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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千八百三十一話

 



 お互いに浴槽がわりの岩に腰掛けて、すこしだあけ涼む。頭寒足熱。気分だけね。

 さんざん見慣れたはずの裸でも、カナタは敏感に反応している。そのわりには、いつもよりも距離を保っている。視線は感じているので煩悩まみれではあるみたいだけど、あえて話してはこない。それなら私も意識的に触れない。気にはなるけど。


「女子のミニスカに当たる服装って、男子の場合、なんだろ」

「どうした急に」

「なんだと思う?」

「さあ。強いて言えば、ブリーフ?」

「えええ? ないない」


 白ブリーフはちがう。昔はそれが当たり前だったんだってね? 時代の変化だねえ。いまでも普通に売ってるものだし、ということは買って利用している男性もいるのだし、どうこう言うものじゃあないんだけどね。

 そもそもただの肌着なんだから。あらゆる肌着の用途に見る見ないはない。


「ファッションとしてありなものという前提で考えて。パンツだけじゃないでしょ? もう一枚あるはずじゃん」

「そうだなあ。ホットパンツとか? 足の付け根まできてるやつ。えぐい角度の」

「だけどパンツが見えるほどじゃないじゃん」

「なにその条件。いっそ、あれは? ふんどしは? 前に垂らした布の下に、パンツ代わりの覆いがあるし」

「その覆いがぴっちりしてるほど、近いかな」

「なんか気持ち悪い話をしてないか?」


 そりゃ気持ち悪い話をしてますよ!


「おお! となる人がたくさんいるじゃん。パンツが見える。乳首や裸が見れる。それだけで、うおおおってなる人が。痴漢もいるし、盗撮する人もいる。マンガやアニメにもある」

「一緒にいろいろ見るようになって引いてるくらいあるな。現実の被害も深刻だ。そのわりには、現実の加害者も被害者も自分たちのよそでやれ、問題ある奴らのせい、自分たちはそれで無関心を正当化・責任転嫁・免罪してる、みたいな捉え方もあるんだろ?」


 何度も聞いたと言わんばかりにカナタが私のかつての主張を繰り返す。

 そう。まさにそれだ。そのとおり。

 だけど熱量にはちがいがある。私とカナタの間でさえも。それはなぜかって、まず、端的に、理解に差があるから。私とカナタとでは共有できない絶望があるからだ。

 お互いに共有できない絶望は、お互いが目指す希望の共有を阻む。ただ、いろんな絶望があって、相反することもある。噛みあわないことだって。どんな絶望でも共有できるとはかぎらない。

 私のした気持ち悪い話。

 絶望に対して、あまりにも素っ頓狂な角度からのアプローチ。端的に語ってもいないしさ? 問題ある。ただね? 相手の絶望への理解を諦めたり、理解しようと努めるのを諦めたり、あるいは伝えるのを諦めたりするだけで、私たちの溝は途端に致命的なものになるのだろう。


「見ることの加害性、か」


 そう呟くと、カナタは片手で顔を拭った。


「相手がいやがるのに見ること? 見るべきでないところを見ること?」


 つぶやくカナタを横目に思案する。

 親しき仲にも礼儀あり。親しくないならなおさらのこと。だけど、そうした考えも、価値観も、論理も、当たり前じゃない。バイアグラがすぐさま承認された一方で、緊急避妊薬の承認が延期に次ぐ延期を繰り返しているような国では。離婚した場合に教育費の支払いが強制ではなく、支払いをしない、やめる男性がやまほどいて、なんの公的補助もない国では。

 そういう絶望の一端を体感したことはあっても、そのすべてを体験したわけではない。だから私にもわからない、理解できていないし、気づいてもいない絶望がある。だから私がだれかの絶望を刺激したり、そのものになったりすることもあるのだろう。

 あらゆる属性に様々な絶望が付きまとう。だけど、それは差別や排斥、あらゆる支配の道具や手段になり得るものでさえある。

 個別の対応を。そのためには、個別に異なる絶望への理解を。

 ブラックパンサーのティ・チャラを演じたチャドウィック・ボーズマンが亡くなったそうだ。いまよりすこし未来に。それでなのか、ブラックパンサー次回作のワカンダ・フォーエバーでは妹のシュリがブラックパンサーを引き継ぐ。ただ、一作目も二作目も戦闘ありきだし、そうなれば人も死ぬ。身内を失う、殺されるという絶望は単一のものじゃない。多種多様なものが存在している。一口に語れるものじゃないし、ひとつを理解すればみんなわかるってものでもない。

 そもそも、自分の絶望さえ見えるものじゃない。そうたやすくはない。

 だから絶望しているとき、それを語れるものじゃない。おまけに語ってもらえたとしたって、それを聞けたり、受けとめたりできるってものでもない。いろんなものが必要だ。私の絶望を私が理解しきるのは困難で、他者であるカナタにとってはもっと困難だ。カナタの絶望についても同じ。

 私の絶望は私の一部。他者の絶望は私の世界の身近なところにある。ときには私の絶望と重なったり、響き合ったりすることも。世界のあらゆる絶望は世界に生きるかぎり無縁ではいられない。結局、あらゆる絶望は、切って切り離せるものじゃない。

 だけど、だれもがいつでもお付き合いできるものじゃあないんだ。できれば拒否したいことのほうが多いのでは? そして、それを強要できるものではない。ゆえに私たちは他者を責め、支配し、排斥する過ちさえ選ぶ。

 いまはアメリカがわかりやすい一例だ。メキシコとの間に壁を築き、国内の移民を排斥するための機関を設けて追い出している。それは一定の雇用を生み出す働きをもっているのかもしれないけれど、別に移民排斥じゃなくていいわけだから正当化・責任転嫁・免罪の理由には当然ならない。そもそもアメリカの大半が移民で構成されている。言うなれば移民のための国だとさえ言える。

 ナチや大日本帝国がそうであったように、いまのドイツや、今後の日本も、いまのアメリカみたいな差別と支配と排斥の国になる日が来るかもしれない。彼らの原動力とはなんだろう。彼らの絶望とは、いったいなんなのだろう。

 神奈川新聞取材班がまとめた「やまゆり園事件」という書籍に植松聖死刑囚の取材内容がまとめられている。また近似した差別と暴力や、施設にまつわるあらゆる取材も。そのひとつひとつ、ひとりひとりにある絶望とは、いったいなんなのだろう。

 言うまでもないことだけど、絶望は具体的言動を正当化・責任転嫁・免罪しない。断じて。一方で絶望は私たちの原動力になりすぎる。私たちは絶望を理由にして正当化・責任転嫁・免罪したがりすぎる。なぜか。刺激から伝わる情報を処理する脳が、身体が、たしかに痛いからだ。つらくてたまらないからだ。それらが心の限界を訴えるからだ。自分という存在の危機を必死に訴えるからだ。どうにかせずにはいられない。痛みはそれくらい、私たちを左右しすぎる。実際、生き物として痛みは重要な知覚だもんね。だから当然といえば、当然だ。繰り返す。正当化・責任転嫁・免罪の理由にならない。

 痛みの表現が重要だ。それをどう捉えるのか。どう語るのか。それが痛みを緩和させる手掛かりになる。助けになる。表現を変えるのは手。けっこう重要だ。

 私はへんてこなアプローチで視線がどういやかを婉曲的に語った。これも試みといえば、試み。だけど、できるならどう痛いのか、どんな痛みなのかを、いろんな語りで試したほうがいいかな。それができる状態に私があるのなら。

 念のため押さえておくと、カナタががばっと無理やりどうこうする、みたいなタイプだったら? そもそも温泉を一緒に入るなんて、まずあり得ない。興奮していても、自制ができているし、そうできる人だと思えているから一緒にいられるのだし、あほうな話もする。だけど、私とカナタ、この状況のなにかがすこしでもちがっていたら、こうはなっていない。


「絶望の処方箋、痛み止めが欲しくなることない?」

「そうだなあ」


 カナタはうなり、一度立ち上がって湯船に再び浸かった。お湯を顔にかけて、何度か拭ってから太いうなり声を出す。温泉がたまらなく気持ちいいのだろう。


「欲望の処方箋が欲しいときは多いよ。で、その欲望はたいがい、絶望の処方箋なんだ」


 具体的にはなにか。


「俺が春灯に触れたり、甘えたり、キスやハグしたくなったり、セックスしたくなったり。そういうのって、とどのつまりはって思うことがあるよ」


 そこでカナタはラビ先輩の話をし始める。小楠ちゃん先輩との不和の相談をたびたび受けているカナタからみたら、ラビ先輩はまさに、絶望の処方箋として欲望を満たそうとしすぎてるらしい。で、それは自分に重なることが多いのだという。


「痛みにばかになるくらい、頭も身体もみんな、もう、それ一色になる」


 さっきカナタが言ったような欲一色になる。


「だめなんだよな。ほんとは」

「そう?」

「俺にとっての春灯、ラビにとっての小楠は、だって、処方箋じゃない。自分とはちがうひとりの人間なんだよ。なのにそこを忘れて、痛みがひどすぎるときの鎮痛剤とか、喉が渇いたときの水とか、腹が減りすぎてるときの飯とかみたいになるんだ」


 消費せずにいられなくなる。それだけでもう、頭がいっぱいになる。

 いろんな形で、そういうものは生まれていく。

 実のところ「差別はだめ」さえ、そうして消費されていく。

 ちょこちょことそれなりにアメリカドラマや映画を観てきたけど、いろんなマイノリティを出すとき、当事者を出すようになるまでにまず時間がかかった。で、当事者を出すようになったらなったで、マジョリティ側の描き方で消費するばかりで問題視される向きが一般化するまでに、かなりの時間がかかった。

 じゃあ、当事者が、当事者の語りで出るようになるのかっていったら、いまでもそれはかなりハードルの高いもので「世間が差別はだめだというから、それっぽい人を、それっぽい配役で、それっぽく演じてもらう」程度に済まされている。エージェントが細かく理解なんかしていやしないし、制作現場もそれはたいして変わらない、という問題の指摘がなされたドキュメンタリーもある。

 他方で「差別はだめ」という、そこだけが強固になると? 今度は「なぜだめか」が無視されたままで「差別されたものをとにかく潰す」方向へとシフトするんだから、私たちはほんと、つくづく、済ませるばかりの安易な生き物なのだと痛感する。

 電車の痴漢問題の対策の的外れ感も、それと似てる。女性専用車両があればとか、男性もいる車両で痴漢に遭うのはしょうがないとか、服装の問題とか、ぜんぶちがう。そうじゃない。みんなで痴漢をどうにかするっていう、そっちじゃないのか。どうにかするの根っこにある、いろんな社会問題に目を向けるという、そっちじゃないのか。疑われたらどうするとか、なんかもう、そうじゃなくてさ。

 見ることもそう。ただ見るのがだめ、みたいな落としどころの問題って、ありません? ねえ。

 なんだかなあ。

 その流れでいくと「はだしのゲン」や「野火」が発禁みたいな扱いを受ける流れになりません? 私とカナタが十代でやることやってるので、お前たちは問題あるから刑務所に行け、みたいな流れになりません?

 そうじゃないだろ。

 十代で結婚も出産もあり得ないと、それは社会がどうこうじゃなくて年齢的に許容する流れにしちゃいけないだろっていう、そういう感覚は大事にしたい。したいけどさ。そうじゃなくてさ?

 やりとり下手なの、どうなんだって話だ。

 考えず、知らず、気づかず、学ばず。その背景に忙しいとか面倒とか、そんなの取り入れたらやっていけないとか、もう山盛りの理由が並ぶんだろうけど、それもどうなんだって話だしさ?

 あーもう。

 憂いなく明日を迎えられて、安心して、安定して、そう生きられないもんですかね? 付きまとう絶望とさえお付き合いできるくらい、しっかりした土台ありきでさ!

 そう。ここが重要なんだ。絶望とお付き合いできるほうが、お付き合いできないよりもずっといい。それにはお付き合いできないよりも、できるような依存がたっぷりいる。そして、その依存にはお金だって必要だ。

 いろんな依存がいる。あるに越したことはない! 当然だけどね。非営利団体っていったって、NPOだってスポンサーを募り、活動する人たちにちゃんと適正な給与と待遇のもとで働いてもらうものだ。ボランティアだからって無償は当たり前、ではない。むしろ世界的にみたら「それで十分、しっかり生活できて趣味だってできる」くらいの報酬があるのが望ましいくらいだよ。お金は敵じゃない。経済学者サンデルが言うところの再分配を国がちゃんとやれるかどうか、格差拡大を食い止める具体的対応がちゃんとできるかどうかにかかってるとも言えるね! それくらい、公の役割とできることは大きいからさ。

 そういう身も蓋もないくらいの現実を、たとえば、欲望に対応する依存でも備えられるのか。


「いまがばってしてないで、我慢してるのは、どうして? ひとりでしてるの? そのわりには元気いっぱいだけど」

「デリカシー!」

「おぅ」


 カナタさんに叱られてしまった。ごめんて。


「じゃなくて。前に話してくれたろ? 自分がしたいっていう気持ち以上に、その行為で、コミュニケーションで相手とできることを大事にしたほうがいいって」

「ああ」


 いろいろ話したなかにあったのかも。そんなこと。


「言われてみたら春灯の言うとおり、うおおお、みたいな気持ちで頭がいっぱいで、せっかくふたりでしてても自分のことしか見えてなかったなって思ってさ。改めて」

「ふうん?」


 絶望からくる欲望。欲望を発散するためだけの処方箋。処方箋としての触れあい。そこには自分しかいない。見ているようで見ていない。ただ、自分のはけ口として、欲としての輪郭を、象徴を捉えているだけ。そこに私はいない。他者がいない。自分の見たいものしかない。それじゃあ、意味がない。

 意味がなくていいんだ。欲望の発散のためなら、私たちはいくらでも他者を踏みにじり、消費しきるだろう。コロッセオの観客席から眺める殺しあいのように。断頭台へと向かう人を眺めるように。いくらでも。どこまでも。気まずいから、問題があるということになったから、それを焼いたり捨てたり追い出したりして、片づけた気になる。そうやって処方箋を活用するんだ。

 個別のちがいも、実態も、その一切を無視して。台無しにしていく。そういう生き物でもあるのだろう。それは絶望のひとつに数えてもいいものなのでは。

 風呂敷を広げすぎたかな。

 いまは目の前に意識を戻そう。


「ただ手を重ねるよりも、お互いの指紋がどうで、それがどう擦れるのがみたいに考えて、感じたほうが楽しいよね」

「し、指紋はわからないけど。俺にはハイレベルすぎて」

「そうかなあ」


 こじらせた私の性癖がダダ漏れになっただけだった? あれ!?


「でも、繋いだ、やったとか。俺と繋いで嬉しそうだ、やったとか。そういうのより、春灯はどうなんだろうって。笑っていたら、それってどう感じているからなんだろうって。そういうののほうが、俺はもっと大事にしたいかな」

「いいね」


 立ち上がって、カナタのすぐそばに腰掛ける。手を差し伸べた。伺うように見上げる彼にうなずいて、手を重ねてくれるのを待つ。自分の欲望、処方箋の利用しか頭にないよりもずっと、お互いを感じあえることのほうが私にはうれしくて、大事なことだ。まあ、それも欲望だろうと言われてしまえばそれまでなんだけどね。あなたを感じられることが重要だよ。私の世界にない、他者であるあなたを。

 消費したい目じゃなくて、私とあなたの距離感だからこそ交わせる視線のやりとりをしたいんだ。消費できる「なにか」じゃなくて「わたし」を見てほしいし、「あなた」を見たいんだよ。

 それももしかしたら、絶望から端を発した部分があるのだろう。それでもいいんだ。かまわない。むしろお互いの絶望にふれあえたなら、絶望のぶんだけ「あなた」がわかる。「わたし」が伝わる。

 それくらい密なコミュニケーションじゃない? ふれあうことができるのってさ。

 そりゃあ、これくらいの濃度でしたいし、できる相手なんて特別だよ。少なくとも、いまの私には。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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