第二千七百八十一話
話すにせよ聞くにせよ、音に依存する人は音を頼りにするし、手話に依存する人は手話を頼りにする。
音、手話。これらを用いて表現された言語によって発せられる情報をもとに、私たちは判断する。
情報はいろんな刺激を与える。
カナタにとって避妊せずに私と性交すること、私がそれをいやだと言えなかったことは「男性による明らかな加害」であることが、たまらなく痛く、場合によってはあまりにも不快な刺激になる。
話す聞くにかぎらず、情報は常に刺激に繋がる。
私にとっては、カナタに指摘する以前に去年、私自身がなあなあにしていたこと、カナタがいやがったり休みたがったりしていたのに無理にでも触れたり誘ったりしたこと、しばしば首を中心に噛みついていたことなんかが痛い刺激になる。恥ずかしくて情けなくもある。
私たちはそれでなくても温度や湿度、居場所、衣食住などにおいて情報による刺激を受けている。
それとは別の情報による刺激は、関わりのなかで増えていく。
話すにせよ、聞くにせよ、そこでやりとりされる情報だけで済まない。私たち自身が記録している情報も刺激の源になる。
なので、話すにせよ聞くにせよ、まず自身の刺激に対する反応と付き合うことになる。
話すにせよ、聞くにせよ、それ以前に、たとえばシャルと向き合ったなら? 私は彼女が理華ちゃんによって姿を変えられた教授であることを理解している。知っている。どれだけ私が言葉を弄しても、身体は彼女を、彼を拒絶する。かつて誘拐されたときのすべての出来事を記録した身体が、脳が、生理学的にあらゆる負荷をもって反応する。その反応は情緒的・身体的、両方で、私は正直、平静ではいられない。いたくもなくなっていく。
だから話すのも聞くのもむずかしい。
これは私と彼女が特殊な体験があるからで、他の関係性なら「むずかしい」ことはないのではないか。
そんなことはない。
私とカナタはしばし緊張関係にあった。なにせむずかしい状態にあったのだ。理由は私の忌避感だけじゃない。カナタが怯んだだけでもない。もうちょっと複雑。
病院にいるのでそれっぽい例えを持ち出すなら、私は入院中に何度か採血をした。点滴も受けている。つまりは注射と縁がある。このところね。でもって、いくつになっても注射が無理な人は無理じゃない? 注射器を使いたい看護師さんがどんなになだめても、無理な人はもう「話すどころじゃないし、聞くどころじゃない」よね。
私たちは基本、野の論理に生きている。
それは縛りもなければ制限もなく、事前に前提を共有するでもない、雑多で混じり合う数多の論理がありえる領域だ。
論理。
大辞林いわく「思考の形式・法則。議論や思考を進める道筋・論法」「認識対象の間に存在する脈絡・構造」だ。思考形式であり法則、道筋や論法という価値観を論理とするならば、私たちは雑多で混じり合う、だけど人によって、時と場合によって変化する多種多様な価値観ミルフィーユと共に交流している。
そもそも価値観ミルフィーユと共に生きているとさえ言える。
それは言い換えれば、個別に異なる刺激と反応を抱えて生きていることになる。
そのうえで、面と向かって「話す」「聞く」をするのだ。
簡単じゃあないが、深刻になるほどむずかしくもない。
重要なのは「話す」にせよ「聞く」にせよ、それをなんのために、どの程度の水準で行うか。
話すにしてもレベルがあり、方向性によって分岐する。内訳も異なる。
聞くも同じだ。
それらをどう捉えて、どう考えるかは人によって異なる。
論理がちがうのだ。
もちろん目的も手段も異なる。
おまけに情報による刺激も、刺激に対する反応も人によって変わる。
こんなのは当たり前すぎることで、初歩中の初歩。それゆえに、とても大事なことだ。
みんな同じように考えない。同じように感じない。刺激と反応、それが意味するものも人によってちがう。ならばせめて情報の意味だけは共有したくなるけど、そこもずれる。一致しないのが当たり前。
これが大前提なのね?
アメリカの大統領になったトランプは、みっつのルールを伝受されたという。「ひたすらに攻撃する」「絶対に非を認めない。全否定」「なにがあろうと勝利を主張しつづける」だ。この論理を貫くトランプと、まともに「話す」「聞く」ができるだろうか?
はっきり言えば不可能だ。
映画「野火」にて主人公を追い払いたいだけの上官、仲間を食って頭に血が上っている年下の兵士などに「話す」「聞く」ができるか。無理だ。
小説原作の映画「ちょっと今から仕事やめてくる」で常に癇癪を起こす上司が出てくる。彼に話が通じるか。彼の癇癪を聞いていられるか。あり得ない。
いやいや、どれも極端な例だって?
たしかにそうだね。
じゃあさ。身の回りの人とどれだけまともに「話す」「聞く」ができてる? 相手はどの程度の「話す」「聞く」をしてる? 相手に対して、あなた自身はどれくらいの「話す」「聞く」をしてる?
ただ話せばいいってものじゃないよ? ただ聞いていればいいってものじゃないよ。
それぞれ、どういう論理で行っているの? 説明できそう? 具体例をもとに解説できそうかな。
できなくてもいいの。話す、聞くとはまたちがう技能の話題だからね。
でもね? 技能ということは、むしろ私たちはよくわからない、考えたこともない、感じることはあってもことばにしたことがない行為をしている可能性がある、ということになる。
でしょ?
東畑開人「聞く技術 聞いてもらう技術」ちくま新書、2022年では「聴く」ことを「語られていることの裏にある気持ちに触れること」、「聞く」ことを「語られていることを言葉通りに受け止めること」と記している。そして心理士において「聴く」ことの重要性に触れて、専門家の高度な仕事なのではと考えていたことに触れる。
けれど著者は「聞く」のほうがむずかしいと述べる。「話をちゃんときいて」「ちょっとはきいてよ」と言うとき、私たちは「聴く」のではなく、まず「聞く」を求めている。「言っていることを真に受けてほしい」と願っていると著者は整理する。
仮に「真に受ける」、「言葉通りに受けとめる」ことを聞くの技術のひとつにしたら、どうかな。
できそう?
こういう問いも立てたいな。
いつでもどこでも、するべき技術?
たぶんちがう。
中学生のとき、家族で旅行中に見事にはぐれたとき、おじいちゃんに話しかけられたことがある。延々と興味もなければ尋ねてもいない話をずーっとされるの。そしたら、近くのお土産屋さんのおばさんが飛んできて「ちょっと、あなた迷子? こっちきて」と引っ張っていってくれた。いろいろ心配しながら迷子かどうかを確認しつつ、「ああいうの危ないから」と教えてくれたっけ。
ほかにもあるな。
おばあちゃんちの集いで、親戚のおじさんやおじいちゃんたちが「赤飯は? もう食べた?」だの「今夜は一緒に風呂はいるか」だの、ほんと最低にも程があることを言ってきたことがある。おばあちゃんやお母さんのいない隙にね。当時は意味がすこしもわからなかったけどさ。いつもお世話になってるお姉ちゃんが鬼の形相で駆けつけてきて、おじさんたちを怒鳴りつけて、私をすぐに引っ張っていってくれた。
真に受けちゃならない、受けとめちゃならない話や情報って、実際にたくさんある。
だから「聞く」のはむずかしい。
転じて「話す」のもむずかしい。
あとは「ちゃんと話さなくていい」「ちゃんと聞かなくていい」こともいっぱいあるじゃない?
トモたちやキラリたちと遊んでるときの話って、それ自体が大事っていうより、遊んでるときの感情表現が主だったり、だらだらだべるだけのことが目的だったりするからさ。言うなれば、すごく脱力した、目的もそう高くない「話す」「聞く」なんだ。
これって、ある程度はみんなの感覚ないし求めが重なっているほどスムーズだし? ひとりでも我慢してると、ね。不満の種になっていくよね。関係がぎくしゃくするきっかけになったりもする。
なのでやっぱり「話す」「聞く」は、どちらもむずかしい。
手を抜くにしたって、その場、みんなの論理がある程度は噛みあってないとね。
むしろ、どんな状況においても、自分の論理だけでなく、相手や周囲の論理も読み取り、調整する必要性があるんだ。ひとつの論理だけあればいいってものじゃないし? トランプみたいに「俺の論理だけあればいい」なんていう人がいたら、たまったものではない。関わりたくないまである。
よく付き合い、よく調整する。
これが本当にむずかしい。
それ以前にまず、情報による刺激と反応に接するのがたいへん。
このあたり、とても重要なポイントだ。
でね?
去年、私は積極的にカナタにセックスを求めた。これは私にとってもカナタにとっても、それぞれ異なるものの気まずくて、恥ずかしくて、みっともなくて、決していいとは言えない具体的な考えや感じたことがある。いくつもね。
避妊がなあなあになった時期がある。積極的にならなくなった時期、むしろノースキンに積極的になった時期さえある。やがて私が仕事だなんだで生理痛どころじゃなくなりお薬をもらうようになって、それは”あくまでも結果的に避妊の効果がある”ことから、さらになあなあになっていった。
加えていえば、それも大事なことを確認しておくと私が飲んでいる薬は結果的に避妊の効果もあるというけれど、性感染症の予防にはならない。スキンは性感染症の予防にもなる。もっとも洗っていない手で局部に触れたら意味がない。性感染症の可能性が高まる。
ビッグバンセオリーでペニーたちが女子会をしたとき、小説の話題だったかなー! ケツメドにキスをする話題が出ていた。身も蓋もない言い方に直すと肛門だ。お尻の穴である。カナタさんがなぜか一時期「お前のすべてのはじめてがほしい」などとおかしくなった時期にご執心だった箇所だ。
言うまでもなく、衛生的に好ましい場所じゃあない。
ちなみに男が「入れる場所を間違える」だけでも、スキンをつけてれば男は問題ないけど、女はそうもいかない。
性感染症にかかると産婦人科で診てもらうしかなく、これがもう、あらゆる意味で地獄。屈辱だけで済まない。婦人科の医師が男なだけでも最悪なら、その男に無駄に叱られることがあるのも最悪。まだまだ言い足りないけどね。なにせ最悪のケースには底がない。たまに犯罪も起きる。まだ話していい? ああ、うん。やめとこうか。
性感染症の疑いがあるときだけじゃない。妊娠の可能性があったら? そもそもいま処方されているお薬をもらうのだって、婦人科だ。ベストが見つかるとは言い切れないけれど、ベターな担当医を探す必要性に駆られる。
当然だ。
危なくなったら探すのでは遅い。
なにせストレスフルな一年だったから生理も定期的とは言いがたい状況だった。何度ひやりとしたか。それをカナタに相談できたか。私には無理だった。代わりにお母さんが何度も尋ねてきて、それはそれで怖かった。中絶について調べたし、妊娠から時間が経過すると中絶できないことを知った。一方で、だからこそ需要ができることも理解した。一定の週を過ぎても手術してくれる医師に。もちろん違法だ。
よっぽど熊本市にある慈恵病院のやっている「こうのとりのゆりかご」のほうが身近。違法な医師よりもね。それに実際、違法になる段階での中絶はもう殺人になる。母体に深刻なダメージを与える。もし今後、妊娠を考えるのなら不可能になるかもしれないことを前提にするし、無事に手術が終わるとはいえない。そして違法なだけに、現状において殺人する施術に私たちは縁がない。
高校生でもしも、なんてことになったとき、東京から熊本に、産後、ひとりで出向いてなんて考えられる? 現実的じゃない。
だから私にとって薬はある種、問題の先送り。
このたぐいの内容って話すにはむずかしい。だけど現実として存在することだ。おまけに本当は話すべき事柄だ。私にとって、それにキラリやトモやマドカたちにとって、世界中の女性にとって決して切り離せないし。心身に直結した話題だし? 切り離されちゃ困る内容だ。だけどカナタたちをはじめとする男性陣は知らない。調べない。勉強しないし、尋ねない。興味ももたない。
この差がまず、耐えられない。
避妊について一切、気にしないし、それがどういう可能性を持つことなのかも具体的に考えようとしない。
そのことが無性にたまらなくなる。
時折、もう、底もないほどに。
性行為がどういうことなのかも。妊娠と出産がどういうことなのかも。まるで理解がない。ないことに無自覚だし、それについて知ろうとしないところにも、たまらない気持ちになる。
だけどセックスも含めて、私たちの交流は、それが本気であろうがなかろうが、その覚悟も知識もなにもなかろうが、いくらでも互いを深刻な領域に引きずり込めてしまえる。
恋だの愛だのの前に、まず「話す」も「聞く」もろくにできないままで、私たちはいくらでも深みにはまる。未熟なまま、いくらでも傷つけあっていく。そうできちゃうものだからさ?
話しにくいことを話さない。
ほっとく。
とことん、ほっとく。
なにせ刺激に耐えられない。
それくらい、現実で直視すべき事柄は重たくて、重要な内容ばかりだ。
理屈でいえば「知っとけ」「ちゃんとしろ」。
だけどこれが、ね。
性交渉の経験のある十代を男子女子別々に千人ずつ、合わせて二千人ならべて実態を調べてみたら、けっこうむずかしい結果が出るんじゃないか。十割が「知ってる」「ちゃんとやってる」とはいかない。士道誠心はリエちゃん先生をはじめ、性教育を含めた人権教育をちゃんとしようとしている。私立だし。寮も男女混在だし。いろいろはちゃめちゃ。
でもね。学校によって内容には差がある。そもそも文科省は包括的性教育を取り入れるつもりがない。文科省が推進している性被害などの防止策についての教育で充当を考えているし、十分とは言いがたい。
おかげで私たちは困ってる。交際経験や性行為の経験でいうと、ありと答える人の比率においてどんどん平均年齢が高くなっているっていう話もあるけど、ゼロにはならない。そして、そのゼロじゃない側の私たちは困ってる。
たぶんお父さんとお母さんの世代はもっと悲惨なんだろうし?
世代をさかのぼるほど、どんどん悲惨になっていくんだろう。
それをね? 言葉にするのは、すごくむずかしいんだ。
話すのだけじゃない。
聞くのもむずかしい。
どう言葉にすればいいのか。
どんな論理でしゃべればいいのか。どんな論理で聞けばいいのか。
責める文脈にできるよ。いくらでも。
その文脈、論理はもちろん、私を責めるものにもなるよ?
参るね!
現実に、同じことで破綻したふたりはやまほどいそうだし? もっと悲惨になったり、加害や暴力に至ったり、それこそ妊娠してだめになったり。そのだめの具体的内訳は、家庭同士のトラブルに発展したり、刃傷沙汰にまでなったり。こうのとりのゆりかごじゃなくて、トイレで産み落としてどうすることもできなかったり、養護施設にこどもを里子に出したり。
そういうことになる。
そんな岐路に、付き合うだけで立たされている。
私は知らなかったよ。そういうことがやまほどあったよ? カナタも同じ。
どういう論理でいこうか。
お互いに相談してみよう。
去年からずっと引きずっていたことを、ようやく話して、聞くためのスタート地点に立った。
「私にとっては、簡単じゃないかな。話すのも、聞くのも」
「俺も」
ここまでの内容を聞いていたカナタは、尻尾が漏れなくしゅっと細くなって垂れていた。
「話すだけじゃなくて、聞くだけでもなくて、知るのも、考えるのも、感じるのも簡単じゃないよ」
そうつぶやく。
「俺は、兄さんの論理で、それがもう痛くてつらくて。恋人、相棒、特別な関係っていう、春灯とのあらゆるものに、安心できて、安らげて、落ち着くものがあるって感じてた」
「うん」
「それを実感できるのが、ふたりですることで。関係に紐づく行動でさ。キスも、ハグも」
セックスも。その内訳に、それこそポルノにあるようなことぜーんぶ含めてしまう。
「ゆっくりとだけど、春灯そのものが俺にとっての安心とか、落ち着きとか、癒やしとか、そういうのに変わっていってさ。でも、ほかのやり方がなかった。論理がなかった」
「うん」
「考えたことなかった。論理か。生きやすくなる、自分の論理。組み立てたことなかった。兄さんにあれこれ言われるものの反論しか、なかったし。それってきっと、兄さんにぶつけられていたものを論理として、抱えてたってことでもあって」
「うん」
「いやなもの。それに反発するもの。このふたつで、俺はずっと生きてたんだ」
「うん」
やだなあ、と呟くカナタに身体を擦りつける。
私とはちがう。ちがっていて、いい。
ただ、ちがいがあるからこそ知りたいし、そのためには話して、聞かなきゃならない。
自分の論理に引きこもってはいられない。
なのに自分の論理を雑に扱うようでもいけない。
正、反、合。ヘーゲルの弁証法にあるような批判的視線による思索、交流、言動をもって、改善していくほかにない。
言い換えればね?
改善していい。改めていい。
自分の望むように。どうありたいか。どんな人でいたいのか。どんな世界を望むのか。
表現していけばいい。
ほかのだれでもなく、あなたの求めるままに。
私たちはしばしば、耐え難い人や集団の、苦痛でならない論理に絡め取られることがある。
カナタにとっては、長らく衝突していたシュウさんの論理。
私にとっては? あの野郎。小学校の頃の数えきれない体験。おばあちゃんちの困った男たちのうんざりする論理。
お互いに、他にもいろんな論理に触れて生きてきた。みんなそうだ。みんなそれぞれに、厄介な論理を厄介だと理解しながら、なのに内面化しては苦しんで生きている。
ただ否定するより、攻撃するより、理解して、批判して、それがどういうことなのかちゃんと把握して選んでよい。
卵が先か、鶏が先か。そういう話にはなるけど、批判して把握するには安心と安全がいる。思索もいる。交流だっている。自分の論理に引きこもらず、さりとて否定するのではなく見つめる態度がいる。
この前提をもって、付き合っていく。
自分の感覚と。刺激と反応と。情報そのものと。情報による刺激と反応と。まだ続ける?
手に負えないよね。
まだ、簡単だと思う?
話すのも、聞くのも。
対話が妙に盛りあがっているけど、私に言わせれば、そのずっと手前にある会話がそもそも成立していない。私たちは会話に苦労している。ずっとね。
なんでか確認するまでもないよね。ここまでずっと繰り返し述べてきたんだから。
「自分の論理を組み立てていいんだよ」
そういうとき倫理や哲学はかなり助けになるんだと、ようやく気づく。
三大宗教が普及するのも、学校としての機能だけじゃなく、論理の提供をしてくれるから助けになるからだろうし? その需要はもちろん新興宗教団体であろうと、ビジネスのセミナーであろうと提供されることだろう。ビジネス本、自己啓発本の類いもそう。
実はその手のものにいかずに哲学の勉強を真面目にするだけでもいい。たぶん。難解だし、自力な部分がやまほどありそうだけど。
下地を取り入れて、そこから再構築していくほうがやりやすい。ゼロから作るよりはね。
物事の良し悪しの判断だってそう。インフルエンサーや動画の言うとおり! と、新聞や週刊誌の言うとおり! にはちがいがない。そして、ずーっと需要がある。
相手の言うとおり。会社や偉い人の言うとおり。これもそう。もっとも需要を持つのは受け手じゃなくて話し手のほうじゃないかな?
これは私とカナタの間でも起きる。
でもね?
それはいけないことだ。
とても、いけないことなんだ。
私たちはまず、だれもが自分の論理で生きている。
それを否定してはいけない。
ただ、論理を再構築していくことで、手を取り合うか、それとも訣別するか、そもそも関わらないし近づかないか、選んでいくし? 対象がどれほど絶対的な相手であろうと、その論理がどれほど自分を強烈に縛りつけていようと、いつだって自分の力で、切り離していい。
だれにだって、その力と権利がある。
それを守るためには、否定してはいけない。絶対に。
ニーチェはかつて言った。
神は死んだ。
カナタには伝えたい。
あなたはシュウさんじゃない。
それにカナタが求める方法じゃなくても、十分にだいじょうぶだと体感する術があるのだと。
同じくらい、私が感じておきたい論理があるはずだ。
ひとまず、いまのところ、やっていけるのだと。
十分ではなく、問題もあり、失敗もするだろう。それでも、いまのところ、だいじょうぶ。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




