表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2829/2932

第二千八百二十九話

 



 マドカもキラリも仕事があるし、トモは平塚さんの鍛錬を受けるそう。というか平塚さんの鍛錬講座は人気がいま猛烈に高いみたいで、ほとんどの生徒が参加しているという。ファリンちゃんだけは「覚えがある術だった」そうで、不参加に切りかえようとしたけどトモたちに「じゃあ手伝って」と引っ張られているみたい。結果、私はぼっちなのである!

 それもさみしいので、放課後はみんなの鍛錬を見学させてもらうことにした。

 グラウンドに集まり、壇上にあがった平塚さんがスピーカーで流れを説明して運動する。そういう流れだった。私は校舎のそばでぼんやり見守る格好なのだけど、ホノカさんがそばについてくれていて、これまでの鍛錬講座の内訳を教えてくれた。

 座学で筋肉について学び、今度は筋トレを学び、筋トレを通じて筋肉を意識することを学ぶ。狐街の幼稚園からいただいた本にあったように、筋肉と霊子の作用を学ぶ。


「要するに現世の筋トレと、筋肉の霊子まわりの制御・強化を学ぶの」


 平塚さんのお話中は暇なのか、ファリンちゃんがやってきて教えてくれた。いわゆる気功。ドラゴンボールなら気。RRRなら、ふたりの超パワーだし? シュワちゃん映画やステイサム映画、ロックさま映画のパワー!

 万物に霊子が宿るのなら、心身の霊子の制御を学ぶだけじゃなく、心身で触れたものへの制御や干渉を学ぶことで、できることを増やすのだという。

 仙人が空を飛ぶみたいに、あるいは隔離世の邪や、私たち獣憑きとか岡島くんたち妖怪変化とかが人ならざる膂力や瞬発力を示すみたいに、鍛錬次第では可能性は無限大! もっとも指導役の平塚さんでさえ空を飛ぶことはできないので、どんなに可能性が無限大でも歩みは地道になる。

 ただ平塚さんはみんなに演舞だ模擬戦闘だ力比べだなんだをやまほど披露してくれたから、触発された生徒がたくさんいる。平塚さんの話はわかりやすいし「だれでもできる」、「むしろ身体能力に自信がない者ほど恩恵が大きい」と訴えるのも、けっこう大きな要素なのかもしれない。

 鍛錬は正直、けっこう地味。

 そもそもの工程からして、一に運動、二に運動みたいなノリ。それぞれの身体能力に合わせた運動が大事。負荷のかけ方も、筋肉痛の対処の仕方も重要。筋肉と霊子の合わせ技は「元気なときのみ」。なぜかといえば筋肉が疲労しているときに術をかけると、強化できないばかりか、傷つく速度が増すから、ちょっと歩いただけで骨が折れたり、繊維がずたずたになったりして深刻なダメージを負ってしまうという。ドラゴンボールっぽさよりもNARUTOっぽさが増した気がするね?

 それにさ。平塚さんが繰り返している言葉がある。どんなに鍛えたって「鋼を思いきり殴りつける」なんて、私たちにはできないことだ。本能的に拒否する。また、そうあるべきだ。それは自分が人でいることを忘れないための大事な一線であり、社会で生きていくために越えてはいけない一線だから。おまけにすこしでも「やっぱりやばい」と思うだけで術はうまく発動しなくなり、文字どおり「鋼を思いきり殴りつける」結果、思いきり負傷することになるという。

 すると身体をスパイディーや悟空たちみたいに強靱にするんじゃなくて、筋力に霊子で一時的な増幅を行ったり、干渉する力を強めたりするアプローチになる。似て非なるものだ。同じじゃない。それは獣憑きだ、妖怪変化だなんだも一緒。銃で撃たれれば死ぬ。現世の刀で斬られても死ぬ。つまづいて、当たりどころが悪ければ、やはり死ぬ。よくマンガで見かける「脳のリミッター」を解除する、みたいな話でもない。思いの力で無敵になれるんなら、こんなに便利なことはない。だけど、そうはいかないのだ。

 そんな便利な力があったら、大戦時に無茶なことを言いだす軍部に待ったをかけることさえできたろう。だけど、そんな力はないのだ。それが結論なのである。

 ただね? 学ぶことで自分の身体に対する理解力が増すみたい。


「鏡に映る自分の変化に気づいたとき。自分の笑顔をまっすぐ見つめられる日が来たとき。キミたちはまたひとつ、術を自分のものにしたのだと実感できるはずだ」


 筋肉の部位を意識する。具体的に。そのうえで、そこでなにができるのか、どう育ててきたのかなどの体験を元にして、霊子を練られるようにする。思い出や思い入れがなくてもだいじょうぶ。トレーニングを通じて構築していけばいい。遅いということはない。いくつになってもね。それこそシニアからだって遅くないと平塚さんは言う。


「いまどきの子には響かないんじゃないかな」


 ホノカさんは憂いを隠さない。

 お子さんがいる。何度か離婚を経験している人だ。それぞれ別の相手と。みんなもう自分の手を離れたと言っているし、彼女はもうシングルなのだけど、いろいろな苦労があったのだろう。

 母親として、先輩。だから聞いちゃう。


「どうしてです?」

「努力すればなんとかなる、ということは、いま自分がダメなのは自分のせいということになる。これが耐えられない人は案外たくさんいるものよ?」

「ええ?」

「なぜって端的にいえば、どちらかだと思いたいの。世界のせいか、自分のせいかね」

「そんな乱暴な」

「でも、こどもが見てたアニメじゃ言ってたし、こどもたちはそういうものだって言ってたのよ」

「アニメって?」

「進撃の巨人」


 ライナぁああああああああ!

 絶対、ライナーだ。ホノカさんが教えてくれたようなことを言っていた!

 環境か、自分か。過去か、いまか。

 二項対立に持ち込んでしまいたい。責任を語るうえでもね。

 十体ゼロとはいかないんだ。実際は。

 因果関係ゼロにはならない。

 ただただ「どうしたいか」でしかない。

 ついでに言えば「いちいち責めていられない」んだよね。そういうのは暇なときにしかできないもんだ。だけど理性がそれを求めても、身体がそれを拒むことがある。それこそエレンやライナーみたいに。

 過去に起きたことをそのまま、ありのままに受けとめられるだろうか。

 是非はさておき、まず、ただ、受けとめられるだろうか。

 それがむずかしい。

 みんな、ついつい、なかったことにしたがったり、あったことにしたがりすぎたりする。おまけに白黒に分けたがりすぎる。努力だけでも、自分だけでも、環境だけでもない。膨大な依存のもとになんとかなっているだけ。だけど、それを前提に生きられる人はいない。

 あとさ? なにをしたか、その選択の責任という意味でいったら、自分が引きうけるほかにないところがある。だれかやなにかのせいにはしきれない。同じくらい、ぜんぶを自分のせいにはしきれないんだけどさ。それでなにがどれくらい、どうなるんだって話。

 でさ?

 それでもお構いなしに身体は記録する。ショックやストレスも。それを回避するための、あれやこれやも。回避できなかった、どうにもならなかったあれやこれやも。すべて。そのうえで私たちは成長・発達していく。

 成長・発達はなにも「スキルが上達した」とか「より賢くなった」とか、そういう意味だけじゃない。「身体が大きくなった」とか「性徴が進んだ」とか、そういうことだけでもない。ポジティブなことだけじゃないんだ。

 それらがぜんぶ「自分のせい」になるかって、ならない。強く環境や社会の依存によって成り立つものだ。だからといって「自分の言動」をすべて抜きにできるかって、できない。

 どちらかだけなんて、あり得ない。

 なんだけどなあ。

 そういう風には割り切れないのが私たちだ。

 自分ができても、みんなができるとはかぎらない。みんなができても、自分ができるとはかぎらないように。


「だれのせいとかじゃなくて、いまどうするかってところに集中できません、かね」


 自分で言っている途中に「私に言えたことじゃないな」と痛感する。それができたら苦労はない。

 努力、学習。それがもう、なんだろうな。全力で自分を責めるもののように感じられることもあるんだろう。私にとって教授や社長たち、あいつが私にしたことがもうたまらなくいやでならないように。

 そういうときって、なんだろうな。心の「なにかせずにはいられない」アクセルが全開になる。自分で入れるんじゃない。身体が勝手にそうなる。おかげで衝動が猛烈に増す。それは怒りかもしれない。憎悪かもしれない。恐怖かもしれないし、嫌悪なのかもしれない。全部たしてもたりないものがあるかもしれない。だけど、見つけられない。なぜか。なんなのか。ただ、アクセルが全開なんだ。

 ブレーキは、自分の意志ひとつ。だけどアクセルは全身と意志の合わせ技だから、基本的には分が悪い勝負になる。

 元気なとき、機嫌がいいときは、まだ、ブレーキをかけられる。それからゆっくりと、勝手に全開になったアクセルを元に戻していくこともできる。だけどそうじゃなかったら? ブレーキをどんなにかけたところでアクセルは全開なままだから、一気に負荷がかかる。身体は緊急時の状態に向かうし、脳は緊急時だと訴えつづけるなか、私たちは自分を突き動かす激烈な情緒的・身体的反応に苛まれたうえで、どうにかするしかない。

 結果、どうなるって?

 できないのである!

 だから私たちは最後の手段に出る。自分か他者か集団か、なんであれ矛先を向けて、加害に及ぶ。あるいは完全に生きることを放棄する。それにしたってアクセルが入りっぱなしか、ブレーキがかかりすぎるか、みたいな例えじゃ語れないくらい深刻な状態に陥ってのことだ。

 努力や学習が、そのトリガーになっているのなら? 反応から思わずアクセルが入っちゃう、その引き金になっているのなら、それはかなり問題がある。その人に、だけじゃない。その人が体験してきたこと、それまでに巡り会った依存の数々に、だ。

 際限なく再現性をなくすためにできることがある。だけど、なにか起きたとき、それについてどうにか対応できるかっていったら? あらゆる依存が必要だとしたうえで、たぶん、かなり、むずかしい。

 そう。解決できないことだから。済んだことは。なんであれ。答えがあってもなくても、さかのぼって対応することはできないのだから。


「まあ、でも、いつの時代も、どんなときでも、いやといえばいやなものなのかもしれませんね。できないと認めること、助けが必要だと理解することって」


 まるでそれが傷口のようになってしまって、触れたくなくなる。

 私は勉強全般も、体育だなんだも、みんなそうだった。ずっといやでいやでたまらなかった。

 いま学べているのも、努力してられるのも、楽しいし、面白いし、必要だからだ。どれかひとつで続くような成長・発達はしてこれなかった。ようやくいま、その練習をしているって感じだ。


「それもそうね。だけど、すこしちがわない?」

「そうですね」

「えっ」


 ホノカさんだけじゃなくてファリンちゃんも?

 ぎょっとする私のそばで、ホノカさんがファリンちゃんに手を向けた。どうぞ、あなたが言ってごらんなさいと言わんばかりだ。すこしも動じることなく、もうひとりの九尾が私に顔を向ける。


「できないから学ぶわけでも、努めるわけでもない。やりたいから、ともかぎらない。そういう気持ちが動機になると決まっているわけでもない」

「いろんな理由があるという意味ではそうね。ただ楽しい、気晴らしになるっていう、それだけの理由があってもいいっていうだけのつもりだったけどね。私は」

「そもそも動機が明確でなきゃ動けない、動いちゃいけないというものでもないでしょう」

「それも、そう」


 ふたりの話に「ふうん」と相づちを打つ。

 明々白々に生きているわけじゃない。私たちは。具体化するべく思考して、言動にて表現するつもりで生きているわけでもない。だれもかれも。それこそとことん、人による。

 曖昧に生きている領域を、私たちはどんなにがんばってもやまほど抱える。どれほど具体化したくたって理解できないことがやまほどある。他者も、世界もそうだ。自分中心の世界の外にあるすべてがそう。だからこそ学問が蓄積してきた膨大な情報と、検証と反証の積み重ねがどれほどに素晴らしいのかって話になるし? その素晴らしさは結局、営みと蓄積に対するものであって、完璧さや十全さを意味するものではない。アリストテレスへの反証に二千年もかかるような話なのだから。

 そも、いまの物言いだって私はアリストテレスの話を知ってから好んで繰り返して使っているだけで、いまや膨大になりすぎてる学問全体をどれだけ正確に捉えられるのか。捉えきれるわけがないじゃないか。ねえ?

 そこでさ? 良くも悪くも「私たちはわかりきれないから、わかろうとするし、限界が常にあるけど、だからこそないものとして挑む」のだし? そうやって広げてきたってもんじゃんか。

 そんなとき、こういう質じゃなきゃだめ、こういう内訳じゃなきゃだめって限定しきれるものじゃない。人の営みも。思考も。言動も。そのままならなさと付き合うほかにないという点においてこそ、私たちは共通していると言えるはずだ。

 なのでさ? そんな、背負いこんでもしゃあないじゃん。ね? それじゃだめかい? って、いまなら自分に言えるけど。去年の私には言えなかったかなあ。自信ないや。

 みんなもそれぞれに抱えてるんだもんなあ。いろんな理由でやってたり、やってなかったり、できてたりできてなかったりしてんの。無理だったり、なんとかなったり、どうにもならなかったりしてんの。

 それでもいまこれからどうしたいかでいいじゃんね? って思うけど、そんなのどう響くかは、ひとりひとりでちがってんの。

 私だ。

 決めたがってるのは。

 スキャンダルもあったMJはどうだったんだろう。彼が「Man in the Mirror」を歌ったとき、そこにはどんなものが宿っていたんだろう。決めたがっているものの鎖が世界中に、明らかに大勢の人を縛りつける形で存在していたとき、彼はどう願ったんだろう。キング牧師の行進。貧困に喘ぎ、十分な食事もなく痩せ細ったこどもたちが映る、そんな映像を作った彼は。ヒトラーやKKK、殺されたジョン。対立の歴史。自分のすべての荷物をのせたカートを引っ張るおじさん。ブッシュ。

 アーティストは政治を歌う。

 なにも恥じることなく。

 MJに限らない。ヒラリーを支持するアーティストがいれば、トランプを支持するアーティストさえいる。過ちを犯す人も、薬物に依存を限定されていく人もいる。そのひとりひとりのそばには社会が、膨大な依存が存在していて、接続の度合いはぜんぜんちがっている。

 鏡に映る自分にどれほど言えるだろう。

 まっすぐ見つめられるだろう。

 そんな不安をトレーニングで抱かないで済むように、平塚さんが教える。術が作用している筋肉を視覚的に光らせる術を。ポージングと共に光らせる。それだけで、術の鍛錬になるのだと。


「ボディビルの大会じゃないんだぞ?」


 ホノカさんが呆れている。

 一方で「そういう確認方法もあるのか」とつぶやくファリンちゃんは感心しているようだ。

 大事なんだろうな。

 私は知ってるよ。

 変われる。変わってる。

 私にはできるんだって、そう実感できることがさ。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ