第二千八百四話
置き場所がないのでお父さんの書斎を借りて刀たちを置いておく。
その道中にいくつか思い浮かんだことがある。
ひとつ。刀のようにこどもたちを出せないか。
ふたつ。獣憑きや妖怪なら、彼らをそのまま出せないか。
みっつ。しかし場合によっては悲惨な姿で出てこないか。
よっつ。そもそも姿を失っている魂もいるのではないか。
いつつ。場合によっては私には御しきれない怪物を出すことにならないか。
むっつ。彼らを出すことで私は力を失う可能性が高い。
ななつ。仮に活動可能な状態で魂たちを外に出せたとして、ぷちたちのようなことになるのでは。つまり生活のあらゆる支援が必要不可欠になるのでは。応じられる余力もないのに。
やっつ。そもそも彼らを出したのちに彼らを直視する勇気を維持できるのか。
まだまだあるけど、ここらへんの悩みを踏まえるとあまり積極的になれない。
戦争や災害の写真を見る、なんて比じゃないもの。東日本大震災のとき、福島の原子力発電所で起きたことをモチーフに描いたドラマ「THE DAYS」。当時の民主党政権がダメージコントロールに奔走していた。当時は大騒動だったけど、でも、メディアが批判できる状態にあって、おまけに真っ当に運用されていた。危機対応能力は十分に発揮された。当時のなかで、最善は尽くされたという印象だ。もっともメディアの批判できる状態は、ともすれば中傷やバッシングに留まっているものもあった印象があるけど。いまよりは、報道の自由があった。
話を戻して「THE DAYS」のEP4では1999年の臨界事故が取り上げられる。可能なかぎりの尺を割いてね。「茨城県ウラン加工工場臨界事故に関する調査委員会報告書」だ。それは9月30日に起きた。別名、東海村JCO臨界事故。住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設で発生した原子力事故である。作業員二名が死亡、一名が重傷。さらに667名もの被爆者を出した。
さらに原子力百科事典ATOMICAによると、半径350メートル圏内の避難および半径10キロメートル圏内の屋内退避措置が取られて、約31万人に影響が出たという。
ドラマのEP4では、まさに被曝した人の腕の変化を捉えた資料を閲覧する場面と、被爆者を訪れるシーンが描かれる。資料においては被曝した人の腕から先に水疱のようなものができて、それが被曝した日数が経過するほど増加、拡大していく。さらには壊死していく様子が、描かれる。個人的にはナレーションを入れてでも、写真の横に記述されている具体的な記述が読みあげられてほしいと願ったところだ。
被爆者を訪ねるシーンでは資料を眺めていた人が若返り、ごついカメラを携えて「無菌室1」と書かれた部屋に入る。分厚いビニールカーテン越しに、彼はおののき恐れた顔で強ばる。見開いた視線は微動だにせず、テープ越しに看護師が寄り添う被爆者が見える。包帯でぐるぐるに巻かれていた。かと思ったら包帯ではなく、分厚いガーゼだ。看護師がピンセットで左太股の付け根から摘まみ、持ち上げると被爆者が喉を鳴らしてうめく。低くかすれた声にならない声をあげる。
ガーゼを取ると、皮膚がただれて茶褐色にくすんだ太股が露出する。血が滲んでいる箇所もまばらにあり、ひどくえぐれるような擦り傷を、何倍も悪化させたような有様だ。トウヤが小学生時代にサッカーの練習をしてこけて傷を作ったことがあるけれど、比べものにならないほどにひどい。しかも傷の終わりがない。境目がない。露出した太股のすべてが悲惨な状態だ。
看護師さんがガーゼをトレイに受けて、立ち去っていく。
そこでやってきた人が横にずれるんだけどね? シーンが切りかわって、ベッドに横たわる被爆者の胸から上が映る。髪の毛がない。顔中から血が滲んでいる。うめき声をあげながら顔を横に背けると、目から血が流れ落ちていく。涙のように。唇は腫れていて黒ずんで見えた。口の中もひょっとしたら深刻な状態にあったのかもしれない。
そこで過去回想が終わる。被曝後80日目に死亡した、というページの文章をカメラで寄せて捉えるのだ。この報告書を作ったのは、読んでいた人。被曝した人の腕の写真を撮り、掲載したのもね。
油断したり杜撰だったりすると、もう、それだけで深刻な事態を引き起こす。
ドラマのチェルノブイリで取り上げていたように想定から外したり、混乱から抜け出せずに不十分なマニュアルを活用したり、そもそも安全対策用の装置が働かなかったりするだけで? 手に負えないことになる。
その手の事件や人災は世界中で起きている。
なにも学ばず、なにも備えずに「やっちゃえ」とはいかない。
いかないのである!
でも、やっちゃったほうが早い気がしてる。
その先?
考えてない!
「だめだよなあ」
刀を移動し終えてひと息つくべく、お湯を沸かしながら唸る。
お互いにだけど、私もマリさんも信用しきれない。
まだ、ね。
それをするために確認するべきことが必要なんだけど、確認事項が多すぎるから困る。
整理もついてない。たくさんあるはずだってことはわかるんだけど、そりゃいったいなにさ? ってなるくらいだ。
例えるなら、ぷちたちがおもちゃをめちゃくちゃに散らかしたうえに、お菓子を食べ散らかしてゴミもほったらかしみたいな状態を、一ヵ月くらいほったらかしたようなもの。
片づけしなきゃいけない。それはわかる。でも、どこから手をつける? いったいここにどれだけのゴミがあるんだ? みたいな感覚。
圧倒されている。
「黒いのが置いてった秘宝くらい、散らかってるよ」
だれも片づけない。まとめない。整理しない。
魂たちと捉えるのなら、彼らが居心地がいいような社会的支援・社会的資源・関係性・環境を整えたり提供したりしない。
アメリカの心理学者アダム・グラントの「GIVE & TAKE」を軸に、やたらと「ギバー」「テイカー」を使う人が増えている。
残念ながら人はそうたやすくふたつに分けられるものではない。人は「与える」「受けとる」ことを繰り返しているし、多層的であって、どちらかだけなんていうことはない。まったくね。おまけにナンセンスだ。そういう意味でかなり危うくて抽象的な、おまけに便利すぎる捉え方だから、ずいぶんと問題があるなあと思う。反面で「そりゃ受けるなあ」とも思うんだけど。
私たちは「自分で選ばず」に生まれてくる。
これを「命を与えられた」と読み取ることもできれば「この世に生まれたことで受けるあらゆる労苦を受けとる命を与えられた」と読み取ることもできる。
ぶっちゃけ、主観による。
物語りかたや情報によって、簡単に変わってしまう。
その程度の話だからね。
私は正直、かなり眉唾で見てる。
アダム・グラントその人よりも「ギバー」「テイカー」として「評価」したがる人たちを。
ただ「GIVE」や「TAKE」とは別に、人はそもそも必要としているという視点の再確認にはなったかな。
私たちは「自分で選ばず、選べず」に生まれてくる。
生物学上の親となる人物ふたりが望んだかどうかも、実はかなり場合によるし? そもそも選んだかどうかよりもまず「性行為の結果、卵子が精子によって受精して、着床し、母体内で細胞分裂を経て、なんの外科的処置も受けないままに成長・発達し、ついに子宮から膣を通りぬけて母体から出る」のであって「それが合意による性行為かどうか」なんて関係ない。
そこに愛があるか、合意があるかは、また別だ。
親子関係が醸成されていたとして、そこに血がどれほど関係あるかはまた別だしさ? それとは別に父親がちがう、なんてことも起こりえるのが世の中で、それはそれだし。
もうとにかく、あれこれ、別。分けて考えないとね。
あとは自分がなぜ、そう考えたいのかを批判的に捉えられないとね?
「評価」するなら、そう「評価」する自分について批判的でなきゃ嘘だ。
行うなら、その行いに対する予防措置だなんだが欠かせない。
包丁の危うさ、火や油の怖さを知らなかったら? 料理を任せられないし、しないで済むならそのほうがいい。練習して、お勉強してからにしよって私なら言う。それどころじゃない状況もやまほどあるから、そんなの万能でもなんでもないけどさ。
基礎固めがいる。
「基礎ね」
私の基礎はなんだろうか。
私の中に注がれた八尾、そして八尾に注がれた彼らの魂が穏やかにいられる状態になることだろうか。
いったい、どのような状態を指し示すのだろう。
私の心身の健康?
それは私の健康であって、彼らの健康ではないのでは。
地球がどんなに健康でも、そこで生きる生き物も健康かっていったら、別じゃん。ね?
場合による! 親が世話をやめて瀕死な赤ちゃんやこどもの動物もたくさんいるし、人間にもいるし。
アンジーが監督した「最初に父が殺された」ではカンボジアのクメール・ルージュが大虐殺を行ったけれど、国を掌握した人々がその気になれば国民はどんどん苦境に置かれ、文字どおり殺されることだってある。
八尾や魂たちをほったらかしていた私は世話を放棄していたに等しい。
それは結局やっぱり、よくない。
論理はさておき、私に資する状態にはならない。
ふと思いついて、お父さんの本棚を探る。古びた雑誌がぎゅぎゅっと集められているところから、適当に何冊か出してぺらぺらとめくり、三冊目にしてたどりついた。
いまとなっては公式サイトで済ませちゃいがちだけど、もちろん雑誌も出続けている。
でもって、そういうのにけっこうまとめられている。
仮面ライダーとか、ヒーロー戦隊たちの能力。身長、体重や、パワーなんかも武器や道具、必殺技の説明なんかと合わせてね。日焼けして色褪せただけじゃなくて、ページもけっこう傷んでいる。だから傷つけないように気をつけながら読んでみる。
あれができる、これができる。これくらいすごい、とか。数字が書いてあるけど、やたらに大きな数だったりとかしてさ? それなのに、たぶん小学校低学年の私でも「結局どういうこと?」ってなるくらい、よくわからなかったであろう内容たち。
ひとなみはずれたパワー! って書いてあったとして「それって具体的にどれくらい?」なんて疑問は、昔は持てなかった。持ってる子もいたんだろうけど、残念! 小学生時代は、それを話せるともだちが学校にはいなかった。お父さんに聞いても笑顔で「ちょうつよいんだよ」みたいなことを言うだけで役に立たなかったし。
オーバーテクノロジーがしれっと書いてあるのもポイント高い。初代仮面ライダー一号なんて、超小型の原子炉が体内に搭載されている。おまけに人工筋肉がついていて、原子炉とベルトの風車ダイナモとが連動して人工筋肉を強化、稼働させて、すごくつよくなる。
でもそれって、具体的にどういうこった?
わからん!
そんなこと言ったらトニーのナノテクスーツも、そもそも初期のスーツもよくわからん。なによりもアーク・リアクターがよくわからん! 小型の発電装置で、すさまじいエネルギーをほとんど永久的に生み出せる無茶苦茶すごいやつ、くらいしか理解できない。
動画の好きなチャンネルのひとつ「ゲームさんぽ」、新しめになると「ゲームさんぽよそ見」だと専門家がホストのゲームプレイを眺めながらあれこれ語る。それと同じように、トニーのスーツやアークリアクターなどが実現可能か物理学者が語る記事をWIREDが掲載しているけれど、そこでもアークリアクターの言及なし。まあ、仮面ライダー一号の超小型原子炉くらい「ううん」ってものなのでは。
逆に言うと一部のヒーローはすごいエネルギーを生み出す機構が必要だし、備えているとも言える。
作品の「魔法」の集約点だ。
バットマンはトニーたちほどの超科学じゃなく、ブルジョワな資産と趣味の凄腕開発者らによる製造、そしてそれらを携えて戦う尽きることのない意欲が肝になるけど、まあ、でもあえてバットマンの「魔法」を支えているのはなにか選ぶなら、ウェイン財団と技術力だよね。
いまだとあれかな。ザッカーバーグやイーロンがスーツを着て戦うみたいな? ないか。ないな。それならまだゲイツがボランティア活動を熱心にしている現状のほうがよっぽどリアリティがある。
閑話休題!
こども向けの解説にしたって、いまの私よりもずっと真面目に練られてる。
それが現実にない「魔法」頼りであろうとも、私たちはヒーローの力の内訳を練り、決めている。
もちろんそれは更新可能、間違いがあったら修正するものだし?
キックアスみたいに「自分がやると決めたからやる」みたいな意思と、地道な鍛錬とで成り立ってるみたいな例もある。でもって、それはそれで十分「魔法」だ。
もしも私が近所のビルの屋上で毎晩歌うような生活をしていたとして、その歌声が歌手だ歌い手だなんだにまったく結びつかず、お金にもならず、試してみたけど鳴かず飛ばずだったとして、それでも生活を続けたなら? それはもう、立派な「魔法」だ。残念ながら儲けに繋がらなかっただけでね。
残念ながら「魔法」だから特別だ、すごい、すばらしいってことにはならない。
製造開発者たちが「仕事を続けられる」という「魔法」を携えているから、悲惨な被害者が大勢出ているとも言える。ハリポタでいえばヴォルデモートたちだし、スターウォーズで言うならダークサイド。ただいい悪いに分類して終わりじゃないのが、現実の面倒なところだ。
だれが、なにを、どうやって、どのようにして、いつ、どこで、だれにやったのか。そのための具体的な手段は。そのときどのような社会的支援・社会的資源・関係性・環境があったのか。
問うべきことは他にもやまほどあるわけで?
なんであれ、定義と再確認がいる。批判もね。
現状のチェックをするなら、八尾も魂たちも、ずっとほったらかしてきた。
マリさんだけじゃなくて、私が呼びかけたら生える魂たちの一部にしたって「もっと主張したい」と、そのタイミングを虎視眈々と狙っている。待っている。渇望している。
エネルギーの発散場所もないし? 彼らに必要なものをあげられたり、整えられたりできていない。
だとしたら、いっそ「魔法」を作ってみる?
改めて、一から。
彼らと生きていくための「魔法」を。
大神狐モードとか金ぴかスターモードとか、霊衣とか、作り出したりもらったりしたのに活用できていないものもやまほどあるのだし?
ここらで私の基礎固めに勤しんでみますか!
その工程のなかで、彼らに必要な社会的支援・社会的資源・関係性・環境がなにかを探ってみよう。
基礎作りのなかで、それがどれくらいの段階にあるのかもわかるかもしれない。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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