第二千八百十二話
どれほど考えてもピンとこない。
きちんと調べたら、それはぷちたちの命を脅かしかねない事実に気づく羽目になるのでは。
そんな懸念も恐怖もある。それに自分がなにをしたのか、理解することが致命的になるのではないかという恐れもある。
だけど、そういう疑念をいったん置いといて考えてみるとわからない。
いったん部屋の外に出て、寮の中庭に向かう。アリかなにかいないかときょろきょろしていたら、ちょうど飛んでいた蝶に目が留まる。白い羽の蝶だ。
それでベンチに腰掛けて、金色をめいっぱい出して凝縮させた。ひとつの球状にしてから、思いきって念じてみる。あの蝶になれ、と。化け術のつもりじゃない。当たり前に命として生まれて、飛び出せと。そう願ってみた。
蝶ならば、生まれても、そう困らないのではないか。
侮りもあった。
息を潜めて球状の金色を睨む。
だが、どれほど待っても変化が起きなかった。
「ううん?」
ならばと化かしてみせると、一瞬で蝶に変わる。それも大量の。
出した霊子が、蝶一頭には多すぎたのだ。だから、数えきれない蝶に化けた。
指を鳴らすと、一瞬で金色に散る。
あっという間に消え去った。化け術だから、模倣に過ぎない。
そこでふと思い至って、今度は大量の金色を集めて、もっと大きな玉にした。
それから念じてみる。呼びかけてみるのだ。
「出てきて、アンドレ」
果たして膨大な金色は直ちに私の妄想の鹿頭執事、アンドレに変わった。
スマートな体躯。下手をすると私よりもスリムにくびれていそうな腰。隙間なくフィットしたスーツ。白い手袋。艶と光沢のまぶしい黒の革靴。そして私がもらった剥製のそれよりもスリムで生き生きとした鹿の頭。
「お久しぶりですね。なにかご用命でも?」
返答に一瞬、困る。
あなたはどっち?
化け術? それとも、ぷちたちのような、生きた存在?
「確認する意味がありますか? 私はあなたの生み出した存在であり、あなたの力を糧に行動する」
「また、適当なことを」
ぼやきながらも立ち上がり、恐る恐る手を伸ばす。
アンドレのジャケットとシャツに包まれた胸元に触れる。手のひらを当てて、押してみる。
吸いこまれたり霊子に散ったりするようなことはない。
わずかな力に彼は苦もなく抗い、動かない。
「あなたなら、ぷちたちの命が作り出された理由はわかる?」
「私の知識はあなたの知識を上回ることがない。もっともあなたよりは記憶力がいいかもしれないが」
擬人化されない鹿の目が私を捉えている。
嘲り、侮るニュアンスを感じる。でも、これが初めてじゃない。
「わかるの?」
「残念ながら、なにも」
「そうでしょうね」
私には覚えがない。
推測はいくらでも立てられるけど、それは妄想の域を出ない。
いまのところはね。
「私の執事さん。なにか名案は?」
「主人の楽しみを奪う趣味はありませんので」
仰々しく腕を振るい会釈をしてみせると、彼は金色を散らしながら消えてしまった。
私は戻れとも言っていないのに。
頭が熱を帯びる。
たまらない気持ちになって両手で額に触れた。熱い。
深呼吸をしながら、再びベンチに腰掛ける。
仮にぷちたちがアンドレのような存在なら、私の中学生時代のノートに記述されているはず。あるいは、中学生時代のノートに記述したものたちのようなイメージが、去年の私にあったはず。
毎日せっせと書いていた何十冊もの日記の内容なんて、さすがに全部は覚えていない。
イメージの有無という点なら、どうだろう。
あった、気はする。
それは「自分のこども」としてじゃなく、「自分の式神」として。
でも、それでいうと、さっき試した蝶と変わらない。イメージした、という点においては。
では、なにがちがうのだろうか。
イメージの密度や精度?
求める気持ち?
なんであれ抽象的だ。
あんまり不確かすぎて、これじゃなにもわからない。
もしも具体的にイメージできる人が相手なら、呼び出せる?
たとえば、カナタとか、キラリとか。
浮かんだ考えを即座に否定した。試すべきじゃない。
そりゃあ、できるはずがないと思いたいけど、万が一ということもある。
ふたりめのだれかを生み出そうものなら、すさまじい大混乱を引き起こす。だからこそ、私は蝶を試したんじゃないか。
「できるはずがない、するべきじゃないと思うかぎりは、できない、みたいな縛りはないかな」
否定はできない。
自分の霊子、自分の術、心の願うもの。
懸念があるかぎり、うまくいかないのではないか。
そう思いたいけど、自信がない。
なんにもわからない。そう思い込みたくなるけど、それもちがう。
世界は長らくオカルトを信じていた。
万物は水、火、風、土で成り立っているというオカルトを。
だけど万物は分けていくと四つの属性でできているんじゃなくて、原子で構成されている。
十七世紀になるまで、およそ二千年ものあいだ、みんなオカルトを信じていた。
信じる度合いがどの程度かは別。まるで世界は平和ですと信じる度合いがまるでちがうくらいにね。
現実もそうだし? なにをどう信じるかは、それぞれの人生、依存の内訳、体験、知識などによる。
徹底的にね。
だからオカルトについて、そもそも「知らない」人もいたろうし、おとぎ話やなんかだと思っていた人もいただろうし、強く信じて学んでいた人もいれば、その学ぶ内容が既存の学問か、錬金術だったりと分かれてもいたんだろう。
いまでも、そういうことっていっぱいある。
お父さんのビデオライブラリを眺めていると勝ちや負けに異様に固執している人たちが出てくる。ヤクザから、商社や総合企業のサラリーマンまで。その奥さんも。猫も杓子も、勝ち、勝ち、勝ち。みんなして「負けたら終わり」だと恐怖しているし? 同時に「勝って見下したい」という隠しようもない欲を剥き出しにしている。あんまり生々しすぎて引いちゃうレベルで、そういう人がいるし? 得てしてえげつない人ほど出世したり勝っていたりして、凄まじいヘイトをまき散らしている。
私やトウヤには正直すこしもピンとこない。お姉ちゃんもそうだった。
お父さんもお母さんも「きらい」だと明言する。一方で、葛葉さんちがうちに来てたり、うちが葛葉さんちに行ったりして、そういう話題になると「でも勝てるなら勝ちたくない?」って言う声を聞くこともある。スポーツ漫画じゃ鉄板だ。格闘漫画もそうかな。「勝ってなんぼ」。それはスポーツ中継や、報道に嘘みたいに割り込む膨大なスポーツ絡みのニュースでもそう。世界大会、それよりもオリンピックでますます露骨になる。
私は壮大なオカルトをみんなで盛りたてているように感じている。世界大会やオリンピックほど、わかりやすく競技のトップ選手が集まり、すんごいプレイをスポーツや観戦の初心者にもお披露目してくれて、興味をもつきっかけになるものはない。だけど、みんなそういうのはどうでもいいみたい。ただ勝つことだけにしか、関心がないみたい。
もちろん私の捉え方にこそ、ピンとこない人や、関心を持てない人もいっぱいいる。
おばあちゃんちの集いで会うおじさんやおじいちゃんたちがそうだ。
だからお父さんは肩身が狭くて、葛葉さんちやお母さんたちにぴったりくっついている。実はあんまり気が強くなくて、曲者だったり性格ひどい男たちの集まりに馴染めないみたい。お父さんも馴染みたくないし、お母さんもそれでいいじゃんってフォローしてる。
世界の見え方、感じ方はほんと、人によって変わる。
定義や価値観もね。
でもさ?
それとは別にあるわけじゃん。
いまじゃオカルトになった「万物は火、水、風、土」ではなく「万物は原子で構成されている」。でも、私が生物の基礎を再確認したみたいに化学? なにそれって人もいる。義務教育で習うだろって言ったって、じゃあ、私たちがそれを腹落ちして、そういうものだと捉えて生きているかっていったらちがうし? 成績はばらけるものだし。勉強なんかもううんざりしてるっていう学生が、どの学校の、どのクラスにもそれなりにいるものだ。
それに化学どころか、そもそも「科学? なにそれ」って人もいる。
勉強だってそう。「なんの意味があるの?」「それが実際に稼げるようになるの?」「なんの役にも立たないよね」などなど。私が何度も思ってきたことだ。それらはぜんぶ、いまの私とは異なるものだけどね。
知識や価値観、定義はそもそも、そういう状態の影響をダイレクトに受ける。
漫画やアニメをはじめ、いろんなものがミームになっていくけれど、それが実際は使うべきじゃないことって、いっぱいある。あるけど、みんなが使ってるしいいかなーって感じでカジュアルに使われる場面がやまほどある。
私たちの言動にまで影響を与えるものだ。
だからこそ、振り返る。
どのような理由で、どのようにして私の知識や価値観、定義が構成されているのかを。
基礎と捉えて、再確認しようとしている。
たぶんここでアカデミックに対する拒絶反応を抱えていたら、反科学ぅとか、勉強なんてくだらないぃとか、みんなに合わせるぅとか、そういう方向性に向かうんだろう。それこそビデオライブラリに見る「勝ちこそ絶対なりぃ」みたいなのとかね。
でもそれは結局、個人の信条に基づくものだ。
批判に耐えられるほどのものじゃない。
なんであれ批判をもって、実際にどうかを検証する。
反証だけをもって、それを信じることはできない。
学問は真理の追究のため批判も積極的に行なう。それでもアリストテレスの信じた万物のありようの定義が更新されるまでに、実に二千年もかかったわけだけど。まあ、十七世紀まではインターネットはなかったし、学問の一般への普及もいまほどじゃなかった。あらゆる国で書物にアクセスできたかっていうと、それも微妙だ。
だからこそ学問って頼りになるし? 学問が邪魔になる権力者が出てくるわけだけども。
そもそも私たちもまあまあ学問を嫌うよね。選択の余地なく自分を推し量られて、しばしば比較の対象にされて、おまけに割合、ばかにされるから。ちゃんとできれば、それに越したことはないけど。
でもって、そんなあり方が当たり前な人たちもいれば、ぎょっとする人たちもいる。学校や塾によって変わるんだ。そんなのは。当たり前に。だから学問を嫌う人ばかりじゃないけれど、いま私が生物基礎や化学に興味を持てるような出会いに恵まれてる生徒ばかりかっていうと? それはそれで、むずかしい。
あれこれ紆余曲折を経て、私がいま生物基礎や化学に「おぉ」って思えてるみたいな出会いが当たり前にあるかっていうと? とことん、機会に恵まれるか、それを望めるかによる。
ついつい「人による」としたくなるけど、それはずれてる。
学問が好ましくて、身近にあって、アクセスできる状況にないかぎり、百人いるとき出会いに恵まれる人は極端に減ってしまう。割とね? 環境や関係性による。周囲の人たちが馬鹿にしているだけで、学問なんてってなる人もけっこういるからね。それに社会的支援・社会的資源も重要だ。学校や教師、学びたいときに適切に学べる相手がいるかどうかだけでも変わる。それが本でもいいし、学校や塾の動画だって構わない。いろんな大学が動画を配信してるしね。けっこう便利なんだ。
教える人や施設がある。本を集めた図書館があって、そこで本にまつわる専門家としてあらゆる業務をして働く司書さんがいる。その他、もろもろ。それらが運用されるためには、人やお金、時間やなんやかんやが必要だ。壊すのは簡単。だけど復旧させるのは、あまりにもむずかしすぎる。
なんであれ、たくさんのものが必要なんだよね。
だから「人による」っていうのは、これらの前提を無視しているか、省いているか、自覚せずに見逃しているかだ。だけど本来は省いちゃいけないし、無視しちゃいけないし、自覚的でなきゃならない。
再確認しようとするほど、その膨大な社会構造や依存の有り様を思い知るばかりだ。
私たちは思いのほか、ありのままなんて見えちゃいない。
当然だ。
知らないんだから。
学問の歴史も。そこで多くの人たちがどう取り組んできたのかも。批判をどう行ない、どう役立ち、あるいはどう阻害されたか。アリストテレスが一蹴してみせたようにね。それが批判かどうかの判断も含めてさ?
知らない。
知る気もなければ、始まらない。
教科書の審査は厳密に行なわれているし、あらゆる書籍も校正されている。けれど、それが十分とはかぎらない。出版社によっては校正にかける予算がない、そもそも社内に校正がいないっていうケースもあるという。お母さんに教えてもらった。校正って、当たり前じゃないんだって。驚きだ。教育にどうしたって教育指導要領に沿ったものになるし、それが自分に合っているとはかぎらない。授業で学ぶ、その構造が合うともかぎらないしさ?
もうね。
ハードル高すぎだ。
なので、どのあたりから学び直したほうがいいかっていう、そういう基礎の確認もある。
「はああ」
参ったなあ。
自分になにができているかどうかもわからないのに。
そもそも自分になにがわかっていて、なにがわかっていないのかさえ把握できていないだなんて。
どうかしてる。
だけど、これが現実だし?
結局のところ、人生のどこかでしっかり勉強しなきゃならないときがくるんだ。
それがどうやら、私の場合は、いまらしい。
わからないことだらけのときには、ついつい、わかることを頼りにしたがるし?
それで頼ったわかることが、実はろくでもなかったなんてこともあれば、そうともかぎらないってことだって。
結局、持論を批判できる状態を維持してかなきゃならない。
それには多くの依存があるほどいいし?
逆に依存が限定されていくほど、高くつく。
貧乏になるほど、あらゆることが高くつくように。
千円しか持っていないときと、一億円の貯金があってクレジットの残高はゼロで上限が一千万はある状態のときとじゃあ、あまりにも生活の難易度がちがいすぎる。
あらゆることが高すぎる。
そうでしょ?
依存も同じだ。
自分がわからないことを受け入れるのにだって、そのためにあればいいことがいっぱいあるし?
それでも、それらがあればよくて、私は受動的であればいいってことにはならない。
もちろん私の言動も重要だ。
困ったもんだよ。
霧の中にいるみたいだもの。これじゃあ。
「こんなことしてていいのかな」
焦る。
焦るけど、足りない。間に合わない。
そんな状況に変わりはない。
対応しなくちゃ始まらない。地道に。基礎から。
「私はいったい、なにをしたの?」
鍵はどこにあるんだろう。
ぷちたちは式神なのか。それとも、それ以外のなにかなのか。
わからないことだらけだ。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




