第二千七百八十七話
抽象的な話だけど、心は綺麗なだけじゃない。
絵本のように生き物にしたら、心は嘘をつくし、うんちもする。新陳代謝で垢がつくし、髪はぱさぱさになっていく。お鼻はてかてかに、ニキビはできるし、歯垢もつく。心に纏う着物だって汚れるし、生兵法は大怪我のもとになる。ミームを覚えて使うだけでいると、それがどれほど問題のある言葉か知らない無知で暴力を振るうやばい奴になる。
吐き捨てるツバ。かんだハナ。排泄物。抜け落ちた毛。あれやこれや。
もうほんと、いろんなものがある。
だけど抽象的な例えであって、現実には? 剥離するものじゃない。
まるでゴミ屋敷のように、ぜんぶ蓄積されていく。
なかったことにはできない。
そう。切り離せない。
だから心は潔癖と無縁なものだ。
清らかに見える人は汚泥や醜悪さと共にあるか、あるいはそれを隠しているか、はたまただれかに押しつけて攻撃して保っているか。私たちは心のすべてに接するわけでも、すべてを見聞きするわけでもない。表面上の清らかさそのものが、まるごと自分や相手を指し示すものじゃない。容姿に似てるかな。それは結局、見てくれに過ぎない。一方で、その見てくれには遺伝的要因と社会的要因、干渉によって変化する面がある。先天的なだけでも後天的なだけでもなく、社会的なもので時代によって変遷するものだ。
なんであれ心はいろんな運動、あらゆる要因のもとに成り立っている。
心のおぞましさも、弱さも、醜さもだ。
高度を下げて、金色で出した毛布にくるまりながら思案する。
電車で隣に座ってきた人。彼の接近に、彼のなかの文脈がある。ふと隣に座りました、とはならない。その「ふと」にさえ、あらゆる文脈の繋がりがあるんだよっていう話になる。
「考えない」人たちもそう。「ひとまず手を動かす」人たちもそう。
あらゆるすべての人のあらゆる行動、あらゆる発露に文脈がある。
自分の醜悪さのなにがいやって、夏に肌に着地した蚊のようなものじゃない。キラリを見て、彼女の顔の小ささや整った造形美に普遍性を見出しては、鏡に映る自分のまんまるくてとぼけた顔にうんざりするような、そういう「手に負えないし、変えられないもの」だからだ。
手に負えない歪な造形を自分に見つける。そういう感覚なんだよね。
だけど、それは増えていくことはあっても減っていくことはない。
だから抱えて生きていくほかにないんだけど、さ。
自分を語らずに、だれかを語ることでごまかす生き方はけっこうある。
私はキラリを心の底から美しいと思う。まずなによりも、見た目! 超好み! だけど、それは私の主観であり、私の感覚で、私の感想なんだよね。
別にそれはいいんだよ。私の感じたこと、私の考えたことを認める癖をちゃんとつけないと、おかしな認知の仕方をしかねないもの。仮に私が主語を私自身ではなく、キラリや世間や社会や世界に置いたら? 途端に「私が思っていること」が透明になってしまう。
整理がつかなくなるんだ。こういう捉え方をしていると。
売春をする女がいる。パパ活、援助交際。その他もろもろ。だけどちがう。女を買う、買春する男がいる。男向けに女を集める人がいて、店がある。高額に設定して「自由恋愛」ができるようにしたって、人は集まる。女で商売をする男たちがいて、彼らが集めた女を買う男たちがいる。これが実際だ。
しばしば「女は身体を売ればいい」なんて抜かす輩がいるけれど、ちがう。そもそも労働に格差が存在している。お母さんや美希さんよりも、もうちょっと年上の世代。親戚のおばさんたちだと? 結婚して辞めるもの。絶対にそう”決まっている”。長く働くと揶揄と罵倒の対象になるし、そもそも出世の道がない。ずっとそこに留められるだけ。職に就くこと自体がかなりむずかしい。就職氷河期世代に重なるものでもあるし。つくづく、ろくでもない。
だから、そもそも「就職難」かつ「労働困難」を抱えている。なのに生きるうえでお金が必要になることが多い。仮に妊娠・出産したなら、男が逃げたり不倫・浮気したりしたら? 離婚したら。海外と違って日本は男の責任を問わず、養育費を徴収したり、責務を負わせたりする仕組みが一切ない。おまけに自分の世話を見れない男だらけの世代が長く続いていて、私たちの世代も例外ではない。となると? そんなのにこどもを渡すことができる? できないと選んだ途端に、養育費をろくに払わない男の負債を抱えることになる。男がさっと離れて金だけ払うならマシで、恨みをもって加害に及ぶ男も少なくない。虐待を行う男も実際多い。
日本じゃ職歴が持つ意味があまりにも大きすぎるし、年齢も壁になる。こどもを抱えてとなると、育児と両立できる十分な仕事が女性にあるか。まず、ない。じゃあどうするの? 生活保護に頼れるか。頼れない人もやまほどいるだろうし、保護が十分かっていうとかなり微妙。
そんなとき、手ぐすねを引いて待ち構えている。「高額の給与を支払う」という、水商売の数々が。まともな仕事はない。社会は整備を始めない。彼らは合唱する。「女の選択」「自己責任」だと。
ずいぶん歪んでる。
この手の歪みを私たちはそれぞれに抱えている。
社会的なものとして。環境的なものとして。疑問を持たず、思考をせずにいたら? 当たり前のものとして、その先を考えずに、ただ「そういうものだ」として、歪みを取り入れる。そのとき私たちの心はたしかに、確実に、不可逆に歪むのだ。
それぞれに歪みを抱えて私たちは生きている。
パンツが見えるアニメや漫画で、なぜそれがサービスと呼ばれるのか。サービスに好まれるのか。そこに問いを抱かない人たちも、歪んでる。かつてはなにげなしに喜んで見ていた私も、歪んでる。
神奈川新聞取材班の「やまゆり園事件」で触れていた。様々な施設の現状を。なにせ報道で話題になったのだ。園では職員による不適切な対応がなされた、と。なにより犯人がかつての職員だったのだから。
施設のそもそもの成り立ちや歴史、各施設の多種多様な文脈とはなにか。いったいどれくらいの事件があったのか。
これを語るだけじゃ足りない。売春する女が悪いというくらい、歪んだ見方だ。
姥捨て山ならぬ棄民を私たちが個別に、家庭で行っている。それを正当化・責任転嫁・免罪しながら繰り返している。個別に。
それも? もちろん歪んだ見方だ。
足りない。社会的支援・社会的資源・関係性・環境も。それぞれの発達も。論理も。
なにもかもが足りない。
いま選べる最大限の選択? それも足りない。
実際に加害の果てに捨てる人、家庭もある。
語りきれない。捉えきれない。
歪みがやまほど生じていて、私たちはそれを内面化して生きている。
そういうものに気づきながら、出会いながら生きていくとして。
頼る先は警察だけじゃない。みんなだけでもない。
あらゆるものを支えに生きているのだから、あらゆるものが必要不可欠なはずでさ? 個別に調節するにしたって、あらゆるものをどうするのかになる。
私にあって、あの野郎にないもの。あの野郎が体験してしまって、私は体験せずに済んだこと。
それらを並べれば、あらゆるものの内訳が見えるのか?
わからない。
あの野郎が私たちの求める社会のありようと共に生きることを望むのか。
そこに意欲を持てるのか。持つためになにがいるのか。
私に持てた意欲には、いったいなにが、どれほど必要だったのか。
わからないんだよなあ。
未知や無知は歪みだ。あるいは輪郭を持つものだ。だけど私には捉えられていない。
ようやく学校が見えてきた。高度を下げながら近づいていく。
遠目に見えた学校にたどりつくまでに一時間以上はかかった。学生寮の屋上に降下して金色雲と毛布を消す。まずは部屋に帰る。荷物を下ろして、刀を携えてから寮母さんにご挨拶。その足で職員室に向かう。
今日も平日、みんな勉強の真っ最中。
顔を出すと次の授業の準備やミニテストの採点に勤しんでいる先生たちがわずかに残っていた。ニナ先生もいて、すぐに私に気づいてくれた。
「あら!」
ちょっとちょっとと言いながら立ち上がって、駆け寄ってくる。
私の二の腕に手を当てて、しげしげと観察された。
「早くない? 連絡は受けていたけど、早くても来週かと思ってたわ。ひどい疲労に苦しんでいるって伺っているけど、だいじょうぶ?」
「寝てるのに飽きちゃって」
ぼんやり過ごすだけなのがつらい。
考えごとのタネには事欠かないが、そろそろ人と話しながら思案したい。
それに学生として切実な願いもある。
「これ以上休んじゃうと、勉強についていけないのが目に見てるので」
「あああああ」
「「「 あああああ! 」」」
ニナ先生の悲嘆に続いて、職員室の二年の先生たちが一斉に頭を抱えた。
え。なにその反応。
忘れてたと言わんばかりの苦しげな声まで出して、なに?
「あのう。なにか?」
「いや」
「まあ」
「その」
「レポートの準備が、ね」
「できてないっていうか、ね」
「「「 早いよう! 」」」
「えええええ」
先生たちがそろって文句を言うので引いちゃう!
いや、でも、そっか。レポートか。
準備してくれてたのかな。
でもって間に合ってない、と。
文句を言われても困る。けど、噛みあわないときってあるよね。
「ああ、なんか、寮で横になりたくなってきたかも」
「そ、そう?」
「休め、青澄」
「無理するな、また倒れたらことだ」
「そうだぞぉ!」
とたんに盛りあがって一気呵成に私を帰そうとする。
なんだかなあ。苦笑いを浮かべながら挨拶をして、すごすごと扉を閉める。
せっかく学校に来たのに、なにこの扱い。
いや、落ち着け。そして思い出せ?
私は何度も入院沙汰を起こしている!
「はあ」
今回は休みが長かったもんなあ。
そして学校は長期欠席を前提に運用されていない。
フリースクールとか、塾とか、学べる場所はいろいろあるけど中高生、あ、小学生も含めて「年齢と学年は強く紐づいている」状態が当たり前だ。
私はそのレールから外れつつある。
結ちゃんをはじめ明坂の人たちは通信教育のようなカリキュラム対応をしてもらうことで高校の授業を続けている。でもそれは単位学習であって、教室で学ぶという体験学習ではない。
このずれを埋めるものは、まだない。
ないんだ。
相模原障害者施設殺傷事件でも、神戸連続児童殺傷事件でも、あるいは女子高生コンクリート詰め殺人事件でも、それぞれ犯人の、あるいは犯人たちの、彼らへの集積したゴミの捨て場として、彼らは加害者として被害者を選び、行った。スーパーフリー事件に関わった大勢の男たちもそうだ。
これらの事件だけにかぎらない。
心のあらゆる負債だ傷だ痛みだなんだ、欲だの望みだのルサンチマンだの、かぎりなくあるものの矛先に他者を選び、加害が行われた。モラルはない。倫理も及ばず、哲学が及ぶ領域でもない。
彼らなりの論理はあるんだろうけど、それは特定の個人を攻撃することによって社会を著しく攻撃するものでしかない。
戦いは、それを集団で行う。
戦うことを支持して指導する者たちは、自分たちを盤上に置く。利益も得る。これを卑怯と誹る以外の術はあるまい。あってはならないのだ。大勢の人たちをゴミの捨て場として、同じようにゴミの捨て場とされた者たちと殺し合わせる狂気の沙汰を正当化・責任転嫁・免罪する理屈など存在しない。
ただ、現にゴミの集積する、上流から捨てられて押し流された廃棄物のたまる場所が世の中に存在していて、その集積のなかで生きるほかにない、なんて人生もあってさ?
それは正当化・責任転嫁・免罪しちゃいけない。
そんな苦境にも価値があった、なんてことにしちゃいけない。
目指すのは「***しなきゃならない」から「できていないあなたはかわいそう」なんてふざけた話じゃなくて「***できてなくても絶対にだいじょうぶになるような社会的支援・社会的資源・関係性・環境の確保・維持・浸透」だ。
鉱山で働く少年、スラムで身を売る少女に「勉強できなくてかわいそう」だけど「勉強できていないからしょうがない」じゃない。「産まれたからには絶対にだいじょうぶになる社会的支援・社会的資源・関係性・環境の提供」だ。まず、これだ。
あの野郎も、そう。
歪な産まれ方、育てられ方をしたっていうなら「かわいそう」で済まない。
生きてんだ。
必要なのは社会的支援・社会的資源・関係性・環境。
刑罰の最中においてさえ、ここは変わらない。譲らない。
もちろん意欲を持てないかもしれない。そこは他者にどうこうできる領域の問題じゃない。
それでもなお、いいやだからこそ、社会的支援・社会的資源・関係性・環境がいる。
これが、モラルだ。
倫理であり、私たちの恒久的な権利だ。
社会は義務を担う。私たちが担うのは社会が義務を怠らないようにするための監視や干渉、維持であって、社会が担う義務を個別に負うことではない。ここでいう社会とは国家であり政治であり福祉であり公共倫理であり、それらの具体的な営みだ。
だけど、とてもそうはなっていない現実で、あまりにもほど遠すぎる現状では、映画「パラサイト 半地下家族」の一家のように雨が降れば浸水してひどい匂いに苛まれるような、そういう状況が世の中にやまほど、あらゆるバリエーションで存在している。
あんまり大きな主題すぎて、太刀打ちできない。怯んでしまう。
いつもここで途方に暮れてしまう。
どうすりゃいいのさ。
頼れるかぎり頼り尽くすしかないじゃんか。
それがいまの私の精いっぱいの答えだし?
この答えを導き出すかぎりにおいては、あの野郎の怒りや不満が収まるまで、その相手をする役割が必要になるとしか思えないし?
私がやるのがいまのところ妥当に思えてならない。
それがいや!
関わりたくない!
だけど、でも、関東事変に並ぶ厄災を起こされかねない。
あの野郎が起こしたであろう異変に対処するのに、大勢での作戦活動が欠かせなかったし?
戦いになった。民間の被害も大きかった。
放っておけることじゃないんだよね。
「はあ」
久しぶりに学校を歩く。
なのに気分は憂鬱。
家事をしていると、どうしたって汚い場所のお手入れをすることがある。生ゴミキャッチャー、洗濯槽のゴミキャッチャー、日ごろは掃除しないお風呂場の排水口とか湯沸かし器に繋がる水路とか。ほったらかしにされたトイレの掃除もなかなかにきついものがある。
世の不均衡はまさにその、ほったらかされてなんにもされていない場所。
小学生の頃の私は、人生のあらゆる情緒は、そういう汚れの中にあった。
中学生の私はあらゆる感情のはけ口にキラリを指定した。
だけど、そういうところをなんとかしないと始まらない。
日ごろのお手入れができるなら? 汚れがたまらず、うまく手入れする術があるのなら、快適になっていく。
それを「だれか」や「なにか」に向けずに、自分で手入れしたり、あるいはだれかに助けてもらえたなら、どんなにいいだろうか。
むずかしいんだ。それが。どうにも。
小学生の私にも中学生の私にもなかった。とりわけ中学の私は加害的だった。
問題があったんだってわかっているのに、家庭は良好だったのに、中学なんかずいぶん助けてもらったのに、それでもなお、なかった。なかったんだ。
なのに、私にやれるだろうか。
できないなら、できないなりに助けを求められるだろうか。
なにを、どうやって、どのようにして対処するの?
わからない。
みんななら、どう考えるんだろう。
聞きたいのに、チャイムが鳴らない。
待っていられないから教室に顔を出したいけど、先生に気を遣わせるのもなんだしなあ。
寮に戻って待つかぁ。
ううん! 消極的!
気が乗らないときってむずかしいね?
つづく!
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