第二千八百二十四話
改めて考えると感情って謎だ。
いままで学んだことを振り返るとね? 感情とは身体と結びついたものだ。理性と感情、そのふたつに分けられるなんていうものではない。
英単語では「feel」が使われるよね。感じるという動詞。そして「feeling」ともいう。生物学において、この「feeling」は「刺激に対する反応」と捉える。生理学、心理学も踏まえると? 脳における情報処理の情緒的・身体的反応と言える。
心と体は切り離されたものではないし? 感情と理性は切り離せるものでもない。
あらゆる体験を蓄積した脳は「feeling」と蓄積された体験などから、それぞれに学習して蓄積された知識や感覚、物語や価値観、論理などに即して「意味づけ」を行う。
いきなり繊細な色合いを判断するのは困難だ。生き物が生存のために必要な判断と速度に、膨大な処理時間があるかといえば? ない。野生においては顕著に。情報社会の現代でも、変わらずに。
だから快不快や好き嫌い、いいなやだな、しあわせ不幸、悲しい、怖い、不安など、生きるのに重要なものに仕分ける。
それって生まれながらに備わるものなのか、それとも環境などによって習得するものなのか、あるいは両方なのか。基本的には環境などによって習得されるものだから、国や地域が変われば、時代が変われば? どんなふうに成長・発達するかによって、変わるのだ。
たとえば浅草で粉物といえばもんじゃ焼きだろうし? 大阪ならたこ焼きやお好み焼きになるだろう。広島だってそうなるよね、お好み焼き!
ラーメンもそう。どんな地域にしたって「ラーメンはラーメン」だった。昔は。だけど情報発達や普及にしたがって、実はいろんなラーメンが地域ごとにあって、かなり地域差があることが分かっていった。
文化の変容でいえば、恋愛の変化もある。同性愛は日本じゃかなりうねりながら変化したものじゃないかな? そして、その変化のたびに、私たちの愛にまつわる感情も変化していると言えるだろう。
快不快などの反応と、文化などによって変化する物語や価値観、論理や定義に対する反応とが複雑に生じて、私たちは感情を「ふわっと」「なんとなく」、「身体で感じている」。
ヘインズやノール、カンタクジノらによる「マンガ版 トラウマや不安、痛みって本当に不思議 でも私は大丈夫、と言える本」いそっぷ社では最新の学説なども欄外で紹介されていていい。翻訳を務める公認心理士の浅井咲子による欄外のフォローもすさまじい。なによりこれ、ソフィー・スタンディングによるマンガだからとっつきやすくていい。
私たちには体験したことのない感情があると紹介している。
『感情を完全に理解するには、練習、理解、そしてコミュニティが必要だ。文化は、混乱した感情の沼を私たちが住むことのできる形に変えてくれる』
そしてドイツの「シャーデンフロイデ」、デンマークの「ヒュッゲ」、ヘブライ語の「フィルグン」、タガログ語の「リジェ」などの感情を紹介している。
それぞれ「他人の不快を喜ぶ」、「居心地の良さ、気楽さ、快適さの状態を総体」、「他人の成功を喜ぶ」、「エネルギッシュに「駆けあがる」「集合的悲嘆」「抑制されていない」無秩序な暴動などに使用」とある。ドイツ怖いし、ヘブライはいい感じ。
『感情は、身体と認知の間にある不安定な階層に属しているわけではない』
『感情は常に記憶や思考と一緒に起こる。フィーリング派常に知覚の一部であり、意識の根底である』
『私たちは、感情を作っては作り替える、を繰り返す』
感情は正確性に長けているわけではない。理性と同じようにね?
どちらにも欠陥がある。
だけど私たちは欠陥の犠牲にならなくていい。
自分の経験を「リフレーミング」することができるからだ、と述べている。
ここでいう「リフレーミング」とはなにか。臨床心理学中事典の定義いわく「ある事象に関する心理的な枠組み(フレーム)が新たな枠組みに更新されることを意図した言語的な働きかけのことである。このような働きかけによって、たとえ事実は変わらなくても意味づけが変わることになり、物事に対する認識やコミュニケーションなどに変化が生じる」というもの。
マンガの例だと「不安でたまらない!」を「私にはたまらなくなる不安がある」と言い換える。あるいは「まだなにか準備ができるかもしれないと思っている」とか「備えたいことがあるのかもしれない」とかね。こんな風に考えてみたら、そう、特別なことじゃないでしょ?
感情の起点に重要なウェイトを占める私たちの健康は、生物学、心理学、社会の相互作用によって変化する。遺伝的に不安を感じやすい、なんていうこともあるという。
だからこそ、私たちは飲酒や喫煙、薬物だけじゃなくて「やたらに仕事」「ひたすら推し活」「趣味」「リアルが充実していなきゃだめ」なんていう強迫観念と依存のセットに苦しみつづけている。
そんなときでも根源的な欲求を満たさなきゃいけない。
『シンプルなことを着実に』
食べる。ストレスを解消する。人とつながる。休息する。
『そうすると、不安への過敏さが軽減される』
ゆえに「H.A.L.T.」を意識するのが、依存症の臨床現場で活用されている、いま述べてみせた考え方。つまり「Hungry」「Angry」「Lonely」「Tired」の頭文字をとったもの。
ついつい正しいこととしたがるけど、正しさは文脈に左右されるし、時代の価値観の変化にさらされやすいものだ。ゆえに生き物としての側面を無視してしまいがち。それじゃ私たちの苦しみは癒やされない。
自然のなかで、ぼーっと過ごすのもいいという。感情や不安をリストにするよりもね。
ぼんやりと、なにもしないができる環境のなかで、それでも生じる不安だなんだの感情を「なぜなぜ」としないで「いま、身体のどこに感じるのかな?」とリフレーミングを行ってみる。
ゆっくりと。
『生理的な変化と、感情や思考、記憶とのあいだに隙間を作ろう』
これがなかなかむずかしい。
すべてが癒着していて、ほぼ同時にぜんぶが一度に押し寄せてくるような感覚に苛まれるからね。
おまけに私たちはセルフトークを行う。
自分に向けて語るのだ。物語を、いくらでも。
不安なときには、不安に向けた語りを延々と行う。だれもがそれなりに経験があるのでは。
人と話したあとのひとり反省会みたいなの、ありません? 私はしょっちゅうやってるよ。
でも、頭のなかで「だからお前はだめなんだ!」と責めたてるハラスメントくそ野郎を置くのか、それとも「だいじょうぶ! あなたならできる!」「このくらいお菓子たべて回復らくしょー!」とか励ましてくれるチアリーダーがいたら、どうだろう。私は後者だと、すごく助かる!
なんにせよ焦る。追いつめられるほど無理になる。
だからついつい、車のシートベルトを「がっ」と引っ張ってロックされてしまうのに、パニックになって何度も「がっがっ」と引っ張るようなことをしてしまう。
リラックスにも、そういう側面があるという。
「力を抜かなきゃ」とがんばりすぎてしまって、ロックされちゃう。それじゃベルトはつけられない。
『多くの人は、フィーリングは簡単で自然なものだと思い込んでいるが、そうではない』
『困難なフィーリングに向かい、そしてそれが和らぐことは、大きなスキルなのだ』
このあとは痛みの話に移り、脳にまつわる生理学だなんだにふれていくんだけど、いったんここまで。
感情を語るのは本当にむずかしい!
脳は別に正確無比ってわけじゃない。複雑な情報処理をしているし、脳内物質の分泌も学ぶとめちゃくちゃ情報過多で、とても覚えられる気がしない! おまけに体験によるし? それは時代や文化、社会にまつわるあらゆる文脈によっても、かなり左右される。
一方で、私たちが必要とする成長・発達の内訳は太古の昔から、実のところ大きく変わってないのでは。そりゃあ時代ごとに社会が要請するものは変化しつづけるけど、安心できる安定した環境で、十分な依存のもとに、HALTの実現と、維持、発展にまつわるあらゆる依存との接続を増やしていく点においては変わらないのでは。
でもね?
私たちは侮る。
あるいは透明化されたり、なかったことにされた学びを当たり前に受け入れる。感情と理性を二分化して、それを当たり前にしてみせたりしてね? 誤ったことを当たり前に常識に織り込む。
わかりやすいほどいいんだよね。間違ったことって。
そのわかりやすさでついつい、フィーリング、感情にまつわるあらゆることさえ支配しようとしてしまう。そうはいかないのにさ!
理解は困難で読み取りにくいし? しばしば振り回されてしまう。また、捉え方が十分かどうかもわからないし? リフレーミングをしてみるにしたって、なにをどうしたものかってなる。
お部屋にもしも虫が出たら? どんなリフレーミングよりも「虫を出さなきゃ!」で頭がいっぱいになる。「殺す!」でないとならない人もいれば「ああ、はいはい。気にしない」って人もいる。「虫による」と答える人もたくさんいるだろう。
たとえば不快さから害虫とされる、いわゆるGにしたって「Gが悪い」で頭がいっぱいな人もいる一方で「やばい! 部屋が汚れてた!?」となる人もいるだろう。エアコンの配管を伝って入ってきたと警戒する人もいれば「ああ、どこからか入ってきちゃったか」って考える人もいる。ちなみに一時期、お部屋探しをしていた頃に教えてもらった。マンションだろうとも、よその部屋が汚かったり、下の階に飲食店があると、それだけでやってくる確率があがるのだと。
そのときどきで、それぞれの人の感情って、いったいどんなもの?
私たちはそれをどれくらい語れるだろうか。読み取れるのだろうか?
九州ラーメンでいい、だから博多だ長浜だ知ったこっちゃないねっていう人がいたら、その人の感情ってなんだろう? お好み焼きは大阪、広島で前に風をつけて地名で分けず、どちらかを「(県名)焼き」で呼んでる人の感情は? 浅草焼きなんて言う人もいるけど、その呼び方にまつわる問いをしたときに生じる感情は、いったいどんなもの?
わからない。
感情って不思議だ。
改めて本を読み直してみるまで、私も勘違いしていた。
感情はわかりやすくて、理解できるのが当然で、当たり前にわかるんだ、なんて風に。
そんなことなかった。
「んぁー」
座布団のうえでごろごろしながら、小学生時代に見せてもらったドラマを見る。うろ覚えなものもたくさんある。アリーmyラブ、グレイズアナトミー、あれやこれや。
「恋してるのか、セックスしたいだけか」
好きだと思ったはずが、実は欲求不満なだけだった、とか。
それで「お酒で酔っ払って、気がついたらだれかとヤってた」みたいなの、たまにある。
その相手っていうのが「コミュニティのなかで、一番まともで、真面目で、やさしくて、絶対にいい人」なんだよね。大概は。
自分にとって、みんなにとって確実な「安全基地」になれる人。みんなの「良心」であり、それはときどき父親的でも母親的でもある。みんなのケアができる人。
で!
決まってそういう人は主人公のことが好き!
だけど、お決まりなのが「みんなからすると絶妙に冴えない! それに、遊ばないタイプだし、付き合うなら絶対に真剣交際以外にあり得ない」っていう、そういう感じ。
もちろん「セックス」なんてしようものなら? 絶対に付き合うのが当たり前って、そういうタイプだし? 最大限に期待される。
これに「キスやセックスがはじめてだった」なんてつこうものなら? 手に負えない!
明らかに「やっちゃった」「よりにもよって」と主人公はめちゃくちゃにへこたれる。だけど、手ひどい失敗を経験してもいるから「いっそ、彼が一番いいのでは?」ってなる。男女逆版ももちろんあって、その場合も同じように考える。「彼女が一番いいんじゃないか」って。
残念ながら、大概はうまくいかない。
なぜって「相手に見合う自分」じゃなかったり、相手は初恋ゆえにさじ加減がなくて「ぜんぶをあげるからぜんぶをうけとめて」とくる。軽い重たい以前に、そんな変化、受けとめきれないし? 変われない。おとなドラマほど、その年齢に応じて「変われないことを受け入れてほしい」のに、それが無理だったりする。
中年同士で結婚を視野にしたとき、こどもを持ちたいかどうかの意見がちがうともう致命的! 三十年、四十年、下手をしたら五十年分の体験と感情は、自分では対処できないものだから。
そう。
感情って、わかりにくいにもほどがある。
手に負えない以前に、どういうものなのかがまるでわからないことだってしょっちゅうある。
だからさ? 実のところ恋したいのか、セックスしたいのかなんていう問いもせいぜい最初の一段くらいのものにしか過ぎない。その先が重要だし、セックスしちゃったからこそ主人公も、相手も、そのことについて考えることになる。なにせ相手は自分にとっても、みんなにとっても大事で特別な人だ。特別冴えてるわけでもないことが多いのに、気がついたら、まず仕事で、みんなが気の置けない存在になってるんだから。プライベートはもっと存在感が増していく。
逆算してさ?
いろんな気持ちがあってさ? 恋がしたかったのか、セックスがしたかったのか、あるいは「相手を支配したかったのか」、「手に入れたかったのか」、あるいは「相手といたかったのか」、そのどれかに決めきれることも、そうそうない。
ぐちゃぐちゃなんだよね。実際のところは。
だったらいっそリフレーミングできるなら「この人といたいかどうか」で考えてみたらどう? となるし、それで長く付き合っていけるかどうかは別の話。
ドラマだと「うまくいったら話が終わっちゃう」し、事件がなかったら盛りあがりに欠ける。最近の私みたいにね? なので、まあ、破局するんだよね。もう触らないほうがいいくらい盤石な人気がでないかぎりは、まあ、破局する。それにあんまりにも「わかりやすすぎる」でしょ? 恋愛が軸なのに、波乱もなにもなく、うまくいきました、だれよりも安定志向の男ですぅって。
そりゃそうだろ! ってなるじゃん。
そりゃそうだろが欲しい作品か、そうじゃないかが、ある意味では運命の分かれ道とも言える。
でもってドラマの都合なんてつまらない理由じゃなしに、実際、人は厄介で、感情は見えにくくてわかりにくいもので、その対処も満足にできやしない私たちは、しょっちゅう間違えるし、やらかすから? 残念ながら別れるときは別れるし、また付き合うときには付き合う。
そんなもんだ。
HALTで自分をなんとか維持しても、それで低減・緩和しきれるとはかぎらない。実際、専門家やグループの集まりだ、福祉や支援があっても、今日をやり過ごせるかどうかっていう、その毎日の繰り返しになるのが精いっぱい。
それが私たちの限界。
だから私たちは「ぼちぼち生きようとする」。社会ありきじゃなくて、まず自分ありき。経済ありきじゃなくて、まず自分ありき。国だの軍だの、学校だの家庭だのありきじゃなくて、まず自分ありき。
そのうえで、やっと、自分が大事にしたいことに触れられる。
どれくらいやりきれるかな?
十分とはいかないよね。実際。
「心の欠片さえ、わからないのでした」
まる!
じゃあ、終われない。
だからこそ、ぷちたちも、ちっちゃい頃に触れる作品も、わかりやすいのかな。
感情を言葉にしながら、理解しながら、たどっていくのかな。
「三十七度にぎりぎり届かないシリコンと、人のちがいはなに?」
情報を羅列する精度が増すAIと人のちがいはなに?
過去は彫像、いまはフィギュアの立体物と人のちがいはなに?
「カゲくんたちなら、そうだなあ。一定の速度に達したとき、空気に手を当てると、おちちの感触になるとかではしゃぎそう」
ひどい偏見である。
それでも心から思う。彼らはそれを嬉々として試すだろうと。
で、それとおちちのちがいはなに?
百あるおちちと、好きな人のおちちのちがいはなに?
そう問いかけてみたところで、ろくでもない答えしか返ってこない気がする。
ひどい偏見なのである。
「おちちと人のちがいはなに?」
セックスできること、できないことのちがいは?
恋をすること、できること、できないことのちがいは?
「ううん」
あなたがいること、いないことのちがいは?
私たちになにをもたらす?
そのとき、感情はなにを示すだろう。
リフレーミングすることで、いったい自分の、あなたの、なにが見えてくるのだろう?
わかんないね。
『多くの人は、フィーリングは簡単で自然なものだと思い込んでいるが、そうではない』
『困難なフィーリングに向かい、そしてそれが和らぐことは、大きなスキルなのだ』
ゆえに私たちは自分の霊子さえ、満足に理解できずにいる。
私たちの術が、神通力が、隔離世のあらゆる術が、なかなか発展しないのはなぜ?
自分たちのことさえ、満足にわからないからだ。
歩みの鈍さに私たちは耐えられないから、済ませたくなる。わかるもの、答えにしたいこと、解決にしたいことで塗りつぶしてしまいたくなる。
わからないということへの旅になんか、出たくないのだ。
旅に出たくたって、それこそHALTを優先するほど、わからないことどころじゃなくなるんだ。
ぼちぼちやることさえままならない!
そりゃあ、もう!
助けがいるし! 必要でしょうよ! ねえ!?
「はあ」
心の中で力説してみても、どうなるものでもなし。
ごろごろしていたら、お台所番のおイヌさまが襖を開けて顔を覗かせた。
「おたまさま、キャベツの漬けたのができあがったんですけど、味見してみます?」
一も二もなくうなずく私である。
わからない旅には、お腹を満たして、人と関わり、健やかにいないとままならないのだ。
自分があれこれ言ってくるじゃん? で、ぐちゃぐちゃっとしがちだからさ。
むしろ関わりのなかで見えてくることの、なんと多いことか。相談するあいだに整理して、ずっと楽になることがいっぱいある。それは旅をとてもしやすくしてくれるものだ。
書籍を読むだけでもちがうし? お風呂やトイレでふと閃いちゃうことさえあるじゃんね? それだって旅の助けになるものだ。
なんてことはない。ひとりで抱えて、ひとりで旅しちゃうから行きづまるのである。
ドラマのふたりの話題で言うならさ?
けっきょく、ひとりで旅しちゃうだけのふたりだとうまくいかないことが多い気がしてる。ふたりで旅するとか、ひとりとひとりで旅をしながら、そばにいるとか。もっとやりようがあるんだろうなって。
ふたりで旅してたのに、信じられなくなっちゃうから離れるってこともいっぱいあるしなあ。
グレイズアナトミーなんて、もうシーズンいくつだろ。歴代彼氏はどんなもの? 失恋ありの恋愛作品は遍歴がすごいことになるよね。でも、それも人生だよなあ。
私はカナタといたいし、カナタを知りたいし、それでいいんだよなあと、塩とすこしのお酢、そして生姜で漬けたキャベの風味をぽりぽりかじりながら満喫しながら実感するのだった。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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