第二千八百話
ひどくうなされたような気がして飛び起きた。
自分の部屋にいる。ぷちたちもいる。お姉ちゃんも。なぜかコバトちゃんやトモも。
お世辞にも広いとは言えない部屋に布団を敷き詰めて、なんとかして寝ている。
これは、あれか?
またしても、すごく心配をかけた? かけたよなあ。
気づけば部屋。倒れたんだ、私は。おまけにぷちたちが寝ているってことは、もう夜。
爆睡じゃん。
机を見ると、八尾の二頭身粘土人形が鎮座している。
持ってきてくれたんだ。マドカたちに感謝しないと。
私にひっついてるぷちたちを移すべく、金魚マシンを出して、そっと移していく。
それから痺れた手足をさすった。ぷちたちが乗っかっていると、それだけで感覚がマヒする。
もたつきながら一階に降りた。和室の扉が薄く開いていて、カナタやラビ先輩、ユウリ先輩がいびきを掻いて寝ている。他にもいるかもしれない。千客万来か?
リビングを経由してキッチンへ。コップに水を注いで飲んだ。
キンキンに冷えている。宝島の水道の水は妙に冷たい。刺すような痛みの次に、水が通り抜けた場所がぎゅっと萎んだような息苦しさがあった。
だっていうのに、お腹が空いている。未だ痺れたままの腕をさすりながら考えた。
なにを食べようか。
冷蔵庫を覗くと、ろくなものが残っていない。シンクは綺麗に片づいている。食洗機を確認したら、食器が片づけられていなかった。昨夜はお楽しみだったわけか。
冷凍庫にネギのみじん切りが残っていた。キャベツの千切りも。あとはすこしだけ、豚バラカットやチーズがある。
冷蔵庫にはウインナーがちょこっとだけ。
シンクの上の棚を開けると小麦粉や片栗粉が残っている。カナタが持ち込んだそば粉もあったけど、そっちはパス。でもそば粉で思いついた。やきそばの麺が残ってた。
「お好み焼きでいこう。広島風がいい」
材料を出していく。天かすもある。カナタが切らさない。そばに関するものは絶対にね。
変な人だ。いまさらだけど。
作業をせっせと進めながら思案する。
「特別だったら、なんとかできたのかな」
倒れる前に聞こえたノイズはもう聞こえない。
だけど、あれは瞬間的に生じた情緒的・身体的反応にちがいない。
私を苛むもの。自分自身の劇的な反応。
あるいは、みんなの反応?
「もっと特別だったら」
私はちがった。
みんなに支えてもらって成り立っている、ただの人間だった。
別にそれはそれでいいんだ。
問題なのは、そこじゃなくて。
連中は特別を求めている。
いや。きっと、みんなそうなんだ。
特別になりたい。特別を手に入れたい。
そしたらやっと、私たちは自由になれる。
システムやサービス扱いされることがなくなる。だれかの一部にならなきゃいけない窮屈さから解放される。救われる。
なによりも。
みんなを自由にできる。
「結局、それくらいのものなんだよな」
特別なんて。
森羅万象すべてを思いどおりにしたいっていう、幼い欲求を叶えるための力がほしいだけ。
どんなお題目を掲げてみせたって、結局やっぱり、わがままになりたいだけ。わがままでいたいだけ。
でも、そりゃあ、そうなりたいよね。
必要だもの。みんなの力が。いろんな依存先が。
なのに必要が満たされないばかりか、必要を満たすために求められること、うまくいかないことが多すぎるし、奪われたり傷つけられたりすることだってしょっちゅうだしさ?
楽になりたいよ。
なれないけどね。
みんながいて、みんなといられることがチート。
私にとっては。
学んでみればみるほど、それはある程度自然に獲得できるのが望ましいと実感する。
一方で共同体との接続は当たり前ではない。
就職氷河期なんていうけれど、それよりももっと深刻なものがある。日本は長らく組合や団体を弱体化させる方向性へと突き進んでいる。
みんなを弱めてる。
目立つ形で旗頭になっているのは「富める者が富み、勝てる者が勝てればよい」と考える人たち。
それは公と相反する概念だ。みんなを私に切りわけて、弱めて、資本でぶったたけるようにする道筋だ。そんなの別にいまに始まったことじゃないけどさ。
そういう情勢下では競争社会も悪い意味で作用する。
競争すればよりよくなる、なんていうのは幻想に過ぎない。
そんななかでみんなして、自分が楽になれるわがまま権利を求めている。
歪んでる。ずれてる。
だけど、そんな水の中で暮らす私たちは、水質のまずさがわからない。
だって、それが当たり前なんだから。
高校に入るとき、御霊を宿せると知ったとき、いや。去年を通して私は特別を願ってた。
中学のキラリを見たときに感じた特別だってそうだ。
それがあれば、理想的に生きられるのに。叶えられるのに。満たされるし、満たせるのに。
だけど、それはひとりぼっちになっていく道だしさ?
そのために周囲を消費して、利用して、しゃぶりつくす道だ。
ろくなもんじゃない。
それを欲している連中がいる。そのためなら人を何人犠牲にしようが構わないっていう連中が。
連中について考えた瞬間、ノイズが聞こえて私は倒れたんだ。
いまはだいじょうぶ。焼きそば用の麺を炒めて漂う匂いにあふれる食欲が刺激されているから。お腹が空いて空いてしょうがないから? わからないけど、ひとまずいまは、だいじょうぶ。
広島のお好み焼きといえば、みっちゃんがおいしい。
いつも行列ができて、なかなか入ることのできないお店だと教えてもらったことがある。
だけど、そのみっちゃんが作り方を動画で配信しているので、助けてもらう。
イカフライの駄菓子を使うそうで、お菓子棚をチェック。あったあった。お父さんが酒のつまみに買っておいたやつだ。たぶん。もらっちゃおう。
「そんなものはない」
なくていい。
少なくとも犠牲者を出しながら作り出すようなものじゃない。
そんなことを伝えて止まるようなら苦労はしない。
ピケティとサンデルが対談している本では市場に抱く幻想について触れられていた。
それは言うなれば、信仰だ。
市場での勝利は「必然的に淘汰の結果となり、優れたもののみが選ばれる」という。
まやかしだ。
私たちがそう願い、そう振る舞っているに過ぎない。
でも、それで十分なのだ。私たちがそう扱うかぎりは、市場の選別の結果が優劣を示す。
市場での勝利を目指せばよく、それによって私たちは曖昧さから逃れることができる。
なにが特別なのか、その指標を見出して、依存することができる。
まやかしも、みんなが支持して守れば現実のように力を持つ。私たちが持たせる。
だけど市場勝利主義には批判の余地が大いにある。能力主義、資本主義と絡み、新自由主義に織り上げられるとどうなるか。それは格差が拡大するばかりか、格差における社会移動が成されなくなり、機能しなくなるばかりか、富める者が富みすぎるところに如実にあらわれているし?
なによりも問題なのは、それらが政治にもたらす影響が排他的で攻撃的で差別的に偏るところにある。
ピケティは「格差は多少はあってもいい」としつつも「大きすぎる格差は問題がある」としているし「社会階層の移動がだれにでもできる」ようにしたうえで「ずっと落ちることはないという状況はないほうがよい」としている。
王さまになったら、もうそれでおっけーとはしない。
ビリオネアたちにとっては寝言にしたがる言説だ。
特別が当然で当たり前にしたい人たちにとっては、あり得ない話だろう。
だけど、その必要性があると私は感じてる。
逆に現状のままでいたいし、より格差が拡大して維持される社会である必要性を感じている人もいる。つまり純資産一億円以上、あるいは五億円以上の億万長者という三千人とすこしの勝者、そして残り八十億人の奴隷のような、そういう世界がいいと本気で願っている人がいる。
それは王制の血縁と、資産の継承によって固定化される極めて限定的な社会の構成を意味するものだし? 言うまでもなく私たちのほぼ全員が敗者になる世界でもある。仮に資本主義の勝利を前提にするのならね。そこで階層移動は、まず、起こりえない。
孫悟空やゴール・D・ロジャーのこどもに生まれるか。オールマイトや五条悟に見初められたり育てられたりするか。ナルトや虎杖悠仁のように特別なものを宿すか。緑谷出久やベジータみたいに諦めず、知り、学び、挑み続けられるか。
なんであれ、特別に生まれたとき、あるいは生まれたのちによほど恵まれないかぎりは無理。
それは別に昔から取り立てて語るまでもない、当たり前の話だ。
もちろんツッコミどころはある。
私は八尾を注ぎ込まれて、それは一見するとナルトや虎杖くんみたいな状態だけど、それがじゃあ、階層移動に繋がるかっていったら、そんなことはない。
たどりついたところから見える景色は、注がれない私に比べたら、ちょっとだけ一方面が広々と見えるかもしれないけれど、注ぎ込まれずにいたのなら? 小学生時代をもっとちゃんと過ごせた。発達上、重要な時期に、もっとちゃんと生きられた。
たらればだけどね。
私が並べたジャンプのつええ人たちも、じゃあそれで恵まれてる? ラッキー? そんなことない。
まああああ! 苦労してるよね! 痛い目にもめちゃめちゃ遭ってるし。
ビリオネアたちにとってもたぶん、彼らの主観のうえでは、殊更に満たされて恵まれているという実感は薄いのではないかな。だけど自分たちの権利が奪われるかもって思ったら、それは穏やかじゃいられない。
結局、だれのためにもなってない。
でもって、なかにはトランプを担ぎたいような人たちも出てくる、と。
日本にもいるよね。組合や補助金を蛇蝎のように嫌う人たち。分断を煽り、責める矛先を示す人たち。
ヒトラーがナチとやったことも、それだよね。
ろくなものじゃないし、それは事実、衝突や事件、犯罪を引き起こしてもいる。
そして、その手の煽動にあっさり乗っちゃうのが私たちなのである。
ピケティとサンデルの対談本ではオバマ政策の批判点が記されている。オバマがマシだと思えるのは、彼が自分の政策の問題点について自覚的で、認めているところ。具体的にはウォール街などが危機に瀕したときに税金を投入して助けてしまったところにある。私たちはまさにウォール街的な存在からの脱却をオバマに期待していたにも関わらず、彼はそれを助けてしまったのだ。これはトランプが隆盛を誇る土台を形成し、栄養を与えてしまう結果となった。
これまであったものを切りかえるというのは容易なことではないし? 依存の程度が強烈であるほど、切り離すのは容易なことではない。
「よっと」
焼いた生地は大きなお皿を利用して、ひっくり返す。
「抜根なんだよな」
小学生の頃だったかな。
うちでの記憶はけっこうたくさん残っていて、そのなかに抜根がある。
いまのおうちに引っ越してきたときに植えられていた樹木を抜いたのだ。
簡単だと思う?
そんなことは全然ない。
太く高く育ったケヤキを抜くのは本当に大変だった。お父さんがね!
チェーンソーだなんだを工務店で借りて、上の枝から切り落とす。そして今度は幹を切断していく。
幹が太く、枝葉が伸びているということは? 根も太く広く地中に広がっている。
じゃあそれって、どうやって取るんだと思う?
根っこが残っていたら、また生えてきちゃう。それは困るわけ。
ブルドーザーなどの重機を借りて、庭に入れて掘る? 無理。庭の塀が邪魔で重機は入れられない。玄関、そこまで広くないし!
お母さんがしょっちゅうぼやいていたのを覚えている。こんなことなら家を手に入れたときに処分しとけばよかったって。
業者に頼むとまあまあのお金を取られる。当時のうちに、そんな余裕はなかった。既にトウヤもいたしさ? 仕事が軌道に乗っているとはお世辞にも言えなかったみたいだし。
そうなると、もう、ね。
掘るしかないんだよね。地面を。
とにかく掘って掘って、掘りまくって、根がある部分を明らかにしていく。
そうして引っこ抜けるようにする。
それには掘る範囲と深さが、木の種類と大きさに応じて大変なことになっていくからさ?
まあああ!
たいへん。
専門家に頼れないし、どうしたらいいのかわからない樹の抜根くらい、億劫なものだ。
その樹をなくしていいのかどうかもわからない。おまけにオバマの例で言うと、いろんな人がいろんな立場でいろんな意見を言う。あなたという特別なら、大統領という特別なら、なんとかできるはずだと。
それは猛烈な孤独を味わい、同時に途方もない無理難題を延々と押しつけられるような、そんな気分に陥らせるという。オバマは友人が人からお酒になった、みたいに語っていたそうだ。
特別なんて、そんなものだし?
そんなものできっと、いいのだ。
みんなで生きているのであって、特別なだれかさんのために生きているのではないのだから。
勝者がいたら「おー、すごいね」ってなもんであって、勝者に「勝ったから今日からお前のこと好きにするけどいいよね」なんて言われても「お前の頭だいじょうぶ?」としかならない。
そう。
特別も勝利も、そんなもんでしかないし、そんなもんでいい。
ただ、そう思いきるのはけっこう、しんどい。
なぜってさ?
そのために、そのためだけにがんばってきた。
キラリのことを中学でいったん区切りをつけてもなお。高校に入学して、御霊を宿してますます、私はそのためにこそがんばってきた。
なのに、実態はどうだ。
ろくでもない連中に人体実験されたこどもたちの魂を集めて作った狐を注ぎ込まれたっぽい。それが私の特別。そして、人体実験していた連中はさらなる特別を求めている。
勝利も、特別も、そこまで力を持つべきじゃない。
目的、用途に関わらずね。それらは劇物なんだ。
だというのに、手放せない。手放しがたい。抜いてしまいたくない。
じゃないと、すべてが無駄になってしまう。
認めたくない。いやだ。いやだ。いやだ!
いまのまま、いまのルールや価値観のまま、それで勝てて特別になるんだ。
手放すなんて!
そう、なる。
努力は報われるためにあって、無駄をなくせるところにも利点があって、なのに。
手放せない。無駄にできない。したくない。
だから認められない。認めたくない。
そりゃあ、私たちは過ちをそうそう認められないわけだ。
正当化・責任転嫁・免罪できるものはない。
それは資本主義も社会主義も例外じゃないし? 市場も自由取引も例外じゃない。
勝利や特別も、もちろんそうだ。
努力だって、同じなだけ。
今年の膨大な思索も。これまでの紆余曲折も。
ぜんぶ、無駄だとして。
それでも人生は続いていくし、私はいまを生きる。
それだけのことを、どれだけちゃんと受けとめられるのか。
たぶん、そこに尽きる。
「どうだろ」
手間を掛けてできあがったお好み焼きをのせたお皿に、オタフクソースをかける。
ハケを使うのが本場のやり方かもしれない。そしてうちにはもちろんハケがある。
だけど洗い物の面倒さが秤にかかる。
まあ、いいか。使わなくても!
マヨネーズを雑にかけて、鰹節を振る。
大阪風は枚数を楽しむ。広島風はどかんと食べる。
ラーメンでいえば家系がっつり大盛りと博多や長浜の豚骨くらいちがう。
ただ、どちらもおいしいことには違いない。まあ、作り手やお店によるけどね。
お箸とコテを取って、テーブルに運んで定位置の椅子に腰掛ける。
ぷちたちと食事を取るようになってからは、なかなか座れなくなった。
たったひとりの食事。
すごく気が楽。
いまはひとりがちょうどいい。
厳密にいえば、いま、この家にはぷちたちと、私を心配してか集まった人たちが集まって寝ているし? そう考えると完全な孤独は、どれだけ引きこもっても得られない気がする。
うちにいるのに外がない。
だけど確実にいま、私は孤独に安らいでいる。
不思議だ。
「いただきます」
手を合わせてから、せっせと食べ始める。
コテでカットして、お箸でつまんで口に運ぶ。
たくさんのキャベツのボリュームと、香ばしい生地や卵の柔らかさ、そしてなによりカリカリに焼いた麺が水気を吸ってもっちりしてくる味わい深さ。実にたまらない。
もぐもぐしながら、壁をぼんやりと眺める。
ここまでしたのだから、それを無駄にできない?
ちがう。そんなもので正当化・責任転嫁・免罪したら、ろくなことにならない。
ゆっくりと反芻する。
正当化・責任転嫁・免罪するために、徹底的にやるべきだ、なんて。
そんなものを許してはいけない。
自分の愚かさと生きられないなら、それを認める勇気を持てないのなら、私は未だに三歳くらいの小さなこどもと変わらない。万能感を持ち、それを信じて、その拡張と拡大、具体化を望むだけなら、それは幼いこどもとなんら変わらないのだ。
ともすれば途方もないショックのなかに、たったひとりで取り残されていて、絶対に助けも救いもないかのような、そんな恐ろしいただ中にいると気づいたような、そんな感じがする。
いままで見ていた世界が実は自分の思い込みや期待に過ぎなかったのだといまさら気づいたような、そんな自分を俯瞰して眺めているような、そんな感じが。
だからこそ、なんとか生きられそうな気がするんだ。
だって、ご飯が食べられている。
安心できる居場所がちゃんとある。
頼れる仲間も、愛すべきぷちたちもいる。
結局やっぱり、それがないと無理な気がする。
足るを知るというけれど、それは足りているから知れるのであって、足りてないなら気づいてもより一層おいつめられてしまうばかりだ。
あの男は、だから止まらない。
あの男や平塚さんたちに人体実験をしていた連中も同じだ。
ないこと、得られないこと、力がないこと、達成できないことが許せない。
許せないだけで、すべてを正当化・責任転嫁・免罪して、なんでもする。
ろくでもないのに、彼らは止めたくない。
そういう意味では似てる。とても。
そんなのに合わせたくはない。
だけど、合わせたい気持ちが高まっている。
それをいかにして鞘に収めて行うのか、問われている。
心は正当化・責任転嫁・免罪したがっている。
でも、それは、例えるなら「戦争だ。敵を殺せ。こどもも皆殺しにしろ。次の世代を生ませるな」みたいな虐殺の文脈に繋がるものだ。
やめろ。うんざりだ。
トラブルは減らしたいのであって、増やしたいんじゃないんだ。こっちは。
「ああもう」
お腹がすくと、心がささくれる。
身体がこわばると、いらいらしやすくなる。
たっぷり食べたら休憩して、お風呂を楽しんでやる! いっそ温泉にでも行くか?
いや。だれかが私の不在に気づいて大騒ぎになりかねない。
書き置きしても見つけてもらえるか心配。うちのお風呂で手を打とう。
なら、ひと息ついたら身体をほぐしてしまおう。お風呂が沸くまでの間に。
心がどうにもならないとき、身体を健やかに保つ。
手を尽くそう。
刀を抜かずに済むように。
つづく!
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