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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千七百八十話

 



 さってとぉ!

 渡邊雅子「論理的思考とは何か」岩波新書、2024年の序章の内容を頼りにしてみよう。

 いまさ? 貧困っていうと、なにを思い浮かべる?

 ご飯も食べられないこと? おむすびを盗んで捕まるご老人がいる一方で、金銭汚職の政治家は無罪放免に近い状態がずーっと続くなんていうご時世で貧困とは、ご老人を指す? ご飯が食べられない、お金がない、だからもう盗むしかない。そんな状態に追いやられることが貧困? 病にかかってもお金がないから病院に行かない、なにかをするお金もなければご飯を買うお金もなくて餓死する人もいる。

 現代日本に!

 これが貧困?

 生活に困る。生きるのに苦労する。そういう人が陥っている状態を貧困と呼ぶ?

 すこし足りない。

 たとえば汚職をしたのに取り締まる法がない、法があるのに執行しない、そして不正が蔓延する状況は、適切に取り締まり政治家であろうと公正に罰する国と比べると明らかに貧困している。法と執行において。

 絶対的な貧困と、相対的な貧困とがあり、生活の資金面に限定しない。

 日本では絶対的貧困、そしてあらゆる相対的貧困を抱えている。

 これは別に私が言いだしたことでも、私のつくり出した概念でもない。既にある指標だ。

 先進国は相対的貧困をとりわけ問題にするが、世界的には格差拡大による絶対的貧困も依然として問題でありつづけている。

 そのとき、あらゆる問題で、あらゆる指標を活用して語る。

 たとえば不労状態にある人と、現在ちまたに出ている求人の数とを比較して「まあ、だいたいどっこいどっこいだね!」とみなしたら「仕事はある」と見なす? 橋本さんたちとのお仕事で、ハローワークの求人について教えてもらったことがある。何年も前に求人は掲載させてもらったけど、実際は雇用主にも現場にも余裕がなくて門前払いとか、ハロワに求人を出しておきながら「ハロワから求人で来る奴なんかねえ」とひどい態度を取る雇用主や現場があるそうだ。

 実質的な求人として機能するのか。不労状態にある人たちだって、どんなものでも続けられるなんてわけがない。過酷な職場で辞める人も大勢いる、なんていうのが問題視されて久しいご時世に、無理してでも病気になってでも働けっていうのは現実的じゃない。

 なので? 実は不労状態にある人数と、求人の数を比較するのは適切じゃない。

 肝心なのはミスマッチを防ぎ、就労者と雇用主が権力勾配の差があるうえでお互いに対等な条件のもとに合意に至り、長く就労できること。その人数の比率の高さであって、むしろ不労状態にある人の理由や、現状の機能していない求人の実態を観察し、情報に出すことにあるのではないか。

 そう訴えるとき、いろんな問いや仮定がやまほど含まれている。

 反論を展開するうえでも同じだ。

 たとえば数値はどれを根拠に探るのがよいか。なにをもって、より貧困における就労状況を適切に捉えるのがよいか。

 議題が複数、含まれている。

 そのひとつひとつが、議論の主題になり得る。

 だけど複数の議論を抱えていては、あんまりたいへんだからさ?

 できればひとつにして進めたいね。

 なにせ調べること、知っておくべきことがいっぱいあるじゃない?

 おまけに相対的貧困を軸にするか、絶対的貧困を軸にするかで就労に向けた話が変わってくる。その方向性も。それに私たち個別に、貧困や就労、ふたつの組み合わせに対する考えがちがう。なにを是とするのかもちがう。

 ここで目指すのは「だれかの意見が勝つこと」ではない。議論は勝者を決めるものでもない。

 みんなで共有できる落としどころはなにか、だけでもないよ?

 そもそも議論の主題に即して、みんなが論理的な思考のもとに同じ結論にたどりつけること。

 それには、そもそも「論理的思考」の「論理」そのものを共有できなきゃいけない。

 公的機関は民間企業の論理で存在しない。売り上げを必要としない、また必要とすると破綻したり公益を著しく阻害するものは公が行う。民間企業の論理の外にあるものだ。

 民間企業の論理は営利を目的とする。そうなれば、たとえば「俺の自己表現じゃああ!」「アートは! ビジネスじゃねえ!」みたいな芸術家の作品が営利に繋がらないなら「うちとはご縁がありません」となるし? 音楽でも、小説や漫画でも同じ。営利目的の中に「表現が幅広くて、あらゆる表現者、作品があることが結果的に産業の活性化に繋がる」としたときに、やっとスマッシュヒットからは到底ほど遠いけど、たしかに味のする作品を含める”こともある”。

 同じ企業でも営業部の論理と開発や研究の論理、あるいは経理や法務の論理は異なるだろう。

 私たちは同じ論理のもとでないと、議論が成立しない。

 これは前提と言える。

 病院の論理はなにか。医師の論理は。院長、経営の論理は? みんな同じだろうか。待たされて「こんなに待たされるなんてやだ!」を理屈っぽく言い換えるおじさんたちの論理は? もちろん同じじゃないよね。そして病院側にクレーマーおじさんの論理に付き合う余力があるのか。そんな論理があるのか。なきゃクレームは意味をなさないし? 個人的にはなさなくていいと思う。

 ひとりひとり効率的に処理するように急いで診るより、時間がかかったほうがいいと思うし? もっというと、あらゆる病院が十分に対応できるとも思わないし、思えないから。

 これくらい噛みあわないと意見も無駄になる。

 フォローするわけじゃないけど「待たされたくない」「あらかじめ時間配分を見通して、予約できたほうが便利がいい」という論理や感情を否定はしない。

 実際に時間配分ありきでがっつり予約、運用しているクリニックにお世話になったことがあるけど「予約すっぽかし」はどこの病院やクリニック、医院でも起きるし? そういうことに苛立つ医師や職員が集まっていると? 最悪! そして実際、最悪だったので二度と行ってない。

 病院の仕組みを整えても患者側は多種多様な利用者がいる。仕組みに合致するとは必ずしも言えない。当然だ。そんなの病院側のほうが、痛いほどわかっている。なので病院側の論理、体験、集積された知識などを前提に考えないと? 始まらない。

 主張、根拠、結論という思考法をもって展開するとして、そもそも病院の論理に噛みあわないなら意味がない。あるいはヘーゲルの弁証法のように正、反、止揚からの合に至る過程であっても同様だ。ちなみに現代ではヘーゲルの弁証法がオーソドックスだそう。

 それを元に考えるとどうなるか。

 おじさんは病院の立場を学び、病院の仕組みや現状を学ぶ。費用対効果なんかもね。それに患者側の多種多様な実態も。病院側はおじさんに限らず、多種多様な患者さんたちの立場や状況などを学ぶ。病院の利用にまつわる感想や所感、批判なども。お互いに自分の現状を正として、相手の現状を反として捉えるとき、お互いに到達できる合はなにか。少なくとも、おじさんのわがままを通すことではない。

 どのような情報も、完璧も完全もあり得ない。常に見直すべき点や失点、問題、未知や無知を内包している。科学はその見直しを積み重ねながら進歩してきた。

 私たち自身も同じだ。

 議論も、論理も、私たちは不足を常に抱えて進めるほかになく、十分すぎるほど固めてなお見直す余地が常にあるとも言える。

 哲学は「知識が確定する以前の問い」を扱うとも言えるみたい。

 貧困とはなにか。それは既に定義されている。貧困を減らす施策とはなにか。こちらも同様だ。日本をはじめ諸外国がどれくらい実現できているのかは別にしてね。

 じゃあ「人生において貧しいとはなにか」はどう? 個別に考えが異なるよね。それぞれの貧しさという抽象的な概念について答えを出そうとするなら、これは哲学的な問いと言える。たぶん。

 哲学の目的とはなにか。

 物事の本質を捉えることだ。


『具体的には「……とは何か」という問いに「……は……である」と答えようとすることと、定義することと言い換えることもできる』

『しかしその答えは「絶対の真理」ではない』

『本質についての多様な答えを提示して、さらなる議論を積み重ね、できるかぎり共通の了解にたどり着き、それを土台に議論して対立を解消したり、問題解決したりすることが哲学の意義である(苔野 2017)』


 ちなみに引用元は苔野一徳「はじめての哲学的思考」筑摩書房、2017年みたい。

 引用元が記述されていると助かるね! 読む本が増えるけど知識も増えて大助かりだ。

 ここまで整理してみると?


「カナタにとって、愛されているって、どういうこと?」

「え? う、ううん」


 露骨にカナタがうろたえる。

 しばし考えこむ。長考になりそうだ。

 トモやノンちゃん、マドカやキラリとも話す。こういう哲学の話は。

 身近でしてたら、まあ、SNSで発信するほどじゃなくなる。なにせ身近で済むのだし。

 身近で済まなかったら? 回りに話せる人がいても、哲学話までしなかったら、発信してるかも。

 中学時代はよくSNSで探したり考えたりしてたしなー。

 家族と話すよりはしやすくない? いや。人によるか。


「むずかしいなあ」


 考えたことない、の間違いじゃあないだろうか。

 心配になってきた。

 でも待つよ。

 ソクラテスはどんどん問いかけたというよね。

 なんだっけ。サンバ、じゃなくて。産婆法だ。どんな覚え方? どんな間違え方してるんだか。


「愛ってなんだ?」


 ためらわないことさ、だっけ。お父さんが歌うんだよね。カラオケで。いつもじゃないけど。

 お母さんまで楽しそうに乗っかるから覚えちゃったよ。


「春灯は? 春灯にとっては愛ってなに?」

「え?」


 質問してきたか。質問したのに!

 受けて立とうじゃないか! って、戦いじゃないんだってば。

 別に質問していいんだよ。考えるときにはさ。どう答えるかは別だけど。


「わからない?」

「ぴんとこない」

「カナタはどういうときに感じる?」

「ええ?」


 固まってる。

 おいおいおい、マジかよカナタさん。

 付き合って一年でこれぇ!?

 おいおいおい!

 伸びしろの固まりか?

 盛りあがってきましたね!


「見つめあうとき。手を繋いだとき。笑ってくれたときに」


 待って?

 やめよう? そのカウント方式。

 妙に恥ずかしくなってきたよ?

 あと、繰り返しツッコミ入れさせて? 心の中で!

 付き合って一年でこれぇ!?

 期待値の源泉か?


「俺の話を聞いてくれたり、茶化さないでいてくれたり、気にしてくれたり」


 待って?

 今度は泣けてきた。

 それくらいなら小楠ちゃん先輩も「私もやってたが!?」ってキレそうだし、ユウリ先輩たちも「待て待て待て! 俺たちもしてたが!?」って驚いちゃうのでは

 あれかな。私だけじゃないけど、特にってことかな?


「俺のすることで喜んでくれたりするし」


 待って?

 けっこう怖いこと言いだしたぞ?

 なにかな。そういうの、いままでなかった感じ?

 ああでも待って? なにが怖いって、私にはなかったぞ! そういうの!

 お、おおお、おおおおおお。


「やっぱり、触れたり、抱き締められたりするときとか。その、してるときとか? 俺しか知らない、見たことないし聞いたことない、みたいなのとか。いやでも、これはちがうか。独占欲というか、支配欲っぽいもんな。いやでも、満たされるのはたしかで」

「う、ううん」


 コメントは差し控えさせていただきたい!

 まあでも、そういうのもあるか。あるよね。あるかあ。


「やっぱり、受け入れてもらえてる感があると、愛されてるって、思うんだけど。ああでも、これって俺が愛してるってことじゃないし、そもそも愛か?」


 ほんと、驚きやでえ。

 底なしやでえ。

 カナタさんについて知らないことがいっぱいあるね?

 正直、私にとっては痛いことや我慢できないことも含まれている。

 いますぐ私にとって正しいこと、善なるありようで指摘したくなる。変えたくなる。カナタの考えや価値観を否定したくてたまらなくなるから、言いたいことがあふれてくる。

 それらをぐっと堪えるのは、生半可なことじゃない。


「それにやっぱり、だめだよな。受け入れてもらえるから愛されてるって、とても危ない」


 だってさ、と具体的に語り始めるカナタの話に相づちを打ちながら考える。

 これをお互いにしあえる関係になれたらなって思う一方で、いろいろと抜けてること、やらかし、問題や失敗が私にとっての実害になっていることがいくらかある。

 この手の問題を抱えているのは私だけじゃない。カナタもだ。去年は私のほうがよっぽど暴れていた。だから耐えるべきって話でもないんだよ?

 無理なら無理でいいんだ。

 私はまだそこまでじゃないって、良くも悪くも思えちゃっているし? この感覚が言動に出ていて、カナタにとっては距離を感じたり、熱量が冷めたりしているように感じられるのかもしれない。だから、別れを予想して怖がっていたのかもしれない。

 私たちは自分たちが思っているよりも、引いちゃうほどに無知で、愚かで、幼い。きっとそれは、いくつになっても、どんな体験をどれほど積み重ねても変わるものじゃない。

 私は私のしたことの意味を、いま思い知っている。

 カナタの話を聞きながら、ちゃんと言わなきゃいけないことをいくつも気づかされるばかりだ。

 受け入れてもらえるから、それで、私は人を愛せるんだなんてことにはならない。

 私のしたいようにさせてくれるから、だから特別だ、なんてことにもならない。

 カナタのテーゼを聞きながら、私はかつての自分のテーゼとアンチテーゼに気づく。

 それが無性に痛かったり、情けなかったり、恥ずかしかったり、醜かったり、みっともなかったりする。明らかに間違えていると気づくものも多い。

 正しいだらけで生きていけやしない。

 だからって、こんな。

 そう顔を覆って世の不幸を嘆きたくなるくらい、かつての自分の衝動、選択、具体的言動の数々がもう痛くてたまらない。

 これは、伸びしろの固まり。

 期待値の源泉。

 不幸中の幸いにして、私たちはまだいくらでもやっていける状況にいる。

 それは絶対ではない。完璧とはほど遠い。

 つくづく、不足前提に生きるのだなあ。私たちは。

 相対的貧困とはお付き合いを前提に生きるのだ。それは放っておけるものじゃない。

 いいさ。あらゆる論理と知り合いながら、ぼちぼちやってってみよ!

 哲学と倫理ともね。

 人生は勉強だぁ。

 楽しまなきゃあ損だ。自分のペースで歩かなきゃ転んじゃう。強いられても無理。

 自分の論理のひとつひとつさえ、知らずに生きている。

 自分だけ、自分の正だけじゃわからない。気づけない。未知や無知がいっぱいありすぎるのに。

 反と出会ってこ。合を探してみよ。

 正だけじゃない世界を味わっていこう。

 あなたを。私たちを。


「うまく言えないけど、わって衝動より、じんわり幸せになる感じが、愛かなあ」

「うまく言えなくっていいよ。伝わるよ」


 じんわり幸せになる感じから旅をすればいいじゃんか。

 私も言いたくなってきた。

 うまく言うのはあとでもできるけど、言うこと、ことばにすること、話すことはその瞬間にしたほうがいい。


「どういうときに幸せになる感じがある?」

「ううん。それだと、いっぱいあって。待ってくれよ?」


 長考に入るので、


「じゃあ考えてる間に私のじんわりを言うね?」


 いま私との思い出をふり返って、表情が緩むあなたを見ているだけで、胸がじんわりくるんですよ?




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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