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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千八百二十三話

 



 ふたつの風船に火をつけたとき、片方が普通にぱんと弾けて終わる横で、もう片方が爆発を起こしたとき、私たちはなににどのような印象を持つのだろうか。

 音のうるささ? 爆発したこと? 手品かなにかを疑うこと?

 それをいつ、どこで行ったか? 爆発の影響はあるかどうか?

 まあ、実際、いろいろだと思う。

 そのいろいろなちがいを抱えた人々を相手に「一方の風船が破裂したのに対して、もう一方の風船が爆発した理由を述べよ」と問いかけたとき、答えを出そうとする人がどれだけいるか。少なくとも、当たり前に百人中、百人が答えようとはしないだろう。

 学校のテストなら、答えようとする比率は増すだろうけど。授業の実技演習としての問いなら? 途端に比率は減るんじゃないかな。

 問いの共有も、答えようとする態度も、なにに着眼するかも、みんなちがうんだ。

 そういう多種多様な反応をさておいて!

 爆発にかかる要素はなにか。

 風船。人。火。このあたり? まだない? あるはずだ。風船の内部の気体だ。

 風船のゴムに仕掛けがあるのか。それとも近づけた火? それよりよっぽど気体が反応しやすいものにしておいたほうが、たやすく爆発を起こせる。

 じゃあ、気体が答えでよし?

 そうはいかない。

 化学の実験やクイズ番組なら、ここで正解のVTRと共に種明かしが行われるけど、実際には爆発した側の風船の中にどの気体が入っていたのかを調べなきゃ、答えはわからない。

 気体が異なれば浮力も異なるのでは? だったら、ふたつの風船が浮かんでいた高さが同じだとして、どういう気体の配合があり得るのだろうか。そんなところまで調べていくことになる。

 調査の結果が得られて、検証して、見事に再現できたなら? やっと、答えがわかる。

 ここまで行動する人は、百人中、何人くらいだろうか。

 手間がかかるのである。

 面倒なのである。

 それだけで、やろうとする人が減るのである。

 そもそも、興味を持てたり、意欲を持てたりする人が減るのである。

 学校の授業を受けるみんなを見ていても思う。テストで点を取れている人のなかに、勉強する内容に本当に興味がある人を、私は見たことがない。士道誠心学院高等部にて、初めて見たまである。

 そんなだれかとの出会いがあるかどうか、自分がどれくらいやるかは人によるだろう。


「ううん」


 あいつはいったい、どんな風に術を作りあげたのか。

 その問いは氷山のどの部分を、どう捉えて立てられたものなのかさえ曖昧だ。

 私の目的も? かなり曖昧なまま。そもそも私、自分がどう思って、どうしたいのかさえ、まだ見つけられていない。

 自分の感情って、当たり前に認識できるものじゃない。それは練習して成長・発達させなきゃ育たない。認識だけじゃない。言語化、表現する能力も同じく、練習して成長・発達させるものだし? 認識と、言語化・表現したものとのずれとを比較して、調節していく能力も同じ。

 現実の認識もそうだ。

 一意に基準や方向性が定まるものじゃなし。実態も多種多様なものだから、私たちはほんと、噛みあわないことだらけのなかで生きている。

 逆に新鮮だ。

 生物学だなんだ、いろいろ学んでみると人間はつくづく「個体で育つはずがない」と実感する。

 五感を通じて私たちは刺激を入力される。入力された刺激情報が脳に伝達される。脳は、これまでのあらゆる体験などを参照しながら、伝達された情報を解析、処理。全身に情報を発する。そして全身に情緒的・身体的反応が生じる。

 ここまできて、やっと私たちは刺激と反応について認識して、どうするか思考し、対応する。

 言うまでもなく、だいぶ簡略化しているよ? ホルモンひとつひとつの働きとか、神経伝達物質がどのように動いているのかとかね。それらを調べて明らかにした研究は、いついつだれがどこでどのような形で行ったものか、とか。それに対して反証や、追って確認・検証するための実験がどれほど行われたのか、とかさ。私にはわからない範囲の、膨大すぎる背景が存在している。

 なので「個体の成長・発達」においては、膨大すぎる依存が影響を与えることも想像に難くない。依存とは社会的支援・社会的資源・関係性・環境であり、それらの具体的なものだ。

 だれもひとりでこつこつやって幸せになってるんじゃあない。当たり前だけどね! やまほどの依存に支えられながら、栄養を与えられるほどに、満足に成長・発達していきやすくなるだけなのであって、その保証もない。

 間違いないのは経済的に、あるいは依存が貧しているほど、あらゆる物事が「高くつく」ことだ。困窮しているほどに、そうでない人に比べて、あらゆることが大変になりすぎる。

 太古の昔から、だからこそ集団になって生じる共同体が持つ利点が、私たち全体を生かす依存を生み出し、構築し、活用されていく。そうして、当たり前に不公平で不平等で問題が多すぎる世界で、だれもが生きていきやすくなっていくのである。

 それって、別に個人と共同体、転じて社会に限ったことではない。

 あらゆる学問、知識、技術も、その結果も同様である。

 なので?

 術も同じ。

 感情の認識。言語化・表現も。その調節も同じ。

 術に利用する心の動きだって? 感情にまつわるあらゆる能力の成長・発達が欠かせない。


「わからん!」


 お屋敷の座布団のうえで仰向きに寝転がる。


「なーんにも、わからん!」


 金色をぎゅっと握り締めてどやっと決めておいてなんだけどさ。


「ちーっとも! わからん!」


 あいつの術の構成。あいつが頼る依存の内訳。そもそも、あいつの感情の機微。

 なんでわからないのかって?


「自分の感情について能力が十二分に育てられてないのに、あいつの感情についてわかるわけないじゃんか」


 だいたい、おもんばかるしかないしさ?

 それには相手と対面して接するうえでの、五感からの情報が欠かせない。あるとないとじゃ大違いだ。

 本来なら? そう、本来なら、安心できる状態で、安定した依存のもとに話せたらいい。「聞く」をちゃんとしてくれる相手を前にして。あるいは表現するのもいい。絵や、文字にするように。

 それらがなきゃあ、むずかしい。


「術は見た。対処もした。だけど、そこから先はぜんぶ自力でやれって感じだ」


 それじゃ困るのだ。

 風船の例題を前に、検証する材料だ基材だなんだもなしに思考だけでアプローチしようとしている。こんなやり方でどうにかできるのはホームズくらいのものじゃないか。事件がないと薬物を使用するくらい彼には事件が必要だったのではないか、という話はさておいて。


「作る技術と、分解していく技術」


 見るのはこれらの技術に資するけど、見ているだけじゃ技術は成長・発達しない。

 当然だけどね。実際に手を動かさなきゃ、育つ余地がないなんてことはさ。


「基礎のために、さらなる基礎がいる」


 それもまた、依存の内訳に含められる。

 たとえば五感。弁天さまの香りに触れたのは、いいきっかけになったな。五感の刺激、脳の処理、情緒的・身体的反応。感情は情緒的・身体的反応の捉え方、そして現れ方の一部であり、重要な情報源だ。だから感情を読み取る技術を怠っても、無視してもいいわけがない。

 官能仏教ではしばしば「母なるもの」に触れているけれど、より抽象化したときには世界中の宗教や文化、哲学における「神なるもの」との共通項が存在すると私は捉えている。それは様々な言い方を変えながら「報酬」として、あるいは「権利」として、ときには「依存労働」として捉えられることもある。

 それらはなにを与えるのか。

 許し? 満たされること、つまり充足感? 不安や恐れからの解放? 憎悪や憤怒の肯定? あるいはそれを手放せること? なにも思考しないでいいことかな。快楽に耽ることかな?

 様々な方向性に分岐するけれど、いずれも「獲得」か、あるいは「維持」されるべきものとして、満たされている者には「権利」として、そうでない者たちへは「義務」として、距離と困難さがすり替えられてしまうことも多い。明確な格差が顕在化する要素である。

 だからなのかなあ。かつては哲学や宗教、やがてはより広範な学問だなんだとして、あるいは福祉や支援として「だれでも当たり前に触れられる」形で提供されるよう、その機能が成長・発達していっている。十分ではないけどね。発展途上国においては未だに学問、福祉や支援は普及が困難だし? そもそも先進国でさえ、そこは同じだし。おまけに後進国に至っては削られるものとしてやり玉にあげられやすいものでさえある。

 なので、私たちは感情を認識することさえ十分にできるわけじゃないし? そうなれば当然、他者の感情や、その機微への理解力や共感力だって、十分に育っているわけじゃない。それらはできて当たり前じゃあないんだ。地道に「成長・発達させるための依存の具体的な施策と実施」を拡充して、充実させることでしか、対応できないし? それは個々人の多種多様なちがいを包摂できるような仕組みでないと、普及に困難を来すものだ。一律に教えたら、九九とか、歴史年表とかで勉強につまずいて、ずーっと苦手な教科で赤点を取り続ける子がいっぱい出てくるようにね。体育で露骨に比べられて、傷ついて、二度と運動の意欲を持たなくなる子が出てきちゃうようにね。


「勉強したことなら、推察ができるんだよなあ」


 勉強した内容という依存に支えられているから、頼りにできる。

 この「頼りにできる」のは、良きにつけ悪しきにつけ、という側面がある。

 脳は記録する。あらゆる体験を。いいことをいいこととして、悪いことを悪いこととして、かな? ちがう。そう単純ではない。意味づけは状況や依存によって影響を受ける。あらゆる依存は体験の価値、定義に大きな影響を与える。

 感情について言語化・表現したとき、支配、つまり暴力・虐待を受けたり、養育放棄をされたりしたこどもたちと、安定して安心できる依存のもとで感情について言語化・表現して話して聞いてもらえるこどもたちとでは、まず、受ける影響があまりにも異なる。決して同じではない。

 もちろん、それぞれの集団においても個別に異なるんだけどさ。一定の傾向が生じることがある。

 そして、これらを外野から「それはいい」「それは悪い」と表現して済ませられるとはかぎらない。脳はそんなのお構いなしに記録する。私たちの意志や選択は、脳の記録のあとに、意識的に行うものでしかなくて、脳に対して強い影響力を持たない。残念ながらね。

 たとえば情緒的・身体的反応に大きく左右されるときには、まずもって、意識でどうにかできるものではない。その激情を言語化・表現するのは、それまでに言語化・表現できていたとしても、その能力を十分に成長・発達できていたと思っていたとしても、容易なことではない。犯罪被害を受けて、数十年をかけて語れた人がいたら、それでも十分、できたといえるほう。死ぬまで語れずにいた人が、やまほどいたろう。それくらい、困難なことだ。


「教科書にするには、体験は不向きなんだよなあ」


 何度、この手のことを考えても実際の体験から感情を表現することがむずかしい。

 私たちは情報をくどくど述べたり、饒舌に語れたとしても、感情について理解できるとはかぎらない。認識が十分に行えているのか、そのための能力があるのかどうかも別の話になる。

 カナタがお芝居のお稽古で感情表現を勉強していた。喜怒哀楽の表現だ。表情で。声で。仕草で。身体全体を使用して。感情の機微を表現する。舞台上で全力で表現するのだから、私たちの日常の表現よりもいっそ過剰なくらいだけど、じゃあそもそも日常の表現はどんなもの? 私たちに、それをどれくらい表現できる? それを具体的に、どう語れる?

 私は正直、自信がない。

 中学時代のキラリに対する感情を読み解くことさえ、当時の私にはできなかった。私の饒舌さは日記を何十冊もこしらえるほどだったけど、それのどれも、私の感情の根っこになにがあるのかを語れなかった。避けていたし、目的にしなかったし、選べなかった。

 感情の認識や言語化・表現、批判や調節などの能力がなくても、それっぽいことは語れる。生じた情緒的・身体的反応を感じることもできる。そのすべてを感じなくていい。ごまかしたっていいし、成長・発達の機会に利用しなくたっていい。悲しみや憎悪、嫌悪や侮蔑など。あるいは歓喜や賞賛、素直にうらやましいと言っちゃったり、そのつどごとにいい・わるいを言えたりすること、などなど。

 そんなのぜんぶ、てんでできなくたって、たとえばメディアの批判を展開できる。報道は利害関係から切り離した状態であるべきだという原則のひとつに鑑みるなら、企業の批判を行ううえでは、企業をスポンサーにして収入を得るビジネスモデルはジャーナリズムに反している、とかね。報道の権利を政治が握っていたなら、政治に対する批判を展開しがたくなる。それは問題だろう、とかね。

 でも、それと感情にまつわるあらゆる能力、その行使と検証などは別の話だ。社会生活をそれっぽくできることと、感情にまつわるあらゆる能力、その行使と検証は別。

 できなくても、それっぽい生活は過ごせる。けど、できたほうがいいよなあ。やっぱり。

 わりと基礎じゃんね。

 生きるうえでのさ。


「安心して、表現する、かあ」


 両手を天井に向けて伸ばす。ぷちサイズの小さな手。ぷちたちに負けじとぷにぷにの手。

 小学生時代の六年間、満足に過ごせなかったあの六年間。あの野郎にされたこと。その他もろもろ。逸した機会を嘆いても、過去には戻れず、やり直すこともできない。だれを責めても、逃した機会が巡ってくることもない。

 ただ、ただ、いまからどうするかであり、どんな自分を望むのかである。

 手はあるんだよ。ちゃんとね。

 練習して、成長・発達させていけばいい。十分な依存のもとで。

 ぷちたちのほとんどは、それを積極的に私にしてくれてる。「ねえねえ聞いて」「ママ、あのね?」と、もうこれでもかとしゃべってくれる。あれは心身の発達に欠かせない重要な運動なのである。

 ひるがえって、私はそれがほんと、苦手。下手。最近ぜんぜんやってない。

 教授の一件がなくたってできてなかったのに、あの一件からはもう本当にできなくなってしまった。

 別にね? 劇的な体験じゃなくたって、私たちは困難さを抱えることになる。学校でともだちとケンカしたり、そもそもともだちができなくて沈んだり。面接で落ちたり? 会社にクビにされたり、取引先から切られたり。支配、つまりは暴力・虐待にさらされたりしてね。部活や趣味、好きな活動の集まりでしくじるだけでも、困難になる。

 貧乏は高くつく。本当にそうだ。依存の貧しさだってそうだし? 努力するにしたって、貧乏や貧しさにおかれていると、高くつく。体験の内訳による貧しさも、そう。


「どうすればいいのか、わからないんだよなあ」


 こんなとき、どんな感情が私のなかに渦巻いているのか、わからないんだ。

 だから形式的に必要な依存を探したりなんだりしようとする。しすぎる。

 本当に大事なのは、わからない先にある感情や、わからないことへの感情だし? 刺激によって影響しようとする体験の内訳だし? 影響そのものの内訳だし。生じる情緒的・身体的反応の内訳なんだけどな。

 風船がいくつあって、その中になにが詰まっているのか、熱したらどうなるのかさえ、私には見えていない。熱する勇気もない。

 私には、それくらい私のことがわかってない。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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