第二千七百七十九話
相手ができて当然、むしろ相手はやるべき、なんでやらないんだってことほど、私たちは考えない。
突然、猛烈なおばかになる。まるでトイレを我慢しすぎて、押し寄せる波が第三波くらいになってるときの脂汗まみれのときくらい、おばかになる。
そういうときって閉まっている個室に呪詛を送る。早く開け。いったいいつまで入ってるの。そこの個室、もう十分どころか、二十分も三十分も経ってるが!? なにやってんの! みたいな呪詛を、ひたすらに送る。余裕なんかない。求めることは「いますぐ、個室から、出てこい」だけ。
それくらい切羽詰まる。
高城さんやトシさんたち、真壁さんたちや仕事で会う人たちと話す「あいつがだめ」「新人が使えない」というだれかさんって、まさにその、うんち我慢状態さんだ。
自転車の例えで話したようにね?
乗り手と押し手を交代しながら、お互いに円滑にやれるようにするのがコミュニケーション。
なんだけど、新人さんとか、立場が弱い人がいたときとかって、言いたいことも言えないのが基本。まだ慣れてなかったり、なにをどう伝えればいいかわからなかったり、なにをどうすればいいのかわからなかったりするからね。なので? 基本的に長くいるほう、立場があるほうが譲歩してなんぼのものだ。
だけど、フォローするべき人たちがうんち我慢状態さんだと? もちろん、うまくいくものもいかない。
フォローするべき人たちも、別に余裕あるわけじゃないからさ。
あとね? 自分がしてもらえなかった恨みを、だれかにしないことで晴らす人もいるからさ?
なかなかなくならないんだよね。こういうの。
なので?
トイレが整備されず、うんち我慢状態さんが増えていく。
そうなると、うんち我慢状態さんはお互いに「次は自分のばん!」「お前しゃしゃってんじゃねえよ!」「ふざけんな、こっちが出そうなの!」「「「 はうっ! 」」」と、悲惨な揉めごとをし始めていくし、そういう揉めごとを繰り返した場所は大げんかのあとの沈黙を延々と続けるような緊張状態に置かれることも少なくないので?
悪化しつづける。
これはあらゆる人間関係で起きちゃうことでもある。
今回は例えにうんち我慢状態とトイレを設定したけどさ?
お腹がすいたときとか、喉が渇きすぎたときとか、いろんなシチュエーションで例えられる。
映画「白鯨との闘い」じゃ海を漂流した男たちの真水と食料は、それこそ殺し合いに発展してもぜんぜん不思議じゃないほどの物資になっている。映画「タイタニック」で再現された避難現場では、避難用の小船に乗るために人が争っても不思議じゃなくて、実際に騒動になっていた。
欲があり、それを他者がどうにかするべきだと思う途端に私たちは驚くほど冷淡かつ冷酷になる。スイッチを押したり、指示して支配しようと企てる。答えや解決が明白なときほどそうだ。
そんなとき、私たちは話す聞くをしなくなる。
びっくりするほどおばかさんになるのだ。
動画の再生がバグって、同じ部分を何度もリピートするような、そういう繰り返しをする。
「たとえばさ」
そう言って切り出すカナタさんの「触りたい」「したい」ときの衝動やおばか具合、そして、そのときなにに夢中になっているか具体的な内容を聞きながら実感する。
あんまり赤裸々なので詳細は割愛するけども。
それしかなくなるんだ。
答えや解決しかない。救いしかない。
それも自分の求めるものしか頭になくなる。
こう言うとさ?
医師や教師、福祉の窓口、親とか、相談を受けている側から見た相手にとって、話してきた側がまるでおばかさんになっているかのようだけど、残念ながらちがう!
医師にしてみれば「あなたの病気はこれ!」「だからこうしろ!」「こうしろって言ってんだろ!」「指示に従えよ!」ってなっちゃう時点で? 医師もおばかになる。
弁護士でもそう。教師もおんなじ。福祉の窓口の人たちも、親だってそう。相談を受けた人もいっしょ。
「答えはこう!」「解決したいならこうしろ!」「何度も同じこと言わせるな!」「ばかかよ!」ってなっちゃう時点で、まず自分がおばかになっている。
そうやって整理してみると、見えてくる。
話す、聞くのをちゃんとやるとき、私たちはいったん答えや解決を横に置けるようにならなきゃね。
あとは感情や思いを言葉にすることを大事にしないとね?
じゃないと話す、聞くのを安心してできないからね。
こういうことが頭からすぱっと抜け落ちておばかさんになるから、私たちは答えや解決を早押しクイズで答えて「そのとおりにしろよ!」と繰り返すだけになる。
なんも考えてない。
相手のせいにするくらいのことは考えるけど、それって明らかにどうかしてる。
もう、そういう状態になってる時点で自分が病んでる。
でもさ?
自分が病んでて、環境に問題があって、関係性も問題まみれ。改善のしようがないときってさ? つらいじゃん?
なにかを責めたくて、だけど責めても変わらないことばかりだから、自分よりも弱いものを叩く人が少なからずいる。会社に問題まみれ、言っても変わらない。だから新人とか使えない判定した人を叩く、みたいなやつ。
あなたは病院に行ったほうがいい。
だけど、こんな答えや解決は? 通用しないわけ。そのとおりにしろよ! って言っても響かないわけだからさ?
参るよね。人生。
「頭がいっぱいになってさ」
具体的にこういうときにこうしたいっていう衝動や気持ちが芽生えると止まらないし、止まれないし、ますますしたくなる。そう赤裸々に物語るカナタさんに相づちを打ちつつ私は参っている。
答えや解決、私の意見が次から次へと喉元に出てくる。食べすぎちゃったときの嘔吐くらいの勢いがある。もしかしたら酔い潰れたときのお父さんの衝動くらい、強烈なものかもしれない。
それをぐっと堪える。
当事者同士の話のなにがむずかしいってさ。
答えや解決を求めずにはいられない事情や体験、具体的な傷つきさえ含まれるからじゃない?
語りを聞くだけで刺激たっぷり。
日本だと臨床心理士、公認心理士の資格を持った人のカウンセリングに頼る理由がなぜあるかって、当事者にはあんまり刺激が強すぎるから。実は専門家だって刺激を受けている点では変わらない。
ドラマ「アドレセンス」で臨床心理士が容疑者の臨床に立ち会い、話を聞く場面がある。だけど、専門家だから不感症になる、わけじゃない。共感するから刺激を感じる、というものでもない。人としてまず生きているので、話や態度による刺激を感じる。まずは、そこから始まる。
その刺激から生理学的に生じる情緒的・身体的反応を私たちは感じている。
そのうえで、やっと、どうするかって判断に至る。
アニメで見た「BEASTARS」で狼のレゴシくんのそばにいた兎のハルは、肉食を前に全身がびびる反応に苛まれていた。対峙するだけで刺激は生じているし? なんなら「あの人に会う」と考えるだけ、身体が予測しただけで生じる反応もある。
そうした反応とお付き合いしつづけていくことでもあるんだよね。話す、聞くって。
本当に簡単?
だれでもできること?
私にはそうは思えない。
「こうしてると、落ち着くのになあ」
リンゴは一旦置いて、私をハグしながらカナタがこぼす。
これは本音。だけど、これまで話してくれたことも、本音。
触れたい。触れてほしい。セックスもしたいし、とことん気持ち良くなりたい。具体的にはどういうときかという、そういう内容も、本音。
触れるのも触れられるのも楽しみたい。セックスも同じ。
だけど彼の本音に今後の人生を危うくしかねないものがあるのなら、それは賛同できない。
私がしゃべるまでもなく彼は認識している。ただ、私のそれとは一致しない。
それも手痛い刺激になる。
いまはさ?
私が聞くに徹している。でしょ?
交代したら、どうかな。
カナタは聞くに徹することができるだろうか。
怖いし、恐ろしい。
私たちはお互いに相手が受けとめられるかどうか、まるでわからない本音を抱えている。言葉にできないものや、言葉にしたらすべてを破壊してしまうんじゃないかと恐れる本音も。
もちろん、すべてを開陳する必要はない。
もちろん、すべてをそのままぶつける必要もない。
相手が受けとめられるように伝えることもあれば? 嘘をつくこと、隠しごとをすることもある。
だけどもし、それらが逆に関係を歪にする要因になっているのなら?
私たちは”更なる”選択を迫られる。
自分の本音を打ち明けるか。相手の本音を尋ねるか。
そのたびに刺激を受ける。
耐えられない刺激かもしれない。
そのたびに問われるのは自分の一面。相手の言動ももちろん考慮する要素。暴言を吐くなどの精神的暴力、殴る蹴るなどの身体的暴力を振るうようなら、そんなのはもう逃げる避ける回避する一択だし、それができないことがあるから暴力は深刻だ。そしてもちろん振るう人はかなりの問題を抱えている。新人を怒鳴る、使えないと判定して差別するような人は問題を抱えているのだ。
問題は人にのみ帰結するのではない。先がある。影響を与えるものもやまほどある。暴力を振るう人は相手のせいだと責めるだろうが、振るう人自身や振るう人を取り巻く環境、経験、感情との付き合い方など多種多様な問題を抱えている。
中学時代にクラスの男子が、ネットで見たミームだかなんだかを使って、彼にとって使えない子を障害かなにかで罵倒した。他者を障害があると見なして揶揄するのはもう、かなりの問題を抱えている。大問題になったのは言うまでもなく、こういうときに活躍しなきゃ嘘な結ちゃんは大暴れだった。その男子は運動部で、体育の授業でも、同じ班活動でも相手がとろくて使えないと見なして、日ごろからすごくいやな態度を取っていたし? その末の罵声だったそうだ。明らかに、問題。当然、言った子がね。
でも、そういう風に責めるのがお手軽で、おまけに答えや解決のような気がするのかもしれない。
ちがう。
ちがうんだけど、本人にはわからない。
それが問題。
でも、みんなで「これが答えだよ」「それは答えじゃないよ」と訴えても響かない。
いろんな手間がかかる。
それもそのはず。
他人は思うとおりにならない。これが基準。
もちろん自分もまあまあ思うとおりにはならない。これも基準。
だから相手にも自分にも知らないところがいっぱいあるし?
その都度、知っていくほかにないよなー。
一足飛びにはできないんだよ。
みんなちがうなかで、こつこつやっていくしかないし?
相手の協力さえ必要不可欠なんだよ。
相手が望まないなら、それを強要することはできない。
それが加害者であっても、なお。
だけど、これじゃあいろんな問題が起きるしさ? 厄介事のタネが残る。
更正にまつわる議論をここに展開するのが真っ当な流れなのかもしれないけれど、長くなるし、ずれちゃうから中断。
話す、聞くは、こうした事情の影響さえ受けながら行われる営みだ。
どうかな。
簡単そう?
だれでも十分にできそう?
私にはそうは思えない。
「こうしなきゃ、これができなきゃ、春灯が遠のいていくようで。失うような気がする」
「私がカナタのしたいことに付き合わなきゃ、もうそれでだめになっちゃうって思うの?」
「んん」
それはおかしいって顔をするんだけど、そうすると今度は自分の言ったことがおかしいことに気づいたのか。カナタさんが固まってしまった。
つい「いまだ!」「ここが攻め手だ!」と私の内心が叫ぶ。
あれこれ言葉が浮かんできて話す手番を奪いたくなる。
私の言い分で上書きするチャンスだと感じるし、いまならカナタは聞くしかないはずだと感じる。
そうだ。
これまでの体験から、ついつい「話す」だけをしたくなる。
勝ちたくなるのか。それとも、思いどおりにしたくなるのか。
それだけじゃないよね。
これまでの体験のぶん、仕返ししたくなったり? 思いどおりにしたくなったりする。
耐え難い衝動だ。
そういうのと付き合うのも? 話す、聞くをするうえで欠かせないこと。
「でも、不安なんだよ」
「こわいの?」
「うん」
「たとえば、さ」
怖いと口にするカナタが、感情を言葉にしようとしはじめる。
情緒的反応の言語化というのが近いのかもしれない。
どんなとき、どんな風に不安に感じたか。怖いと思ったのか。
これさえ言えない関係性になっちゃったら、もうつらいよね。
話せること、聞けることって、すごく大事だ。
コミュニケーションの基礎。
そして基礎っていつも結局やっぱり、欠かせない。
なのに、その基礎技術はあまりにも奥が深くて、できることややれることが果てしない。
甘く見る人はたぶん、奥の深さを知らないか、気づいていない。答えや解決で「もうこれでいいや」で満足してる。それを責めることはできない。いろんな人生があるし。強要できるものでもないから。
ただ、それとは別に基礎技術の習得度合いは出るよね。あらゆる振る舞いに。
そうしてうんち我慢状態とか、暴力正当化・責任転嫁・免罪とかの問題を抱えた状態になっていく。
感情を話すのも、簡単じゃないね。
感想も、思ったことも、みんなすごく大事なんだよ。揶揄したり冷笑したり、責めたりするものじゃない。なんでって? 話す、聞くをするうえで自覚したほうがいいことばかりだから。それらがわかっていないと、よく理解できていないと、自分の反応から自分の抱えているもの、それをことばにすることがむずかしくなるばかり。否定したくなったり、拒絶したくなったりするばかりだからね。
「それでさ」
カナタがことばにしていくことを聞いていく。
焦らずに。急かさずに。答えや解決を求めずに。割って入らずに。
間ができることにのんびり付き合うのも、よく聞く力のひとつだ。
話す人のペースを守る。
できる? やれる? してもらえてる?
その経験をよかったと実感できるほど、できないよりしやすい。
この差が私たちの人生の残酷さ。
親の資産、虐待の有無だけじゃない、私たちを公平でも平等でもなくする発達資産の差。
小学校でもぞっとするほどの差ができる。中学でも、高校でも。おとなになって、おじいちゃんおばあちゃんになっても。いくらでも、この差は変動する。
技術として、蓄えていくことはできる。
だけど、いろんな依存の支援があるほど蓄えやすくなるのはたしか。
これも「みんなでひとりのせいにする」ように、だれかを責めて済ませる人はいる。高城さんたちが愚痴る「だれかを責める人」のように、あるいは「病ませる人」や「辞めさせる人」のようにね。そして、そういう人たちはもれなく問題を抱えている。
でも、問題の抱え方は責めだけにかぎらない。
言えない。話せない。聞けない。
その先にある問題は、いろいろあるんだ。
私たちみたいに、関係に直結すると考えて恐れてるなら? やっぱり問題を抱えている。
いろんなバリエーションがあるんだ。参るよね。ほんと。
それだけで、話すも聞くもむずかしくなる。
コミュニケーションの基礎なのに。基礎がうまくできないときは、応用なんか無理。
そういうことに気づくのが、だれかと過ごすこと。なにかと過ごすこと。行動することもそう。
ひとりでやる趣味だっておんなじ。自分の基礎を確認する作業だ。いくらでも、いくらでもね。
カナタは言葉にしたりないみたい。
それくらい、機会がなかったみたい。
私もたぶん、そう。
すごく密接にふたりで過ごしてきたつもりなのにな。
それがどう?
すぐに足りないまみれになるの。
だいじょうぶになれるゴールなんてないね?
家族だって、なんだって同じだね。
営みをもって、だいじょうぶを守っていくんだなあ。
それは「だれかのせいにする」ことで維持するんじゃない。
ちゃんとコミュニケーションの基礎を守って、よく話し、よく聞いて維持するんだ。
すごく簡単なことなのに、あんまり基本的な基礎すぎて、私たちはそれをよく忘れてしまう。
いけないなあ。
「うまくいえないんだけど」
「いいよ」
うまくなんか、いうことない。
そんなことよりもまず、いうことが大事だよ。
二の次三の次。もっと先でいいくらい。
言葉を選ぶことはあっても、それはお互いを傷つけないよう配慮するためであればよくてさ?
パワーワードにしなきゃだめとか、すっきりする言い方じゃなきゃだめとか、そういうことじゃない。
「言って」
できれば、思ったことを想ったままに。
それができるだけでもすごいことだと私は思うんだけどな。
これも十分、愛じゃね? って思うんだけどな。
どうじゃろな?
つづく!
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