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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!
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第二千七百九十五話

 



 買っちゃったよね。ペーパーバックで。「Elements of Journalism」。

 翻訳した本は日本にもあるんだけど、どうも訳に批判があるみたいで。

 そうなるともう、覚悟を決めて原著を買うしか! ってなったよね。

 物語は溢れている。真偽不明の情報もそうだ。

 悲劇だけど、それを政治家が流布するようなご時世だし? 少なくない支持者がつく時代でもある。

 私のうっすーい知識も同じくらい、ろくでもない。

 そういうものが集積する場所、SNSや掲示板サイトなどの提供者や運営者も、もちろんろくでもない。

 自分が発言したのではないから責任はないとする運営者は少なくないが、もちろん、ちがう。

 ちがうけど、それを運営者に認めさせるのは骨が折れる。

 どの国においてもね。

 Qアノンも、日本の大手掲示板の利用者も、世界各国のSNS利用者の、とりわけ困った人たちも、みんなそう。「表現の自由」を盾にする。それがあれば「どこでなにを発信しても許される」と彼らは主張する。私もそうしちゃう。

 彼らの言うとおりなら幼いこどもの前でセックスの絵を置いても、動画を見せてもいい。それも表現だ。自由であるべきだ。

 公式の晩餐会など品格のある場で、お尻の穴の話を延々としても、肛門性交の話題をずっとしてもいい。どこでなにを言おうが自由であり、その自由は保障されるべきだから。

 本当にそう?

 ちがうよね。

 気に入らない人がいる。だから中傷する。それも表現の自由かな? だれもが見える場所でやっていいことなのかな?

 もちろんちがう。

 ジャーナリズムの文脈でいまのメディアを捉えるとき、私たちは少なからず「ぜんぶマスメディアのせい」って言う。そう捉える人は多い。だけど本当はちがう。政治のように、相互に監視して問題があれば批判して、よりよくなるよう関わる必要がある。

 アメリカもだけど、日本もすこぶる苦手なジャンルだ。それは。

 私だって人のことは言えない。それはうっすーい知識の内容によくあらわれている。

 ジャーナリズムを批判するなら、ジャーナリズムを知らなければならない。

 政治を批判するなら、政治を知らなければならないようにね。

 そしてだれもが適切に学べるものがあるほど「知る」を達成しやすくなる。一方で、いまのご時世のように情報や物語をもって「知る」にしてしまう傾向が強いほど、実際は「知る」からかけ離れていく。

 なにが問題ってさ?

 私たちは「もう知ってる」ってことを改めるのが苦手。

 人によっては毛嫌いする。

 間違っていた、問題があった、それを認めて認識を改める。

 この一連の動作がもう! とにかく! できない!

 セクハラなどのハラスメントの概念が広まったご時世に、それを認めないおじさん、おじいさんたちの、なんと多いことか。今回やり玉にあげた彼らに限った話じゃないんだけどね!

 そう。

 ジャーナリズムも、政治も、それに宗教だってちゃんと学んでおいたほうがいいんだ。嘘を嘘と見抜くためには「情報」だけでも「物語」だけでも足りないのだから。なにを基準にして考えるかもね。

 戦争の歴史もそうだしなあ。

 医学においてもそう。

 私たちはとかく消費しやすい加工品のみを求めがち。

 「わかるように言え」「結論から話せ」。

 論文ならわかるけど、そうでないのに「自分はなにもしないし考えたくない」「ぜんぶお前がやれ」っていう態度がちょっと浸透しすぎている感さえある。

 そういう人たちが好むのは消費しやすい情報や物語であって、自分が正しく学び、知って、批判することにない。

 そりゃあ正確な情報よりも、デマや物語、過激な物言いのほうが受けるよね。

 かといって、いきなりリテラシーだなんだをみんなに受け入れてもらえるはずもない。望んでない人には特に嫌がられるだろう。私たちはだれかになにかを強制することも、強要することもできないし、また、するべきでもないのだ。

 そもそも結果が出ない。すぐには無理だ。さっきのセクハラに対するおじさん、おじいさんたちのなかに反応が鈍かったり、反発した人がいるようにね。かといってまったく意味がないわけではない。おじさんやおじいさんが全員、ハラスメントするわけじゃない。当たり前だけどね。

 ただ、意識していない、できればハラスメントはしたくない、そういう人たちにアプローチできる点で情報発信には大きな利点がある。ただ全員に浸透するほどではないのが厄介っていうだけ。それは他のどんなアプローチでも変わらない。極論すれば刑罰を課すとしたって、それでも罪を犯す人はいるのだからね。

 あらゆる手を尽くす。そのなかに「いきなり結果は出ない」し「完璧とはいかない」ものだって、たくさん選び、行っていく必要があるとも言える。

 あれれ?

 するとやっぱり、氾濫する情報や物語を消費する態度はずれてるってことにも繋がるね?

 もちろん私たちが感じたこと、考えたことを、なにかの形で表現することはとても大事なことだ。だけど、そのためならなにをしてもいいってことじゃない。無法地帯になればいいってことでもない。そこには明確な一線がある。個別に委ね、守る一線は、とても危うく繊細なものだ。自由を守るには、一定の倫理や哲学が求められる。野放図でいいってことじゃない。

 そういうことを当たり前っていうにはまだほど遠いのが実状じゃないか。

 忙しいし。たいへんだし。

 公平とはほど遠くて、平等なんて夢のまた夢。

 厄介なのは、それを正当化・責任転嫁・免罪の理由にしていたら悪くなることはあっても、良くなることはないってこと。

 幸いなのは、悪口とかハラスメントか、したくないし、できればやっちゃったとして対処できるほうがいいって望んでいる人のほうが多いこと。もしもそうじゃなかったら、SNSなんかもっと地獄になってるし? バッシングや誹謗中傷はいまよりえげつないことになっている。

 希望はある。

 だけど、その希望は場合によってはあんまり歩みが遅くて、いま傷つき苦しんでいる人になんら恩恵がないときや、そもそもまさに事件や事故の最中にあったり、その影響が甚大な人にとっては、その希望はまるで響かない。

 火事で家屋が燃えて閉じ込められているときに「あと十年経てば、火事が起きない家ができるかもしれない!」なんて訴えられても困るのだ。「いますぐ消火して!」「私を助けて!」ってなるし? 火傷を負っていたら治してほしい。燃えてしまった家屋や家財道具、大事な物品などをいますぐ元に戻してほしい。

 あらゆる希望がいる。

 それが私のが繰り返し述べている社会的支援・社会的資源・関係性・環境なんだけどさ。

 有り体に言うと、あの男にはそれらがあまりにも足りていない。

 私にも足りていない。

 選択と集中はあまりにも合理的じゃない。マジョリティ仕様になりすぎる。

 障害は医学モデルから社会モデルに移行している。個人の問題ではなく、もちろん個人のせいでもなく、社会の側に要因がある。それを社会的障壁と呼ぶし? だからこそのバリアフリーだ。

 マジョリティ仕様だと、マジョリティでいられるかぎりバリア、つまり社会的障壁が自動で開く。

 だけど、ひとたびなにかで外れたら? 障壁は閉じたまま。私たちは進めなくなる。

 男であれば開く扉は女であるだけで閉じられる。

 優位性のある男であれば開く扉は、男が弱くなるだけで閉じられる。もちろん女性も、こどももね。老人だってそうだろう。

 深刻な体験にあったら? それだけで閉じる障壁が、世の中にはたくさんある。

 おばあちゃんがもしも要介護の状態になったら? 介護福祉の充実が、うちの親や私たちにとっても、おばあちゃん本人にとっても、障壁を開けてくれる多種多様な依存資源・支援になる。重要な環境であり、関係性を守る術になる。

 困ったときの支援や資源が充実しているほどいい。

 彼にはない。

 私にもない。

 たぶん「自分も」っていう人がたくさんいるんじゃないかな。

 そうだ。実際、それくらい、足りてない。

 ピケティとサンデルは希望を語る。その展望を語る。だけど現実も語る。

 考えなきゃならない、というのがもうね。しんどいんだけどね。

 みんなわかってる。結局やっぱり、その必要があることを。

 人類には前科がやまほどあるからね。

 格差は私たちをあまりにも隔てる。

 資本だけが隔てるんじゃない。体験もそうだ。関係性、環境の格差も深刻なものだ。

 そのあたりを掘り下げる「21世紀の資本」は刺激的な内容だ。

 それらは特権として自動ドアにする力があまりにも大きすぎるので、私たちはそれを変えようと努めるし、貴族たちは変化を恐れる。おのれ、この共産主義者どもめ! みたいなノリで。

 なので社会構造は常に特権階級と、そうでない階級との闘争の歴史を刻んでいるとも言える。

 特権階級の論理があんまり自然に浸透しすぎると資本主義と能力主義による淘汰は結果的に社会全体を摩耗させ、格差を拡大させすぎて、深刻な状況へと転がり落ちていく。日本に限らず、世界中で見られる光景だ。

 でもね?

 じゃあ、人生の体験や、支援と資源の枯渇による格差はどうかな。

 それだって十分すぎるくらい、深刻な問題じゃないかな?

 もちろんこれも特権階級とそうでない階級の差くらい、如実なものになる。おまけに資本の違いが生む現状と相互に作用しあい、より深刻な状況へと向かっていく。

 経済は私たちを分かち、あまりにも深刻な格差を生むし? それは波及していく。

 労働もそう。これらは教育にも影響を与えるものだ。

 ヒトラーが英米のせいだと訴えて、熱狂した人々は「情報」と「物語」を大歓迎した。貧しく、病んだ社会はあらゆる暴力を弱者や周囲にまき散らす。日本人が大東亜共栄圏なんてのに熱狂したように。

 能力と競争は核開発に及び、日本を焼いた。

 負けたことを認められない、語れない軍は戦線が後退しても、東京や沖縄が深刻な状況になってもまだ認めなかった。脚気を認めなかった陸軍は多数の死者を出したし、あまりにも大勢の餓死者を出した。侵略先での 731部隊をはじめとする軍の侵略行為は残忍極まるものだった。

 人間性はいともたやすく奪われる。軽視あるいは無視される。

 あの男も、そうだ。

 だけど、あいつを止められるかという問いもあり。

 あいつにだって必要な支援や資源がやまほどあるのも事実であり。

 もう必要なことがありすぎる。

 多いよ! やることが! あまりにも!

 晩ご飯どきにみんなに相談してみたら、みんなの反応が薄い。


「政治は、悪いじゃん」

「あの野郎がやってることも問題だけど、あの野郎がやられたことも問題だしな」

「ぜんぶをどうにかするのは無理じゃない?」

「聞けば聞くほど大人がしっかりしろよ案件じゃね?」


 あれえ!?

 それでもやらなきゃみたいな空気があったじゃん! お昼は!

 どこいっちゃったのかな!?

 迷子になっちゃったのかな!? やる気が!


「わかる、わかるけどさ」


 あれえ?

 どう話したものだろう。

 だれにも幸福になる権利がある。それを追求する権利が。

 だけど権利であって義務ではない。

 貪欲である姿勢こそ正しいのであって、貪欲さがすべてを正当化・責任転嫁・免罪する。

 あの野郎の手段でさえも? 特権階級の振る舞いさえも?

 ギンは「なにがあろうとぶっ倒す」と微妙なフォローをして、狛火野くんも「次また同じようなことされちゃたまらないだろ。それは絶対に悪いことだ。だから止めるべきだ」って言ってくれた。

 その点において、みんなは別に反対していない。

 そうするべきだとさえ感じている。

 でも、なんだろう。

 心のエンジンが点火しない。

 だって幸せになろうったって、いまある選択肢があまりにもひどすぎる。

 そのひどさは人によって多種多様でさ? あの野郎を主軸に考えたなら、生まれも、育ちも、そこにまつわるあらゆる資源や支援が悲惨の一言。常に加害的であった。

 なのに「選べ」という。

 人を害さず、項垂れ、怒りは収め、矛を持たず、社会に馴染み、おとなしくしていろ。そのなかでお行儀よく生きろ。貧しかろうと、どれほど傷つこうと、受け入れろという。

 私たちはむしろ、そういう状態にこそ抗い、挑んできたはずじゃなかったのか。

 そんな状態を生むなにかを打倒するために戦ってきたのではなかったか。

 邪討伐くらいの、隔離された世界の隅っこでやりあうことさえ、そのためではなかったのか。

 学校に通って学び、いろんな体験をして、仲間と出会い、友情や愛情を深めているのは、決してクソまみれの、失礼。最低最悪な選択肢に制限されたなかを従順に生きるためなんかじゃなかったはずだ。

 だけど、現実はちがう。

 政治は売り物だし、資本は体勢を変えられる。支配力を持てる。

 その露骨な加害の集中する人材として、あの男は育てられて、使われていた。

 そこまでは私たち、もうわかっている。わかっちゃっていることだ。

 世の不正を告発してみせたあの野郎を、どういうモチベーションで、どう関わればいい。

 関東事変のようなことを、またするかもしれない。いや、確実にするだろう。

 それでもなお、前より惑う。

 持てば無礼になる。傲慢になる。おまけにそれを実力だと思いたがる。

 なのに幸か不幸か、私たちはそのことに自覚的で、だけどすべて自覚できているわけじゃない。

 あの男に、その加害性をぶつけるだけになるのではないか。

 そんな話をキラリがぽつぽつと語る。

 だれも異論を挟まない。

 みんなやるせない顔で聞いているだけ。

 優れていて、恵まれている。そう錯覚するだけの差が、あの男と私たちの間にはたしかに存在する。

 私たちの感じ方に問題があるとしても、それを直視するのは? いい気分じゃない。

 あの男に関わるっていうことは、あの男のろくでもなさに関わるってことだけじゃない。

 私たちのろくでもなさに関わるってことだし?

 あの男が告発を始めた世の中のろくでもなさと関わるってことでもある。


「そこまで風呂敷を広げなくてもいいんじゃねえか? 警察は犯人を捕まえるが、犯人を生み出す社会構造までは変えないし、変えられない。だろ? 俺たちも同じだ」


 ギンが言ったことに私も正直、同意だ。

 結局、私たちにできることは常に限定的だ。

 人ひとりのできることだってそう。

 でも、それですべてを正当化・責任転嫁・免罪できるわけでもない。

 常にできることは多くありすぎる。

 やらないわけにはいかないことがやまほどある。

 忙しい現代の生き方で、それを取り入れる余地のある人は少ない。

 だから予算を割いて行う必要性があるし、国があんまりほったからすことも多いし、持ち出しで動くしかない労働者層がツケを払うことになる。

 その立場につくかどうかを迫られている、とも言える。

 いまこそ飛び越える術はないか。

 この壁をぶち壊す術はないのか。

 求めている。

 だけどみんな、ひとまず見つけられずにいる。

 私もそうだ。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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