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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千八百七話

 



 島の通りにあるお店で買ってきたというケーキ八種を選びながら話を聞く。

 カナタの悩みは要領を得ないもので、ちゃんと内容を把握するのにすごく時間と手間が必要だった。

 それも仕方のないことだった。

 なにせ話している本人がよくわかってないんだから!

 もやもやを掴み取るのはむずかしいのだ。

 こういうときは言い方が下手でも、言葉選びのチョイスが最悪でもなんでもいいから、とにかく出しちゃうのが吉。なにきっかけで思い至ったのかからさかのぼるのもいい。

 要するに、どこかにものをなくしたときの探し方に似ている。

 ルールの策定が大事。

 失言について突っ込みはなし。

 とにかく思いついた端から言う。

 ちなみに失言によっては怒っちゃいそうなら「紙に書いて」「メッセージで打ち込んで」、「言ったらまずそうなのは除外して」みたいなルールを別で設けるのがいい。回避策は大事。

 まあ、どう足掻いても「カチッ!」とくるようなことは避けられない!

 そして実際、確認してみると、まあ出てくる出てくる。カチンとくることが!

 ぐっと堪えて話を聞く。

 徹底的に聞くことのむずかしさを散々あじわって、とことん聞いてみると、どうやらこういうことだ。


「助けたいけど助けられてない。刀鍛冶として付き添ってきたのに気づけてないことが多すぎて申し訳ない。自分には手に負えないくらいの状況に陥っている私に怯んじゃう、と」

「うん」


 うんじゃないんだよ?

 ユウリ先輩に心配されたり、光葉先輩たちに相談したり、いろいろあったみたいだ。

 まあ、でも、それはカナタのコミュニティだから。私に都合よくあれ、なんて言えない。それは無理。

 だいたいカナタにはカナタの居場所がいっぱいあるほうがいいんだ。私もそうであるように。

 だから「カチン!」箇所ではあるけど、自分をなだめる。どうどう。落ち着け。

 ほんとさあ。

 うんじゃないんだよ?

 だけど、うんになるよね。


「俺はもう、なにがなにやら、どれをどうしたらって感じでさ」


 ほんとに素直になったなあ。

 去年、私を含めた後輩たちをひとまとめに「腹芸できないしなあ」なんてドヤっていたカナタさんに見せたいくらいだよ? 見せようがないけど。

 それからもぽつぽつと、光葉先輩たちと話した内容を具体的にさらってみたり、小楠ちゃん先輩とラビ先輩の近況が相も変わらず進展のないキワキワな状態だったり、ユウリ先輩とエマ先輩が生理がこなくてビビり散らかしていた話だったり、いろいろ聞く。

 右往左往する話の聞き手になりながら、のんびりケーキを楽しむ。

 河合隼雄の本に触れると、聞くにもいろんなやり方があるのだと知る。だけど不得手な手段をいきなりここで試すほど私は聞くが上手じゃないから、おとなしく王道でいく。

 評価せず。

 助言せず。

 誘導せず。

 相づちを打ち。

 時折、相手の話の単語を用いて確認する。

 さえぎらないし、自分の話をはじめない。

 ただ思考はそうもいかない。

 私なら、という答えは浮かぶ。

 なぜカナタが迷うのか、私なりの考えもある。

 でも悩みや相談って、相手に答えを出してもらうことじゃない。

 あなたにどうこうしろって言うものじゃあない。

 無責任になっちゃうからね。

 それに聞いたことがすべてじゃないからさ?

 わかんないんだよね。

 わかんないのに、適当なことは言えないじゃない?

 だから悩みや相談って、答えを出してもらうことじゃないし、言ってもらうことじゃない。

 せいぜい自分の考えをお披露目するお題目に、相談や悩みを消費しているに過ぎない。

 まあ、そういうコンテンツは世の中にごまんとあるけどさ!


「――……」


 カナタの話に耳を傾けながら思う。

 だって、ほら。きみがよくわからなくなってるのは、私次第なことをゴールにしてるからだしさ?

 私にだってどうにもできない、答えもなければ解決もできないことを前提にできてないしさ。

 そもそも見失ってるんだ。

 きみ自身がどうしたいのか、なにが必要で、それはなぜか。

 どうして見つからないのかってさ?

 自分を主語に語れてないから。

 ぜんぶ、自分に刺さる。

 そう。自分を主語に語れない。意欲も願望も。なにもかも。

 義務感や、そうあるべき願いやなんだで語るほど、自分が紛れていく。隠れていく。

 潜んだ自分の責任は、潜んだぶんだけ、だれかに押し流されていく。いや。委ねていくんだ。押しつけていく。

 予定通りの時間に起きれなかったことをお母さんやお父さんのせいにするみたいに。

 スターウォーズのオビワンがアナキンに「選ばれたひとりだったのに!」っていうときくらい、無理だ。

 私たちは自分のことでさえ、満足に行えないことだらけなのだから。

 あなたはどうしたいの?

 それはなぜ?

 どうして?

 問えるとしたら、自分が、自分に対して。

 なにせ他者からすると、それがその人にとっていつ、どういう形がいいのか見当もつかないんだもの。

 私を好きだから。好きなら。

 それをもとに「こう考えて」「こう感じて」「こう言って」「こう行って」と私はやまほど思う。カナタも私に対して、そうなることがいっぱいあるだろう。

 だけどそれが、かちんとはまらない。

 信じていても、信じられない領域も抱えているのが人だしさ?

 好きだけで全部をぶっ飛ばせはしないほど、実は世の中、しんどいことがあるものだから。

 でも、そこを曲げてでも「好きなら」「信じているなら」、ちゃんとこうして、と思いたくなるのも人情でさ?

 そのあたりの厄介さ、複雑さが、私にしゃべらせたがる。

 感情を、苛立ちをぶつけたがる。

 なのにそれじゃあカナタが動けないことが見えている。

 なぜって?

 それじゃあ私がどうにもできないと痛感しちゃっているからだ。

 なによりね?

 いまは、それをしなくていいんだと思えているから。留まれているから。

 無理になるときも、いつかくるかもしれない。

 ぶつけずにはいられない。どうにかしてくれ。好きなら。大事なら。せめてわかって。信じて。「***」をして。

 そうぶつけずにはいられなくなったり、思いどおりにならない相手に見切りをつけたり、それがもうたまらなく痛かったりつらかったりめげたりするような、そんなときがいつかくるかもしれない。

 人と関わるのはもう、とことん、思いどおりにいかないものだから。

 いまは幸い、聞いていられる。お互いに。

 なので、とことん聞きながら、それでも思わずにはいられない。

 思いどおりにならなさと、自分で付き合わなきゃいけない。

 それがたとえば、私にとってのカナタやぷちたち、お姉ちゃんやキラリとかだったときにも。仕事の今後を左右する売り上げとか、ライブの空席とか、そういうものにもね。

 一生、ずっと。

 自分の思い描く物語や価値じゃ、他人はどうにもならない。

 支配を試みる人は少なからずいる。共同体や国のように規模感が増すほど、支配の度合いは深刻になりやすくなる。

 だれかの答えはだれかのなかに留まり、なんの支配も行えないものだ。そう規範に置いておけているときはいいけれど、それさえ満足にいかない環境と体験だって、人によってはやまほどある。

 ベッセルの著書では戦争体験、性虐待などの生存者たちが、まさにその生きた実例になる。

 幼少期でいえば、虐待や養育放棄だけじゃない。身内の死去、自殺なども含まれる。ドラマ「ホームランド」をはじめ刑事ドラマなどで何度か扱っていたような、事情があって「家を捨てる」ような体験もそうだし? 転居、それも度重なるほど深刻さを増す。

 青年期以降でいえば学校や会社、仕事先でのいじめもとい加害に遭ったり、職を失ったりするのだって、十分、深刻な体験になる。

 支配があり、そこに適応しなきゃいけないような。

 あるいは、自分の願望や意欲を自分のものとして、主語を自分のままに抱えていられないような、抱えていたら壊れてしまうような、そういう体験だって、人によってはあるわけでさ?

 その点、カナタも私も、それぞれに、別々に、厄介さを抱えている。

 あなたをどれほど好きで、愛していても、主語にできなかったり、語れなかったり、どうしていいかわからなくなったりすることって、ある。

 信じたくても信じたくても、そうできたらどんなにいいかと思っていても、それがどうしてもできないような、そんな体験で壊れたまんまになってることって、ある。

 当たり前じゃない。

 小楠ちゃん先輩は、まだ、ラビ先輩とどう生きるのか決めあぐねているみたいだ。

 付き合い続けるのか、それとも別れるのか。

 むずかしいよね。

 だってラビ先輩は私やカナタとはまたちがう形で、てんでそのへん、できないみたいだし。

 小楠ちゃん先輩はむしろ、そのあたり「私のために自分でやってくれ」って求めずにはいられない人に見える。少なくとも、ラビ先輩には。そう求めずにはいられないように見えるんだ。

 ほんとのところはどうかなんて、わからないけどね。

 私も、カナタも、お互いに向けても、どうしたものかなあって悩む。

 私たちがお互いを主語にして、自分を語れるようになるために、こつこつと成長・発達を目指して行っていけるのか。それともついつい「これくらいやってよ」と苛立ってしまうのか。荒ぶるまえに、今日のカナタが話してくれたように、そしていまの私が聞いているように、お互いに話し合えるだろうか。聞いてもらえるだろうか。

 それさえ、むずかしいんだ。

 ふたりきり、集中したい。

 だけどユウリ先輩みたいに心配して声をかけてくる人もいればね? それこそカナタが女性を、私が男性を頼って妙な三角関係になってお互いを刺激したり、あるいは第三者が関わってきて厄介な状態になったりすることだってある。

 自衛のために「相手以外の人がいる」って、そういうことだってあるしさ?

 もうほんと、ままならない。

 ただね?

 答えがあるんじゃない。

 答えに合わせるためにどうこうするって、そういう話じゃないんだよ。

 結局のところ、とことん、求められるのは「私はどうしたいか」だ。みんな、それぞれの。

 そして「私にはなにができないか、わからないか」だし「できないしわからないけど、どうするか」だ。

 ふたり以上なら、みんなそれぞれの「できる・できない」「わかる・わからない」はもちろんのこと、それ以上に「どうしたいか・なにをしたくないか」が鍵になる。

 だから本当のところは「主語を自分のままに」して、それらがわかるのが、望ましい。

 ここまで繰り返し述べてきたように、それを「だれもがいつでもどこでもどんなときでもできる」わけじゃない。

 すごいよね。

 むしろ関係が続くことって奇跡まであるよ。

 だけど実際は奇跡でもなんでもなく、私たちが意思と意欲をもって維持に取りかかる地道な積み重ねによって成り立っているし? それが惰性でできてるだけの関係だとしても、十分すごい。

 どんな誓いを立てたって離婚する夫婦はやまほどいるのだ。

 まあ、むずかしいよね。実際。

 主語を自分のままにすることのむずかしさは他にもある。

 すこしだけ触れたけど、自分の責任を明確にしている。

 たとえばそれは、私にしてみれば「あの野郎に呼び止められなかったら」「八尾を部屋に入れなかったら」「親に相談しておいたなら」と、そう思わずにはいられない。

 もしその選択が私を苦しめたのではなくて、トウヤの一生を狂わせて死なせてしまうような結果を導いていたら? 八尾の影響にトウヤが耐えられずに自死していたら?

 たとえうちの親が私をどんなにか大事にしたとしても、私は自分を責めるだろう。

 逆に親が私を責めたとしたら? 自分を責める度合いがより深刻になったとしても不思議じゃない。

 でね?

 まさにここに肝がある。

 責任を明確にしているようで、本当はちがうのだ。

 私たちは自分の責任がどうあって、どういうものなのかも知らずに、好き勝手に設定できてしまえる。

 責任の境界線を持てないまま、いくらでも自分かだれかやなにかを際限なく責めてしまえる。

 責めるのは気持ちがよくて、わかりやすい。

 だけど、そのせいで責任という術を無駄かついたずらに、おまけに辛辣に振るってしまう。

 そして責めることが目的化しちゃうし?

 自分を主語に語ることの的がどんどん外れて、歪になってしまう。

 シュウさんはサクラさんを失って、カナタを責めたし、自分を苛んだ。ソウイチさんには当たれなかった。おかげでカナタはさ? ふたりぶんの責めを抱えて生きてきたんだよね。

 みんなそれぞれに、いろいろ抱えていて、それぞれに生きるのが本当にたいへんだ。

 去年のクラスを振り返っても、シロくんはギンに、ギンはシロくんに、羨んで、妬んで、傷ついて、責めを抱えて生きていた。私は知らないけど、ノンちゃんだってそのあたりなにかを抱えているからこそギンを必死に求めていたし? トモにしたって、そういうのがあるからこそ、刀を求め、走りつづけてきたんだ。

 でもそれは、比較して責めるためのものじゃない。

 それはそれ! だれかはだれか! 私は私! 別なんだよね。

 なのに主語を失うと、それがわからなくなる。

 そして主語を持てなくなると、ますます見失ってしまう。

 でね?

 なにが悲劇ってさ。

 いまのカナタみたいに、そしてここ最近の私みたいに見つけられなくなっちゃうんだ。

 自分はどうしたいのか。

 どう思っているのか。どう感じたのか。

 それを、どれくらい大事にしたいのか。

 せっかく見つけても、すぐに忘れてしまうんだ。

 とても大事なことでさえもね。

 具体的な自覚があるから、私はシュウさんのことさえ責められない。

 カナタのこともだ。

 そして、知らない人のことも責められない。

 どういう経緯を経て、どういう状態にあって、どう生きるのかも、そうそう思いどおりにはならないことを痛感しているからね。

 彼が質問してほしくなるまで。なにか声をかけてほしそうにするまで。ひたすらに、待つ。

 それにね? 結局のところ、そのときが来たってやっぱり、私は尋ねることはあっても、答えることはしない。

 悩みや相談は、それを語る人の旅なのだと思う。

 旅立った冒険者に「ここがゴールだ」「そんな装備じゃだめだ。いいか?」と、延々と持論を語る人がいたら、うんざりしてしまう。冒険者の歩みがどれほど迷走したものだとしても、隣やすこし後ろをついていくくらいがいい。

 私ならね。

 おかげで、カナタの旅路に寄り添うことで、やまほどの刺激が生まれては、私がなにをどう望んでいるのか訴えてくる。

 ヒヨリたちに語って試してみせたのがエロスなら、これはアガペー。

 人の心のうちに宿るもの。自然に息づいているもの。

 なのにひとりでは見つけられない、刺激からの反応で出会えるもの。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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