第二千七百七十八話
言いにくいことを言いたくなったとき、必要なものってなんだろう。
ただ言えば済む感じ?
夏休みの宿題をため込んでやばいのを夏休み最後の日まで言い出せないとき、その日に必要なものってなに? 勇気? 勇気があれば、百人中百人がクリアできる?
たぶん無理だ。
だから無理な人のためには、さらになにが必要なのかを考える。
私たちの場合は、なんだろう。
やっぱり言い出せなかったカナタさんと確認しあうなかで思い出す。
お屋敷ではいろんな本も読んだけど、河合隼雄の「こころの最終講義」新潮文庫、2013年なんかもそのうちの一冊だ。でね? 河合隼雄が診察した人の事例を、第一章ではふたつほど紹介してた気がする。
ひとりめ! かなり昔、それこそ大戦や大震災を経験した日本に暮らす韓国人の青年が「国にいちど帰りたい。でも易で結果が悪かった。先生、易を信じる?」っていう相談をしにきたそう。
ふたりめ! 登校拒否のこどもの事例。
前者は「いや易がどうとかより、帰りたいなら帰れば? 無理ならやめとけば?」、後者は「学校に行きなさい」という「答え」や「解決」を提示したくなる。これって言い換えると「そのようにしろ」「指示に従え」「なんでできないんだ」になるよねえ。
「実際、言っちゃいそうになるな。コバトが学校に行けなかったことを知ったとき、ショックすぎてなにも言えなかっただけで、気を抜いたらたぶん言ってた」
「ね」
私の場合は親やトウヤが私に言いかねない状態だった。
「こういうこと言う人って、話を聞いてくれないじゃん。あれやれ、これやれしか言わない。で、思いどおりにならないってわかると、もう知らないとか、すごく不機嫌になったりするの」
「あああ」
「おばあちゃんちのおじいちゃんズやおじさんズ、あとおばさんたちにもちょいちょいいてさ」
話にならないんだよね。
それに話ができないんだ。
あんまりおしゃべりが成立しないからさ?
なにも話したくなくなるんだよね。
だけど逆の立場だったら「なにができないの」「やればいいでしょ」「やれないならやれないなりに考えるしかなくない?」ってイライラしちゃうと思う。
なんたるダブルスタンダード!
「そもそも人は思いどおりにならないじゃん。スイッチ押したり、なんかの操作で思いどおりになるものじゃない。なにかと複雑」
心理学だけの話じゃなくね。生理学とか、神経生理学とかさ? そのあたりの話も込み込みで。
人にあたるものを私たちは作れない。人よりもひどく単純化したものを組み合わせたり、発展させたりしながら、便利なものを取り入れて社会に活用している。だけど人にあたるものにはまだ到達していないし? すでに人がいるのだから、到達する必要があるかっていう疑問もある。
そのあたりの議論は別の機会に委ねるとして。
他人は思うとおりにならない。これが基準。
もちろん自分もまあまあ思うとおりにはならない。これも基準。
すると、わかることがあるよ?
答えや解決を伝えればどうにかなる? ならないんだよね!
自明の理だ。
もちろん「あ、そっか」で気づくケースもあるから、百パーセント、十割、絶対にあり得ないっていう話じゃないんだよ? そこまで極端な話じゃない。
問題は「どうにかなる」とは限らない点であり、どうにもならないときに先がない人がけっこう多いってことだし? どうにもならない問題を抱えているのが他者であっても、自分であっても「先がない」ことに苦しむ人が少なくないってことだ。
撮影だなんだでは、いろんな会社のいろんな人とご一緒することがしばしばある。だから、いろんな会社のいろんな組織風土の話なんかも伺える機会が、ちょこちょこっとある。でね? たとえば「年齢経験問わず入ってくる新人が思うようにいかないとき、御社はどうしてますか?」と問いかけたとき「急がず焦らずゆっくり教えていくし、その間はできる範囲の雑用でフォローしてもらう。どうせみんな覚えるペースがちがうんだし、怒っても怖くなるだけで頭に入らないからね」と答えるところもあれば「きつく罵声を浴びせて本人が辞めるまでいじめる」なんて明らかにアウトなところもあった。
アウトなところから来ている人は実際にアウトな言動や態度があふれでているので、それとない感じで見かけることが減っていく。だけど絶対にいなくなるとはかぎらない。人手は無限に増えるわけじゃないからさ。
でもこれ、意外と根深い問題みたいだ。お仕事で関わるいろんな業界だけじゃない。あらゆるところで起きていることみたい。
環境に慣れなきゃ緊張が解けない。緊張が解けなきゃ身につくことも入ってこない。
別になんの不思議もない。当たり前の話だ。
自前で覚えてくるにしても一定のテキストだなんだがいるじゃない?
そういうのなしで「見ればわかるだろ」「先読みして動けよ」っていらいらするのは、その人の問題なのよ。あるいはその人がそうなっちゃうくらいの環境や支援、資源のなさの問題だよね。いっそ全部かも。
なん、だけ、ど。
「みんなでひとりのせいにする」を通してるところは残念ながらそれなりにある。
ド直球でやばい。問題があるなんて表現じゃあ生やさしいくらいだ。けど、ある。
でも人体の構造だなんだは別に変わらないからさ?
他人は思うとおりにならない。これが基準。
もちろん自分もまあまあ思うとおりにはならない。これも基準。
なので間違ったことをいらいらしながら、お互いに抑圧しながらやっているところがある、と言い換えることができる。
じゃあ、それってなんでかって考えたらさ?
「思うとおりにならないって怖いし、めんどくさいし、どうすればいいかわからないじゃない? それで風の谷のナウシカに出てくる怒った蟲とか、千と千尋の神隠しで大暴れしているときのカオナシみたいになるのかも」
なんでこんなこともわからねえんだよぉ! とか、できねぇんだよぉ! とか言ってる人も。
入院中に病院内で見かけるクレームを荒ぶってぶつけている患者さんも。
相手を自転車に乗ったことがない人に、自分は自転車を支える人に例えてみると?
荒ぶることがどれだけ理不尽かよくわかると思うんだよね。
それはなんの役にも立たない。
もちろん「相手に暴力を振るって追い払う」んならいいけれど、それはもう犯罪じゃん。ね。
言うに及ばず犯罪するなって話だよ。
「だから話すにしても聞くにしても、落ち着いて話せるほうがいいじゃない? どうぞどうぞ話してって聞けるほうがいいじゃない?」
「指摘もせず、答えや解決を押しつけるのでもなく、か」
「そうそう」
「ううううん」
「あれ? 引っかかる?」
「関係性や、時と場合によるな、と。クレームをぶつけてる人の話をどうぞどうぞ話してってやっても、言動による暴力をひたすら振るわせることになるだろ?」
「ん」
それはたしかに。
これがぜんぶじゃない。すべてじゃないから、万能も完璧もあり得ない。
他人は思うとおりにならない。これが基準。
もちろん自分もまあまあ思うとおりにはならない。これも基準。
だからもちろん、状況もひとつに限らない。
「そう考えると、俺からしたら兄さんは真っ赤な目の王蟲とか、暴れるカオナシだったな。兄弟だったら、仲良くしてくれよって話だよ」
「うううん」
そ、それはどうだろう。
私とトウヤもぼちぼち仲良くやってるほうだし、それはお姉ちゃんも同じだけど、男の子同士の兄弟は学校でも、おばあちゃんちの集いでも、まあまあ殺伐としていることが多かった。比較的なかよくやっているのは、そもそも年齢が離れている事例ばかり。
まあでも、家族とは仲良くやりたいよなあ。無理ならせめて、青い目で、身体を膨らませないで、落ち着いていてほしい。
そこで繰り返すよ?
他人は思うとおりにならない。これが基準。
もちろん自分もまあまあ思うとおりにはならない。これも基準。
それこそもののけ姫の祟り神みたいになっちゃってたら、ひどいことになる。
「お互いに刀を抜いて斬り合うような状況になると、なかなかね」
「下ろせないよな。いつ斬りかかってくるかわからないしさ」
「だね」
無理なんだよね。なかなかさ。
「私も小学校の記憶まともにないし、中学校は中学校で私のほうが言えないこと、言わないことたくさんあったし。家族でも、話す聞くが満足にできるとはかぎらない」
「だろ?」
うさぎカットのリンゴをひとつつまんで口元に近づけてくれるので、思いきり噛む。
しゃくしゃくくる歯応えがいい。だけど、おばあちゃんちの集いで出てきたとき、虫歯に苦しんでる子が「このしゃくしゃくがしみるの!」と身悶えていた。歯は磨いたほうがいい。ほんとに。フロスもやろう。あと、うがいもしよう。
「そういう経験があると、身構えちゃうと思うんだよ」
「つまり、カナタさんは私にそれで身構えてる?」
「ん、んん」
いやもう、そこまで言ったら素直に言っちゃってよくない?
そんなに怖くなるのか。
他人は思うとおりにならない。これが基準。
もちろん自分もまあまあ思うとおりにはならない。これも基準。
だから相手にも自分にも知らないところがいっぱいあるし?
その都度、知っていくほかにないよなー。
一年でわかることには限りがある。過ごし方次第で変わるところもあるんだろうけど、すべてをフォローしきれるものじゃない。これだって、当たり前といえば、当たり前。なかにはレアケースもいるかもしれないけどね。レアってことばは伊達じゃないよね。割合的にはぐっと低い。低いほうを基準にしてどうするって話だ。
じゃなくて、困難に見舞われているほうをどうするかって話。
なので? 不適切。
「ドライブ中だったら、おしゃべりできる?」
「どう、かなあ。走るのに必死で、あんまり余裕なくてしゃべるどころじゃないかも。だいたい、うるさいだろ? 風の音が」
「むむ」
それはそう。
「春灯の機嫌がよさそうなとき?」
こどもかぁ!
こどもだったぁ!
そして、あるあるすぎるぅ!
「相手が聞いてくれると思える安心感って、むずかしいな」
ですね!
私はあるけどね!? カナタは私の話を聞いてくれるって安心感!
そっかぁ。
ないかぁ!
「ご飯を食べながらは?」
「ううん。なしじゃないけど、ぷちたちと過ごすようになってからはもうずっと忙しいだろ? それでなくても同級生と食べるのが多いし」
たしかにぃ!?
「映画を見終わったあととか、ふたりで寝るときとか? し終わったときとか。そういうときは、なんでも話せる気がして、実際いろいろしゃべってきた気がする」
「んんん」
どれもいまはむずかしい!
気持ち的にも身体的にも、希望としても!
「通話は、距離があるぶん言えそうな気がしたけど、言っていいのかなって感じはあるしな。大事なことだしさ」
「それはあるね」
「同じ理由でメッセージで済ませることでもないだろ?」
「うん」
人によってちがう。このあたりの感覚は。
時代によってもある程度、流行の変遷があるという。
ひとまず私たちは、顔を合わせてしゃべりたい。
でも顔を合わせているとしゃべりにくいことがある。
自分も相手もお互いにままならないんだからさ? そりゃあ、ふたりが会ったら、ますますままならないよね。
あんまり基本的なことだから、なんとなくできそうな気がする。
お母さんが文章の仕事をちょこちょこしてるときの悩みでもあるみたい。みんな小学校から文章を書いているから当たり前にできると見下す向きがあって、実際に単価もびっくりするほど低いって。そんなことないんだけど、専門性を低く見積もられるほど賃金にも待遇にもダイレクトに響く。これはどんな業界でも同じだという。
カメラ構えてるだけでしょ、とか。マイク持ってるのたいへんだろうけど、それだけでしょ、とか。歌うくらい俺だってできるし、とかね。デザインや絵でもそう。雑用だってそうだし? 家事さえそう。
ばか言うなって話でしかないんだけど、なー。
実際のところはさ?
私たち、話すも聞くも、ちゃんとはできてない。
ついでに言っちゃえば、ちゃんとしてもらってない。
お互いさまといえばお互いさまだけど、発達に必要な話す聞くが十分にないのだから、これは実はかなり深刻な問題だと言える。個人や家庭に問題を押しつけて解決するものじゃないよ? 当然そう。なにせいろんな個人、家庭が存在するのだから。虐待だ育児放棄だ、表面的には問題ないけど交流がまるでないだ、すべてを含めるのだから。
それにさ?
話題によって怖くなることだってある。
なんでもかんでも一律、話せるなら話せる、聞けるなら聞けるってものじゃない。
「いろいろあったし、私がちょっと引いたところあって、怖くなっちゃってた?」
問いかけたらカナタの顔が露骨に曇る。
引いたっていう、それがもう痛くてつらくて聞きたくないっていう、そういう反応なのだろう。
「こどもたちが未来から来たときあったでしょ? いまでも眉唾だけど、隔離世の不思議パワーならもうなにがあってもおかしくないって感じで、当時は流してた」
姫ちゃんの鍵で私たちみんなで江戸時代に行ったんだ。
それから考えたら、未来から人が来たって不思議ではない。
意味はわかんないけど。どうやってかは知らないけど。
「でも、いまの私とカナタでどこまでやっていけるんだろうって考えたら怖くなってさ。カナタはすごく乗り気でうれしそうで、それを見てると台無しにしちゃうことだと思って、言えなかった」
「それ、は、言ってほしかったよ」
「だね。でもさ。私には渡しの怖い理由があるんだ」
教授に連れ去られた先のことをまだまともに受けとめられてなかった。
大人になる、働いて生きる、過ごしていくってことがどういうことなのかすこしも考えられてなかったし? 実感できていなかった。ふわふわしていた。そのふわふわに危機感を抱いたし? 抱いたものをどうすればいいのか、まるでわからなかった。
理由はたぶんほかにもあって、なにかとわからないだらけだった。
「話す聞くもわからなかったけどさ? そもそも、ことばにできなかった」
いったいなにをどうすればいいのか。
その軸が見つけられなかった。
答えも解決も、探せばあるかもしれないけど、ぜんぶ「そういう話じゃない」んだよね。
フランクルやベッセルらが「治療が必要です」「ケアや支援を必要としているのでは」と答えや解決をもって、ナチの絶滅収容所から生存したものの孤立していく人たちを訪ねたとき、彼らは応じなかったという。家と職場の往復。それだけ。人と関わりを持たず、持てなくなっている。
彼らが深刻な状態にあったとして、彼らが望まないのに強要することはできない。たとえそれが医師たちにとって、明らかに患者に必要だとしてもだ。
弁護士や検事たちにとっても。教師や講師にとっても。上司や先輩にとっても。親にしても、子にしても。明らかに「あなたはこうしたほうがいい」「こうしなきゃいけない」「解決したいなら」「答えはこれだ」と思っても、それを本人にやらせることはできない。
なによりも、やらせるべきではない。
本人の意志と行動に委ねるほかに術がない。
だから、どんな人でも、どんな状態でも、なにを抱え、なにを背負っていても生きていられるようにすることが重要になっていく。
話す聞くができないときもある。
ことばにできないこともある。
それでもだいじょうぶでいられなきゃあ、話す聞くや、ことばにしたいと望めるようにはならない。
追いたてて、責めたてて、殴り、蹴り、罵声を浴びせて、そうするように仕向けたとしてはならない。
「カナタもいま、そういう感じなのかなって」
「あとすこしの勇気が出せない、だけだったら、いいかなって思うんだけどな」
なんでも話すって決めたふたりでいるのに、それがどうにもむずかしい。
くっついても、あーんってりんごを食べ合っても、それじゃ足りない。
矛盾するようだけど、話す聞くをするために会っておいてなんだけど、できないならできないなりにやっていき、それでだいじょうぶを確保するのが先かもしれない。
「私のそばにいるのは、つらくない?」
「むしろそばにいたいくらいだよ」
お。打てば響くね。すぐに言ってくれてうれしい。
「私も」
「もっと」
「うん?」
「もっと、そばにいたいよ。ぜんぜん足りない」
動画で犬がしてた。顔を飼い主にこすりつける仕草。
あれとほとんど同じことをカナタさんがしてくる。
触れたいんだろう。スキンシップが欠けてるんだろう。
私はそこに底なしの欲をしばしば見つけて怯むことがある。これでいいのかなって不安になることがある。これじゃないんじゃないかなって。カナタのなかにある足りないものにカナタが気づいて、それとお付き合いできるようになるのがいいんじゃないかって。
だけど、それを去年の私に言えるだろうかって疑問を持つたびに怯む。
「ごめん」
「え」
「これが、不安にさせてる原因のひとつだって、春灯の顔を見るたびに思い出すんだけど。俺は、どうしても、触れていたくて」
「うん」
リンゴで濡れていない手で彼の背中を撫でる。
他人は思うとおりにならない。これが基準。
もちろん自分もまあまあ思うとおりにはならない。これも基準。
ゆっくりと進んでいくほかにない。何歩も後退するとわかっていながら、いまを慰撫することしかできないときさえある。
私たちはだれかを慰めながら、自分を慰める。
Bon Joviが歌ってたように。
いまある手札でやりくりしていく。そこに閉じたら先はないときもやまほどあるから、私たちはいくらでも声をあげるのだけど。この手札でやりくりしていくことの限界やつらさを捨てられるわけじゃない。
どんな気持ちを持っているにしても、だいじょうぶ。
そこに向かうのが、まずなによりもたいへん。
こういう現実のちゃんとしてなさ、限界を知るたびに、あの野郎や、あの野郎をつくり出した集団が形成されるだけの可能性が現実感をもって肉薄してくるようで、参ってしまう。
これを否定したくて答えや解決を急ぐのかもしれない。
暴力性はとても身近にある。だけど悲しいくらい他人事じゃない。
つづく!
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