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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千七百八十三話

 



 発達の過程には段階がある。

 様々な学者による、いろんなモデルがあるそうだ。

 エリクソン、ハヴィガーストの理論に基づいた一例を示すと?

 胎生期、乳児期、幼児期、児童期、青年期、成人初期、成人期、老年期と移行していく。

 生物学的変化、時間経過を軸に捉えるだけでは足りないし?

 人による!

 だれもがおんなじ流れで、上述した過程の内訳を体験する! なんてことはない。

 それに体験の解釈は人によって異なる。どんな情緒的・身体的反応が生じて、それをどのような経験として消化していくのかもね。

 だから極端なことを言うと、みんなちがう発達をしている。

 様々な体験を経ては、そのつど新しい課題に出くわして、対応していく。

 乗り越えられるとはかぎらない。

 死ぬまで引きずることもあるだろう。

 ピアジェの理論における発達段階においては感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期という、ちゃんと勉強しないとすこしもぴんとこなさそうな用語が並ぶし? エリクソンのライフサイクル論も同様だ。あと英語を横文字にして書くと、ちょっとうさんくさく見えちゃう。

 ライフサイクル論では生涯にわたって社会文化や歴史側面の影響を取り入れているとか、なんとか。ううんだめだ。やっぱりちゃんと勉強しないとだ。だれかがぽんと教えてくれる内容じゃなく、自分で理解することが重要。端末がなくてもきちんと説明できるくらい、体験を伴った内容がいいね。

 バルテスの生涯発達理論なら、ちょっとだけわかる。SOCモデルと呼ばれるものだ。

 私たちの発達は生物学的要因、環境要因に影響を受ける。それらが相互に作用することでもね。

 そのうえで年齢的要因、歴史的要因、非標準的要因とに影響を受ける。

 年齢的要因は心身の発達を示すものや、社会文化における年齢に紐づいた体験や変化。私たちなら幼稚園や保育園、義務教育をはじめ、各教育や社会生活などがそう。

 歴史的要因は、どの時代にどういう環境で過ごしたかを示す。天保時代なら大飢饉。昭和の頭のほうなら戦争だし? 文明開化ーとかさ。いろいろあるよね。大人世代だとバブル崩壊、リーマンショックあたりかな。氷河期世代もそうか。アメリカなら「9.11」だけど日本なら「3.11」、あるいは阪神大震災などだろう。まだある。お医者さんが使ってるポケベル全盛期や、ガラケー全盛期。Windows95からのインターネットの爆発的普及以前か、以後か。

 非標準的要因は個人特有の出来事を示す。私でいえば? 八尾を押し込められたこと。産まれたときにお姉ちゃんを失っていたこと、それよりも再会したことかな。戦いや事件に遭遇したこと。みんな個別にちがうよね。引っ越しもあれば、病気や失業、登校拒否とかいじめとか、事件を起こしたとかさ? 転職したとか、転校したとか。施設に入れられた、とか。もうほんと、いろいろある。

 ここまで踏まえると、もうおわかりだと思う。

 発達にはあまりにも個人差がある。

 そして成人期以降においては、個人差がどんどん拡大していく。

 単純によくなる、なんていう話じゃないよ?

 いま多数派でいられることが発達上よかった、ということでもない。

 乳幼児期、あるいは青年期の問題をずっと抱えた壮年期の人だっている。成人期の人たちに合わせて適応しようとしすぎた青年期の子が、実際は乳幼児期の困り事をずっと抱えて苦しんでいるなんてこともある。

 みんなちがう。

 それぞれにいろんな発達をしている。

 それが家庭を形成したり、学校に集まったり、会社や仕事現場に集まったりしている。国会議事堂や各省庁に集合していたりするのだ。病院も、研究所も、大企業も、どこもおんなじ。

 いろんな発達をしている人が集まっている。

 そこには「ふつう」なんて妄想が入り込む余地はない。

 みんなちがうのだから、当然だ。

 昨今、巷で発達障害をネットミームに活用するやばい人たちがいる。高城さんやナチュさん、真壁さんたちの話のなかには、職場にいるどうかしてる人ほど、だれそれは発達障害だと揶揄するという。

 もちろん彼らは誤っている。倫理的にも、道徳的にも。

 だけど、もっと根本的な間違えを犯している。

 発達障害とは、だれもが異なる発達をしているなかで、集まりや組織、共同体側の障害が人を苦しめるというものだ。人が問題なんじゃない。集まりや組織、共同体が問題を抱えているの。なので集まりや組織、共同体側の問題を解消して「どんな発達をしている人でも受け入れられるよう」改めていく。それが本筋だ。

 「みんなでひとりのせいにする」なってこと。

 ここまではいいかな?

 さて、みんなちがう発達過程を経る。

 たとえば研究者たちが現状で最も理想的な過程や段階を、最も理想的な依存環境、つまり社会的支援・社会的資源・関係性・環境に恵まれた状態で過ごした場合を想定した内容がある。そこでは最も理想的な成長内訳を記述する。

 もちろん、そうはいかない。

 なにより正常か異常かで判断するものでもない。むしろ不適切まである。

 そんななかで、具体的に対応していく。

 私たち自身が個別に出会う課題にね。

 それぞれに頼れるものに頼りながらだよ?

 それさえ、だれもが簡単にできるものじゃない。ずっと無理という人生もいっぱいあるだろう。

 こんなにちがうんだ。

 こんなにちがうから、私たちは「どうにか変えよう、乗り越えようとする」し、あるいは「みんなでひとりのせいにする」。ほかの具体的な手段、行動もあるだろう。分かれていく。でしょ?

 なにもしない人もいるだろうし、なにもできない人もいる。それにしたって、ひとりひとり、みんなちがうんだ。

 これがいつだって大前提。

 そのわりには?

 なるべく一緒くたの集まりにして、迷惑をかけるなって圧をかけるのが常態化しているようだけど。

 ちがう。そうじゃない。

 目指すのは、みんなちがうけど、いられることだ。みんなちがうけど、過ごせることだ。

 だからこそ私たちの世界に完璧はないし、万能でもないし? それがなんだ。目指す価値のあるものだ。そして目指さないかぎり、知識や技術が生み出されることも、発展することもない。充実することだってない。

 だからもちろん目指すし?

 問題だってやまほど起きる。

 あの野郎にかぎらず衝突するし、あの野郎を利用した連中のようなろくでなしもいる。

 どんな価値観、どんな論理でも受け入れるというわけにはいかない。

 自由はなんでもありじゃない。だれかの自由はだれかの不自由になる。

 私たちは「なんにも考えなくていい」自由を目指すんじゃない。

 「どんな発達をしている人でも受け入れられるよう、よく考え、よく学び、よく行って、やっとなんとかなっていく」自由を、ひとまず目指すんだ。レンガを積み立てて軌道エレベーターを作るぞと意気込むくらいの状態と段階でね。

 だから先は長いわけ。

 いまは不十分だらけなわけ。

 理不尽もたくさんあるわけだし?

 対応することがやまほどあるわけ。

 私とカナタの間においてさえ。

 冷静に考えてみれば当然だ。自分が産まれたときから見てるうちの親さえ、私という相手に相当苦労したことだろう! それを私はぷちたちと接しながら痛感しているのだけど。

 やれんのかって!

 いつもは無理じゃん?

 ぶっちゃけさ。

 個々の発達がみんなちがうわけでしょ?

 そりゃあ、もう無理だよ! ってなるときもあるし?

 最高の出会い、最高の時間を過ごせる相手のはずなのに、無性に我慢できない瞬間もある。

 これってすごくふわっとした言い方だ。

 具体的にどんな行動をしたかで判断しないと、最高だからと粘ったり、本来最高なはずだからと逃げるのをやめたりしたら致命的なことにもなりかねない。

 親子なんかわかりやすい。親とはかくあれ、親子はこうあるべし。

 恋人同士も、結婚したふたりもそう。

 職場での社会人とは、とか。学校での学生とは、教師とは、とか。

 もう枚挙に暇がない。

 事前に対応を定めて、みんなそのとおりにすればいいのに! みたいなのとか。

 関係性のために、環境のために、個人がやるべき! みたいなのとかさ。

 そうじゃねえんだ。

 それじゃだめなんだ。

 絶対的なものはないんだよ。論理のように。

 ただ絶対的にしたい人がいるだけなんだ。それが自分か、だれかは置いておいてね。

 そんな絶対に従えるようには人間できてないからさ?

 適応しようとがんばって疾患に至る人が学生から社会人まで、家庭においてさえ、膨大にいる。

 それが現代の疾患のありようのひとつの形態とも捉えられる。


「発達の視点で捉えたとき、私とカナタは、それぞれに、ふたりをどう快適にしたいかを考えるし、感じるし、どれもお互いに異なるわけじゃん?」

「まあな。そして俺だけ、春灯だけの意見が通ればいいってことじゃない」

「そう考えるとして、その考えが一致していればいいけど。そうじゃない場合もある。でしょ?」


 たとえばカナタとシュウさんみたいに。


「顔をつきあわせればいつもケンカになってたな」


 まるで離婚寸前の夫婦みたいだ、とは言わなかった。

 ドラマ「FROM」、閉ざされた街に閉じ込められた住民たち。そこに新たにやってきた四人家族。親は離婚寸前。街の窮地にしばらくは一致団結していくんだけど、徐々に安定していったり、あるいはなにかトラブルが起きたりすると? ふたりの方向性のちがいが顔を出す。そして離婚寸前の大げんかしかしないふたりに戻ってしまう。

 方向性のちがい。

 まるでバンドの崩壊理由みたい。

 でもね? ばかにできなくてさ。

 発達のちがいであり、考え方や感じ方のちがいなんだよね。

 知識や技術、体験のちがいでもある。

 家族はひとり、こどもを失っている。この出来事に対してなにを感じて、なにを考えたのかは、ふたりともちがうんだ。その後の対応も、対応にまつわる考え方や感じ方もね。もちろん、相手の対応に向けた感情だってあるしさ?

 とことん、ちがうんだよ。

 そのちがいと付き合えたらいいよ?

 でも付き合えなかったら? 無理だよね。

 たとえば「お互いに歩みよる」を理想にしたいときもあるけど「譲歩しないと進まない」ことがたくさんある。でもって、そこで「お互い5対5じゃなきゃおかしい」なんて思うようだと? 揉めるタネになる。

 もうさ。とことん課題、課題、課題なんだよ。

 思うようにはいかない。自分に生じる情緒的・身体的反応とのお付き合い。その対応を、だれもがしているなかで、ぼちぼちやっていく。

 そりゃあ、揉めるし?

 いろんな選択をするよね。人間。

 FROMの夫婦でいえば、こどもを失った悲しみをどうするか。自分とちがう対応をする相手をどうするか。悲しみに暮れるこどもふたりをそれぞれどうするか。相手がどうしているか。それに対してどうするか。

 もうね。いちいちあるの。方向性のちがいが生じるところが。

 それだけじゃ済まない。

 食事の取り方、後片づけの仕方。トイレの紙の交換。飲みかけのペットボトルの残量が少ないときの対応。そういう事細かな行動のちがいでさえ、いやになるときほど我慢できなくなる。

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというけどさ。

 許せないスイッチが入ると、もうね。なにもかもが腹立たしくて仕方なくなっていく。

 そしてケンカの議題にしちゃうんだ。

 お互いに!

 バンドにかぎらず、夫婦にかぎらず、カナタとシュウさんの間で起きたケンカももう、この次元だったんじゃないかな。

 離れたほうが、お互いにやっていける。生きていける。

 排除するのではなく距離を取る。これも一手。

 だから離婚や離縁が存在する。過去に駆け込み寺があるわけで。

 推しがこの世界に存在するから、まあいっか! くらいの感じだ。たとえ推しが結婚しようと、実は影で大暴れかよっていうくらい乱れてようとね。だれかとよろしくやっていようとだ。

 そういう人によってはおかしくなっちゃいかねないほどの切ない距離感さえあるわけで。推しとファンでいつづけるのも楽じゃないわけで? だからファンやめるのだってありなわけで。そんなので消化できない思いが芽生えたなら、それはそれこそ、自分とのお付き合いの始まりなのであってさ。

 いいことだけじゃないんだ。

 それは生きてるかぎり出くわすものだから、付き合っていかないとね。

 でもみんなに強要するような冷淡さじゃ、生きてけないこと、問題になること、やらかす人まで出てくるから、ちょっとずつでも生きやすくしていきたいね。

 そんな感じなんだよね。


「そういうところに落とし込めないかなあ」

「例の男か?」

「も、だし。製造開発Cグループも」

「ああ。ん? AとBはなんだっけ」

「ごめん。製造開発者たちね」


 投げちゃった。


「落としどころか。選択肢はそんなにないぞ」

「犯罪者は捕まえる?」

「そこからだろう」


 結局そうなる。

 発達はみんなちがう。

 大前提として、そもそもみんな、産まれも依存の内訳もなにもかもちがう。

 そこには紛れもない差がある。格差というほかにないものもたくさんある。

 不公平、不平等を改善しようという目的は重要だけど、軌道エレベーターの話でいくならさ? いま苦しんでいる人たちへのフォローや支援が薄いままでいいのかよって話は当然ある。

 もちろんだ。

 私になにができる?

 なにをしたい?

 目的と実態に乖離があって、これに途方に暮れることばかりだ。

 世の中に完璧がないように、思うとおりの理想もないように、私にも未熟で不足していることがやまほどある。理想のとおりの自分ではない。

 そこで一喜一憂する暇があったら、たぶん、行動したほうがいい。

 押し潰されてしまうことばかりだから。

 自分を生きるので精いっぱいなときもある。異国の戦場に出かけていって写真を撮り、世界に訴えるほどのバイタリティをついに持てない一生で終わるかもしれない。近所の困った人たちを横目に見てほったらかすだけの一生のほうがきっと、ありふれてるのかもしれない。

 すべて、自分になんとかできたなら。

 そんな万能な論理もなければ?

 そんな万能な個人もない。

 できるかぎりで、なんておためごかしじゃごまかせないことも自覚して生きていくほかにない。

 夢という殻の外には、ああこんなものかという現実があるだけで? 自分もその一部なのだ。結局は。

 それでも、なお、できるかぎりを生きるだけだ。

 開き直って、自分を生きるのだ。

 理想や夢を、理想や夢で叶えるのではなく、理想や夢という未知を、無知を、道を、現実の行動の積み重ねで歩きだすのだ。歩きつづけるのだ。

 それだけとは言わないよ。

 あらゆることに出くわすだろうからね。


「そうやっていったん落ち着く術を心得る代わりに、理想や夢を理想や夢で叶えることはできないと実感するのが、大人になることなのかも」

「生きることはとことん具体的で、現実的だもんなあ」

「「 はあ 」」


 ふたりでそろってため息を吐いた。

 荒涼とした大地に緑が芽生えたらいいなーって夢を抱いても、祈ればなんとかなるっしょっていう夢みたいな解決方法では叶えられない。緑化に必要な知識と技術が「はいはい、こっちおいで」と待っている。その道は相応に長く険しいし? 道を先に進む人がいろいろいて、おまけに道はひとつじゃない。怪しげなことを言う人もいる。製造開発者たちのような不届き者のうんち野郎どももいる。

 たいへんだよ。ほんと。

 みんなちがうんだもの。

 私とカナタの間でさえ、そりゃあもちろん同じじゃないからさ?

 揉めるよー! すれ違うよ? 話したくないこと、言えないことも増えてくよ。

 いろいろあるよね、人生。

 ぼちぼちやってこ?

 気負うことなく、焦ることなくそう思えた。

 そしたら不思議!

 なんか、ずいぶん楽になっちゃった。

 勝手なもんだね? 自分のことさえ、さっぱりわからないや!

 ま、いっか。


「手を見せて?」

「ん? おう」


 カナタが右手を差し出してくれたから、両手で付け根を握って指先で撫でる。

 ひさしぶりにじっくりと眺める。

 肌の色艶。皺。あ、手相は知らないのでスルーで。

 指。関節の間隔。それぞれの形。太さ。固さ。

 眺めながら、触れながら思いだしていく。改めて覚えていく。


「ああ、その」

「なに。催してきた? しないよ。病室だし。いつ看護師さんがくるかもしれないし」

「わ、わかってるけど。俺だって、触りたいよ」

「手だけならいいよ?」

「ああ。じゃあ、俺の番」

「まだだめ。左手が残ってるもん」

「俺の次じゃだめ?」

「そんなに我慢できないの?」

「手だって触りたいよ。見たいし。覚えておきたいだろ。いつだって」

「そっか」


 軽く答えたつもりだけど、わりとドキッとした。

 さみしいほどに触りたい。

 そういうの、私には強くあってさ?

 カナタも同じみたいだ。

 これはきっと障り、祟りかねない衝動なんじゃないか。

 心の中のどこかで、そう強く感じている。


「どうしたら、さみしさが癒やせるんだろうね」

「理想や夢を理想や夢で叶えることはできないと実感して、自分の飢餓感とちゃんと付き合うって決めたら、なのかな」


 まだ無理そうだと呟くカナタは、私の手のひらを両手で包んでみたり、私のしたような触り方を真似したりしていた。私が根を上げるまで、ずっとやめなかった。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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