第二千七百八十五話
とどのつまりね? と女神は仰った。
「私にあなたの人生も、ここでのありようも、決めるべきではないし? 私は万能でも完璧でもないの」
「完全な論理などないのなら、完全な存在もいない?」
「もちろんそう。どんな功績さえ、どんな立場さえ、完全にするものではない」
アマテラスさまが手を叩いた。ぱん、ぱん。
宙にいろんな映像が浮かびあがる。人の上半身を捉えたものばかり。
日本人比率高めだけど、海外の人もけっこう多い。
全員じゃないにせよ、知っている顔がないわけじゃない。
「あなたの好きな映画の豊かなおひげのおじいさん先生なら、こう言うかな。ほう、ほう。もちろんじゃとも。人は年を重ねることはあるが、完全になっていくことはない、と」
ダンブルドアだ!
「それはここでも同じ。経験も、学習も、修練も、鍛錬も、いずれも完全な存在になるためのものじゃないし、なれるものでもない。もしもそれが実現できるのなら?」
両手を左右に広げてみせた。そして肩をすくめるのだ。
「魂が留まる天国や地獄の僧や坊主が真理に目覚めて、ただちに現世を救ってみせるはず。でも、そうはなっていない。私にも、そんなことはできない」
「だれにもそんなことはできない?」
私の問いに女神はうなずいた。
すこしのためらいもなく。
「仮にできたとしても、するべきではない。こどもの悩みや苦しみを、親が先んじてすべて解決していったら、こどもはどうやって成長すればいいの?」
「う、んん」
たしかに、それはそう。
できる範囲でやろうとするのさえ、実際はかなり危ういことだ。
ぷちたちに対してそれをやっていたら、どうなる?
ぷちたちには私がいないと、なにもできないままになってしまう。
だからまず、すべての課題をどうにかしてくれる、なんてことはないし? すべきじゃない。
次に深刻な問題をどうにかしてくれる、なんてことを期待するけれど? そんなことができる存在はいない。
神の教えを唱える”人間”は求めるだろう。具体的な方策を。方針を。指針を。強制さえするかもしれないけれど、それはあくまで”人間”が行うものに過ぎない。
これをもって「神を疑うな。私をうたがえ」みたいな論法で迫る人もいるけれど、それはそれで問題。
「なぜ私たちが積極的に現世に関わらないように取り決めているか。答えは、そうむずかしいことじゃない。関われたら、だって、結果を求めるでしょう? 救え、助けろ、どうにかしろって。私たちに、そこまでのことはできないのに」
「それが、答え?」
「いいえ。私たちが定めて、行う、私たちの願う私たちのありようであり、世界に望むもの」
世界中の神さまたち、死した聖者や亡者、あらゆる魂たちが定めた姿勢。
現在もなお維持されつづけているありよう。
ただひとつ、御霊の繋がりを除いて。
それさえ、こうした世界の存在が現世に直接なにかをするわけではない。
あくまでも現世に生きる私たちがなにを選び、どうするかっていう話でしかない。
「問われているのは個人のありよう。神さまや聖典や経典ではなく、ただただ、私たちそれぞれのありよう」
「まさしく、そういうこと。まあ、ここに来られるあなたにできるかぎりの手助けはするけどね。毛が生えたり抜けたりするとは思わなかったのよ? 本当に」
「そうでしょうとも」
アマテラスさまいわく「一皮剥けた私の霊力が、より具体的になるよう手助けをした」そうだ。
その結果が、汚れにまみれた全身の体毛になったわけで?
どうなるのかは私次第。
「なんで毛なんですかね?」
「知らないわ? 私にはあなたのことがわからないもの。あなたの知り得る以上のことは知りません」
「それは、ごもっとも」
「愛生ともマドカともちがうわね。これまで面倒を見てきた、どの子ともちがう。あなたはヘンテコ」
「せめてもうちょっと、こう。愛くるしいとか、なにかありません?」
「毛むくじゃらになることが?」
「う」
変化をそのまま返されるとつらい。
毛むくじゃらになることは愛くるしくないと思います。
「ただ私が見たかぎり、あなたの不安定な霊子が刀になって生えるようなことは、当分なさそう。九割増しの前向きさで言ったら、だけど」
「希望的観測ですか」
「保証はできないでしょう? あなたが望んで生やしたら私の見立ても意味がない」
たしかにそうだ。
「さ。今日はこんなところかな。なにかある?」
「私のあめ玉って作れますか?」
「あなたが現世を旅出す日が来たら作ってあげる」
「じょ、冗談ですよね?」
思わず私が怯むのを笑顔で見つめながら、彼女は明言した。
「いいえ?」
あっという間に行ってしまった。私が呆気にとられている間に。
これまでのあめ玉は産まれてから死ぬまでの魂を集めたものばかりだった。
本当、なのかな。
かもしれない。
私は彼女のことをなにも知らないのだと、いまさらながらに気づいた。
カナタと話したとき、私が前に言ったことを教えてくれた。親の履歴書を確認しない。それと同じで、身近にいる人の履歴書を確認しない。有名な存在が相手でも、同じ。
よくないなあ。
「あら。おたまさま、どうしたんですか。ぽつんとして」
台所を取り仕切るおイヌさまのおばさんが、いつもの和室にいる私に気づいて声をかけてくれた。簡単に事情を話すと「あらあら」と困ったように眉根を寄せる。
「さっと教えてくださればいいのにねえ。時間が省ける。でしょう?」
「あ、あはは」
効率的。合理的。
先生や師匠、親、上司、先輩が「なんとかしてくれる」。
聞けば「教えてくれる」し頼れば「解決してくれる」。問えば「答えを教えてくれる」。
それじゃあ、私に私をどうにかするっていう決意も覚悟も、鍛錬だってできない。
もちろん、塩梅ってものがある。
初心者ほど手ほどきがいる。
「いまの私なら、もう自分である程度できるって信じてくださってるんですよ。たぶん」
「そうなの? じゃあ、根を詰めすぎないで。もう無理ってなったら、すぐに言わなきゃね?」
強いなあ。
遠慮しちゃだめよってはっきり言ってから「おやつ食べる?」と提案さえしてくれた。
狐街からの贈り物だそう。昭和の菓子職人のおじいちゃんが天国に迎えられて、来世に向かう前に旅をしているのだそう。そんな流しのおじいちゃんが狐街に立ち寄って作った芋ようかんのお裾分け。
さつまいものお菓子には目が無い私だけど、芋ようかんはあまりご縁がなかった。スイートポテトほど砂糖を立てずに、さつまいもの甘みで勝負している感じだ。優しい口当たり、蕩ける舌触り。なのに濃厚なおいもの甘さ。これに濃いめのお茶がおいしい。
じっくり堪能してから、ふと思いだした。
そういえば抜け落ちた毛はどこにいったんだろうか。
実はあのあと、おイヌさまたちに手伝ってもらって部屋を念入りにお掃除したのだ。そのとき、抜け毛はくずにまとめたはずなんだけど。みんなに尋ねてまわると、袋にまとめてあるという。なにせ体毛は燃やすと匂うから。一方でかつらなどの素材に使えるっていう見方もある。
なにせ使えるものはなんでも使うものだ。
うんちさえ肥料にする。そこからすれば、毛だって、ねえ?
玄関に置いたと言われて見に行ってみると、まんまるく結ばれた風呂敷を見つけた。隙間を分けて覗いてみると、あったあった。金毛の固まりが。
「なにかに使えないかな」
筆にするとか。繊維に加工するとか。
めちゃくちゃ洗ってさ? なんなら化け術も使って、なんらかの形にできないかな。
グロテスク? 気持ち悪い?
かもしれない。
だけど私のなんらかの霊子が形になったものだと思うと、このまま捨てちゃうのは惜しい。
あれこれ試して駄目だとわかってからでも遅くないでしょ?
「ううん」
「おや、おたまさま。どうなさいました?」
「玄関に座り込んで、珍しいですね」
「それよりご無沙汰してましたねえ」
畑仕事を終えてきたであろうおイヌさまたちが戻ってきたみたい。
土埃に汚れていたけど、快活そうに笑う白いおイヌさまたちに事情を伝えたら、みんな腕を組んで考えこんでしまった。
「あ、あれ? なにかまずかった?」
「せっかくの金毛ですが、こうした毛はだいたい色が褪せやすいものですよ?」
「保存にあまり向きませんし、筆にするにも向きませんし」
「湿気や日光に弱かったりしますからねえ」
ん、んん!
思ったよりも早く寿命がくるものなのか。
「けっこうな量ですから、それ全部となると手入れも手間がかかりますね」
「途中で切れてしまうこともありますから」
乗り越えるべきハードルがたくさんありそうだ。
そう考えると、かつらとかウィッグとかって、手間がかかっている商品なんだね?
色褪せしやすいなら染めればいいじゃないって話でもないしなあ。用途によるけど。別にかつらやウィッグにするわけじゃなし。
「そう結論を急がず、しばらく保管なさっては?」
「それがいいですよ」
「ううん」
しばし悩んだけど、具体的なプランが思い浮かばないので彼らの提案にのることにした。
風呂敷を部屋に運ぶかたわらで「みんな詳しいねえ」「すごいねえ」「ここに勤めるって、やっぱりすごいのかあ。いっぱい勉強したの? どんな修行をしたの?」とぶしつけなことをやまほどしゃべってたら、いろいろと教えてくれた。
家柄どうこうなんてものはなくて、なので血がどうこうっていうものもない。修練もおイヌさまたちそれぞれにちがうし? 別に神使が人気のお仕事ってわけでもなし。みんな働かなきゃ食べられないってものでもない。それくらいには治世が行き届いている。現世からしたら圧倒されるような福祉の充実ぶり。そんななかでも「自己研鑽」「働きたい」「どうせなら、こういうことしてみたい」っていう存在が、それぞれに鍛錬したりなんだりして、神使になったり、商売を始めてみたりしているのだという。
それで成り立つ経済とは? と私には疑問でならないけど、待った。私は経済のけの字もろくに知らないや。手元に毛がやまほどあるのに。いや関係ないが? なに考えてんだ。
アマテラスさまの神使になるとなれば、博識さとか霊子の扱いとか、やっぱり求められるものの水準は高いという。人柄だなんだ、いろんな条件があるけれど、働きたいと望むならなんとか働ける場所を探して、それぞれに合う居場所を模索してくれるし、初心者状態のことについては必ず教えてくれるのだそう。
だから「いきなりここ」っていうおイヌさまもいれば「何カ所か働いて、いまここ」っていうおイヌさまもいるのだという。
だれであろうと本人が求め、学び、行うのなら、それに応じてこちらもできるかぎりをする。
アマテラスさま側にも差配を担うおイヌさまたち神使がいて、このお屋敷にだっている。台所番や庭師のおイヌさまのように。
自分の都合だけでは回らない。相手とうまく調整しつづける。答えも解決も直ちに得られるものではない。自分の求めるものが絶対なんてことはないし? 相手においても同様だ。それには自分と相手それぞれを批判できるようでなきゃいけないし、そもそもお互いにお互いの安心や安全を脅かすのではなく、尊重して、配慮しながら、守っていく必要がある。
できた存在ばかり。
逆にその前提で噛みあわなかったら? 天国暮らしは向いていないのかもしれない。
その時点で、ここだって別に完璧でも万能でも、なんでもないのだ。完全な世界なんてない。
スサノオさまが大暴れ! 亡くなった神使もいるという。その時点で理想郷ってことにはならない。
私たちは他者と共に生きる。それはお互いのままならなさや至らなさ、不完全さ、未熟さ、加害性さえ含めたあらゆるものと共に生きるということでもある。都合良く切断することはできない。
不可能だ。
距離を取る、別れることなど含めて、あらゆる手を尽くして調節していく。調整する。お互いに。
そうはいっても苦しみ怒り、嘆き恨み、手に負えない自分になることもある。調整できないことがある。それにそもそも調整したくないってこともある。
それゆえに私たちは自分の情緒的・身体的反応の正当化・責任転嫁・免罪を望み、加害に至ろうとする。その矛先を他者、とりわけ自分の反応をぶつけやすい弱者か、はたまた世界か、あるいは自分に向ける。
長い目で見て、自分の反応を心得て、付き合えるようになっていくほかにない。そのために必要な社会的支援・社会的資源・関係性・環境と繋がっていくほかにない。現世にはその提供があまりにも不公平で、不平等で、不十分で、不足しすぎている。天国もほんとのところは、そう変わらないのかもしれない。ただ充実を目指して試行錯誤しやすい、というだけで。
部屋に戻って、風呂敷を隅っこに置いてから座布団の上に寝そべる。
ふと巣を連想した。
ここは巣。
狐の巣なら、種類によるけど、たとえば穴の中。
親が毛づくろいからご飯からなにまでお世話してくれる。優しくて面倒見がよくて最高。だけど、ある時期を境にぱたっとお世話が終わり、威嚇されたりして外に追い出される。何度も戻ってきても追い払われてしまう。モラトリアムの終了だ。
その期限がない。そういう巣だ。ここは。
働いているおイヌさまたちにとっても、それは変わらない。
安心と安全に接続していられるし、帰ることができるとわかっているから、やっと挑戦できる。
逆にいえば接続できていない状態での挑戦は死と直結している。接続したつもりが足りていないなら? やっぱり事件や事故に繋がりやすい。致命的な状況にも。
イカロスの話を持ち出すまでもなく、空を飛ぶ挑戦は大勢の死者を出した。宇宙を目指すのにしたってそうだ。だけど、そういう「人にはできない」からこそ作り上げた装置、あるいは運用面での問題だけにかぎらない。
入る学校がまずかった。クラスがやばかった。教師が問題だった。いろいろあるだろう。教師の立場でいえば赴任できた学校がやばかった、こどもたちがやばかった、こどもたちの親御さんがきつかった。いろいろあるはずだ。
仕事でも。人間関係でも。
安心と安全は確保されちゃいない。
私とカナタはお互いにそこんところがすごく不安だった。話しあうのもかなりのハードルだった。
できれば巣のような、そういうなにかがいつだってほしい。
だけど同時に巣がないときに、巣のことしか考えられなくなってしまうのも困っちゃう。
いや。だからこそ巣が大事だし、そこを確保しようねって話なんだけど。
巣も絶対じゃないしなあ。
安心と安全には徹底的にコストを割けって話なんだよなあ。
そう考えると、とことん私たちにできることって、常日頃から限られてるんだなあ。
サメ映画にかぎらず、パニック映画で「ここにいたら危険だ!」「だけどここを出たら脅威に狙われた状態で走って逃げることになる! 怖い!」、さあどうするっていう場面がある。ド定番。あんまり王道な展開だから、最近あんまり見ないまである。
留まる安心と安全には制限があって、完璧でも万能でもないので、やがて崩れる。だから「移動したほうがいい」んだけど、それを実践するには「ここにいる安全・安心」よりも「ひととき立ち向かわなきゃならない勇気」を強く求められる。どういう形でもいい。後者を選べるなら。ただ、もちろん、だれにでも選べるわけじゃない。
もっと言っちゃうと、逃げたらだいじょうぶって話じゃない。
絶対はない。完璧も、完全もない。
だから怖いんだよね。そういう状況が実際には世の中に氾濫している。いろんな形で。
当たり前ってことはない。
飲食店でお皿やお箸などの食器が本当に衛生的か。調理場所に害虫や害獣が出ていないか。利用する私たちにはわからない。
当たり前なんてことはないと知ってしまうと、恐ろしい。
昆虫やねずみが入ったスープかもしれない。ツバを吐かれているかもしれない。
だけど見えない。わからない。でしょ?
保健所があって、営業許可だけじゃなくて検査も行われているけど、それで毎日オッケー? ちがう。
結局、働いている人たちに委ねている。
チェーンならキッチンの人だけじゃない。工場で働いている人たちに委ねている。
こう言い換えることもできる。工場で働いている人たちの、職場環境や労働条件など、待遇に委ねているとも言えるんだ。
学校の先生も、役所の人たちも、なんでもそう。
仕事はしっかりやるのが当たり前、なんて自分の思いで、具体的な待遇だなんだがよくなる? みんなにやれって結果だけ求められる? そんなわけ、ないじゃないか。
完全な論理がないという、巣の外を知って受け入れる道を歩み始めた。
そんな私から生えた毛は、完全な論理に期待していたものの固まりなのかもしれない。
「なにがあっても着続けたパジャマみたい」
それを着ているかぎり、私はだいじょうぶ。
そう思えるもの。
お気に入りのパジャマや靴下、パンツとかTシャツとか靴とか、そういうの。
脱いでももうだいじょうぶ?
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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