第二百八十二話
夜中になってもハルが部屋に帰ってこない。
不審に思い始めた矢先にスマホに連絡が届いた。ハルからだ。
体育館に来い、という。
本来なら二人で特訓をするはずだ。
俺は自分の行動を悔い改め、特訓をする前にきちんと話そうと思っていた。謝ろうと思っていたんだ。
なのに、なんだ? どういうことか説明して欲しいと返信を送っても返事はこない。通話もだめだ。
仕方ないから体育館に行って、すぐに驚いた。
「まさかの呼び出し……ハルちゃんの仕掛け、生徒会占拠以来だね。どんなことをしてくれるんだろう。ボクは素直に楽しみだ」
「シオリ、そうはいうけど。あの子……大丈夫かしら」
「なんだかんだいって、コナはあの子のお姉さんやってるよね……もぐもぐ」
「ユリア、買い込んできたお菓子を体育館で食べるな。はしたないっていつも僕は言っているだろう」
ラビたち生徒会メンバーだけじゃない。
真中先輩たちお助け部のメンバーや、伊福部先輩を含め、一年から三年まで見知った顔がちらほらと。
一年九組と十組にいたっては全員いる。
「カナタ、こっちこっち」
ラビに手招きされてそばに立った瞬間だった。
体育館の袖から顔を出した佳村がレプリカを掲げて叫ぶ。
「体育館、局所展開!」
身体が引きはがされるような感覚にまばたきすると、そこはもう隔離世だった。
壇上を見て驚く。
ハルによく似た美女が立っている。臀部から生えた九本の尻尾が彼女の正体を露骨に示していた。
玉藻の前。
金髪に生えた獣耳も、その素肌の艶もなにかも、天性のもの。
美しくあろうと彼女が化けた人の姿だと――ハルに霊子を繋いで得た知識が教えてくれた。
願うだけでなく、欲し続けた夢の結晶。ハルが愛さずにはいられない女性像。憧れてやまない存在。
正直に言う。文句なしに絶世の美女だった。
憂いのある眼差しの先に、着流し姿の美丈夫がいる。片目につけた眼帯は、彼が十兵衞であることの証明のようだった。
柳生三巌……十兵衞。
ハルが願う最強の象徴。史実の彼が雄弁かどうか、確かめたことはない。
けれどハルが選んだ十兵衞は寡黙。背中で語り、笛を愛し……己の道を優しく強く、柔さも堅さも持ち合わせて生きる傑物だ。そして、紛れもなくその実力は本物だった。
彼が笛の音を鳴らす。
すると、どうしたことだ。
体育館の壇上には穴などないはずなのに、
「――……」
演歌といえば天の城を越える、あの歌を歌いながらハルがせりあがってきた。
ステージから。どうやったのか。それも化け術の一種なのか? とにかく待ってくれ。
「ラビ、どうしよう。俺の彼女が演歌を歌いながらせりあがってきた」
「くっ」
ラビが吹き出すように肩を震わせた。
並木さんはお腹を抱えて唇を引き結んでぷるぷる震えているし、生徒会メンバーは同じように撃沈していた。
ちなみにそばにいたお助け部メンバーは倒れ伏していた。
そんなの気にせず、むしろ尻尾を嬉しそうに膨らませてどや顔で熱唱しているんだ。あいつは。
「――……」
奪われる前に、殺す。
刀を手にしたハルが、玉藻の前の胸を貫く。
そう見えただけだ。脇の横、空間に切っ先を伸ばしただけ。目の錯覚でしかない。
なのに、ハルの恋心の熱度が俺の全身を震わせた。
音源は十兵衞の笛の音だけ。笛の音に合わせて、ハルは歌っているだけ。
「――……」
なのに心が燃える。燃えて、けれどもういいとハルは歌う。
身体を焦がすような熱の中で越えようと。
これほど赤裸々な歌があるだろうか。
その言葉に込められた気持ちの熱度にあてられる。
だから最初は笑っていたみんなもやがて、引き寄せられてしまう。
特別な力はない。化け術で二人を顕現させて、歌っているだけ。
だから彼らが聞き惚れる歌声は、真実……ハルの実力によるものだった。
「……まったく」
十兵衞の笛の音に合わせて歌うハルの演歌はこぶしがきいている。
アニソンは父親の影響だと言っていた。ならこれは母親の影響か。
だとしても、普段の歌とは違う毛色なのに、演歌に魂がこもりすぎている。おそらく、小さな頃から歌わされていたのだろう。それくらい堂に入っている技を感じさせる。
だからこそこの場に集まる人たちのツボのようだった。
なぜ。なぜ、その歌を選んだんだ。俺の前で聞いていたことなんて一度もなかったのに。
これまでの選曲でいくなら、もっとポップなものになるかと思ったのに。
一番を歌いきって二番に向かうハルは俺たち全員を見渡した。そして、
「――っ」
微笑んだ。瞳に闘志が宿り、世界の中心にいまいるのは自分だと訴えるような顔で。
どうだ、まいったか! そう言いたそうな……あいつらしい笑顔だった。
そんな顔をするアイツが、俺は好きだ。
二番に入る。
見れば……ハルと一度でも関わった者はみんないる。
けれど味方かどうかすら超越した魂の響きを浴びせられていた。
それにしたって、なあ。ハル。
お前があまあまと言って隠喩していたそれは、赤裸々すぎる。
「――……」
触れ合う体温は、たとえその気じゃなくても本物。
玉藻の前と口づけるように顔を寄せ、二人でくるくると舞い踊る。
いやでもわかる。
愛し合う行為、そのすべてが好きなのだ。
ハルは俺に訴えている。
あなたと愛をかわしたい。どんな形でもいい。もっともっと、かわしたい。
憂いを込めた瞳に魅せられる。
たまにぞっとするような色気を放つ時がある。
そしてこちらが身構える隙すら与えないような、鋭すぎる踏み込みをする時がある。
俺がどきっとした瞬間だった。ハルが唇を動かした。何を言おうとしたのか、他の誰にもわからないだろう。でも俺は覚えているから、すぐにわかった。
『契約しよう?』
今でも、覚えているから。
己の刀の力に呑まれた兄さんとひどく揉めていて、周囲を巻き込んで余裕もなくて暴走した俺に差し伸べてくれた……ハルの救いの言葉を。
痛いくらい気持ちが伝わってくる。
『あなたがどれだけ失敗しても。あなたがどれだけ傷つけられても。私だけは言ってあげる』
その言葉の途方もない優しさに、引き寄せられた。
『私はあなたの味方だよ。だから大丈夫』
それじゃだめかな? と。
そう……ハルの視線が尋ねてくる。
唇がさらに動く。
覚えてる? 契約の内容。
――……ああ。覚えているよ。
『私の味方でいて。何があっても、どんなことがあっても……私の味方でいて』
『一緒に傷つきたいからだよ』
どうしてかと俺は尋ねた。いつかの夜に、お前に。
『私はあなたの侍。あなたは私の刀鍛冶。相棒ってあなたが言ったんじゃない』
ハルと色違いの着物を着た玉藻の前が舞い踊り、扇を振るう端から桜の花びらが散っていく。
「――……」
サビのラストを歌いながら、ハルが手を伸ばしてくる。俺めがけて、まっすぐに。
スポットライトに照らされて、左手の薬指にある指輪の石が光る。
いまはもう、違うんだな。
俺の侍だ。お前の刀鍛冶さ。相棒だ。だけどそれよりもっと、恋人なんだ。
見つめてくれるハルの愛情を感じる。
恋人だと。愛していると。将来を夢見ていると。だから一緒に傷つきたいのだと。
ハルの本気を感じて、痛感した。
「ああ……」
遅かった。俺が自戒するより早く、ハルが行動に移した。
その結果がこれだ。
ひしひしと伝わってくる。ハルの思いが。
ここへきて情けなさに身を任せる選択肢なんてあり得ない。
謝ろう。そう思った。
……それに、ほら。これ以上ない公開処刑状態だ。いまは、間違いなく。
逃げ場がない。
ユリアとラビが俺の両脇をがっしり掴んで離さないからな。
こいつらはこういう、たまに悪のりするところがある……でも、そもそも逃げるはずがない。
俺も。
「――……」
越えたいよ。二人を超えよう、と。お前は体育祭で主張してみせた。
二人になって、恋を知った。
恋人になって、愛に戸惑った。
けど――……そうさ。一人だったから、お前の中に生まれた愛に触れた。
あの時の熱を覚えている。
あの頃はもっとシンプルだった。
助けたいと刀を抜いた瞬間、ただただお前のことだけを考えていた。
胸の中には確かにあったんだ。
ハル。お前への気持ちが、ただただ愛さずにはいられない気持ちが純粋にあった。
けど恋人でいたら見えなくなっていった。
二人でいたら、どうすればいいのかわからなくなった。
一人になってようやく……お前の気持ちが見えてきた。自分の気持ちも、はっきりと。
だからこれまでもこれからも、ずっと恋に落ち続ける。それが下心だとしても。
愛さずにはいられない。真心をこめて伝えてくれるお前に。
二つあわせて、一人を超えてやっと……恋愛をするんだ。
やっとわかったよ、ハル。
「ふう、ふうっ……ふーっ」
ラストのサビを歌いきったハルがやりとげた顔で深呼吸をした。
マイクを手に俺を見つめて、何かを言おうとした。
けど、胸が一杯の俺を見て、何を勘違いしたのか急に意を決した表情になった。
もちろん、すごく嫌な予感はした。だけど、やはり……遅かった。
「これならどうだ! いくよ、スペシャルエスケーモード!」
ハルが着物の襟元から出した葉っぱを空に放って「どろん!」と叫ぶ。
瞬間、爆発するような勢いで煙が噴き出た。それがやがて晴れた時、集まっている俺たちはみんなそろって震え上がった。
「どや!」
体育館の壇上を埋めつくす巨大なモニュメント。強いて言えばそのモニュメントは機械仕掛けの衣装のようだった。幼い頃に夢見たスーパーロボットのようだと言ってもいいかもしれない。
そのど真ん中、衣装モニュメントの装着主がどや顔で俺たちを見ている。
言うまでもないが、ハルだ。
紅白出場演歌歌手じゃあるまいし、おい……やめてくれ……。
モニュメントから流れだす音楽に合わせてハルがさらに演歌を歌う。
「――……」
ぴかぴか光るモニュメントの全身がいかにも、な。本家本元は凄いし豪華絢爛だが、ハル。お前のそれは……どうなんだ。
付き合いきれないと言ったのか、それとも敢えてなのか。玉藻の前と十兵衞は消えていた。それが救いになるのかどうかはわからない。
ただ。
「「「「 ~~っ!!! 」」」」
お助け部と生徒会メンバーたちはそろって笑いを我慢するのに必死だった。
強いて言えば、もちろんそれは嘲笑とかではない。
ここまでやるか、青澄春灯。そこまでやってしまうのか、青澄春灯! すごいな! という、そんな類いの笑いだ。
いいぞ、もっとやれという心の声が聞こえてきそうでもある。
集まった人間たちに、モニュメントの巨大な腕が伸びる。
そして手のひらから金色の光が放出される。それはいつだって優しくてあたたかい光だ。けれどその中でたった一粒だけ、桜色の光があった。それは俺の手のひらに落ちてきた。
広がるのは、ただ。俺への深い愛情。それだけ。
刀鍛冶の力で霊子を繋ぎ、ハルの中を探る時に必ずある感情だから……すぐにわかった。
思わずハルを見た。
山ほど霊子を放ち続けている。
けれどハルの顔に苦しそうな色はない。
モニュメントを出して操る化け術、歌、そして霊力の放出。
その三つを同時にやりながら、けれどハルは最後まで歌いきってみせた。
それだけを見て取れば、少なくとも当面のあいだはハルが倒れ伏すほど弱い霊力ではないことがわかる。
音楽が鳴り止んで、ハルが「どろん!」と叫んで元の姿に戻った。
汗だくだ。着物姿だったはずなのに今は制服に戻っていて、疲れたけど楽しくて仕方ないように笑っていた。尻尾は一本だけ。最初は九本あったのに。
最後に残った一本も、金色じゃなくて金と黒のまだら模様。ハルの霊子が尽きかけている証明に他ならない。
それでもアイツは立っている。
まだまだ放出する勢いに対して霊力がちっとも足りていないから、課題はある。だけど倒れてない。可能性を見出すには十分だった。
ハルは俺の無茶な要求に応えたんだ。そのうえで……主張までしてきた。
どや顔が訴えてくる。
今夜はこれであまあま大増量に違いない、そうだよね? と。
みんなして俺を見つめてきた。
まあ、確かに。
この場をおさめるのは、俺の一言しかないだろうが。
「カナタ」「ほら」
ラビとユリアに解放された。
一歩、歩み寄る。それだけじゃ全然足りないから、近づく。
壇上にあがって、ハルと見つめ合う。
「カナタ……?」
不安そうに見つめるハルに、耐えきれずに吹き出してから……笑いながら言った。
「昨日のことも含めて……すまなかった。臆病になっていた、ずっと」
「じゃ、じゃあ?」
「ああ……あまあま大増量だ」
「やった!」
歓声を上げてぴょんぴょん飛び跳ねる春灯によくわからない拍手が起きる。
「みなさんやりました! 歌、楽しんでもらえましたか?」
マイクを手にアピールするハルにあちこちから声援が送られる。
それを見ながら思ったよ。
悩んでいるのがばからしい。
こいつは素直に生きているんだ。だから……俺ももっと素直になろう。
契約を交わした。恋をするんだ、お前と愛し合いながら。
万感の思いをこめて深呼吸をしてから、
「面白かったが、遊びすぎだ」
ツッコミはちゃんと入れておいた。
◆
やった! やった! 特に先輩たちにめっちゃ受けた!
なによりカナタが許してくれた! これで今夜からもっともっと楽しくなるよ!
「それで、なんでみんなを呼んだんだ?」
体育館で解散になって、それからも個人で特訓をする人だけが残る。
その中にはキラリをはじめとする十組のみんなもいた。九組のみんなもそうだ。
「んー。自主練してたみんなの息抜き、兼、みんながいてくれた方が頑張れるっていうのとー」
みんなを現世に戻してくれるノンちゃんやトモたちもいた。
もちろんマドカもね。お助け部の先輩たちには部活の時に声を掛けたし、その時にラビ先輩に生徒会メンバーもぜひって言っておいたの。
理由は単純。
「みんなが納得できるパフォーマンスの方が、カナタも安心できるかなって。だから知ってる人にはなるべく声かけたよ」
「……なるほどな」
複雑そうな顔してる。何か悩んでいるのかな?
「……やだった?」
恐る恐る尋ねると、カナタは吹っ切れたみたいに笑ったの。
「いや。いっそ開き直ったからいい。うじうじ一人で悩んでいるのがバカバカしくなった」
「……悩んでたの?」
「ああ。でももう吹っ切れた」
不安になる私の手を引いて、壇上から下ろす。
のんびり歩く速度はいつか、夏休みで二人でよく歩いた時のそれ。
カナタがリラックスしているときの、それだった。
「ハル。夜に不満は?」
「……カナタがあんまりしてくれないこと。っていうか夜に限らないよ?」
「と、いうと?」
「最近、キスもデートもほどほどで寂しいです! そりゃあ、特訓も大事だけど……せっかく二人なんだから、もっとあまあまでいたいなあって思います」
「……わかった。それ以外は?」
「ないよ? なんで?」
意味がよくわからなくてきょとんとしていたら、カナタはおかしそうに笑ったの。
「いや。じゃあ……玉藻の前の経験を引き出して、俺にいろいろしてくれるのはなんでだ?」
「だって、カナタ気持ちよさそうだから。喜んでくれるし、いいかなーって」
……ん?
「あ、あれ? やだった?」
「いやじゃない。まあ正直、かなり複雑だったけどな」
「え! そうなの!?」
嘘! いっつも――いや、あんまり詳しく回想するともやもやしちゃうから我慢するけど!
ほら。よ、喜んでたから!
ああ、だめだ! これもアウトなやつだ……!
「じゃ、じゃあやめる?」
「いや、いいよ。それより、なんで複雑だったか聞かないのか?」
「だって……言いたくないなら無理に聞いてもしょうがないでしょ?」
「確かに」
「でも言いたいなら聞く。カナタの好きにしていいんだよ? 私はカナタがつらくないのがいい」
そこまで言ってから、やっと気づいたの。
「じゃあ……あまあま嫌がってたのって、複雑だったから?」
「ああ。でももう解決した」
「……ほんと?」
しぼむ尻尾を見て、カナタが足を止めたの。
「ああ」
私の鼻を指先でつついてから笑ったの。
「それよりたまにでいいから手加減してくれよ? 玉藻の前の技は凄すぎて、翌日がんばれないから」
「……おお」
そ、そうだったのですか。
前に指摘されたことあったよ。タマちゃんを宿した状態で男の人を求めたら、その人を取り殺しちゃうかもしれないって。
俯く私の耳元にカナタが唇を寄せて言うの。
「でも、これからは手加減せずにお前を求めるから。覚悟して」
ふわ。ふわ!
「さあ、部屋へ行こう。お風呂に入って……久しぶりに二人で夜を歩きに行こう。星空を眺めて、二人きりの居場所でハルを抱きたい」
「う、うん!」
尻尾は期待と共に膨らむばかり。
待ち焦がれていたあまあま大増量だ……! やっときた……!
そこまで盛り上がってから、ふと気づいた。
「尻尾の手入れとかしない?」
「して欲しいのか?」
「滅相もないです! 明日お願いします!」
「なんで明日なんだ?」
「……寝ちゃうから。最近のカナタの櫛テクがすごすぎて」
「そうか」
あ、いま嬉しそうな顔した。
「……わかったよ」
じゃあ、これで解決だ。よかったって心から思うよ。素直にね。
それでも……昨日を思い出して言わずにはいられなかった。
「ねえ、カナタ」
「なんだ?」
「……悩んでることがあったら、絶対に言ってね? どんなことでも聞くし、嫌ったり……離れたりしないから。カナタが傷ついているなら、私も一緒に傷つきたい。傷つけ合わずに済むように、二人でなんとかしようよ」
「傷つけ合わずに、か。本当に、すまない」
「もういいの。ただ、ずっと二人でいるのに、一人に……ならないでほしいです」
「……ああ。これからは、絶対に」
私を見つめる瞳に嘘はなかった。
「お前を傷つけるとわかっていること以外なら、喜んで言うんだが」
「え。傷つけるようなこと抱えてるの?」
「人間だからな」
「……狸顔のこと?」
「確かに、丸顔のどや顔は笑える」
「ひどい!」
「可愛くてお前らしくていいよ」
「……ほんとにい?」
「ほんとだ」
「じゃあ……他には?」
じーっと見つめていたら、カナタが観念したように口を開いたの。
「玉藻の前の経験は、つまり……他の男との経験で。お前がそれを活用するのがな。ずっと複雑だったんだ。なまじ、気持ちよすぎたから余計な」
「あ……」
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような錯覚を抱いた。
「でも、玉藻の前の経験を否定していい理由はない。お前がどんな道筋を辿ったとしても……俺はお前が好きだ。それは揺るがないんだ」
私をなじることだってできたはずだった。
だけどカナタはそれをしなかった。
「……だから、お前のように、玉藻の前の経験も愛することにした」
「カナタ……」
「嫌う理由がないからな。気持ちいいのは事実だし」
すごい、素直だった。
あのデレデレの日以来の素直ぶりに驚かずにはいられなかった。
「ハルの刀鍛冶なのに、ハルの刀を愛せなかったら……愛の大きなお前に胸を張れない」
真摯な瞳で見つめられる。
いつか周囲を巻き込み傷つけてしまうくらいに思い詰めていた人が、今は私を傷つけないように自分の壁を乗り越えようとしている。
カナタは私のために、そこまでしてくれてるんだ。
「ごめん……私、考えなしだった」
「いや、俺の方こそ考えなしだった」
「そんなこと、ないよ」
「……いや、本当に考えなしだった。下手の考え休むに似たり、お前のようにもっと素直に向き合うよ。まずは……ちゃんと話す。抱え込まないで、もっとちゃんと」
「……ん」
どきどきする。
カナタは抱え込んじゃうタイプだ。
時に行き過ぎちゃうくらいに。だから心配だし……愛してくれるなら、私には話して欲しい。たとえわがままでも、願わずにはいられない。
「待ってる」
そう言うと、カナタは頷いてくれた。
「ああ……玉藻の前のことを知っていけば、見えてくることもあるだろうしな。あんがい、彼女の思い人も好きになれるかもしれない」
私を愛が大きいといったけど。
カナタこそ、大きいよ。
それをまっすぐに向けられる今にどきどきせずにはいられなかった。
「……かっけえ、です」
「それはよかった。かなり背伸びしてみたからな」
子供みたいに笑うカナタが大好きでしょうがない。
この先きっと、何度でも思うだろう。この人でよかったって。
◆
ベッドで寝返りを打つ。
私を抱き締めながら寝ているカナタは今はもう寝ている。
正直に言う。
タマちゃんの技を使ってきた。何度でも。
どんなことだってタマちゃんの指導を受けながら、したよ。タマちゃんに身体を預けるんじゃなくて、あくまで指導を受けながら。
カナタに嫌われたくなくて。気持ちいいと思って欲しくて。拙くても頑張った。
不安だったから。
ありのままの姿で触れ合う交流で、残念だと思われたらいやで。
そんな私にタマちゃんが持ちかけてきたの。勉強してみる気は? って。
素直に頼んだ。学びたいって言ったの。
『なあ、ハル……妾に任せたことはないと、言ってはやらんのか?』
そうだね……言ったら喜んでくれるかもしれない。
だけど不安の種が残っていたら、きっとカナタの心にささやくよ?
それは私の嘘かもしれないよって。
疑われたら……悲しくて、やるせなくなっちゃうよ。
『それでも信じてやればいいじゃろ。カナタはお主を信じた。今度は……お主が信じる番じゃ。一緒に傷つきたいんじゃろう? なら……答えは一つじゃろ』
……うん。
『実学こそ力なり。おぬしのそばにいる顔をよくみて、素直に伝えてみよ』
ありがとう、タマちゃん。
カナタは乗り越えようとしてがんばってくれた。
今度は私の番だ。カナタが起きたら言ってみる。絶対に。
『うむ。妾は寝る……』
おやすみ、タマちゃん。
「ん、んん……」
寝返りを打つカナタがお腹を引き寄せてきた。
素肌の心地よさをこの人は何度だって教えてくれる。
触れていると思う。
世界の責任のすべてが自分にあればいいのにって。
カナタや私、私の好きな人みんなが幸せになる責任が少しでも自分にあるのなら、自分のできる範囲でみんなの力になれる。
だけど任せちゃうと、そこで安心しちゃうんだ。
だから私はタマちゃんの教えに甘えて、肝心のカナタをちゃんと見ていなかった。
思考停止してたんだ。
あくまで夜の技についてタマちゃんは教えてくれてたのに、私はそれで万事がうまくいくと思い込んでた。
何を教えてくれていたのか、ちゃんと考えるべきだった。誰に喜んで欲しいのか、考えなきゃだめだった。
嫌われたくない? ううん、それよりもっと、カナタに喜んで欲しい。
だったらカナタを不安にさせちゃ、だめだったんだ。
タマちゃんはきっと、わかった上で見守ってくれていた。
そして今日、また導いてくれた。
「……はあ」
やれやれです。
私はずっと責任転嫁してたんだなあ。
タマちゃんに責任を預けて、助けてくれた優しさに任せて……カナタに我慢させて。
責任をみんなに押しつけてた。
カナタが喜ぶなら、それでいいと思って……そこで思考停止してた。
なんでカナタが嫌がるのか、ちゃんと考えたことなかったのがいい証拠だ。
「……ごめんね」
もう一度寝返りを打って、カナタを見る。
この熱は……嘘じゃない。
私を抱き締めて、優しく導いてくれるこの熱は、すぐそばにある。
いちばんそばにいるんだとわかるように包み込んでくれる。
大事にしたいし、この人のそばで幸せになる責任を誰にもあげたくない。
私のものだ。
私のものだけにしたい。
もしこれが邪を産むほどの欲望だとしても、誰にもあげたくない。
カナタと契約したのは……私だもん。
「……――」
思いを込めて口づけたら、私の王子さまは眠そうに目を開けた。
「……ハル?」
いまなんじだ、と言おうとした唇を塞いだ。
そっと肩を押して、上になる。
ぽやんとした顔は、いつもと違って抜けてて素直。
考え事をして悩んでいることの方が多いのにね。
いつもは凜々しく引き締まっているのに、こういう時は年相応なのかも。
何度だって確かめるように見てしまう。
やっぱり……いつかみたいに、世界の全部を敵に回したような顔じゃない。
でもきっと、私のためにどんな痛みも乗り越えようとしちゃう顔だ。
だから囁くの。
「カナタとの夜のことは、全部……自分でしたの」
「え……?」
「タマちゃんに教わって、自分でした。だからね? それがどのくらいうまくいってるのかどうかもよくわかってないし。カナタとのことが私にとってはすべてなつもり」
「ハル……じゃあ、玉藻の前が動いたというわけではなく?」
「当たり前だよ、タマちゃんにも……あげたくないもん。これでも私、独占欲ちゃんとある方ですよ?」
カナタの唇に指を当てる。
「だからタマちゃんに身体を預けてしたことはないし……わりとへたくそな時の方が多かったと思うんだけど。気づかなかった?」
「……ほんとに? ぜんぜんよかったぞ?」
「じゃあ、私のがんばりは届いてたんだね」
「……ほんとなのか」
カナタが目を見開く。思わず身体を起こして、それからすぐにベッドに倒れた。
「なんてばかなことをしたんだ、俺は。本当に……話せばすぐに解決してたのか。悩んで抱えて損をしたな」
しみじみ言うけど、でも……案外、世の中そういうことばかりなのかも。
悩んで抱えて解決できることばかりじゃない。
だから素直に言おう。
「ううん、ばかなのは私だよ……だって私、見栄をはったの」
「……どうして?」
「カナタに思われたくなかったもん。夜はいまいちだって」
「……思うわけないのは、じゃあ見抜けなかったくらい満足してた事実で伝わっているか?」
「んー。じゃあ素直に言って欲しいな。きもちよかった?」
「……俺はいつだってよすぎるくらいだと思っている。むしろその不安は俺にもあるんだが」
「不満があるなら言ってるし、求めまくりな時点で察して欲しいかも」
二人で見つめ合って、思わず耐えきれずに吹き出しちゃった。
「……ああ、たしかにそうだな。もしいまいちでも……ハルと恋愛したいんだから、どちらかが悪いとかじゃなく、二人の問題でしかなかった」
「そうだよ。拒絶されたら……悲しいよ」
「本当にそうだな。俺だけの傷でもなければ、お前だけの傷でもないんだ」
カナタの切り返しに思わずじんときた。
思い出してくれてるんだなあって思って。
契約した頃のこと……ちゃんと覚えてくれているんだと思うと、嬉しくてしょうがなかった。
「つらいときにはちゃんと話し合った方がよかったな」
「ん……待ってますし、言いますよ?」
微笑むカナタにひっついた。腰に腕を回して抱き締めてくれる。
こうなったら、和んだ勢いに任せて言っちゃおう。
「ねえ、カナタ。私もちゃんと伝えておきたいの。背伸びしてるよって」
彼は喜ぶだろうか。
私の不安に緋迎カナタの答えは一つだった。
「じゃあ……お互いに、一度くらい背伸びなしでしてみるか?」
笑いながら言うから、囁くの。
「……んん。がっかりするかもよ?」
「じゃあ……その時は二人で背伸びするか、修行を重ねるか?」
おどけて締めくくるの笑っちゃう。
「なにそれ、真面目か。修行は戦うのだけで十分なので……楽しみたいですよ!」
「そう言うと思っていた」
「意地悪」
見つめ合って二人で笑う。
乗り越えられるか、どうか。自分だけじゃできないことがきっとある。
抱え込んでいても乗り越えられない。
だけど案外、打ち明けたらすんなりいくことがある。
今夜はきっと……うまくいく。
つづく。




