第二千七百八十九話
思いきり声を出してすっきりしてきた頃になって、いろいろと思いついてきた。
よくわからないことだらけじゃない? これまでのことって、実際さ。
だけど推理小説やサスペンス小説の文脈で捉えるまでもなく、基本的に害する相手には恣意的な選別理由が存在する。
テレビで「だれでもよかった」なんて言うとき、犯人たちは「攻撃するとき、妨害されない相手」を選んでいることが多い。相撲部屋に殴り込むことも、ボクシングジムにケンカに行くこともしない。プロレスラーが練習しているリングに突撃することもしない。もちろん、自衛隊や在日米軍基地に武装して突っ込んでいくなんてことだってしない。
大概はね。レアケースはあるけど。
でもって、逆に「特定のだれかでなくてはならなかった」なら? まさにそこに犯人の動機が色濃くにじむ。「だれでもよかった」と言いながら特定の職種とか、職場だ学校だサークルだなんだを選んでいたならやっぱりそうだし? 女性だけとか、こどもだけとか、お年寄りだけとかだってそう。
今回の被害者はどうなんだろうか。
身体の穴から血のような色をした植物を生やした人たちは。
そもそも彼らは生きているのだろうか。死んでいるのだろうか。
普通、穴を塞がれたら死ぬ。呼吸ができないから。だけど報道では「重傷」と言っていた。
どういう理屈になるんだろう。わからない。術なら見た目どおりの結果になるとは思えない。
ちがう、そこじゃない。
だれを殺したのか。なぜ殺したのか。どうやって。どのようにして。いつ。どこで。
この術を使う理由があったのなら、そこにも犯人に繋がる情報があるはずだ。
だから警察も、刑事モノでも探偵モノでも調べるんだよね。
そうなると理華ちゃんも、シュウさんたちも、シュウさんの友達の宇佐美さんたち刑事課の人たちだって調べているはずだし? 彼らからの知らせがないっていうことは、調べている真っ最中ってことなんだろう。お姉ちゃんの言うように私に協力を求めてくる可能性もある。
だったら私から出向く? それもあり。
連絡して了承を得て場所を教えてもらって向かうまでしなきゃいけないけどね。
なので、あねらぎさんに「そろそろ私の術が必要なのでは?」とメッセージを送ってみたけど反応なし。通話を試みたら繋がらないかわりにメッセージが返ってきた。「大人の仕事は手続きが大事」「まだ待って」「病院でゆっくり休んでて」とのこと。
私の退院の知らせが届いていないのか。いちおう「今日退院しました」とメッセージを送ったけど返答に変わりなし。私を現場に呼ぶのに必要な手続きがある。
いっそ私が警察の一員だったなら? 話が早かったのか。
あるいはルルコ先輩の会社預かりにして、とか? 民間企業に依頼できることじゃないか。
だからなんだろうなあ。
探偵モノってよくできてんね?
金田一耕助は事件解決の実績があり、警察に彼を頼る人がいるから成立してたし? 私の読んだホームズ本だと依頼者がいて、警察とは別の伝手でホームズに頼るから彼は動けた。お父さんとお母さんの好きなトリックだと「オカルト? そんなもんないし」と主張する上田教授が怪しげな村の関係者から毎度のように依頼を受けては、売れないマジシャンの山田とふたりで乗りこんでいって解決。同じくドラマでお父さんが好きな「SPEC」をはじめ、いろんな作品あるいは原作では「警察の外れモノが探偵のように振る舞いつつも、警察の立場を利用する」ことで成り立っていた。実際、かなり便利だ。
そうはいっても特権って振りかざせないようにできている。じゃなきゃ私たち市民の側が非常に困るからね! でも、ドラマじゃそこらへんはちょちょっとごまかす。身内に頼るとか、こっそり仲間に口利きしてもらうとかしてね。ボッシュでもちょいちょいやっていた。
逆にそういう警察内部の内輪での違法行為を咎められるようにしないと? 不正がいくらでもできる。善なる人しかいない、なんてことはあり得ない。組織であるかぎり、不正は起きるものとして対処して然るべきだ。あらゆる立場の人に向けてね。そしてなによりも、権力に応じてね。
だからボッシュは「汚職刑事」という側面を追求する弁護士がいたし? ボッシュだけじゃなく、警察内部の厄介者とかろくでなしとか出てきたし、裁判での追求が何度だって繰り返しなされるし? 捜査においても裁判で不利にならないように、みんなが留意する。
そんな状況でなお我を貫く人は決まって一線を越えている。その越え方に真っ当なものはない。
だからかな。レガシーという続編でボッシュは「グレーゾーンをどこまで許容するか」という話を娘で警察官になったマディにする。昔から捜査をするという特権性ほど、加害に及ぶことのできる立場はないからね。罪さえでっちあげられるし、取り調べと称して暴力を振るい放題。
そう。グレーゾーンがある。別にそんなの現状の日本のおまわりさんだって一緒なんだよ?
これまでに明るみになった不祥事の一覧をよく確認すればいい。
そしてグレーゾーンがあるからぜんぶ真っ黒なんて雑な話でもない。
学校で勉強に励む人もいれば、てんで宿題しない人もいる。私だ!
それを生徒のせいにするだけの教師もいれば、まずは学校で安心して過ごすことが大事でいろんな環境を整えてやっと意欲が芽生えると心得て手を尽くす教師もいる。
だれにおいてもどうにかなるかって、そりゃあ話が別だ。思うとおりになるかどうかは自分で決められるものじゃない。
その一線。
今回の犯人だって、超えている。
恐らくはあのクソ野郎もとい、私に八尾を押し込めた男は超えている。
何度も、繰り返し。じゃなきゃ、あの八尾は産まれない。
あの男が体験したのかもしれない、関わった連中の行為の数々も。
「死から学ぶ」
私のなかに潜伏したあの男は消えた。
だけど、かつてあの男が押し込んだ死の数々は私のなかに留まったままだ。
胸に手を当てて願い、化かしてみる。なるべく「ただあるがまま」に、私のなかに残されたものを。
金色を出しては化かしていく。次から次へ。
ころころと音がする。あめ玉ができていく。様々な色のあめ玉が。
その意味を噛みしめる。アマテラスさまは言っていた。完全に死んでいるのなら、できるって。
何度もいろんな形で確認していくことになるんだろう。
既に彼らは死んでいるのだと。
問いはある。
八尾は基本的に、あの男に従っていた。あるいは協力していた。
振り返るだけでズキズキと頭が痛くなってくる。歌って晴らしたいやな気持ち、息苦しさ、視界がばちばちと煌めくいやな感覚が戻ってくる。東京の夜を駆けた瞬間の高揚、そのあとに待ち受けていたことのすべて。机を掴んで振り上げた。狐憑きの怪力が戻ってきている。だけど人の身の弱さと、そもそも参っている心身とが「やめてやめて!? 無理だからいま、そういうの!」と痛みを訴えてくる。
そのぜんぶがわずらわしくて、黒板に思いきり投げつけてしまいたくなる。
それとも床を何度も殴りつけてしまおうか。机で叩くのは気持ちがいいかもしれない。
頭が暴力でいっぱいになる。
こういうときの怒りは六秒待てば消える? コントロールできる?
んなわけない。
記録される。
脳に。身体に。
記録した内容は蓄積されていく。
だから、あの男のように、あるいはボッシュがそうであったように、どんどんグレーゾーンに入り込み、暗い色へとのめり込んでいく。染まっていくんだ。脱色はできない。
行うほどに取り返しがつかない過去が増えていく。それだけ。ただ、それだけ。
そっと机を戻そうとして、気づく。
床にあめ玉が大量に散らばっている。これをそのまま舐めたくはない。
指を鳴らして金色に散らす。荒い呼吸を落ち着かせるように、深呼吸を繰り返す。
鼻の穴が膨らんで仕方ない。
衝動がたしかにある。なにかを破壊せずにはいられない、そんな衝動を意識する。
消えてくれない。手綱を緩めたら、すぐさまなにかをするだろう。こいつはそういうやつだ。いまの私自身が暴れ馬になっていて、他に選択する術がない。嵐が通りすぎるのを、ただ待つだけ。ゆっくりと、ゆっくりと。あの男を恨んで済ませたい。ああ。済ませたい。
こんなに自分がままならないのに、手段が増える。
不安定なまま生きていくほかにないことを受け入れるほかにないのに、心が拒絶する。それはつまり脳が拒絶するということで、身体が拒絶するということでもある。
不快感や心身の不愉快さは「気のせい」ではない。実際に身体にかかる負荷を感じている。
心は心だけで成立しない。
身体ありきのものだ。身体が感じる刺激ありきのものでもある。
深呼吸をする。こういうとき、しばしば呼吸が浅くなったり、忘れていたりするから。他にもいろいろと整えられることはある。お腹は空いていないか。気温や湿度に適した服装か。たっぷり睡眠を取れているか。筋肉痛や疾患を抱えていたりはしないか。栄養不足に陥っていないか。血圧は?
確認事項はたくさん。
お父さんが好きで、トウヤもハマっていたゲーム「メタルギアソリッド3」では、主人公スネークが潜入任務中に負った怪我を自分で治療する。私はワニに食べられてコントローラーを投げたので、自分でやったことはないけどね。ふたりのプレイを見ているかぎり、具体的に治療していた。
そういうことをするんだ。
ちなみにいやな体験は、こうした確認事項をすべてチェックしても「いくらでも最大限の負荷をかけてくる」ものだから手に負えない。せいぜい、がんばって耐えられるようになるのが関の山。だけど放っておくと暴れ馬は好き放題に衝動を暴力に表現することを求めてくるから、無視はできない。
衝動は身体から脳に、脳から身体に送られる情報処理の結果生じているものなのであって、私たちには生じたものをどうするかしか選べない。
あの八尾も。あの男も。
深夜にご飯動画を眺めて「お腹がすいちゃう」くらい、どうしようもない。もちろん「お腹がすいちゃう」よりも手に負えない。足の小指をしたたかになにかにぶつけてしまって飛び上がるような、あるいは調理中に包丁で指先を誤って切っちゃってとっさに指でくわえちゃうような、炒め物中に油が跳ねて熱さと痛みを感じちゃうような、それくらい手に負えないものだ。
刺激であり、反射であり、咄嗟の行動なんだ。
それらは解放のときを常に待っている。
そして意識に障る。永遠に。
だからベッセルの本で紹介された人たちのように、低減や緩和のために嗜癖にのめりこむ。他者を支配・抑圧したり、予測できる刺激に落としこもうとしたりする。
偏見と差別で物語ることも多い。人を障害や貧富、階級や立場、血液型だの人種だの性別だの年齢だので語ったりしてね?
それが自分に障る言動だとしても、選んでしまう。
性加害に遭った女性が、むしろ性加害に遭う状況に近づいてしまったり、性加害をする男がきても拒めなかったりするように。
飲酒や薬物、暴走行為にのめりこんだり、自傷や自死未遂を繰り返したりするように。犯罪に何度も及ぶように。
いまでこそ体罰は暴力で犯罪となっているけれど、それが認識されない現場、そこで過ごす人、加害者あるいは沈黙する消極的な加害者たちは? 体罰を繰り返すし、見逃す。語らない。彼らが語るのは、体罰を振るわれる人を責めることだけ。ろくでもないことは改めて確認するまでもない。
そういう蓄積を、さきほど出したあめ玉で確認できるかもしれない。
その中には、あの男に繋がる情報が潜んでいるかもしれない。
確認しようとすると、私は何度もこのたまらない衝動と再会する羽目になるのが困りもの。
マドカに見せて代わりにやってもらえないだろうか。だめかな。
「ああ」
キラリに向けていらいらしていた中学時代の最大限のいらいらを十に例えるなら、いまは二十くらい。
日記を書くくらいじゃ収まらない。
収まらないんだ。これは。
剣道部の稽古にお邪魔して、打ち込みやらせてもらおうかな。
それか、もっと歌う? 喉が潰れそうだけど。
無理。大暴れするスイッチは常に入っている。気分はハルク。
いつも怒っている。それも沸点ぎりぎりを上下する状態で。
こんな自分でいたくないから、関わりたくない。
デアデビルのマットはそれこそデビル、悪魔のようになる。暴力を止められない。止めたくない。
それをつくづくろくでもないと知りながらも「そうしたくてたまらない自分」を持てあます。そこをかなり丁寧に掘り下げるドラマシリーズじゃあ、コスチュームを着るまでがとにかく長い!
だから初めて見たときの私は「まだ!? まだなの、マット!」と悲鳴をあげるような気持ちで見ていたけれど、いまの私はちがう。そうそう割り切れるものじゃないんだ。これは。
警察の外れ部署みたいな人たちのように、マットは弁護士で、それもかなりの腕利きだ。十分すぎるほど、いちいち暴力に頼らなくてもできることがある。なのに、だからこそあえて振るう暴力に、そうせずにいられない自分の衝動に、彼はずっと苛まれ続ける。それが煮え切らない態度に映る人はドラマから脱落したんじゃないかな。
でも、マットが付き合うような衝動があるんだと気づいてしまうと?
彼の懊悩にたくさんの時間をかけて、彼を掘り下げていくドラマには途端に濃厚な味がするのだと気づいていく。
いざ自分がその立場になると?
味どころじゃないけどね。
正義をなしたいから殴るんじゃない。
殴りたいから、ちょうどいい敵を探すんだ。
中学の頃の私がキラリを責めたように。
警察にもいる。
特権をもって支配・抑圧したいから警察の仕事をするタイプ。
医者にも。福祉の職にも。
支援する仕事にも、悩み相談を受ける人にもね。
教師や親、恋人や結婚相手にも。友情だって恋愛だってそう。
相手を好きになったからもっと知りあいたいんじゃない。
セックスがしたいから適当な相手を好きになろうとしたり、口説いたり口説かれたりするように。
ろくなもんじゃない。
だけど、そのろくなもんじゃないものを抱えて生きている。
無縁ではいられない。自覚がないのが、一番たちがわるい。
みんな、それぞれに抱えている。それに気づいているか、どう表現するかの違いがあるだけ。
ああ。みじめだ。なんて情けないんだろう。こんなにみっともないのに、底がない。
いくらでも堕落していける。
許せなくて、憎らしくて、憤怒をぶつけたくてたまらないのに、あの男にも抱えているものがあるというのなら、それを知りたくなっている自分がいる。どこまでも傷つけてやりたい気持ちと同居して。
こんなに自分がわからないのに、それでもなお生きなきゃならない。
理不尽だと思わない?
だからこそ人には、ううん。あらゆるこども、あらゆるこどもだった人には「産まれた責任」を負わせちゃいけない。「育った責任」なんか負わせちゃいけない。それは、生物学的な父と母がまず背負うものだ。次に養育者が背負うものだ。しかし彼らだけでは背負えるものじゃないから、共同体が、社会が手を尽くして背負い、分担していくべきものだ。あらゆるこども、あらゆるこどもだった人が負うものじゃない。
そして、そのために共同体や社会は手を尽くす。生物学的な父と母だけでも、養育者だけでも、到底たりないものだから。そんなんじゃあ、足りなすぎるから。
百万人のこども、あるいはこどもだった人を並べたとき、あまりにも不公平で、不平等であるばかりか、人生をあまりに左右しすぎるから。
そんなことをぶちあげてみせたって、私を含めたいまのこどもたち、そしてうちの親やおばあちゃんたちさえ含めたあらゆるかつてこどもだった人たちの苦しみを、ただちに取り除けるわけがないんだ。
それは、ゆっくりやっていくことしかできなくて、大勢取りこぼされていくってことなんだ。
それでもやらないよりはマシだ。
基本、世の中はそういうものの集まりだ。
「ああ」
いらいらが消えない。収まらない。
トウヤたちがぷちたちを連れ帰ってくるのに。
あめ玉修行で追体験した暴力を選択肢に入れて、破壊してまわりたい気持ちを抱えて会わなきゃならない。逃げ場はない。
私でいられない。
親って、すごいな。
これに耐えるのか。我慢するのか。
だけど、耐えて我慢だけじゃ擦り切れてもたなくなる。絶対に。
ついに打ち砕かれる人が、ひとり、またひとり、増えていく。
耐えて、我慢して、打ち砕かれるのは親子だけじゃないよね。
歌は祈りだと言う人がいる。実際、そうだとつくづく思い知る。
断りを入れると祈りは完璧でも万能でもない。そう語る人はいるけれど、私は否定する。
良くも悪くもマインドセット、自分の心身を表現して、場合によっては発散する術のひとつだと捉える。
それで十分。
祈りをもって歌い、自分を知ってようやくできることがいっぱいある。
それくらい、私を捕らえる衝動のおかげで、私を見失っている。
自分で自分がわからないの。わからなくなるんだよ。
変なの。
ほかでもない自分のことなのにさ。
いまこの瞬間でさえ、なにをどうすればいいのかわからないなんて。
つづく!
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