第二千八百四十八話
考えてみれば痛みを抱えているとき、関わりはしばしば痛みそのものを刺激する。病院には「医師やスタッフへの乱暴にNO」と訴える紙が貼りつけてあった。そして実際、入院中にしばしば、ひどい態度を取っている人を見かけた。一方で、痛みは私たちの我慢や忍耐を破壊していく。ダムを決壊させるように。
なので「乱暴はNO」を当たり前にしていながらも、内心で「たのむぅ、早くなんとかして!」って泣いちゃうような気持ちでいる人も、まあまあいるのでは。
医療ドラマじゃ鉄板だ。痛みは人をどんどんだめにしていく。そして病院は、痛みに苛まれている人が集まる場所だ。おまけに荒ぶる人の対応は? 痛いものだ。看護師も、医師も、しばしば患者や患者の家族の言動に傷つく。慣れたつもりが、ただ、感覚が鈍くなっているだけで、傷はやまほどほったらかされたままなんてこともある。
それでも病院の人たちが対応してくれてるから、医療が支えられている。医療絡みの保険もそう。みな保険制度がいかに重要かって、私たちを医療に接続しやすくするためのものだから。あらゆる施策を用いて支えるだけの意義があるものだから。
ただ、痛みに接続するのは、とてもつらいことだ。
未来ちゃんに教えてもらった本とか、結ちゃんが教えてくれた本とかじゃ、可能なかぎり「安定・安心」に接続していく。「痛みに触れなきゃいけない」なんてことはしない。
身体的な状態で捉えるのなら? 外科的にも内科的にも対応できない状態で、生じる痛みや反応と付き合えるようになることを、まず目指す。
それこそ「心的外傷を負った体験を乗り越えること」が最優先、ではない。それに人によっては憤るかもしれないけど「適応や負荷をかける場所や人を患者の代わりにどうにかする」のが最優先、でもない。そこまで干渉する権限があるかっていったら、かなりむずかしい。できる対応と、その結果が必ずしも結びついているものでもない。
もっと言っちゃうと不心得にも「患者の問題をどうにかする」なんて捉え方して接する臨床家がいて、患者がより深刻な状態に陥ることも少なくないという。
マンガやドラマ、映画じゃ、よくやるけどね。
ドラえもんの道具じゃのび太くんは変わらないし、アンパンマンのアンパンチじゃバイキンマンは改心なんかするはずがない。
でも、それはそう! 当たり前!
そんなもんで解決したら、世話がない。
だいたいその解決は「だれにとって」の「どんな目標」によるものなのさ。
そこんところを踏まえてみるとね? 戦いだ、解決だ、答えだの押しつけは、たいがい、ろくなものじゃない。世直しパンチ、成敗も同じだ。それはフィクションだけに許された魔法であり、その魔法を好きな人もいれば、きらいな人もいる。それだけのものであって、現実をどうにかするほどの力は持たせるべきじゃない。代表的なのが「核を使えばいい」だの「殺してしまえばいい」だのだしなあ。「区別して、追い出せばいい」も含めたあらゆる差別だしさ。
痛みには、もっと、しっかり関わらなきゃだめだ。
すぐさま鎮痛できるならまだしも、ね。今回の術でいえば、すぐさま鎮痛するのが「私」であって「霊子の渦」でないなら、意味がない。どっちにも、必要だ。そして関わる側は、痛みに苛まれているよりも自覚的に十分な依存を携えて、接続に向かっていく。
私の痛みについてもそう。いまの考えのままだと、私を実験相手に試したって意味がない。
なぜかって?
私は私を責めていたけど、その「目的」が「責める」ためになってるからだし、「手段」だって「責める」ことだから。どっちもあり得ない。手段が「責める」時点でダメだ。目的も「責める」ためなんだから、なんの意味もない。
なので「はいおしまい」じゃないんだよね。
「責める」が目的・手段になってるのは、なんでかな? その事情だなんだを把握して対処しないことには、次には進めないじゃない? 痛みを抱えているにせよ、不安だからにせよ、勇気を持てないからにせよ、自己肯定感うんぬんにせよ、対処しなけりゃ始まらない。
そして、その痛みの対処法が戦いだの解決だの答えだのじゃあ、どうにもならないことが多いんだ。
そりゃあ、さあ?
そんなの、みんなせっせとやるかって? そうもいかないよねえ。
そんでもって、そうもいかない人たちまとめて、なんとかなるくらい、依存の内訳である社会的支援・社会的資源・関係性・環境をどうにかしてこうよっていう話なんだよね。ひとりも取りこぼさずに。
おじいちゃんズの補聴器とかいろいろいやがる状態でも、どうにかできるといいしさ? 目に見えている解決を私たちは押しつけずにはいられず、それじゃあおじいちゃんズはどうにもならないのである。そうじゃない解決法があればいいなあと思うのだ。みんなが大声を張り上げるんでもなく実現できる手段とかがあればいいなあ、とね。もちろん「補聴器をつけられる」なら、それはそれでいい。
学校に戻り、先生たちに軽く叱られたりフォローしてもらったりしたのちに報告会。
私の所感を伝えるよりも、むしろみんなが収集したデータの解析だなんだのほうが、よっぽど時間がかかる。三年生や一年生から「なんで学年に閉じて行動するかなあ」という声もあがるし、次の実験に向けての計画を練るとなれば、さらに議論が熱を増す。
「難問だなあ」
ひとり、学生寮のユニットバスに浸かりながら息を吐く。
ひとりぼっちになれる時間が欲しくて、大浴場も、宝島に行くのも、あそこにある温泉に行くのもやめた。ぷちたちを迎えに行く前に、人に戻って水音を聞く。じゃぶじゃぶ、ちゃぷちゃぷ、たんたんたん。
私たちは痛みにどう触れるのだろうか。
そんな問いに立ち返るとき具体的な考えや手段が浮かばない。
痛みについて、もっとちゃんと知りたいな。
金色本を出す。それからすこし考えて、術の構成をいじくりまわす。現状は本を出し入れするときに、どの本にするかを選択していた。だけど、これじゃ出し入れのぶんだけ手間だ。なので、まずは本のリストをまとめた金色本を出して、そこから特定の本の名前に触れたら、その本に変化するようにしよう。でもって、どの本も、まずリスト本に戻れるように術を構成しなおせば? 本そのものを出し入れする手間が省ける。
そこまで仕立て直してから、西村書店「ピネル バイオサイコロジー」を読み込んでページをめくる。
痛み。私がイメージするのは痛覚とストレスだ。
痛覚といえば、痛覚刺激。体性感覚系のひとつが該当する。体性感覚系には大きく分けて三種の相互に関連する別個の系統がある。外部感覚系、固有感覚系、そして内部感覚系。最後の内部感覚系には、機械的刺激(触覚)、温度刺激(温度)、痛覚刺激(痛み)を知覚する三種類の異なる部門からなるものがある。
刺激を感じるかどうか。そこが鍵。
日本の二次元界隈は、それ自体が先鋭化しつづける多くの部門を抱えている。他のどんな界隈、業界でも、いや。もっと正確にいえば「先鋭化」そのものに、どんどん煮こごりになって、問題さえ煮詰めてえぐいものに成長・発達していく気質が常にある。批判性に乏しかったり、無思考・無批判にミーム的に消費するだけだったりすると? 露悪性だって際限なく増していく。
で、二次元界隈の場合、えっちな表現になると、もうすごいのがやまほどある。そこに刺激を感じる受容体はないのに「あひいい」「おほう」と敏感に快楽を得るかのような描き方をしてるのがある。
暴力解決パンチもそう。アメリカじゃ核がそれに該当してる。映画でもしばしば愛用される。二次元界隈では多種多様な暴力解決パンチがある。こじらせミリタリーじゃ兵器もそれに該当するだろうし? セックスや恋愛を、その手段に据えちゃってるものもいっぱいある。先に述べたように実際は二次元界隈にかぎらず、あらゆるジャンル、あらゆる業界、領域、文化を問わない。
問題は他にもあってね?
作品側がそうじゃなかったとしても、そう捉えてなかったとしても、私自身がその偏りを常に持っている可能性があるってこと。
対象をそのままに捉えるのって、むずかしい。アナと雪の女王の日本版はありのままにをめちゃくちゃに押してたけど、基本的にはそれがいつだって、ほんとにむずかしい。
それくらい、わかりやすいものを求めずにはいられないし、済ませたくてしょうがない。
体性感覚にまつわる情報は、ふたつの主な体性感覚系経路を伝って大脳皮質へと届けられる。だけど痛みの知覚はみっつの側面でパラドックス的であるという。順応性、皮質表現の欠如、そして下降性の痛覚制御のみっつだ。
ひとつひとつ取り上げてみよう。
順応性は、あらゆる面で極めて不都合に見える感覚が私たちの生存にとって極度に重要であること。痛覚においては特異的な刺激はない。どのような痛みであっても極端な、そして特に有害な刺激に対する反応が痛覚だ。
皮質表現の欠如は、明確な皮質対応がないこと。脳のどこに痛みに対応する箇所があるのかが特定できず、ずっと複雑なものだった。たとえば攻殻機動隊のように「脳を代替する」「刺激を電気的に操作する」作品はしばしばあるけれど、現実には、脳のどこが痛覚を処理しているか、まだ、明らかにできていないのだ。最も関連が疑われる箇所はあるけれど、それが単純な解明に繋がるものではない。
下降性の痛覚制御は、すべての感覚のうちで最も耐えがたい痛覚が、認知と感情の因子によって有効に制御されるということ。痛みをブロックするものがある、という発見だ。攻殻機動隊などのSF作品で描かれる制御はむしろ「痛みそのもの、その発生を制御することはできない」代わりに「生じた痛みをほとんどゼロに近づける」ようなアプローチで対処しているんじゃないかな?
戦場の兵士にアヘンなどの極めて常習性の高い麻薬を投与するのは、痛みの制御のためとも言える。そしてその投与はもちろん、麻薬中毒患者を大量に増やす行いだし? 戦後に生存した兵士の多くが人生を破壊された状態で生きざるを得なくなる実態を生み出すものでもある。大日本帝国軍ならヒロポンあたりかな。
おつぎ!
ストレスとはなにか。
体が危害や脅威にさらされたとき、ストレス反応またはストレスと呼ばれる一連の生理学的変化につながる。すべてのストレッサー(ストレス要因)は、精神的であろうと肉体的であろうと、生理学的に同じような中心パターンを生じる。しかし慢性精神的ストレスは体調不良に最も大きく影響を与えている。
お父さんのビデオライブラリで見るストレスの身体的反応は長らく「胃をだめにする」ことで表現されてきた。そして実際、胃潰瘍はヘリコバクター・ピロリによる胃壁損傷に対する感受性を増大させる因子がほかにあり、それがストレスのようだとある。
そもそもね?
ストレッサーは脳を通じて下垂体前葉→副腎皮質→グルココルチコイド、交感神経系→副腎髄質→ノルエピネフリンとエピネフリン放出を引き起こす。脳で生じる生理学的な変化が明確に存在している。
グルココルチコイド、ノルエピネフリンとエピネフリンの濃度が上昇することは心身に明確な影響をもたらすのだ。それらは例えば手術後の回復の遅れとさえ関係するほどである。
体の不調を引き起こすほどの生理学的な変化を生じさせる。ストレスにはそれだけの力がある。たとえば免疫機能の多様な側面に対して、ストレスは有害な効果をもたらす。多くの研究において、ストレスと不健康との間には正の相関がある。ただ、そのメカニズムの解明、特定は、いまだに困難なままだという。
ただストレスが有害な効果をもたらす点においては疑う余地もない。そこから生じる可能性は興味深いものが多い。そのひとつに、ストレスによる免疫が有害な効果にさらされているとき、日々のあらゆる活動のなかで、頻繁に外来のタンパク質と遭遇して意識せずに免疫反応を起こしている結果、私たちは思いもよらない形で一見自発的な行動、気分、認知の効率性に影響を受けている可能性があるという。
ストレスへの感度が高いとき、強く反応するときには、健康への悪影響も比例して大きくなる。
海馬はグルココルチコイド受容体を多くもつが、それならストレッサーに反応して分泌されるグルココルチコイドは海馬にどのような影響を与えるのだろうか? 海馬の樹状突起の萎縮、そして海馬の神経発生の阻害をもたらすのだ。
実験はまだまだ初期段階ながら、強調するべき四点が示されている。
海馬に対するストレスの有害効果は行動上の影響をもたらすのに十分な程度。ストレスにさらされると海馬が関与する過大行動が妨害される。
母親からのグルーミングが増大するとストレスに対する反応性の減少が長く持続する。この知見から、母親の養育は海馬損傷を保護する可能性が考えられる。
さまざまな種類のストレッサーが海馬に与える有害効果を比較すると、自然のストレッサーのほうが、実験的ストレッサーよりも、海馬に生じる病理的変化が顕著である。
海馬に対するストレスの影響にはかなりの性差がみられるようだ。海馬に対するストレスの効果の研究のほとんどはオスで行われていた。いくつかのメスの研究ではそのような効果は見出されなかった。その理由としてエストラジオールが神経発生を促進したり、脳損傷の回復を促進するからかもしれない。
研究はラットにはじまり、サルなどに発展。やがて人に到達する。研究によってはラット段階で留まっているものある。
ちなみにエストラジオールとは代表的なエストロゲンのことだ。じゃあエストロゲンってなに?
性腺が産生、分泌するホルモンである。睾丸と卵巣が同じホルモンを分泌するのだが、主としてふたつ。アンドロゲンとエストロゲン。テストステロンが代表的なアンドロゲン。エストラジオールが代表的なエストロゲン。一部、繰り返しになるけどね。
成人の卵巣がアンドロゲンよりもエストロゲンをより多く分泌する。睾丸はエストロゲンよりもアンドロゲンを多く分泌する。だからアンドロゲン、代表的なテストステロンを男性ホルモンといい、エストロゲン、エストラジオールを女性ホルモンと言うけれど、どっちも男女ともに産生・分泌している点には要注意。これは正直、命名がもたらした勘違い。ちゃんとアンドロゲン、エストロゲンとして覚え直したほうがいい。
卵巣も睾丸も、第三のホルモンであるプロゲスチンを分泌する。代表的なのはプロゲステロン。これは女性の子宮と乳房に妊娠の準備をさせるものだそう。
ここまで踏まえると、ラット段階の研究で、ストレスの影響の低減・緩和の確認にエストラジオールの投与が行われているものが、すでにありそうだ。
あとは社会学にも関わりそうだけど、家族観の脱却を踏まえた「母親なのか、養育者なのか」とか、カルト的に回収されやすい「愛着」ではなく「アタッチメント、その実際」が、こどもの「ストレスに対する反応性の減少」に資するかどうかの研究も行なわれているんじゃないかな。
「ふむ」
ここまで整理してみると、どう?
生理学的な変化や反応に、暴力が入り込む余地がある? ストレッサーとして、人を脅かす要因にこそなるけれど、他には? ないよね。一切。
刀も、アクセルも、なんなら起爆スイッチとか、湯沸かしスイッチとかにも、ない。
戦いにだってない。闘争にもない。競争にさえ、存在しない。
私は正直、専門書籍にさえしばしば顔を出す「母親信仰」には辟易としている。
アタッチメントの形成は常に可能性があるものだけど、それを「養育環境」、人によっては「取り替えしようのない・戻りようのない過去」に閉ざすところに、心底からうんざりする。母親に限定する時点で多くの排斥と攻撃を包摂していると思わずにはいられない。
そうした刀を握らずにはいられなくなるから、深呼吸。蛇口をひねって、お湯を張った湯船にシャワーを流して、頭からかぶる。
「あああああああ」
意味もなく声を出す。喉は元気。まだだいじょうぶ。でも過信すると、明日は潰れてる。
「あああああああ」
痛みは現に心と体を脅かす。傷つけながら。
だけど、あらゆる学問さえそうであるように、完璧でも万能でもなんでもない。解決・答えたり得ない。また、それを軽率に求めるべきでさえないと思う。その途端に私たちは批判的精神を捨てて、盲信し、真理の探究を捨て去るにちがいないのだから。
映画「7月22日」あるいは「ウトヤ島、7月22日」は2012年7月22日にノルウェーで起きた連続テロ事件、とりわけウトヤ島で起きた銃乱射による事件を取り上げたもの。犯人はひとり。アンネシュ・ベーリング・ブレイビク。極右思想の男が起こした爆破からの、学生ら70名以上の殺害などを扱ったもの。後者はワンカットで、ウトヤ島にいた学生を追いかける。前者は爆破テロから、犯人の裁判までを追いかけるもの。裁判制度はもちろん、テロリストであろうと、弁護を保障する。そして弁護人は仕事として職務をまっとうする。最初は精神鑑定を行った。彼は統合失調症として診断された。けれど、彼は鑑定で嘘をついた。
これって端的に精神鑑定の限界を示すものかっていうと、それだけとも言えない。そもそも移民としてやってきた人も当然ふくめた、すべての国民全員を相手に精神鑑定を行っているわけじゃない。十分な生育、成長・発達を経た人ばかりじゃないなかで、疾患として診断される人がいったいどれほどいるのか。
転じて、彼は、特異な存在か?
たぶんちがう。
彼は問題を抱えているか? 私なら、この問いにうなずくだろう。
疾患をもって、彼の行動を正当化・責任転嫁・免罪するべきか。減刑に値するか? 私なら、否と答える。理由はある。少なくとも劇中で描かれる犯行時の犯人は極めて理性的に、計画性をもって段取りを追いながら行動していたからだ。
一方で、すべてが彼の実状を明らかにできるほどのものかといえば答えは否となる。生兵法の私とちがって専門家の知見と体験が求められるだろう。それに専門家であっても、だれもがみな、同じ価値観・論理・定義を共有しているわけではない。
原告側が求める精神科医による精神鑑定と、被告側が求める精神科医による精神鑑定と、同じ結果になるともかぎらない。これは実話をもとにした映画でも、架空の事件を題材にした映画でも見かける差異だ。精神に限らず、あらゆる診断は常に限定的な性質のものだと私は見ている。だからこそ人は様々な検査を発明して依存している。特定できるのがすごいんだし、検査すればなんでもわかるというわけじゃない。具体的に、どの検査なら、なにがどうわかるのかが地道にいっぱい並んでいるのであって、その具体性に触れずには語れないってだけだ。
「霊子がそれぞれに、生理学的な変化さえ記録して再現して、それを訴えてきているとして」
痛み、ストレス。その低減、緩和なくして先には進めない。
わかっていたけど、知らないことだらけだ。
どうしたらいいんだろう。
わからないよ。
私は教授に連れ去られたときのことも、カナタとの緊張も、ずっと、怖くて、考えないで、感じないようにして逃げてる。それはまるでカフェインと糖分を煮詰めてつくったものを過剰摂取して、明日に先延ばしにしているようなものでさ? 実際にエナジードリンクの常飲、過剰摂取で体を壊して入院する人がいるみたいに、取り返しのつかないことになる日が、いつかくる。
そんな私に、痛みやストレスと付き合う術がぱっと具体的にわかるかって?
無理。
答えや解決だって、無理。
補聴器とかエアコンとかをいやがる田舎のおじいちゃんズのように、私だって、できないこと、やれないことがある。それが明らかにいずれ深刻な状態をもたらすのだとしても。既にそうなっているのだとしても。
カナタとのことは、幸いにしてふたりで話せるようになってきた。キラリとの中学時代だってそう。他にもいくつか、前向きに低減・緩和して、ゆっくりと、エナドリみたいな我慢や無視に頼らないで済むようになったこと”も”ある。だけど、そうじゃないこと”も”いっぱいある。
既に手段はいくつか見つけている。アタッチメントを例にするなら、私はみんなに、ゆっくりとだけど、頼れるようにしてる。応えてもらえているし、助けてもらえている。ただ、それは答えや解決じゃない。いまと付き合う術であって、傷や痛みをなくす方法じゃない。
あえて言うなら、痛い。だけど、私はだいじょうぶと思えるやり方だ。
痛くて、ストレスで、それらがもたらす生理学的な変化に心身ともに怯えて、荒ぶり、刀を振り回し、そうしたくなる心のアクセルをずっとフルに入れてるような状態では、まず、無理なんだ。
そこから止まる方法を、私は知らない。
刀を下ろす、そのための方法を、知らない。
いっぱいあればいい。
なのに、ひとつも浮かばない。具体的な方法を、ひとつも。
「ああああああ」
転じて、私はまだ、下ろせてない。
刀を下ろせなくてもだいじょうぶ、にはまだ、なれてない。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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