第二千八百九話
プラトンがイデア、エロスを見て、アリストテレスがフィリア、いわば友愛を捉えた。
エロスは自らが思うもので、一方的であり、純粋なものでありながらも自分のためのもの。
フィリアは共同体を維持するために必要な、相手がよりよくなることを願うもの。直接的に自分のためではなく、まず、相手のためであるところがエロスと異なる。
そしてキリスト教におけるアガペー。無償の愛。損得勘定のないもの。
紀元前より前のプラトンとアリストテレス、そしてキリストたちの話だ。二千年以上も昔のものになる。
プラトンやアリストテレスといえば著名な哲学者だ。ふたりは師弟関係にある。
哲学はかつて、あらゆる学問を内包していた。
哲学から巣立っていった学問たちが、今日の社会をいかに力強く支えているのか。かといって、哲学がもうすかすかの抜け殻になったわけではない。
でもって、逆にいうと、昔の哲学はあらゆる方面について真理を追究していたのでは?
視覚をはじめとする五感についても、化学についてもだ。
ネットはないし、設備だなんだもいまのほうが明らかに充実してるし、なによりいまより露骨に賢人頼りな気がするけどもね。いまのほうがよっぽど整備されてるよねっていう、その前提は踏まえつつね?
あれこれ考えては試していたろう。日本は文系理系に分けてるカリキュラムになっているけど、当時はそんなのないよね。哲学に内包されてた時代だし。
だけど日本はお父さんやお母さんの世代から、もうちょっと幅広く理系文系が浸透していて、支持されている。ちょうどプラトンやアリストテレスもそうだった。
彼らの支持する理論に批判的な人がいた。デモクリトスだ。
物質がどれだけ小さくなれるかには限界があるはず。
それがデモクリトスの考えだった。
ちなみにこれはアマテラスさまのお屋敷で見た「IT'S ELEMENTAL THE HIDDEN CHEMISTRY IN EVERYTHING」という本の訳書「さぁ、化学に目覚めよう」から引用している。著者はケイト・ビバードーフ。梶山あゆみ訳。山と渓谷社から2024年に発売されている。
アリストテレスは一蹴した。だからみんなも、それに従った。そのおかげで二千年ものあいだ「この世のすべての物質は土、水、空気、火という四つの要素の組み合わせでできている」という解釈で捉えられていた。
ケイトは「二千年だよ!? やばくね!?」と言わんばかりに訴えている。
とても読みやすい。翻訳もいい。「ちょっと噛みしめてみて。2000年よ、2000年!」。
驚きだけど、ほんとだ。
いまとちがってネットもなければ、批判的思考の重要性について説かれるまでにも時間がかかった。なので「権威」が、「常識」が、「当たり前」が、「こうあるべき」が支配的であり、それは残念ながら学問における真理の探究とはほど遠い有り様だった。
十七世紀の物理学者ロバート・ボイルの登場によって、流れが変わる。
彼はケイト曰く「広く受けいれられている仮説の誤りを実験で証明するのが大好物だった」。
けっこうな人物評では?
こほん。
ボイルがアリストテレスの理論に目をつけて「古代ギリシャ人たちの考えた、世界のあらゆる物質が土、水、空気、火でできているのではない」と説き、ここで「元素」について説明を行った。
物質がどれだけ小さくなれるかには限界があるはず。それ以上は分解できない、小さな物質の欠片のことだ。
これはまさしくデモクリトスの考えと一致する。
ボイルの本は日本語だと「懐疑の化学者」として出版されている。
そこで世界中の化学者たちはこぞって小さな元素を探し出そうとしたんだって!
当時のボイルは「銅や金などなじみぶかいものは、いくつかの元素が混ざったものじゃない?」と考えていたけど、すぐさまそれらの材料は、それ自体が元素なのだと突き止められていったという。
すごい。
みるみるうちに研究・分析が進むなかで「待って? 元素さえ原子という小さなかけらが集まってできてない?」というところに行き着く。1803年、ジョン・ドルトンというイギリスの科学者による「原子説」だ。原子説では「ひとつの元素内の原子はすべて同一であり、別の元素内の原子もすべて同一」だとしたけれど、じゃあ炭素や水素がどう異なるのかについては説明できなかったんだってさ。
ドルトン説は当時の学問で既に批判的に捉えて、ボイルがしたように反証するための実験やなんやもあったようだけど、結果は一貫して「元素が原子でできている」ドルトン説を支持するものばかり。
じゃあ、そもそも原子はなんでできてるの?
それがわかれば、炭素原子、水素原子がどうちがうのかを説明できるのでは?
とまあ、こんな具合に興味をめちゃめちゃ刺激してくれながら、化学について教えてくれる名著だ。私にとってはね。
さて、そこからすると?
霊子にまつわる科学は今も哲学の中にいる。
おまけに化学領域の捉え方さえ輸入できていない。
学問体系として、まだまだ卵の状態だと言っていい。
心の欠片が霊子だというのなら、元素周期表に分類されるほど研究された元素たちのように、分類できるかどうかの研究が成されていたっていいはずだ。しかし、まだ、ない。
愛の話に戻る。
ギリシャ語における愛はこれこれがある、というのはネットで検索すればすぐにわかる。
私が並べたものに家族愛のストルゲを加えることがある。もっと増えてることも。
それらは一端! 置いといて!
哲学者エーリッヒ・フロムの名著「愛するということ」に触れる。愛について整理した一冊だ。
原題は「THE ART OF LOVING」。紀伊國屋書店が訳書の販売元だ。
フロムはセックスについても触れている。
25ページの内容から触れると、いわく、セックスには祝祭的な興奮状態をもたらす作用がある。
私たち人間は孤立感から逃れる術を欲している。これを達成する術こそがあらゆる種類の祝祭的な興奮状態。つかの間の高揚状態になり、外界について認識から追い出して、外界からの孤立感を消す。
文化祭や体育祭でみんなで一致団結する、お祭りの準備のなにがうれしくて楽しいかって、まさにそれだ。祝祭的な興奮状態にある。だけどお祭り当日になると? 仲間と祝祭的な興奮状態を維持できないかぎりは、再び外界を意識する状態になる。
身も蓋もない言い方をすると、準備期間中は仲間になれるけど、お祭り当日になるとぼっちがいやなのに、ぼっちになっちゃう人ほどつらくなるってこと。これは小学校時代のあらゆる行事で痛感してきた。
フロムは麻薬の使用も祝祭的な興奮状態になる助けとして利用されるとしている。とりわけ原始時代の部族の集まりならそうだろうし? 現代の祭りなら、その役目は海外なら麻薬のままだろうし、国内ならアルコールが担っている。
だけどセックスも、そのひとつとして十分な役割を果たす。性的興奮、絶頂感は私たちにトランス状態へと導き、ある種の麻薬使用と似た状態を作り出すという。
かつては乱交が原始的儀式の一部であったとフロムは述べている。
緊張状態に陥ってくると? 再び、乱交。
えっちなゲームみたいな話だ。
だけど、いまのカナタさんを見てると? 去年の私を振り返ると、実際そのとおりだなって思う。
ただ現代に、自治体や政府が「じゃあみんな、今日のお祭りは無礼講! 必ずだれかとセックスな!」なんて言いだすはずがない。えっちなゲームかよって話だもの。ないない。映画「ミッドサマー」だって選ばれた少女が、村の外からやってきた男たちのなかから選ばれたひとりとセックスするだけ。まあ、映画で乱交はさすがに無理があるから避けられただけかもしれないけども。
でもって、そうなると? セックスは私たちから遠ざかる。
そこで現代の私たちは酒や麻薬に溺れるとして、それが数多の膨大な依存に接続できない依存症に陥るほどに罪悪感を抱き、社会から隔絶され、烙印を押されて排除されるようになっている。スティグマの問題は専門家が長らく警鐘を鳴らしているのだが、アリストテレスの誤りが改善されないように現代日本の方針は未だに「ダメ。ゼッタイ。」のままだ。
これに対してフロムはセックスはある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法であるとしている。だが他の方法で孤立感を癒やすことのできない人々が性的絶頂感を追求するのは、酒や麻薬に耽るのと大差ないという。
『なぜなら、愛のないセックスは、男と女のあいだに横たわる暗い川に、ほんのつかのましか橋をかけないからである』
興奮によって一時的にまぎらわすことはできても、根源的な解決にはならないよねっていう話だ。
ここからもうちょっと複雑な話に入る。
セックスは合一体験を一時的に与える。興奮とともに、特徴のある体験を。その特徴とは「強烈・激烈」「精神と肉体の双方にわたって人格全体に起きる」「長続きせず断続的・周期的」。
だけど、もちろん合一体験をするための方法はセックスだけじゃない。
私とカナタがした、とことん「話す」、そして「聞く」のようにね。
フロムは「集団、慣習、しきたり、信仰への同調にもとづいた合一」としている。これはセックスの興奮状態による合一体験とは正反対の特徴を持っているとしている。
みんなに合わせる。空気を読む。みんなが言うから、そのとおりにする。みんなと同じことを言う。輪を乱さない。協調し、協働する。
ミッドサマーはえぐい形で、主人公に溶け込んで協調していたよね? それは妹の自殺、彼氏との不和など様々なショックやストレスで孤独に傷つき苦しんでいる主人公に寄り添うもので、ショックやストレスを緩和・低減していた。彼女を飲酒とダンスで朦朧とさせたうえで勝利させ、さらには権威的立場に置き、支配と高揚の喜びに満たしたうえで、見事に取り込んでみせた。カルトの恐ろしさが凝縮されている。これに抗える人は、たぶん、そうそういない。おまけに、抗う人は村人に殺されてたからね! 近寄った時点でもう、逃げ場がない。
だけど、そこまでじゃないにしても、私たちは集団や社会に同調する。
コンテストでもそうだ。
勝つ条件を見出して、やっぱりある程度の同調をする。勝ちたいからっていうのもあるけど、なによりも負けることが怖いから。恥ずかしくて、みっともなくて、孤独な敗北や失態を演じたくないから。耐えられないから。
だから同調する。
学校の音楽の授業でみんながリコーダーを持つとき、ひとりだけアンプとエレキを持ち込んでじゃかじゃーんと弾くことはしない。体育の授業で運動ができないときには団体競技の最中において、隅っこでなにもしませんという態度で空気になる。
輪を乱すことは罪であり、みんなの同調を狂わせるからだ。
それでしばしば「みんな怖いから同調する」かのように語られるが、フロムは異を唱える。みんな自ら望み、欲して同調しているのだと喝破する。
そこでフロムは平等について述べたのち、男女平等に向けた運動のなかに、懐疑的に捉えるべき点があると指摘する。平等志向は差異をなくそうとする風潮のあらわれであるとして、これは「一体となる」「合一体験へと導く」ものではなく「同一」になることを無批判に求めすぎるきらいがあると批判している。
私たちは言うまでもなく「同一」などではない。
だというのに現代のあらゆる運動はさながら「同一」を目指し、「同一」なのだから資本主義下において「同一」に扱ってよいとするかのような危うさがあるという。
あらゆるものに型が生まれ、だれもが型の踏襲に翻弄される。そこで違いを主張するが、実際には「同一」の同じ原子のわずかな差異のある同位体程度の違いしかない。そのとき私たちの生物としての一体感などへの飢餓感は殊更に悪化するばかりである。
資本主義下においての生産活動の部品になり「同一」の規格を求められ、それに適応するのに必死になり、ひとり、またひとり、疾患を抱えて退散していく。あるいは「同一」ではないとして排除されていく。そんな環境下では集団における安心できる安定的な「合一体験」を継続的に維持することはできない。最低でもミッドサマーが生け贄を欲したように、犠牲者を求め続けることになる。
フロムは39ページにて、成熟した愛について語る。
いわく「成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である」。「愛は、人間のなかにある能動的な力である」。私たちを隔てる壁をぶち破る力であり、私たちを結びつける力である。
「愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりでありつづけるというパラドックスが起きる」。でもでも? 愛を活動と言っちゃうと面倒があるとすぐさま続けるから、複雑。
なぜ面倒?
それは活動の定義があるから。
スピノザの引用までして、フロムは活動の定義を整理する。
カナタがケーキを買ってきたり、話しかけてきた。悩みを聞いて、相談に乗ってと訴えてきた。一見すると主体的かつ能動的な行ないだ。だけど実際には私との関係に対する恐怖や不安に苛まれていて、ひどく圧倒されている。押し潰されそうな状態だから、彼はなんとしてでも話すきっかけだなんだがほしくてケーキだなんだを用意してやってきた。言い換えれば彼の感情に非常に受動的に振る舞っている。恐れに駆り立てられているんだ。
カナタのいまの不安に対するとき、私は自分の不安だなんだは一端おいといて、聞くことに徹する。それは一見するとひたすらに受動的に見えるだろう。だけど私は内面的な感情だ衝動だなんだと折り合いをつけながら、応答している。それは心が自由と自立を獲得し、維持できていないと、続けられない。
じゃあ、スピノザの引用を用いてフロムはどう述べたの?
『彼は感情を、能動的な感情と受動的な感情、「行動」と「情熱」とに分ける。能動的感情を行使するとき、人は自由であり、自分の感情の主人であるが、受動的な感情を行使するときには、人は駆り立てられ、自分では気づいていない動機の僕である』
『羨望、嫉妬、野心、貪欲などは情熱である。それにたいして、愛は行動であり、人間的な力の実践であって、自由でなければ実践できず、その実践を強制することは絶対にできない』
明確に「絶対にできない」としているのが痺れるね。
『愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう』
さて、ここでも与えるという定義についてフロムは整理する。
『与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはとても曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剥ぎとられること、犠牲にすること、という思いこみである。性格が、受けとり、利用し、貯めこむといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受け止めている』
『商人的な性格の人は喜んで与える。ただしそれは見返りがあるときだけだ。彼にとって、与えても見返りがないというのは騙されるということである。基本的に非生産的な性格の人は、与えることは貧しくなることだと感じている。そのため、このタイプの人はたいてい与えることをいやがる』
『いっぽう、与えることは犠牲を払うことだから美徳である、と考えている人もいる。そうした人たちに言わせると、与えることは苦痛だからこそ与えなければならない。彼らによれば、犠牲を甘んじて受け入れる行為にこそ、与えることの美徳がある。彼らにとって、もらうより与えるほうがよいという規範は、喜びを味わうよりも剥奪に耐えるほうがよいという意味なのだ』
カルトやマルチ、非常に暴力性の伴う宗教集団などだと、しばしばあるね?
「あなたが犠牲を払うこと」は特別なことなのだとうそびき、そう信じさせ、多くを簒奪する。剥奪しては「徳がたまっている」などとだますのである。
暴力を振るう者も、暴力を受けとめるべきだと歪んだ考えを自然に、かつ無意識に持っていることがある。
強姦、性虐待を行う者もそうだ。
彼らはセックスや、それに至る言動、その後の対応などを含めたすべてに相手が「耐える」べきだと考え、耐えることこそが「自分を愛している」ことの表明になると無邪気に信じている。
もちろん、ちがう。
『生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。彼らにとって、与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分のもてる力と豊かさを実感する。(……)与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎとられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである』
『物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである。たくさんもらっている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。ひたすら貯めこみ、何かひとつでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんの物を所有していようと、心理学的にいえば、貧しい人である。気前よく与えることのできる人が、豊かな人なのだ』
『しかし、与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのか。それは自分自身、自分のいちばん大切なもの、自分の生命だ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなく、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているものすべてを与えるのだ』
ちなみに資本主義下において物を与えることについてもちゃっかり触れている。
あくまで「もっとも重要な部分」として、私たち個人に息づくものを与えることに言及している。
そのうえでフロムはマルクスの言葉を引用する。
『人間を人間とみなし、世界にたいする人間の関係を人間的な関係とみなせば、愛は愛としか、信頼は信頼としか交換できない。その他も同様だ。芸術を楽しみたければ、芸術について学んだ人間でなければならない。人びとに影響をおよぼしたいと思うなら、実際に他の人びとをほんとうに刺激し、影響を与えられるような人間でなければならない。人間や自然にたいする君のかかわり方はすべて、自分の意志の対象にとってふさわしい、君の現実の、個人としての生の明確な表出でなければならない。もし人を愛しても、その人の心に愛が生まれなかったとしたら、つまり自分の愛が愛を生まないようなものだったら、また、愛する者としての生の表出によっても、愛される人間になれなかったとしたら、その愛は無力であり不幸である』
一方的な愛じゃあどうにもなんないよ、という指摘であり。
愛してほしいなら、愛さなけりゃ始まらないよ、という指摘であり。
楽しみたいならよく学ばなけりゃ始まらないよ、という指摘でもある。
ごもっとも。
『しかし、与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない』
としてフロムは「たがいに相手をたんなる対象として扱うのではなく、純粋かつ生産的にかかわりあった」ときにのみ「与えることが、すなわち与えられる」ことになると示す。
親とこども。教師と生徒。俳優と観客。医師と患者などなど。
与えるための資質について、フロムはおさらいする。
『あらためて強調するまでもないが、与えるという意味で人を愛せるかどうかは、その人の人格がどれくらい発達しているかによる。愛するためには、人格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとか、なんでも貯めこもうとする欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のために自分の力に頼ろうとする勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると、自分を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない』
こうやって記述に触れていくほど、私は時代の歩みの速度がいかにすごいのかを実感する。
フロムはちょっと前時代的に感じる要素がある。生産的の定義の確認をしないと、そのあたりは読み取れないけれど、自分の力に頼ろうとする勇気だけでは、今日においては足りないことが明らかになっている。依存についてまとめてきたでしょ? 私たちは社会に強く依存して生きているからね。
でもね? そう先を急がないで。
『愛の能動的な性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。どんな形の愛にも、かならず共通する基本的要素がいくつか見られるが、ここにも、愛の能動的な性質があらわれている』
『その要素とは、配慮、責任、尊重、知である』
ちなみに配慮って「気にしてあげる」「ほどこしてあげる」という、上から目線の、余裕があるときに「してあげる」ようなものじゃあない。
憲法の人権にまつわる配慮もそうだ。
『愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない』
こうフロムは述べているが、ここで新明解国語辞典にいい記述がある。
『想定されるいろいろな場合に対する対処の方法を考えて何かをすること』
思いやりとかじゃないんだよ。
具体的な行いであり、態度なんだよね。
だから合理的配慮としてバリアフリーの普及を促進しているけど「余裕があったら思いやってあげてね」って話じゃない。「想定されるいろいろな場合に対する対処の方法を考えて何かをする」必要があるんだよね。
愛することの配慮もそうだ。
フロムもマルクスも抽象的にしていて言及していないような気がするけど、一方的であったり、合意のないところに「だけどこれは自分の愛だから」みたいな姿勢を持ち込むようだと、もうだめでさ?
結果が得られるから「与える」って話でもない。
愛した結果、愛されて。愛されたことに、愛して返す。
それが成立しなくなるようなら、その愛は、不幸であり、無力だ。
そのことを受け入れてなお、愛することができるか。
それには人間的に十分な成長・発達がいるよね。
ユングが自己のシャドウやペルソナ含め、深遠な旅路にだれもがつくかというと「そりゃないな」と認めているそうだけど、フロムの愛も、たぶん一緒だ。
フランクルの「人生の意味を問うのではなく、意味があるから生きるのでもなく、生きることによって、そのための具体的行動による表現によってのみ、私たちはどう生きるかの意味を答えられる」みたいに、それを行えるのが当たり前かっていうと? やっぱりちがうのと、きっと、一緒だ。
アリストテレスが誤っていたことがあったとして、いまなお歴史的偉人として扱われているように、残念ながら私たちはどんなに賢くなろうが間違えるし、やらかす。
フロムの語る十全な成長・発達をした人が、常にそのままでいられるかっていうと?
私は正直かなり疑問。
だれでもなにかのきっかけで、病んだりしくじったり過ちを犯す。
少女漫画の主人公たちみたいに絶対にくっつきそうなふたりが、結婚せずにかたっぽ独身、かたっぽバツがふたつ以上で再婚してひとまず幸せみたいなことだって、全然あるのが実際でさ?
つかの間の興奮による合一体験いいかえてセックスにしたって、ベッセルが記述しているレイプ被害に遭った未成年の少女を買った男たちが、二度と未成年の少女を買わなくなるかっていうと? まず、それはないだろう。
経緯、体験、状況、その他もろもろや文化敵側面を無視できない。
生理学的反応だけじゃない。あらゆる影響の要素を無視できない。
いつでもいやだと安心して言える状況を保てているかなど、言いだしたらきりがない。
実際にフロムが語る乱交の祝祭は、その集団に属するために必要な振る舞いであり、拒絶することは排除されるものとして言及されている。それって十分な合意が形成されているとは断じて言えない。だから乱交祝祭も癒やされる者がいれば、深刻に傷ついている者もいたとして、なんら不思議ではない。
風俗で働いているから。売春してるから。それは別に、合意を意味しない。
恋人、夫婦ならOKでもない。セックスしたら愛が生まれるなんてわけもない。
それは全部、ポルノというフィクションのなかの妄想に過ぎない。
そういう意味ではアルコールや麻薬、タバコや賭博などのように、特定の祝祭的価値観を提供するものだといえるし? そりゃあ、ハマる人も出てくるよね。最古のポルノって、いったいどれくらいになるんだろうね?
なんであれフロムやスピノザの言葉を借りるなら、フロムの語るセックスについてさえ「受動的な感情を行使するときには、人は駆り立てられ、自分では気づいていない動機の僕である」、つまりしもべになっていると言える。
それこそ触れあうことによる合一体験と興奮を、酒や煙草のように欲しているのでは、と。
あるいは「セックスのできる自分」にならなければという強迫感によるしもべになっているのでは、と。
祝祭においては露骨になるよね。周囲に合わせないとならないという強迫感が伴うんだから。むしろそれが強制力になっている。
「恋人らしさ、愛情、関係性を証明する手段にはならないのにな」
そういうことじゃないんだけどな。
そのための方法がいまの私たちにはあんまりなくて困るよね。
キラリたちに話したら、私の負担がでかすぎるってカナタを批判する向きさえあるかもだし? そこまでするのと私を批判する向きだってあるかも。もっといろんな批判点がありそうだ。
実際、私もカナタも溺れながら、沈みながら、ぎこちなく進んでいる。何度も止まりながら。
ただ、そのなかで、私たちは精いっぱい与えあっているし?
フロムやマルクスが言うほど、直ちに「愛」が生まれるんじゃないし、育つわけでもない。
お米作りが種をまいてから、すんごく時間と手間をかけて、何か月もしないとできないし、出来がわからないみたいにね。地道なんだ。ひどくさ。
だからそりゃあ、小楠ちゃん先輩みたいに「それでも進むのか迷う」ことだってある。
愛生先輩がラビ先輩を振ったように、別れることだってある。
愛生先輩とルルコ先輩みたいにお互いがお互いにとって絶対に大事だし切り離せないけど、その距離感はよくある関係性にあてはめて苦しむくらいなら、いまのありのままをじっくりとっていう選択肢もあるし? そのあたりはシロくんとギンにも共通して言えるのかなって気がしてる。
うまくいくから、結果が出せるから、それで愛するんじゃない。だけど、あんまりしんどいと、繋がれないと、しくじるばかりだと、不満が育ちすぎると、そもそも続けられない。
ここまでがんばったんだからと手放せない、別れない、認めないし許さない人もいてさ?
ほんと、むずかしいよね。
大人になったら、それこそ、こどもを持つことが状況を変える手段だと信じた人も大勢いたろうし?
いまはもう、そんな時代じゃなくなってきてる。主には金銭的な意味で。他に、個別に様々に。
早い話、みんな惑い、迷い、ぼちぼちやっては、まあまあやらかしてる。
それこそフロムの言うように人間的な成長・発達が必要不可欠だけど、それには社会的支援・社会的資源・関係性・環境といった依存が膨大に必要になるし? それらが万人に十分にある現実はあまりにも遠く、夢物語に等しい。目指す価値があるし、目指さないと後退するばかりで、実際に日本はあらゆる面でだいぶえげつない状況になっている。
それでも、まず、生きているので。
みんなの力を借りながら、自分にできないことを頼れるようになりながら、頼られたときに応じられるように備えながら、ぼちぼちやっていくほかにない。
そんなわけで、私たちの愛する力はたぶん、そこまで、十分じゃない。
それでもなお、与えていくことで表現していくのなら?
どんな人生を望み、具体的行動をもって表現するのか。
なによりもまず、そこが私の基礎になる。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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