第二千八百十五話
映画「The Zone of Interest」。
邦題を「関心領域」という。
現実には認めたくない、受け入れたくない、否定したいことがやまほどある。
そのためならなんでもしたくなることさえある。
物語はよく、それを題材にする。
いまの知識と技術、体験を記録したまま幼い自分に戻る。いまの自分が通用する・しない異世界に行く。このあたりは、お父さんたちがこどもの頃から受けてる息の長いジャンルだ。
家族を殺された、だから復讐するか。あるいは時間を巻き戻すのか。タイムスリップか、それともタイムリープなのか。時間をどうにかするアプローチも様々なら、理由も様々。他にもいろいろ。SFもありだし? 韓国映画で邦題「悪魔を見た」のような、大勢を巻き込みながらの殺し合いなんて例もある。
これらは能動的に「なにかをする」ことで「現実を変えようとする」ものかな。
それとも「認めたくない、受け入れたくない、否定したい」ことに受動的に「なにかをする」ことで「現実を変えようとする」ものかな?
大概は後者だ。
いじめと呼ばれる学校や会社、企業間をはじめ、あらゆる権力勾配の優劣から生じる暴力・虐待は、利益のため、支配のために積極的に行う能動的な者だけじゃない。
その場で起きている「近づきたくない、関わりたくない、被害を与えられたくない」という「認めたくない、受け入れたくない、否定したい」ことに対して受動的に「消極的になにもしない」か「陰口を叩く」、「見て見ぬ振りをする」ことで行う者たち、集団、組織、社会による暴力・虐待も重要な要素。
後者は意図的に、あるいは自分の反応に対して、刺激に対して無思考・無批判のままに「無視」したり「勾配の劣位を責める」などして、暴力・虐待に加わり、積極的な者を放置する。
これを罪悪感なく行うのに便利なものが?
分けること。
私はちがう。あいつ、あいつらとはちがう。悪いのはあいつ、あいつら。
これをすればいい。転じて、これができないなら? そいつが悪い。
そうやって、分けることがいい。実に便利だ。
分けたら? あとは簡単。
なにをしてもいい。
無視したっていい。
聞かなくたっていい。
助けなくたっていいし?
良心を痛めなくてもいい。
そもそも、無関心でいていい。
フィクションでこれを語るときの例えに「アリ」を好む者が多い。だけど、ちょっとずれてる。
現実のなにが悲惨って私たちは、同じ人を、人と感じ、見なして、考えることさえできないのである。
それくらい分けたがるし、無意識に分けるし、それをいつでも正当化・責任転嫁・免罪したがる。
わからないこと、どうにもできないこと、膨大な情報を保持するもの。それらをまともに受けとめられないし、受けとめたいとも思わない。
楽をしたい。
手を抜きたい。
考えたくない。
面倒なのはいや。
どうにもできないと実感させられるのもごめんだ。
責められたくない。あれこれ言われたくない。
やばいと思われたくないし、使えないなんて思われたくない。
空気のほうがマシ。だけど空気のままじゃいや。
いっそ全部めちゃくちゃになればいいし、そうさせられたらいいのに。
そんなこじらせ受動的な暴力や虐待への衝動を抱えていなくてもね?
目の前の人を、人として認識できるかって。
まあまあ、むずかしい。
満員電車の中に、自分とは異なり、自分の世界の定義では決して推し量れない他者が膨大にいるという状況には、そうそう耐えられない。埋没ありき。ものありき。鈍感ありき。
満員電車の中にいるときみたいに、みんなが面倒なことしないでくれって願ってる。私を押し潰すな、体重をかけてくるな、新聞を広げるな。痴漢するな。押すな。見てくるな。
問題を起こすやつなんかどうなったっていい。だけど私にだけは迷惑をかけるな。
そんな、ひどく単純化したものとして捉えてたい。
思いどおりにならないやつなんか知ったことじゃない。
みんなでそいつらをどうにかしてくれ。私の知らないところで。
私は私の世界の努力、未来、幸せ、お金が大事なんだ。脅かすな。よそでやれ! みんなぜんぶ、私に関わるなよ!
なんていう分け方をするんだ。
どうかしてる。
どうかしてるよ。
どう控えめに言っても、こんなのクソだ。
だけど、クソなんてもので済ませていちゃいけない。
なぜって、それは少しも具体的ではなく、素朴な二元論に誘導して、事実を曖昧かつ恣意的な内容に歪められる行為だから。
共有しやすい文脈にできることほど、注意がいる。
人を人として認識するのがむずかしいように、あるいは運動と言ってもいいかもしれない。動き続けるような動作であるようにね? いいな、悪いなと思えたり、共感できることほど私たちは無思考・無批判になるものだから。
言い換えれば無思考・無批判なときって支配していて、かつ、支配されている状態だ。
だれかに、とか。集団や組織に、とか。それだけじゃない。
受動的としたのが「刺激に対する自分の情緒的・身体的反応に受動的」であるように、支配もまた「刺激に対して生じた反応に無思考・無批判」であるかどうかで測れる。もちろん、足りない。考えていれば、批判していれば、支配がないなんて、そんなのあり得ない。
私たちは自分を規定し、自分を縛り、転じて他者を規定し、他者を縛るものを欲する。
それが支配の文脈だ。
受動的に陥るほど反応の奴隷でいることから脱するように、私たちは自分と他者を規定・縛りたがるものの奴隷でいることから脱する必要がある。
それにはどうしたって、多くのものがいる。
だけど私たちは存在に怯えている。
満員電車の中に、様々な存在がいる現実に限界を来している。
他者を通じて世界の広さを知り、それでもだいじょうぶと思えるからこそできる旅や挑戦よりも、そもそもまず膨大な存在が怖くてたまらず、そんななかで安心して安全に関われる他者と穏やかに、なんていうのがむずかしすぎる。
みんなそれぞれに出会えるのがもちろん望ましいけど、実際にはむずかしい。
そして無理だったとき、傷つける人が出て傷つけられてしまった被害者が出たとき、私たちはただちに殻の中に閉じこもる。そして自らの、あるいは自らが内面化する縋れる反応や支配の奴隷に戻りたがる。
絶対的貧困は減っているとしながらも、相対的貧困における格差は広がるばかりで、それを埋めることは容易ではないし? おまけに一生ずっと、そのままっていう可能性が高いことも、私たちは十代のうちになんとなく体感していく。すると二十代、三十代は? 四十代や五十代はどう? より体感が悲惨な人は、底抜けに悲惨なんじゃないかな。
そんな底の抜けた現実なんて、辛気くさくて、明るい話題じゃなくて、ハッピーでもなければ、消費したくもないものだ。私の世界のすぐそばに、特大のうんちを見知らぬ人たちがしていくような、そんな嫌悪感や忌避感さえある。
それってさ?
幸せの邪魔じゃん。
いらないじゃん。
私を巻き込むな、みたいに思うじゃん?
だから、追い出すんだ。
無視して。見えないところへ押しやるんだ。
責めていられるように。
安易に済ませられるように。
その究極の暴力と虐待の形が、映画「The Zone of Interest」で描かれている。
それは正しく、私たちの心の中でも動いている感覚だ。確かに存在するものだ。
言うのはたやすい。
政府が悪い。政治がだめ。政治家や官僚がうんち。
でも、それを声高に叫んだ人が、集団がなにをするのか。
排除するべき対象や象徴を定めて、これを攻撃して、みんなの鬱憤を晴らして、正しいことをやっていると感じさせる。生活を豊かにできればなおのこといい。
その手段は? 排除するべき対象や象徴を攻撃して、簒奪すればいい。
人を人と見なす努力? そんなのしなくていい。
楽して生きていたいから。
幸せになりたいから。
手を抜きたいし?
考えたくない。
面倒なのはいや。
責められたくないし? 惨めな思いもしたくない。
私たちの世界のそばに、うんちがあると思わされたくないし? 私たちの世界がうんちだと思わされるのもいやだ。
だから「みんなをだれかやなにかのせいにして」責めたい。支配したい。暴力を振るいたいし、虐待したい。
あれは、そういう映画だし?
私たちと地続きの内容だ。
その結果、いったいなにが起きたかを、まさにアウシュヴィッツ収容所の展示をお披露目しながら実感させる。奪われた命が、ひとりひとりの、私たちと同じ人間であり、彼らが生きていたとわかるものをじっくりと映すのだ。
私はとても皮肉に、批判しながら、ここまで述べてきたけれど、言い方をぐっと変えて、話して聞かせる相手が受けとりやすくて消化しやすい流動食のような内容にすることもできるはず。修飾を変えるだけで変わる印象もやまほどある。表現は、それだけ見え方を変える。
当時のナチに熱狂した人々を誘うような、そういう内容にさえできるだろうし?
表現がそれだけ変えるんじゃなくて、あらゆる受取手によって変わる。
同じ刺激を受けたとして、私たちは同じように反応しているわけじゃない。どのように処理するかも異なるし? 表現を選択したとき、それが複雑さを増すほど露骨に差が見えやすくなる。
私たちは同じ人間でありながら、ちがう個体だからね。
なので、耳心地のいい主張や批判が一見して「あ、いいぞ?」と思えても、それで具体的になにをするかまでは決まらないし? まさにその決まらない領域で、人がいったいどれほど暴力・虐待ができるのかをナチは徹底的に表現した。人を殺し、虐待しぬくことで。収容所のそばで暮らしていた人々もそうだ。
批判するなという人がいる。
ケンカはいけないという人もいる。
まるでもっともらしく聞こえるようなら、注意したほうがいい。
その裏で、あるいはその発信表現のうらで、なにを目的にして、どう行動するかは読めないからだ。
詐欺師のように。聞こえのいいことを言ってろくでもないことをする政治家のように。
ごまんといるし?
それを自分がやってしまう可能性だって常にある。
納得したがる人だって危ない。
納得のために無思考・無批判になる人もいるからだ。
「あの野郎もそう」
バスに揺られながら思う。
どれほど悲惨な生まれで、虐待されたとしても、関東中の人々を襲う術を発動させて大混乱を招き、多数の死傷者を出した。そんなことが正当化・責任転嫁・免罪されるはずもない。
彼はどんな語りをしたのか。
わからないけど、行動をもって見なす。
あんな術を使った、その行動を。
「私も、そう」
フランクルが「夜と霧」で訴えていた。
どう生きたいか、どんな人生、社会、世界を望むのか、その答えや意味、価値とはなにか。
それらがあるから生きるんじゃない。
私たちは、それらの答えを具体的な行動をもって示すんだ。生きることから死ぬことまで含めた、あらゆる自分の生を用いて、表現するんだ。
そんなとき、支配の文脈が、私が自分で自分を奴隷にする文脈が、ささやきかけてくる。
排除するべき対象や象徴を定めて、これを攻撃して鬱憤を晴らして、正しいことをやっていると感じさせる。生活を豊かにできればなおのこといい。
その手段は? 排除するべき対象や象徴を攻撃して、簒奪すればいい。
人を人と見なす努力? そんなのしなくていい。
楽して生きていたいから。
幸せになりたいから。
手を抜きたいし?
考えたくない。
面倒なのはいや。
責められたくないし? 惨めな思いもしたくない。
私たちの世界のそばに、うんちがあると思わされたくないし? 私たちの世界がうんちだと思わされるのもいやだ。
だから「みんなをだれかやなにかのせいにして」責めたい。支配したい。暴力を振るいたいし、虐待したい。
矛先はだれかに向くだけではない。自分に向かうこともある。
親が子を狙うことも、その逆もね。
教師が生徒を、生徒が教師を。先輩後輩。上司と部下。取引における企業同士。政治家と国民。私たちと、国。あれや、これや。
コミュニケーション?
しないよ、そんなの。
面倒さを省けるなら、殴って済むならそれがいい。
無視して済むなら、それでもういいじゃんか。
虐げて利用できるならそのほうがよくない?
なにをしたってどうにもできないなら、ほっとけばいいよね。
文句を言ったってどうにもできない奴らから、どこまで盗んだってよくない?
無駄ならさ。
いらないじゃん。
ものならさ。
だまってろよ。
「うるさい」
浮かんでくる無関心でいたい、奴隷でいたい心に言い返す。
じゃなきゃだめだ。
おばあちゃんもお母さんも「女は」とつけて、ささやきが述べたことによる強要を数えきれないほど浴びてきた世代だし? 私の世代でも、それは消えてないと実感することが仕事現場である。ぷちたちが私の年になってどうなっているかは、私たちがものを言って、怒り、批判して、いけないことだと訴え、表現していけるかどうかに懸かっている。
だって、世の中には、うんちがやまほどあるんだもの。
問題も。醜悪さも。暴力や虐待も。
現実に存在するんだもの。
虐殺はあったし、人体実験を行っていた過去もあったし?
侵略戦争をしたし。負けたし。
そんなものじゃあ、済まないよね?
世の中だけにうんちがあるんじゃない。
自分にだってある。
生きるかぎり、それらは消えない。なくならない。新たに増えることはあっても過去が消えることはない。それに、消していい過去なんてない。消したくなる過去は増えても、それを消してはいけない。
トモが教えてくれたことがある。
『え。大型犬が飼いたかったの? ううん。いいよね! たしかに』
『という具合に、いろいろできていいけどさ。うんちがね』
『もちろんうんちのお世話もするんだよ? 人間大のうんちをするからね。ビビるぞ?』
『軍手でもはめなきゃ、うんちってビニール袋越しに犬の体温そのままほかほかあったかいのがよくわかるよ』
『後片づけに水を流して掃除しないと、ご近所さんと揉めるしさ? たいへんだよぉ』
『え? うちで粗相すること? あるある! うんちトレーニング失敗したら、毎日いろんなところでうんちするよ? 余裕だね』
その言葉にどれほどめげたかわからない。
だけど当たり前なんだよね。生きてるんだもの。うんちはする。
どれほど「うへえ」と思っても、飼うってことは、うんちのお掃除をするってことだ。
酪農、畜産でも重要じゃない? うんち。
そもそも私たちだってトイレで出してる。毎日ね。便秘じゃなければ。
過去はうんちとは異なる情緒的・身体的反応を引き起こすし、それが深刻なときには死ぬまで引きずったり、影響を受け続ける。
それによって深刻な加害をしでかすことさえある。
なにせ貧しいときにはすべてが高くつくし、依存が足りないときほど依存から遠のくみたいに、なにもかもが足りてないから。安心して、安全な状態には向かえないしなあ。
明らかに意図的に支配という加害に及ぶものは、脅かす。
私たちの文明はまだ、それに対するマシな回答さえ用意できていないのだと思う。
「足りなくても、届かなくても、表現しつづけるしか、ない」
政治家が使う詭弁に「間違って受けとめられてしまった」みたいなものがある。
「私の発言の真意が伝わらなかった」みたいなもの。
ちがうんだ。
そうじゃない。
常に問いや反証と共にいなければならない。
私たちは、問いや反証と共にいなければ、たやすく探求をやめる。
学問でいうなら真理の探究だし?
フランクルの記述でいうなら「どう生きたいのか」の手を抜きたがる。楽をしたがる。
楽をすることがただ悪いとは思わない。
私たちは膨大な依存を必要とするし、そのなかには休息や、表に出すと危うい自分の心理と付き合う時間も含められると思うから。それらと自分がお付き合いできるための、あらゆる依存が必要だと思う。
だけど、それらを守るための大前提にこそ、人権があるのだと考える。
私たち、あらゆる人はすべて、産まれたことによって人権を所有し、それは尊重・配慮しなければならないものである。配慮は思いやりとか、ほどこしとかではなく、新明解国語辞典でいう「想定されるいろいろな場合に対する対処の方法を考えて何かをすること」だ。
必然的に私たちあらゆる人は、人権はもちろん、人権の尊重と配慮を保証されるべきだし? 国は、組織は、常にそのためにある。
だからこそ私たちは生まれや環境が不公平で不平等ななかでも、膨大な依存に接続できるようになり、だれもが満足な成長・発達を重ねられるし? そのために国は働く。私たちのために国があるのだから。
リベラリズムも本来は、現状にあり、世界にあって変えるには時間や手間がかかりすぎるうんちをなんとか片づけながら、私たちの不公平で不平等な現状を支え、改善して、だれもが十分な生活を送り、幸福を追求できるようにあるものだ。
そう考えると、オバマが失敗を認めて反省するウォール街の救済、そしてウォール街的なものの肯定がなぜトランプの勢いに繋がるに至ったか、いろんな推察ができそうでもある。まあ、これはアメリカの話であって、日本はどうなんだって話があるんだけどさ。
さておき。
「ぷちたちに。私に。カナタに。みんなに。あの男に」
みんなちがうけど、それでもなお、私なりに目指すものをどう表現するのか。
問われているのは結局、そこだ。
そのための行動だし?
これがいわば「受動的」奴隷から脱する「能動的」な開拓の道なのである。
「怖くて、逃げたくて、いやで、たまらなくて。それしか見えてなかった」
道が荒れている。
舗装されているのに朽ちた道を進んでいる。
がたがたと揺れて、時折、椅子のうえで跳ねることがある。
椅子のクッションは私を難なく受けとめ、悲鳴をあげることさえない。
ただ、あんまり激しい揺れにいっそ笑えてきた。
私もまた受動的奴隷だった。
怖くて逃げたくて、恐ろしかった。
そのためなら、なんでもしたくてたまらなかった。
これまでのあらゆる騒動のダメージのように。
状況の複雑さだ経緯だなんだはちがっても、情緒的・身体的反応に怯え、それに受動的になっている点においてはなんら変わらない。
「それだけじゃあ、ないのにね」
自分の関心だけで世界はできていない。
あらゆる存在が世界にはあるのだ。
私たちは存在を認識しては、自分の世界がもうこのままでいられないことに怯えて、直ちに戻そうとする。問題を作り、切りわけ、排除したがる。そのために支配さえ望む。だが支配とは暴力であり、虐待である。
存在は決して私たちの思いどおりにはならない。
だからこそ支配の度合いを増す。より一層の暴力や虐待を行う。
故にこそ、私たちは支配など望むべきではなく、否定し、批判して、怒り、声をあげる。
その必要がある。
なぜって、それは、それだけじゃないものを大事にするため、守るために欠かせないからだ。
愛していると、だいじょうぶなのだと、そう表現するために欠かせないことだからだ。
やさしい時間だけあればいい、とはいかない。
残念ながら、世界にも、私にも、愛するだれかにも、うんちが尽きない。
それらはせっせと対応してかなきゃ始まらないものだ。
でね?
たとえば過去の日本のありようをなんとかしてごまかして、実際の歴史を自虐史観なんて言ってる人たちも、もしかしたら同じくらいの熱量なのかもしれないし。ヒトラーたちもそうだったろうし?
あの男も、そうなんだろうなあと思うとね。
「問題から戦いは切り離せないことのほうが、よっぽど多いんだなあ。いまは、まだ」
私の生きているうちは無理かもしれない。
そして、それを自分の世界から追い出していたら?
いくらでも物理的暴力や虐待がまかりとおることになるのだろう。
ナチュさんは後進の若手が仕事がしやすい環境になるようにと、戦ってる人だ。トシさんもカックンさんも、ナチュさんほどじゃないにせよ、それぞれに後輩たちのことを面倒みている。みんなそれぞれに顔が広いのは、ほっとけないからだろうし? なにより、自分たちの苦労をしないで済むよう、環境だなんだを変えたいからなんだろう。
うちの事務所はまだ、そのあたりかなり協力して、一緒にやってるのだと、仕事で出会う人たちの話を聞いていると思う。
戦って変えていく、変わってきてたことが、いっぱいあってさ?
そのためのバトンは私たちの世代にも、もちろん差し伸べられている。
汚れ仕事をしろって、そういう単純な内容じゃない。
すでに汚れてる、どうしようもなくなってるものをどうするかってことさえ、問われてる。
私たちの人生から、どうすんの? って。
どうしたい?
うんちを苦しんでる人たちや弱ってる人たちに押しつけて、きれいきれいしたい?
彼らから奪って、そのために支配して、暴力や虐待を繰り返して得るきれいきれいってことだけど。
それがいい?
私はごめんだな。
じゃあ、腹をくくろう。
私の世界と、世界に反響する情緒的・身体的反応、その波から出ていこう。
他人だらけの、知らない世界に旅に出よう。
たとえうんちまみれだと気づくばかりだとしても、それをどうにかすると決めるなにかに出会うのが人生なのかもしんないね?
金色本をそっと閉じた。
私もみんなも世界も歴史もうんちまみれだとしても勇気を持って生きる元気そのものや、元気をくれるたくさんの依存がなにかをいっぱい教えてくれるコンテンツがあるじゃん?
漫画やアニメにも、ドラマや映画、小説にも満ちあふれているし? 学問だって、専門書で触れてみるとそういうエールに満ちあふれている。
学校の勉強とか、家族との時間とかで出会えちゃえる人もいるし、出会えないときにはとことん出会えない人生だってあり得るのが本当に不公平で不平等。
私たちはまるでちがうから、環境があっても、それで成長・発達できるとはかぎらない。
無茶苦茶だ。そういうところも、うんち!
みんな、うんち。
ドラマのリーガルハイ、シーズン2のラストみたいじゃない?
私たちはしょっちゅう間違える。私もみんなも常に愚かで醜く卑劣。わがまま、身勝手、ずるいし汚い。底辺のゴミクズ、それが私たち人間。どんな人も、うんち。私もあなたも、だれもかれもがそう。
うんちと踏まえて、そのうえでぼちぼち生きるとして。
なにを望む?
壁を築いて、すべてを押しつけ、そのためにありとあらゆる暴力と虐待を尽くしぬいて、さらに醜く卑劣に生きるのか。
それとも?
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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