第二千八百十話
戻ってきたカナタと再び話しこんでいるなかで刀鍛冶の真実をひとつ知った。
霊子の糸を繋げて流れてくる相手の情報は膨大すぎて、まともに引きうけられない。
食事中に糸を繋げたら、ひっきりなしに食事中に生じる心の動き、その声がやまほど流れこんでくるという。霊力に応じて声は大きく強くなるし、霊力の変動によっても同じ変化が生じる。もっといえば、感情の機微の変化だけでもそう。身体が不調になってもそう。なんなら虫歯がずきんと痛んだ、筋肉痛の箇所を動かして痛みが生じただけでも、情報量が増すのだそう。
なので基本的に刀鍛冶は声の全部は聞かないで済むように心得を学ぶ。
カナタがかつて繋いだのは、なんということでしょう。
「最中の私がなにをどう感じてるか、知りたかったからですか」
「うれしそうなときとか、ああ俺のこと想ってくれてそうだなあとか、そういうときも」
「ふうん」
たしかに私が刀鍛冶なら、知りたくてやりそうだ。
しちゃだめって言いながらも、やってる人がそれなりにいそう。
かつて心の底まで繋いでわかってる、みたいな発言はブラフ。
できないことはないけど、その声を整理して取捨選択することが人間にはできない。
それにどうしたって主観の影響が色濃く出るからね。
そこで勘違いしてやらかす人も多そうだ。そう指摘すると、カナタはまさに渋い顔でそっぽを向いた。
「ん? あれ? どしたの?」
「ああ。のお。その、ええと」
「もしかして先生かだれかにバレて怒られたとか?」
こっそりやるほかになくて、それがバレるとは思えない。
だとすると?
「舞い上がって話したか、それとも先生に糸で調べられて見抜かれたか」
「や。普通に、ユウリ相手に得意げになっていたところを見つかって。先生からは指導を。光葉先輩からは鉄拳を食らった」
「おぅ」
ま、まあ。
舞い上がるよね。
恋愛の最中って。おばかになるよね。わりとさ。
私がするまでもなくしばかれてたか。既に。
それで私がしばく理由がなくなるかっていうと、それはそれだけど。
ま、いっかな。
嘘をついてたところは別だ。言わないという、消極的な嘘はきらいだ。
だけど潔癖でいられないことを私もよく心得ている。
彼からしばらく精神的にも物理的にも距離を取った裏には、そんな消極的な嘘がいっぱい潜んでる。
なので、そのあたりの追求はひとまず置いておくとして。
「じゃあ、霊子を探るのって、かなり大変?」
「スーパーやコンビニのペットボトルコーナーの飲みものぜんぶ、真っ黒に塗りつぶしたうえで、方々から止めどなく浴びせられて、その都度なんの飲料か当てるような挑戦かな」
どういう状況?
みんなに黒塗りにして蓋を開けたペットボトルを持ってもらって、そいやっとぶっかけられる感じ?
やだなあ! プロ野球の日本一が決まるとき、ビールをかけあうそうだけど、あんなノリぃ?
そんな無茶な。
あと、味が混ざってわからないだろうし、そもそも口元にくるかどうかも謎だし、むずかしすぎない?
「根本的に技術的な水準に必要な余地があるのかもしれない」
現状では、至らない境地があるのかもしれない。
「もっとどうにかできる余地があるかもしれない。そのあたりを光葉先輩は探ってくれている。でも、現状がこれだから、春灯の言う魂たちの霊子を探るようなアプローチは、現状では、かなりむずかしいと想う」
ブレイクスルーが起きないかぎりは無理で、それは基礎技術の研究と改良なしにはなし得ない、と。
現実的ぃ。
生々しいぃ。
特別な技術だけ「選んで」「集中」すればいいわけじゃないよねぇ。
それはそう。選択と集中という手段は現実の種々様々から目を背けるためにあるのではない。
「ならさ? 心理を、あるいは霊子をもっと、原子のように捉えられないかな?」
「原子って」
「感情、情緒、なんでもいいんだけど。分子結合したなにかになっていて、私たちはそれを分解して原子にまで読み解いていく、みたいなの」
「う、ううんんんん」
「そりゃあ、たとえば私の喜びとカナタの喜びが同じ原子か、同位体として扱えるのかさえわからないよ? わからないけどさ。感情も情緒的な反応も、突きつめれば、どんどん分けていって、分けられないところにまでほぐしていけると思うんだ」
「その、いろいろ気になるけど。身体的な反応はどうするんだ?」
「そこが問題というか、別の鍵で。情緒的反応も、突きつめれば生物学的に脳をはじめとして起きて、情緒としてあらわれる現象だし。身体的反応は身体に生じる現象だし。肉体的な情報ありきになると思う」
カナタの頭にいくつもの疑問符が浮かんでいるけど、待ったをかけてこないので続けてしまう。
「生物学的な情報の変動と、そこに紐づけられる情緒的な変動とを紐づけて、それを軸に霊子として放出される情緒、感情を読み解いていくの」
「分子か原子か、分子ならどういう結合をしているのか、まるでわからないなかで、膨大な情報の奔流を相手にしながら、か?」
「うん」
私がうなずくと、カナタの肩がこけた。
わかってるって。皆まで言うな。
「いまは無理かもって言うんでしょ? わかってるってば。私の仮説であって、根拠も薄弱。それはいまから練るものだし、仮説を検証するための実験もやまほどいる。光葉先輩に伝えてって言える段階にさえないことも承知してる」
「え、と、じゃあ、どういう?」
ピンときてないなあ。
そりゃそうか。
「私なりの術を作りたいの。基礎からね。これは、そのための理論なんだよ」
まだ赤ちゃんみたいな状態だけど。
ビバードーフ准教授の化学の本が、いい刺激になった。
「アリストテレスは万物が火、水、風、土でできてると考えてた」
アニメやゲーム、漫画、ラノベ、ネット小説でよく見る設定だ。
もちろんそれは覆されている。
哲学が多くの学問を内包していた頃、そして錬金術が生まれて流行り廃れるまでの間でさえ、アリストテレスの説が下地だった。アジアではどうか。日本だと陰陽道を連想するし、もっと以前にさかのぼると中国じゃあ、木火土金水じゃない?
万物は、自然の現象や欠かせないものによって成り立ち、動いていると信じていた時代があった。
まさかアリストテレス発祥とは。古代、おそるべし!
ちなみにアリストテレスの時代に「いやいや違うでしょ」って考えてた人がいたのに、アリストテレスの一蹴と、彼の知名度によって退けられたっていう話は「んんっ! 人類!」って感じ。
真実かどうかじゃない。
信じたいか、安易に済ませられるか、楽に気持ち良く消費できるか。
いまだって、そっちのほうが重要だと考える人のほうがよっぽど多いのでは。
もしもAIがあれこれ質問に答えてくれる時代が来たのなら、みんな喜んで批判性や学習を捨てて、頭からっぽにしたがるだろう。手抜き天国バンザイだ。
「だけど、それじゃダメだった」
万物は細かく切りわけていったら、もう切りわけられない単位にたどり着く。
今日ではそれが原子。原子の構成要素はなにか。それぞれの特徴はなにか。
原子周期表を見ればわかるように作られている。
化学者は元素周期表を頼りに、実に多くのことが成し遂げられるという。
すっげえ! 憧れるぅ!
いや私も鵜呑みにしてるやないかい!
でも歴史を学ぶとめっちゃ面白いね? まさか暗記するだけめんどくさって思ってたものの象徴みたいな元素周期表に、そんなドラマがあったなんて思いもしなかったよ!
アリストテレスも間違える。それゆえに批判がすっごく大事。
自分自身の論理に対する批判的な姿勢だって常に欠かせない。
手抜き天国には存在しないものだ。
そして基礎に、まずなによりも強く求められるものだ。
これに関しちゃ基礎がしっかりできてないなら? 応用に行くのは「ちょっと待ったぁ!」。
「実際に原子モデルを採用するかどうか、その検証に入るために、感情はどこまで切りわけられるのかを探してみたいんだ」
「あんまり、その、イメージが。感情って、たとえば、うれしいを切りわけるという感じか?」
「それはなぜうれしいのか、どういうことが影響しているのか、読み解いていくの」
「うれしいを解析して、構成要素を調べる、みたいなことか?」
「そうそう。すると、うれしいのなかに、切りわけられるものがあるかもしれないでしょ? なになにがどうだった、だからうれしいとしたら、なになにがどうだったとはなにかをまた探っていくの。そこには別の感情が潜んでいるかもしれない」
「感情同士が結合して、うれしいになっているかもしれない?」
「そそ」
なんだ。伝わってるじゃん。
よかった。ホッとした。
「感情の解析による、霊子の解析ってことか」
「うん。それがわかるほど、今度は、感情を通じて霊子を練る方法もわかるかも。それがわかれば、いまよりもっと霊子がうまく圧開けるようになるかも」
「それは、たしかに、基礎だな」
「ね」
そう。基礎だ。
ううんとか、おお? とかうなってるカナタをよそに、私は決意を抱いていた。
私の場合、魂たちが注がれていて、なにが私で、どれが魂たちによるものかさえ明らかじゃない。
私と魂たちとで、私の霊子にちがいはあるのか。あるなら、それはどういうものか。ないなら、私とはどんな存在なのか。
仮説を立てて、検証して。とにかく進めていかないかぎり、なんにもわからない。
真理の探究がいる。それも厄介なことに、自分自身に対する真理の探究が。
でもね? このあたりがわかると、御珠を通じて繋がれるものがなにかーとか、タマちゃんたち御霊とどうかーとか、世界に漂う霊子とどう繋がるかーみたいなことも見えてくるんじゃないかって気がするんだよね。
膨大な基礎の先にようやく応用が待っている。
潤沢な基礎研究という下地がないと、発展が先細りしていく。
私にはいまこそ基礎が必要だ。
これまでの当たり前を破り、批判して、改めて構築していく基礎が。
「俺の基礎は、なんなのかなあ」
カナタが腕を組んで考えこみはじめた。
そう。厄介なのは、まさにその問いの答えだ。
だれかにもらった答えじゃあ足りなくなるときがくる。
だけど、それがいつかは自分にも、だれかにもわからない。
不足が教師になってくれる。
でも深刻に不足を感じられないかぎり、見つけられないし?
挑戦せず、行わず、考えず、感じたことを流して、消費しているだけど、不足にどんどん鈍くなる。
能動的になるのは、とってもむずかしい。
仮に能動的になれていても、維持できるかどうかは別だしさ?
ほんと、よくわかんない。
だから私たちは問うんだろう。
そしてめいっぱい、考えるのだ。
人はそういう生き物なのだから。
考えて考えて、考え抜いてなお、考える。
思考は結果を保証するものじゃない。食事は絶対の健康を保証しないようにね。呼吸だけが生存を保証するのでもないようにさ。
せいぜい、死ぬまでの間にどうするかくらいしか資するものがないかもしれない。
それでも考えるのは、いつだって「これからどう生きるのか」「どんな人生を、世界を、社会を望むのか」を探るためだ。
解決しようもなく、あらゆる言動は現状維持を保てないどころか破壊するばかりという時期が人生に訪れることもある。フランクルが夜と霧で記した収容所のように。私でいえば、八尾を注がれてままならなくなった人生のように。ベッセルが記した犯罪や虐待などを受けて生存している人生のように。
なのに人生は続いちゃうし?
考えなしだと、情緒的・身体的反応に翻弄されて、なんとか低減・緩和するべく、反応に受動的になって振り回されることがしょっちゅうだし? それは概ね、社会から逸脱するような、破滅的な状態へと自分や他者を向かわせてしまう。
依存のためのあらゆる社会的支援・社会的資源・関係性・環境があれば回避できるかもしれない。なら、能動的に、それらの依存を増やして、提供したほうが、自分のためにも、だれかのためにもなるんじゃね? という行ないをしてる人はいる。
そこまでじゃないにせよ、生じる情緒的・身体的反応をなだめられるよう依存に繋いで、なんとか能動的に生きてる人もいる。
健常でいられるときほど、マジョリティでいられるときほど、それらに翻弄されても気にせずにいられるくらい、膨大な依存に接続して支えられている。
だったらだれもがそうなれたらいいよね、ということで、私の大好きなスパイディーはみんなの隣人として活動している。アメスパが好きなのは、ちょっとした相談とか困りごとにも応じてるところ。
ピーターの家族メイおばさんは、地域で貧困や苦境に喘ぐ人たちの支援活動をしてるしさ?
そういうの、大事じゃん。やっぱ。
だけど、そういうのって考えてなかったら、なかなかできない。
考えずにできる人だらけだったら、もちろんそれはすごくいいけどさ?
そうもいかないじゃん。
みんな同じじゃないんだから。
貧困を叩く人たちだって少なからずいる世の中なんだから。
だからこそ、ちゃんと考えてたいんだ。
いま答えが見つからなくても、いつか見つけるために。
不足と出会い、探れる自分でいられるように。
それにはやっぱり、基礎がいる。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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