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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千八百二十五話

 



 世の中に完全なシステムは存在しない。人が作り出すという条件を加えたら、まず間違いなくね。

 不足は探せば絶対に見つけられる。転じてそれは、だれもが、それぞれの価値観のもと、多種多様な論理のもとに、あらゆる文脈をもって不足を見いだせるということでもある。

 感情だってそうだ。だから感情の不足を補うものとして、理性を殊更に持ち上げる文化が生まれたのかもしれない。

 愛情は完璧ではないし、潔癖でもない。他のあらゆる感情もそう。信じる人には申し訳ないけど、理性もそれらとおんなじだ。なんら変わるところがない。比較して優劣を語ることもおかしい。ネジとドライバーと設計図を比較するような感じだ。ネジと比較できるのは、同じネジでしかない。手段としてネジが適切かどうかを検討するときだと、もう話が変わってくる。

 日本の伝統工法に木を繋ぐやり方がある。金具などを使わないものだ。それこそ日本スゴイ系の番組では強烈に持ち上げられるものでもある。

 じゃあそれだけ? ちがう。金具などを使うやり方がある。それだけ? もちろんちがう。どちらにしたって、歴史の長い文脈のなかで、それぞれの国々、それぞれの時代に生きた人々によって、様々な工法が生み出され、変化してきたのだ。

 あえていうなら、道程の一地点にいまのそれぞれの技術がある。多くの人々が学び、行い、繋いでいった”いま”がある。

 美術史の本を振り返ってみてもそうだ。様々な変遷をたどり、いまに至っている。歴史をまとめた本は人の一生では観測できない膨大な”いま”の蓄積を、とびきり要約して、とびきり簡略化して伝えているのであって、私たちが元々の膨大な蓄積に触れられるものではない。

 学問もどんどん「分かれていった」。人が学ぶものとして捉えるのなら、根はみな同じ。過去の時代には、その時代のすべての学問を網羅的に学んだ者もいたという。いまの時代に、それは無理。人の一生でも足りるかどうかっていうくらい、総量が増えている。

 お父さんの本棚にあるラノベに、まさにそのすべての学問を網羅して学び、理解し、それぞれの真理の探究の糧にしている天才学生たちの知恵比べ合戦をしている作品があった。もうタイトルも思い出せないけど、なんかやたらにむずかしい漢字を使っていた気がする。

 ビッグバン・セオリーを振り返るとき、かなりの天才たちを集めていたけど、あのラノベの学生はやっぱりフィクションなのだと思い知らされる。そもそも「網羅する必要がない」んだから。みんな、そんなことをしない。それに「専門に特化する必要がある」。研究費を獲得して一線で働くとき、網羅的にやる意義がない。「他者の力を借りればいい」のだから。

 実際、研究チームは様々な学者が集まって行っている印象があるよ?

 そもそも学問の実証や反証にしたって、大勢の力を借りてなんぼのものだし? それゆえにやっと、アリストテレスへの反証がなされたわけじゃない? 山中伸弥教授がノーベル賞を取ったiPS細胞にしたって、発表されてから多くの実証や反証がなされたし、なされているのでは?

 安全性の確保とか、膨大な研究費の確保とか、一研究室に閉じていたら進められるものも進められないしさ。あらゆる手を尽くしてなんぼのものじゃん。ね?

 そう考えると、天才さえ完璧でもなんでもないし? 英雄とか、奇跡とかもそう。

 そのわりには私たち、フィクションを通じて頼りすぎてるところがある。

 それは恋愛作品の愛とか、セックスとかも同じだ。恋人ができるとか、結婚するとか、こどもを持つとかもそう。産んでも、あるいは男からして産ませてみても、それは私たちが思い描くほどには完璧でもなんでもない。その点だって、理性と同じ。

 転じて私の「高校デビュー」も、「お仕事デビュー」も、「ライブ」も、「ヒット」も、みんなそう。シュウさんにはじまり、いろんな人のトラブルや、いろんな人が起こした事件にぶつかってきた。対処してきた。それだって、綾辻行人や森博嗣の推理小説、金田一少年の事件簿や名探偵コナンの事件が解決されるくらいの完璧さはない。そもそも探偵は事件が起きたあとに、それがなにかを解明するのであって「探偵が早すぎる」くらい前もって止めなきゃあ、人死には出てる。なのにそこにどんな完璧さがあるというのか。シャーロックの頃から変わってないよね。名探偵だって、刑事だって、事後に来る。マンガやコミックの英雄たちもそう。現実に英雄と呼ばれるのは、人を殺す戦で勝った国の殺人者。おまけに殺人者、という捉え方さえ完璧でもなんでもない。

 世の中はふくざつ!

 じょうほうもりだくさん!

 わお!


「なのにもうみんな帰っちゃったしぃ!」


 お屋敷にはもう、だれもいない。

 狐街からの届け物は来ない。代わりに狸街からレンちゃんがゲーム機とゲームを一式、送ってくれた。そっちは早く届くんかい! そう思いはしたけど、退屈を持てあましているのは事実なのでテレビにセットしてさっそくゲームを遊ぶ。

 見ると遊ぶじゃ大違い。


「やっぱ、自分でやってみなきゃわからないよね」


 お父さんもお母さんも、トウヤもうるさく言うんだ。お姉ちゃんがうちに来てゲームにはまってから、その輪にお姉ちゃんも加わってさ? もううるさいのなんの! あんまり言われるものだし、言われてきたものだから、私は私で意地になってた。そうでなくても私は運動音痴で、反射神経を求められるアクションゲームはまず無理。いろんな計算や予測を求められるロールプレイングゲームだって無理。記憶を求められるシューティングだって無理だし、パズルゲームなんかもっと無理。

 でも最近のゲームになるほど「かんたん」になっていく。そのおかげで、私にもなんとか遊べるのである。たすかるぅ!

 うちの家族は「ふつう」や「むずかしい」、あるいはクリアして出てくる「ちょうむずい」とかさ? そもそも難易度設定がない頃の「ちょうむずい」のを当たり前に遊んでる。

 ついていけない!

 親も家族も、別に絶対でも完璧でもなんでもない。恋人だの、夫婦だのパートナーだの、みんなそう。

 私自身もそう。タマちゃんたちも、それぞれに完璧でもなんでもないことに苦しんでいる。スサノオおじいちゃんもだし、ってことはアマテラスさまもそうなんだろう。どうなったって、どんな風になったって、苦しみに終わりはない。飢餓感にも、苦悩にも、勝利にも、なにもかもにも。

 唯一終わりがあるとすれば、それは死ぬことくらい。加えていうなら、天国だ地獄だのなら、魂の渦に飲みこまれて霊子に還ることくらい。それだって絶対でも完璧でもない。今日もどこかでだれかが亡くなっている。それでも、その人が生きたこと、あらゆる文脈、その繋がりがあるものだ。人の社会に閉じてどうこう言う人はいる。だけど自然の視点からみたら、人は有機物で、相互に作用する。土に還るときには、さまざまなものと干渉しあう。

 膨大な情報と無縁ではいられない。いつだって、常に。

 逆にゲームも、他のあらゆる娯楽も、限定してくれるのがいいのかもしれない。

 龍が如くなら、主人公の桐生ちゃんの行動原理がシンプルだから、わかりやすい。みんながむずかしい話をしてきても「よくわからねえ」「なにが言いてえ」「なに?」で押し切ってるところがある。おかげでプレイする私はかなり助けられている。

 どんな複雑な話も、厄介さも、桐生ちゃんを前にすると「俺はこれになりてえ!」「俺はこいつが欲しくてたまらねえ!」「俺はこれがやりてえ!」「俺はこいつが気に入らねえ!」に向かっていく。みんな、感情の軸足を見出して、それを語ってくれる。

 それがいつだってむずかしいからさ? わかりやすい人たちの「ああ、そうなんだね」って思えるものに惹かれていく。そんな風に生きられたらなあと思えてくる。なのに、そんな彼らさえ完璧とはほどとおく、不十分さに惑うので、けっこうな人が死んでいく。


「せいっ、せいっ、やあっ!」


 桐生ちゃんの豪快なパンチをお見舞いしながら思う。

 すごく強くなったつもりでも、勝てない人がいる。どんなに強くなっても、桐生ちゃんにはできないことがやまほどある。料理をするときの、包丁を使う彼の危なっかしさといったらない。すさまじい極道組織のトップになっても、ささっと次の人を指名して辞めちゃうし、そのおかげで起きたことの数々がもうひどい。それくらいは親のプレイを見ていたから知っている。


「すごくなきゃだめ?」


 みんな、そこに苦しんでる。

 だけど、すごくなきゃだめなんて、そんなのナチの考えとたいして違いがない。

 がんばらなきゃだめも同じ、なんだけど、じゃあ「がんばることを否定するのか」っていうと、そうでもない。どっちかっていう話じゃない。どっちかが完璧、絶対なんて、そういう話じゃない。

 ただ、すごくなくても、がんばれなくても、それでもだれもが生きられるほうがずっといいし、元気になりたいときに必要なものがだれでも手に入るほうがずっといい。

 それは完璧じゃないし、終わりもないけれど、でも、必要なものだ。

 そうやって便利になるほど、満たされるほどに「ああ、これがあるといいな、大事にしたいな」とか、「この人と一緒にいたいな」みたいなところに行き着けるように向かいやすくなると思うのだけど。自分の問題の解決のためじゃなく、ね。でもなあ。問題解決に関わって、関わられてなところもあるもんなあ。

 世の中そうそうわかりやすくなってないんだ。

 レンちゃんが貸してくれた龍が如くを遊んでいると「いきがってる」っていう表現がやまほど出てくる。それは基本的によくない態度なんだけど、ただよくないだけじゃなくて、背伸びしたり、やせ我慢だったり、いろんなものを包摂した「感情」であるとも言える。そして、その「いきがる」ことで目指す高みみたいなものもある、という風に描かれることもある。あくまでも「いきがる」ことで、だれかにケンカをふっかけたり、すさまじく身勝手な利用や消費の仕方をしたり、支配したりするような、そういうのはアウト。で、そういうのを許さないのが主人公の桐生ちゃんなんだけどさ?

 自分のため、だれかのため、筋道を通すために「いきがる」ことをときに積極的に、ときに消極的に肯定している作品だと感じることが多い。それだけじゃなくて、その空しさや脆さ、足りなさなんかについて感慨に耽るような、そういう場面もしばしば見かける。

 世界を変えるぅとか、組織をどうこうするぅとか、てっぺんとるぅとか、そういうのをお題目にしながらも、実際にはそれは「いきがる」名目に過ぎなくてさ? 実は「俺ぁあねさんを俺の女にしたかった」だの「ゴルフだなんだで腐ってく自分がたまらなくいやだった」だの「負けはねえ、勝つまでやる」だの、まあ、いろいろだ。「でけえ男になる」とかさ? 「とにかく強いやつとケンカして勝ちたい」とかさ。もうほんと、いろいろなんだ。

 そういうわかりやすさが、妙にぐっときちゃうのは、だって、私たちは求めてやまないからじゃないかな。「ああ。自分って、こうだったんだ」「これが大事だったんだ」って、そう見つけられる瞬間が。見つけた途端に世界が変わって、ギャップばかりになって、それを味わい尽くせる時間が。欲しくて欲しくてたまらないからじゃないかな。

 桐生ちゃんの親友で、相棒で、特別な兄弟。なのに、みんなに金魚のうんちみたいな扱いをされていた錦くん。背中の入れ墨は、鯉。鯉は偉大な挑戦をして、龍のようなすさまじい存在へと変わる。錦は、そんな龍になろうとしていた。だれも勝てない、だれも追いつけない、桐生ちゃんでもできない、そういうなにかを錦は掴み取ろうとしていた。

 考えてみれば、みんなそうだったなあ。


「みんな、もう限界だった」


 ユリア先輩は霊力と精神状態が合わなくて。根っこは、聞いたことがないけど、たぶん身の振り方とか、将来のこととか、いろいろ悩みがあったんじゃないかなあ。

 シュウさんは? 仕事のプレッシャーだよね。仕事量もだろうし、侍隊の待遇改善とかさ? 警察における居場所のなさとか。ソウイチさんをはじめ、恐らくは歴代の緋迎家のプレッシャーもあったろうし? 期待もされてたんじゃないかな。情けなさを許せなかったり、認められなかったり、受け入れられなかったりしていた。で、そのつらさを全部、カナタにぶつけてた。他にぶつけ先がなかった。

 アダムや教授、ウィザード、黒いの。江戸時代に行って会った人たち。社長たち。彼らが起こした事件群で知りあった人たちもそう。

 あの男も、たぶんそう。

 カナタも、ラビ先輩も、そう。

 私も、帯刀男子さまも、そう。

 限界だ。だから、どうにかしたい。

 でも、そのときに選んだ手段がえげつないことがよくある。しょっちゅうある。

 答えがないのに答えにしたがったり、解決できないのに解決したがったりして、やらかしすぎる。

 深く傷ついた人が「なにもできなくなる」とか「なにもしなくなる」とか「外に出られなくなる」とかになるのはなぜか。それって結局やらかしすぎて、なにをやってもだめで、よりひどいことになるばかりだからじゃない? いっそ、むやみやたらに支配に向かうのも、捨て鉢な自棄を感じるしなあ。そもそもすべてに対して防衛機制の逃走・闘争に向かう反応が生じているような気もする。責めることで闘争を、同時に自分を苦しめる膨大な情報からの逃走を図るのだ。

 もっとひどくなることもある。そうならずに済んだらマシっていう話でもない。

 たまんないね!

 どんな無茶でも拳ひとつでなんとかしてきたし、なんとかできちゃってた桐生ちゃんだからこそできないことがやまほどあって、その生き様がとことん彼をカタギから遠ざけていく。できちゃえるからこそ、できないことが増えていく。

 万能はあり得ない。

 なんでもできる、なんでもわかる、だからなんでもどうにかなるってものでもない。

 ひとりには限界がある。どうしたって、できないことがある。

 成長と発達さえ、変わらない。ひとりじゃできない。それにどうしたってあらゆる依存の影響を受ける。良きにつけ悪しきにつけさ。ひとりじゃ大きくなれない。桐生ちゃんだって、ひとりじゃ龍にはなれなかった。不思議なものだ。

 あいつには、だれがいたらよかったんだろう。

 私には、いま、だれといたら、いいのだろう。

 わかんないね?

 浮かぶのはカナタ、ぷちたち、キラリたち。みんなの顔だ。


「桐生ちゃんにいっつも錦がいたらなあ」


 龍になるために鬼になることを選んだ錦じゃなくて、ふたりが若くて手を組んでいた頃の錦が。

 そういうだれかがいるっていうだけでも大きい。だけど、そういうだれかに「私をぜんぶ、まるごと、どうにかしろ!」ってのしかかるのは。相手には応じられない。無理だ。そんな完璧な人なんて、いない。人には膨大な依存がいる。ひとりにつき、だ。だから、だめなんだ。「私をぜんぶ、まるごと、どうにかしろ」を、だれかひとりに求めるのは。

 去年の私は、カナタにやまほど求めてきた。いまは、逆転してる? そう単純じゃないよね。単純じゃないけど、私が求めるよりもっと求められている気はしてる。

 小楠ちゃん先輩とラビ先輩もそう? ううん。ふたりの場合はまたちがう。またちがうんだ。ラビ先輩は触れることに求めすぎていて、関係性にも求めすぎていて、小楠ちゃん先輩にも求めすぎていて、それだけで頭がいっぱいって印象がある。

 そこいくと、カナタはもうちょっと落ち着いてるけど、じゃあ私や小楠ちゃん先輩はどうなんだって感じでさ? みんなそれぞれにいっぱいいっぱいだし、わりと限界だ。

 龍が如くなら最終局面はみんなそんな感じだし、イカゲームだってずっとそんな感じだったし、生きてるとわりとそんな感じだし、やんなるね! あーあ!


「せいっやあ!」


 桐生ちゃんのキックをおみまいしながら思う。

 えらそうなこと言えない。愛する人の娘である遥ちゃんや、沖縄の養護施設のこどもたちをほったらかして、桐生ちゃんはわりと頻繁にひとりでふらふらする。ツッコミどころ満載なんてものじゃない。だけど、えらそうなこと言えない。

 私はぷちたちを放って、していることが多すぎる。桐生ちゃんに負けないレベル。もっというと桐生ちゃんはしなきゃいけないこと、やらなきゃならないことをしてるけど、私は「休む」こと。それが必要でも、みんなに求められていることでもね。罪悪感があるよ。もっと能動的になにかしてるっていうなら、もうすこし気が紛れるんだけどな。

 いまなにしてんの?

 ゲームやってんの!

 なにやってんのぉ!?




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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