第二千八百二話
特別があるんじゃない。
私たちが特別だと評価し、特別にして、特別を作り、特別を語っていく。
だから私たちは特別にあらゆることを託して、楽をする。手を抜く。
判断を早めたい。面倒だから。大量の情報を探り、調べ、よく学び、自らの立場を批判的に捉え、地道に行うのは。うんざりしちゃうから。それでなくても人生は忙しくて、しんどくて、つらくて、うんざりしちゃうから。
だから特別か、特別じゃないか評価を急ぐ。
発問、応答、評価。小学生、下手をすると幼稚園児や保育園児の頃からやってること。おうちによっては、もっと早いかもしれないね。
俗にIRE連鎖と呼ばれるものだ。
教師や親、先輩や講師、上司や取引先などが発問する。それに権力勾配の下位者が応答する。すると発問した上位者が評価をする。
これは恣意的なベクトルを取り上げた見方。
私とカナタがふたりでデートに行ったとき、カナタが選んだお店を私が評価する。ふたりで水族館に行ったときに私が発問する。見たいものや行きたい場所を。カナタが応答する。これに私が評価することもある。
勝手にこの連鎖を自分が内面化することもある。
アニメを見たり、漫画を読んだり、ドラマや映画を観たりしたとき。音楽を聴いたりライブに行ったりしたとき。勝手に自分の求める発問を見出して、勝手に評価する。よくあることだ。
実際には、もっと、いろんなバリエーションがある。
それに評価に繋げなくていいんだ。
発問、応答、それに応答、しばらくふたりで応答を繰り返したり、さらに発問したりしながら、話しこんだのちに「相手でも、自分でもなく、話の内容に対して評価」するみたいなケースもある。
感謝したり、楽しかったと時間についての感情を吐露したりしたっていい。
ただ、評価には権力勾配の影響が出やすいし?
そこには権威性が紛れ込みやすい。
なにより相手の、自分の話を「どう捉えたいか」「どう締めくくりたいか」などにおいて、一方的に決めやすい。
なので、けっこう問題がある。IRE連鎖。
まるごと否定するっていう形じゃなくね。
危ういところがあるっていう批判点が存在する。
だけど私たちは、その危うさを浴びながら成長・発達している。
これはもうほんと、つくづく、親、兄弟姉妹、親戚や祖父母、それに教師や講師や先輩などによる。
カナタはわかりやすい。シュウさんに逐一、評価されてきた。その結果、どうなった? 異様なコンプレックスと反発心を育てて、大暴れしてた。抑圧、支配と暴言のメニューはカナタを長らく傷つけ、苦しめてきた。幸いなのは、シュウさんから離れて自分らしくいられる場所が学校にめいっぱいあったこと、なのだろう。
ギンとシロくん。トモ、ノンちゃん。タツくんやレオくん。去年のクラスメイトになったみんな、ひとりひとり。いまのクラスメイト、ひとりひとり。クラスのちがう、ひとりひとり。
みんなちがう。
みんなちがう人たちを前に、教師は狙った授業をする。
至難の業、なんてものじゃない。
それはぷちたちと過ごしている私には、身に染みて、よくわかる。
だから使いたくなる。
便利なものを。みんなちがう現実に対処せずに、ひとまず授業を進められる方法を。
たとえそれが「授業についてこれない子」を出すとしても。「その子をずっとほったらかしにする」としても。「テストの点数がずっと赤点で、だから学習意欲がどんどん底をつき、卒業後は勉強に嫌気が差す」ようになるとしても。そんな子が、やがて親になって自分のこどもに勉強なんか無駄だと叩くようになるとしても。
そんなの、私の知ったことじゃない。
そう言いたくなる。
でね?
そこに罪悪感があるかぎり、できる子を「特別」にして、できない子を「特別じゃない」にして、扱ってしまいたくなる。
私のせいじゃない。
こどもたちの問題。もっといえば、こどもたちを取り巻く環境の問題。彼らの親の問題。
私のせいじゃない。
教師を取り巻く環境は本当に深刻なレベルでたいへんだという。
そんななかで、どうにか、よくやっているほうだ。
そう慰めたくなる。
ぷちたちを前にすると、私は、そんなことを思いたくなるときが正直ある。
そんなとき、目が追いかけるのは、捉えるのは、評価。
評価を物語るもの。評価にまつわる情報。評価の物語。
とことん、評価。評価。評価。
逃げられない。
それがいやになる。
いやな評価が怖い。だめな評価が怖い。どうにもできない、戻れない、失敗で、壊れて、台無しで、ろくでもない、そんな評価が怖い。ああ。怖い。
助けて。
そう求めずにはいられないのに、自分の目が探して、捉えるのは、評価。評価。評価。
沼にいる。はまってしまっている。気づけば腰から下が沈んでいて、沼の端っこはずいぶん遠く。
沼から出ている上半身は無事? まさか。沼の評価に汚れて、見るも無残な状態だ。
それくらい、まみれている。
評価。評価。評価。
だから考えたくなくなるし、目を背けたくなるし、地道なことなんかしたくなくなる。
やめたい。もう、やめたい。
なのに私たちは不思議なくらい、生きている。
やめられないからかもしれないけど、やめてないから、続けてる。
そういうことさえ、実は意外と抱えてる。
とっくに評価とは別に、当たり前に生きていることを忘れているだけ。
本当は頭にこびりつかせているだけ。捕らえているのは、自分自身。
他のだれかを気にせずにはいられない、自分自身。
評価は結局、手段に過ぎず、真に受けるものじゃないと心から思えて初めて、手段に変わる。
そのハードルの数、高さ、種類は人によってちがう。
でも私は声を大にして、意地でも言い続ける。
だいじょうぶだ、と。
なぜって?
評価はいつだって、批判をして、改善したり「これはちょおっと、しばらく答えも解決も見当たらないぞ?」と当たりをつけたり、そのうえで備えたり、ひとまずいまは別のことをがんばってみたりするために行う手段に過ぎない。
がんばれないとき、休める元気が、あらゆるものがいる。
もう立てないとき、立ち上がれなくなっちゃったとき、そのうえでどう生きるかを探るのは至難の業だから、自分を自分で苦しめないようにする術がいる。
それくらい、まず生きることに活用したり、いまはやめたりする手段に過ぎない。
振り回されるものじゃないし、振り回すものでもない。
今日のため、明日のため、自分のため、一緒にいる人のために行うものだ。
それくらいの中身がない評価なら?
あなたを沈める沼の中に、たくさんの足場がある。抜け出すための綱がめいっぱい伸びている。なによりも、あなたなら、そこから抜け出せる力がある。
だから、だいじょうぶだ、と。
私は声を大にして、言い続ける。
評価はあなたが生きることを止められるような、そんな大層なものじゃないのだと。
胸を張って、言い続ける。
そこまでできて、やっと、私たちは、だれかが本当の意味で、どう特別なのかを知る。
私たちがどう特別なのかに出会うんだ。
そう、心から思える。
だからこそ、風呂上がりに身体を拭いながら思案する。
「おおい、人面瘡やい」
脱衣所のもこもこマットのうえでバスタオルを髪に当てて水気を拭いながら、呼びかけてみた。
頬に、首に、鎖骨や胸に、肩や腕に、びっしりみっちりと唇が生えてきて、けたけたと笑う。
帯刀男子さまのときさえ呼びかけに応じてくれてたんだ。
無意識に霊子を活用して、生み出していた。
なら、この口たちだって。
そう思って呼びかけてみたけど、本当に出てきたよ。
それぞれがお風呂場で出てきたときとたいして変わらないことを個別に語る。
首を捻る。
「うるさいな。思ったよりも」
意思を統一することはないとしても、もうちょっとこう、合わせてくれてもいいんじゃないか。
それぞれがそれぞれにわあわあしゃべる。テーマが殺人予告だからろくなものじゃない。
語彙が豊富かっていうと、そんなこともない。
なのにそれぞれに好き勝手に思い思いにわあわあ言うので困る。
「ちょいちょい、待って。一度にわあわあ言われても困るってば」
そんなことを訴えても聞く耳を持たない。
でも、そりゃあそうか。
口しか生えてないもんな。
いや。そういう問題なのか?
気持ちの整理がついてなお、徐々に頭が痛くなってくる。
ただ気持ちの整理がついたからか、これまでよりもずっとマシだ。
「だれをやっつけたい、みたいなのはないの?」
問いかけてみたけど「あいつ」だの「おじさん」だの「ばばあ」だの「ちび野郎」だの、とにかく定まらない。おまけに名字や名前がひとつも出ない。特徴にも乏しい。
聖徳太子にでもならなきゃわからないくらい、連呼が止まらない。
ただ、まあ、どうやら「だれでもいい」わけではなさそうだ。
とにかくだれかを傷つけたい、みたいなことでもない。
私が聞き取れたかぎりではね! なかにはいるかもしれない。
それに、いま出ている口が私に注がれた魂ぜんぶの代弁者でもない。
「ひとまず解散! 戻って! 静かにして? 深夜なんだから」
口がわあわあしゃべりながらも、唇の開閉をゆっくりさせて閉じていく。
口のすべてがすぅっと消えて、元の私に戻るのを待つ。何度か振り返って、鏡越しに背中やお尻も確認。手でべたべた触ってだいじょうぶかチェックする。ひとまず問題なさそうだ。
ないんかい。
頭痛はまだ引かない。
慣れないことをしているから痛むのか。それとも彼らを呼び出しているからか。彼らの強烈な感情や体験が私の身体に影響を与えているからなのか。
わからない。
「参ったなあ」
評価には欠かせないものがある。
知識や技術、経緯や実態などだ。
言い換えれば?
評価もどきの偏見か、それともお互いに共有できて批判に耐えうる情報を持ち寄り解析・分析したうえでの評価か、分かれるのだ。
後者が重要。私たちが自分たちのために活用する評価という手段にはね。
そこで用いる情報は、それこそ論文発表のち批判に耐えうる強度が望ましい。
それってさ? 評価するには総括がいるってことだし。
総括を避けて、評価を曖昧で中途半端にさせる、なんて手段も世の中に存在するってことになる。
あんまり卑怯だけどさ。いるよ? なので、要注意。
自分もやりがちだよ? ますます要注意。
評価を行うのは、改善に繋げる手段になるからだけど、もちろんそれだけじゃない。
再現性を獲得できると強い。利便性が増す。共有できる強度が増すほどいい。
だれかのためだけの評価は、内向きにすればいい。
手段として活用するのはなんのためか、その目的はほしいね?
私には、マリさんや口について評価するだけの知識や技術などがない。
彼らの語りを評価するだけの情報もない。あまりにも足りなすぎる。
「平塚さんに会っているときに出したら、なにか反応するかな?」
彼もあの男のように生存者のひとりなのだから。
もしかすると、私の中に注がれた魂のなかに関係者がいるかも?
わかんないけど。
試してみないとわからないから、明日やってみるか。
そう決めて、せっせと身体を拭く。
ひととおり水気を拭ってから、ふと思いついた。
「耳よ、出ろ!」
右手を鏡に突きつけて唱えてみたら、身体中から右耳、左耳がわしゃわしゃと生えてくる。
ラストオブアスの冬虫夏草でできあがるゾンビみたいだ。
「きもっ」
見た目があまりに気色悪いので、ついつい目を細める。
直視に堪えないよ? 全身耳だらけは!
なにせ耳なので能動的に動かないので、そこはマシかな。
恐る恐る目を開けて観察してみる。口にはあまり特徴の差異が見当たらなかった。耳も同じだ。大きさ、形、耳たぶのサイズに至るまで、そう変わらない。同じものかもしれないまである。
ただ、そんな人間の耳だらけの中で目立つものもあった。
獣耳がしばしば混じっていた。それに肌色じゃない色の尖った耳などもあった。妖怪のものだろうか。やたらに耳たぶが大きくて、ぶらぶらと揺れている。
獣耳にしたって毛の色が様々だ。白や黒、茶色や焦げ茶色。垂れ耳なんかもある。ひょっとすると犬や猫のものだろうか。狸や狐も混じっているのかな。他の獣もいたりして? 象の耳くらい目立つものは生えてこないけど。中にはいるのだろうか。やだ、怖い。あと背中から生やしたら、シュールな妖精さんみたいな見た目にならないかな?
なっても困るかな!
とりあえず耳のみなさんにはお引き取り願う。
「おおぅ」
彼らの対応力には恐れ入る。
この調子だと、顔や手、指、腕、足、その他もろもろ、願えばなんでも出してくれそうだ。
出したいかっていうと、ううん。
正直、あんまり、いやかなあ。気が進まないよね!
ただ親指を出してもらって、指紋をとるくらいのことはできそう。
比較できるデータベースがあるとは思わないけどね! 漫画じゃあるまいし! 国民の指紋データ管理なんてしてないでしょ。
それでも、私から生やした指に一致する指紋がどれだけあるか、どれだけ差異があるか、そもそもまともな指紋がとれるのかはわかりそうだ。
地道にやるしかないかな。このへんは。
そこで、ふと疑問に思う。
「男女比って、どんなもんなんじゃろ」
やばい。落ち着け?
こいつは、禁断の思いつきだ!
なにとは言わないよ? 言わないけれども!
身体から生えるの、ぜったい無理だし? 気持ち悪いし! お風呂に入ったくらいじゃどうにもならないよ? 生理的なぞっとした感は洗い流せないよ!
だと、して、も。
「ど、ど、どうなるんだろ」
やめとけやめとけ!
自分にそう言い聞かせながらも、ド深夜の思いつきだけに、ちょっと楽しそうなのが困る。
これくらいしょうもないこと思いつけるから、笑っとけ。
ちなみに男女差を本当に知りたいなら「男子のみなさん、右手の親指出して」「女子のみなさん、左手の小指出して」みたいにお願いすればいい。
えげつないことしなくていいのである。
すると?
ひとりひとり、顔を出してもらうことも可能かもしれない。
お腹あたりがいいかな。出すなら。水着がいるな。
そういう問題じゃない?
まあいいじゃない。
どうせ出ちゃうし、出せちゃうなら、うまく使ってこ!
前向きに!
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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