係は、予後に悪い影響を与えすぎるからね。

 人権に対して最大限の尊重と配慮が欠かせない。そして尊重と配慮とは断じて思いやりなどではない。具体的な営みや関わり方、対処法だ。言動であり、対応である。なので? 十分な説明を行うし、患者が治療について考えて選択できるよう、相互作用的なプロセス、言うなればSDM、共同意思決定の重要性が高まっている。いろんなことをクライエントが安心して、安定した状態で話せる関係性の構築が望ましいし? それは接触によって果たすものではない。


「段取りで考えるなら、そうなるかぁ」


 診察。関係性の構築。検査。

 つまり知ること、探求すること。そして、安定した安心できる関係性を作り、育てていくこと。


「段取りで考えるのなら」


 しかしそれは患者・クライエントが訪ねてきた場合のものだ。

 私のように訪ねていって、教えてちょうだい、表現してねってお願いする場合のものじゃない。まず相手の承認が必要だし、それをもらうのは並大抵のことじゃないぞ? 今日の術の実験を踏まえると。応じてくれた霊子たちでさえ、かなり激しい反応を示した。術者の私を仕留めるような反応を。


「痛み、ストレス」


 頭痛や筋肉痛、風邪、腹痛。他にもいろんな痛みがある。よく馴染んだ痛みだってね。

 それって割と「訴える」ことや「表現する」ことに困らない。私はね!

 でさ? そんな体験をしてきた私にしてみれば「痛み」も「ストレス」も「自覚できる」ものだと思ってた。まさに痛いとき、ストレスに苛まれているとき「わかる」ものだと。

 でも、ちがった。

 信田さよ子「暴力とアディクション」青土社に、それを示す記述がある。

 アディクション、嗜癖。飲酒や喫煙、薬物、労働、運動、逸脱した性行為、買い物、賭博、あれやこれや。そういった嗜癖の極めて限定された状態、依存症。

 たとえば家庭内暴力にさらされたこどもは、その日、そのときごとに「いつ襲いくるかわからない暴力」を警戒する。予期しなければならないけれど、そのタイミングは暴力を振るう者次第だ。一日の時間が継続した文脈にならない。

 ゲームなら、いつひどい戦闘になって、ひどい結果になるかもしれないなら? セーブする、でしょ? ほっとかない。オートセーブっていうのが最近は当たり前になっているそうだけど、そんなのもないご時世のゲームで考えてね?

 そういうゲームなら、セーブしたい。けど、できない。いつひどい戦闘になったり、ひどい結果になったりするのかわからない。死んでも死んでも、その場でよみがえってやり直さなきゃならない。逃げる術はない。だから、極限まで気を張らなきゃいけない。疲れるゲームになるだろう。

 だけどゲームは疲れるだけで済む。遊ぶかやめるか選べる。

 実際はちがう。いつなにが起きるのかわからないし、暴力にさらされる。それが性暴力であることも。そんな最中に嗜癖を見つけて、痛みやストレスを低減・緩和しようと試みる。

 飲酒や薬物。喫煙。自傷行為っていう人もいる。性暴力にあった人がむしろ性行為を嗜癖にせざるを得なくなる事例だってある。そういうもので痛みやストレスを低減・緩和しようとしたって、痛みそのものがなくなるわけじゃない。ストレスそのものがなくなるわけでもない。でしょ?

 だからさ。家庭を離れたり、夫と離婚したりして、生活保護なり、アルバイトなりで過ごして、アディクションの治療をしているさなか、ようやく「痛み」が蘇るという。刑事裁判や民事裁判などで訴訟が終わり、十分な費用を勝ち取れたあとになって、やっと「痛み」が蘇ると。

 深刻な痛みが毎日のように、不規則に、予期せず浴びせられるとき「痛み」を「痛み」として認識していられないし? それを忘れるため、感じないで済ませるために、私たちはあらゆる手を尽くす。尽くしてしまう。そして実際に果たせたのなら? その痛みは後ほど、蘇る。

 余裕が持てて、十分に余力が立ち戻り、生活が安定して安心できるとき、遂に「痛み」は蘇る。

 虐待や性虐待、養育放棄。他にもある。フランクルが記述して、ベッセルが言及した絶滅収容所からの生存者。それにベッセルが著書で触れた数多の帰還兵たち。戦争や紛争に参加した男たち。もちろん、戦場や紛争地にいたあらゆる人たちだって含められるだろう。

 そうして「痛み」が蘇るのかもしれない。

 しかし、仮に蘇ったのだとしても「痛み」を語れるとは限らない。

 時効のある虐待などが、時効を過ぎてから訴えられるのは「痛み」が語れるとは限らないから。「ストレス」も同じだ。そして、だからこそ当事者団体は、その犯罪を、加害を訴えるのに時効を設定するべきではないと主張している。私も同感だ。

 痛み。ストレス。

 それを感じとれるとはかぎらない。

 直ちに表現できるわけじゃないんだ。

 現に私は、あの日の痛みを思い出せない。

 教授に捕まった、あの日の痛みを。八尾を注ぎ込まれた日の、あの痛みを。

 思い出せないんだ。いま、実感として。ぷちたちを抱いたときのぬくもりとか、カナタと過ごしてきて揉めたときのストレスや痛みとか、キラリと過ごした中学時代のむかつきとか、ぜんぶありありと思い出せる。

 なのに、思い出せないんだ。あの痛みを。

 日々のあらゆることに依存できていたから? 低減・緩和できていたから? わからない。いろんな事件が起きては、首を突っ込んでいるから? それをやめないどころか、嗜癖として依存の限定をしているから? わからない。

 恐怖や衝撃。ショック。憤怒。このあたりは、鮮明に思い出せる。憎悪も、すこしは思い出せる。けど、痛みは? ストレスは? 表現できない以前に、思い出せない。あの日の心身を襲った痛みを、思い出せない。思い出せないかぎりは、表現しようがない。

 DVの被害に遭った女性の治療の過程で、裁判だ調停だなんだがひとしきり済んで、資金面も当座の見通しが立ってようやく落ち着いたとき、ようやく「殴られた」、その「痛み」を思い出すのだという。

 私には思い出せない「痛み」がある。

 たぶん、霊子の渦に記録した、あの地下室に連れてこられたこどもたちの「痛み」もそうなんじゃないか?

 私に八尾を押し込んだあいつでさえ、そうなんじゃないか。

 そう。

 痛いって、わかるとはかぎらないんだ。

 ストレスがあってどうにかするべきだって、わかるとはかぎらないんだ。

 対応が必要だとしても。そういう性質の知らせとして、情報として、求められるものだとしても。

 それがわかるとは、かぎらないんだ。

 表現できるとはかぎらないし? そもそも認識していられるとは、かぎらない。

 ああ。それなのに、私はなんて浅はかに願ったんだ。痛みを教えて、だなんて。


「わかっていれば」


 そんなことは無理なんだって。


「わかってさえいれば」


 伝えたくても思い出せなかったり、思い出したくなかったりする。

 痛みに接続したら、それが自分のすべてを破壊し尽くす。もう、いままでの自分でいられない。

 いまを耐えなきゃ、生きていけない人生だってやまほどある。だれもが痛みに接続して、対応できるわけじゃないんだ。あらゆる依存、すなわち社会的支援・社会的資源・関係性・環境が十分な人ばかりじゃない。地域によっては生活保護の申請に来た人を罵倒したり、中傷したりして、追い返す。そういう世の中だ。自己責任だと声高に叫ぶ時代だ。資本主義の信奉は、その力を支えこそすれど、私たちの痛みをむしろ利益になるかぎり利用し尽くすし? 利益にならないものは排斥し尽くす。そういう時代に生きているんだ。

 だから、痛みどころじゃない。ストレスどころじゃない。そんな人生さえ、やまほどある。

 それなのに、示してみせろだなんて。

 くそったれ。


「私のばか」


 間違えた。間違えた。さいっていの! 暴力を! 私は振るった!

 アセスメントの前に重要な気構えが私には絶対的に欠けていた。

 暴くな。裁くな。許可なく踏み込むな。

 最大限の尊重と配慮を。彼らの人権を守れないなら、私にその権利はない。あるべきじゃない。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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