第二千七百七十七話
傷つかないようにするなら、鈍感になればいい。
いやなことがあっても気にしないようにすればいい。
そんな風に考える人が一定数いて、悩みを話すと「気にしなければいい」一辺倒で返してくる。この手の人にもいろんなタイプがいて、自分はできない人、時と場合によるという意識のある人、まじで押し通しちゃう人がいる。それぞれにもやっぱり、いろんなタイプがいるもので、押し通しちゃう場合において「我慢しぬく」ケースもあれば「なにがあろうとマイペースにやる」ケースもある。
結ちゃんは後者。
私のなかでの最強タイプ。
だけど変われるものじゃない。少なくとも、すぐには無理。
これはなんていうのかな。
身長を伸ばせ、縮めろっていうくらい無茶な話だ。
ほんと、とことん無茶な話。
アマテラスさまのお屋敷に長く滞在していた頃に見たアニメに「BEASTARS」があってさ。いろんな獣たちが暮らす世界、高校生たちの物語。狼のレゴシくんが兎のハルに片思いをする。だけど肉食は肉を食べちゃだめで、草食を食らう食殺事件という罪がある。
肉食と草食の関係性を利用した物語は他にもある。あらしのよるに、とかね。
草食にしてみれば、肉食のそばにいると本能で「ひええ」「むりむりむり」「いますぐ逃げたい!」となることもある。肉食も肉食で、普通に仲良くしたいこともあるし、うまくいかないことも、嫌悪されることも、距離を置かれることもしょっちゅうある。
狼をはじめ、肉食には草食の視点がわからない。価値観や世界観、なにより体感がぱっと理解できない。草食も同じ。
そういうちがいは人同士でも当たり前にあるものだから、ね。これでは済まないよね。
「ちゃんとする」の圧が強いぶん、そうでないものへの攻撃って度を超している。
だから私たちは表面上は「ちゃんとする」を取り繕うし? うんざりしている。その緊張感は、そうだなあ。
あほに例えるなら、クラスに集まったみんなが帽子をかぶり、それぞれの帽子を糸で繋げる。すこしでも糸がたわむと、一斉に爆発して、みんなの髪の毛がなぜだかアフロになるような感じ?
もうちょっと怖く例えるなら、全員が荒野で銃を抜いていて、だれかが「ちゃんとしなかった」瞬間に全員で撃たなきゃ自分が撃たれるくらいの感じ。
無関心やほっとかれるならまだマシで、なにを言われても、やられても文句が言えないみたいな、それくらいのこととして狙われる。
勉強がだめ。体育でやらかす。人との関わりのなかでの言動の問題。
それらのなかには信条だ価値観だなんだも入ってくる。
ここには時代性があって、その年代ごと、世代ごとにいろんなバリエーションが含まれる。
その影響は、それこそ私とカナタの間でも、いくらでも入り込んでくるもの。
なので気づくと、責めるために利用するものにすり替わっている。
「まあ、そういうのはあるなあ」
包丁を手に、リンゴの皮をすりすりと剥きながらカナタがうなずく。
翌日、さっそくいの一番に会いに来てくれたのだ。フットワークかるぅ。助かる。
「警戒しちゃうもんな。それをもって、なにか責めてくるんじゃないかって。それって日ごろ、相手のちゃんとしてなさをついつい責めちゃうからってのもありそうだ」
「でしょお?」
ちょうど食べ頃を迎えたリンゴだからか、カナタがうちで借りて持ってきた大きなお皿におつゆがぽたぽた垂れている。行儀が悪いのは百も承知で、お皿を傾けて飲みたい。甘味が! ほしい!
「改めていくためか、それともいやがらせのためか、とにかく責めるためか、みたいにさ。分かれるじゃん」
「俺はそろそろ見棄てられるのかと」
「ん?」
私の目つきにカナタが肩を跳ね上げさせてから、咳払いをした。
「ごめん。弱音を吐きました。えー。まあ、分かれるな」
「でしょ?」
なにをいまさら弱気なことを言ってるんだか!
「有り体に言って私たちは関係が深まるほど、ちゃんとしてなさと付き合うことになる。じゃない? 自分だけでも、身近な人だけでもない。たぶん、社会のあらゆること、もっとふわっと言えば世界と」
「だいぶ風呂敷を広げてきたな」
「でもそうじゃない? たとえば環境問題。こう言うと大げさだけど、夏の暑さが過酷になり、冬の寒さに耐えきれなくなっていく経験が増えていく。すくなくとも、向こう何十年か、死ぬまでは。魚は漁獲量が減っていて、牛肉は和牛がスーパーに並ぶようになったけど、とても高くて手が出せない」
「んんん、まあ、そう、だなあ」
「政治、これもやっぱり大げさに聞こえるけど物価はあがり、社保は高くなるばかり。カナタだって役者の仕事で収入が入ってきたから住民税の徴収が来たんじゃない?」
「ぎりぎりラインを超えたから、びっくりする額の請求がきたよ」
「でしょ?」
手取りの割合って十割じゃない。もちろんそう。
かつては法人税でまかなっていたものの負担を軽減するべく、いろんな税制が取り入れられて負担が変わっていく。基本的に取れるところから取って再分配などに利用する、ので所得が増えれば増えるほど、徴収金額も増える。ただ、所得が低くても、わりとえげつない金額になる。
これは収入が発生するかぎり、永遠にお付き合いするものだ。なお年金、生活保護、あと宝くじの当選は除く。非課税。ううん、なんて素晴らしい響き!
そう感じるのは私だけじゃない。
富裕層ほど「俺たちから取りすぎだ」と大暴れするし? 大手企業も同じだ。だけど現実には、彼らからこそ多くを取るものだし? またそうしないと破綻していく。そしてただいま破綻の真っ最中。もっともいまに始まった話じゃない。百年単位でさかのぼっても、いや下手をしたら千年単位でさかのぼっても、この手の問題は長く影響を与えつづけているものかもしれない。
でもって、そうした影響は日本で過ごすかぎり、だれもが受けるものだ。
当然、過ごす時間が長引けば長引くほど? 影響と付き合う時間も増えていく。
単純な話だ。とてもね。
「でも春灯、そのちゃんとって、かなり主観的にならないか?」
「なるよ? いいとこ突くね。そう、主観的になるの。でも、それだけじゃない」
「比較するか。基準を設けるか?」
「数値化したり、絶対視したり、みんなで共有する物語を活用したりするんだよ」
インセルと呼ばれる女性蔑視の男たち。
彼らにしてみれば「人である前に女」であり「女であるかぎり消費するもの」だ。消費とは性的なことだけじゃないけど、性的な部分はかなり大きい。なので女性を前にすると「性的に消費するもの」が先にくる。ヤれるのか、ヤれないのか。いけるのか、いけないのか。まずそこから入る。
痴漢と変わらない。同じだとさえ言える。
彼らからすれば? 自分たちにとって当たり前のことをしているのに、妙に攻撃されるようになった。いわば「ちゃんとしていない」がゆえに差別の的に選ばれた、という感覚の人さえいるかもしれない。
彼らの主張を聞くと眉をひそめる内容がてんこ盛りで続くから、とても同情できないけどね。
「なので、たとえば蔑称を回避するためになんでもするみたいなことも起きる」
インセルもだし。彼らにしてみればフェミニズムは対向するために貶める象徴なのではないか。
お屋敷で見た短いドラマシリーズ「アドレセンス」じゃ、十三才の少年が同級生の少女を殺害。なぜって、彼女の裸の写真が出回り意気消沈しているところを見かけて「いまならいける」「やれる」と思って祭りに誘ったら断られたから。押し飛ばされたから。「そこまで落ちてない」って言われたから。触らなかったのに。ヤらなかったのに。なんでこんなことされるんだって言うんだ。
かなりやばい。
ヤれるかどうかを先に持ってきて判断したうえで「やあキミ落ち込んでるでしょ? だからいま俺はキミならヤれると思って誘ってるんだ」ってことじゃん。
それを優しさだ、他の連中より自分はまともだみたいな態度でくるんだよ?
あり得ないでしょ。
でも、少年本人は、それが自分なりの「ちゃんとする」であり、自分が声を掛けた少女にとってあるべき「ちゃんとする」なんだよね。
彼にはそれが当たり前で、それでいいと思ってるものだからさ? 「ちゃんとしない」彼女が許せない。おかしい。どうかしてるってなる。
「主観には限界があるし、自分の答えや解決、救いをもっとも肯定する物語にだって限界があるけど、私たちはついつい、それを無視する」
楽だし。
めんどくさくないし。
なによりも、自分について考えなくていい。
答えがないこと、解決できないこと、救いのないことについても。
手に負えないこと、体験してしまったこと、傷つけたり傷つけられたことについてもね。
責めるだけでいい。
とても簡単だ。
具体的な事例について調べず、知ろうとせず、自分の知ってる物語や基準に沿って、好きに物語ればおしまい。
実にお手軽だ。
実際にある情報だなんだは見向きもしないでいい。
まず自分たちがどうしたいかだけがあり、そのとおりにまわりが「ちゃんとする」ことだけ求めていればいい。
「なんか、こう、ひどく幼稚だな」
「でも、切っても切れない一面じゃない?」
私はこれって人が安易に取れる対応だと思う。
反応に対して、余裕がなかったり、労力を割きたくなかったりするとき、ついやりがちなことだとね。
「あれこれ敏感でいると疲れちゃう。だから鈍感になろうとしたら、いくつかの手段があって。そのひとつが、がんばらない、反応しない、無視すること」
まともに反応しない、真に受けないことだ。
しばしば、こうした態度を礼賛し、称揚する発信がSNSで受けている。
正直かなり危うい。
「価値観や反応は、すぐさま変えられないからさ? かといって知ったり分析したり学んだりなんて余裕もないときも多いからさ。私たちは不快さを落としこむ答えや解決として、物語を求める。見つけたら、積極的に活用する」
あいつがわるい。わるいのはなぜ? 無能だから、とか。年齢、性別、障害なんかを持ち出す明らかに差別的な人もけっこういる。海外ではここに人種が入る。日本でも、実はけっこう人種を狙う人がいる。
そういう消費で済ませれば、知ることをがんばらなくていいし? がんばれないときに済ませられる。
鎮痛剤のように作用する。
だけど、この鎮痛剤には常習性があって、使用するほど麻痺していく。
実際に鈍感になっていく。
なによりもまず、自分の加害性にね。
自分の感情にも。周囲の感情にも。
共感性を失っていく。
結ちゃんは知ろうとする飽くなき元気と気力、そして意欲があるけれど、物語鎮痛剤の常用者だと失われつづけていく。
たとえば被害体験を抱えていながら「知りたい」人たちのなかには、結ちゃんほどの元気や気力がなくても、意欲を支えに医療や支援に繋がっていく人がいる。全員じゃない。意欲があっても、その先が見当たらなくて何年も、何十年も苦しみつづける人もたくさんいるだろう。
幸いにして繋がっていく人たちの中に「知りたい」意欲を学習に繋げる人たちがいる。全員ではない。なにより学習は自分の苦しみを想起させる可能性がある。それで挫折する人も少なくないという。
信田さよ子さんが宗教2世にまつわる本で、母親支配の被害に遭った方たちが自分ではなく、母親について研究に触れて学んでいく過程で再生していくことに触れていた。
なぜ。どうして?
その疑問が解かれていくことは、過去を消すわけでもなくすことにもならず、これらのアプローチで自分を救うわけでもなく、解決するのでも答えを与えるのでもない。けれど、理解の範囲が増す。それは苦しみを別の視点で捉える力をくれる。自分を縛る「ちゃんと」の実態が、自分のわからなさだけではないことがわかるのではないか。
でもね?
勉強せず、調べず、自分の問題もほったらかして、物語に頼るとき、その鎮痛剤はこれと真逆のことを発達させていく。
アドレセンスの少年が、まさにそれだ。
少年は罪を犯した。となれば彼の家族は加害者家族となる。
この作品はイギリスのものだけど、加害者家族への差別と攻撃、あらゆる暴力に国境などない。
加害者家族にはなにをしてもいい。連中は「ちゃんとしていない」。だからこどもが犯罪なんかやるんだ。さあ! みんなで攻撃を! というわけ。
みんなで彼らのせいにする。
そうすれば?
社会の問題だなんだ、予防策だ対応策だ、考えないで済む。
飛び火しないで済ませられる。
自分の受けた教育や、家庭が問題ないことを示せるし?
自分たちの問題を透明化しやすくなる。
新興宗教団体のなかには、あらゆる家庭の問題は家庭が責を負う、みたいな基準を設けているからさ? そういう影響があると考えたとき、実は別にこの手の考えや基準って新興宗教団体にかぎらず、ドラマや映画で頻繁に浴びるものだということにも気づくはず。
社会も私たちも「ちゃんと」なんてしてない。ここで新興宗教団体を攻撃するのはたやすいけれど、この鎮痛剤は私たちが取り入れて内面化している問題をなかったことにしてしまう。それに「ちゃんとしていない」だけじゃない。「それがすべてじゃない」。
シュウさんたちも仕事してるし、それはトシさんたちや高城さんも同じだし。できる範囲でやってるけど、かといってそれが常時、百の元気を百で出してるってものでもなし。一日のなかで最大で十も出せない日だって普通にある。
ぼちぼち生きてんの。
なんだろな。
私たちは出力を利用しないとき「ちゃんとしてない」。出力を利用して「ちゃんとする」。
慣性が働くし? みんな、そのときどきで出力も、燃料も、その貯蔵量も消費量もちがう。
みんなちがう。ひとりにおいても、安定しない。
もちろん「ちゃんと」の内訳はひとりひとりでみんなちがう。
それが思索ということもある。お金にならないってこともざらにある。当然だ。お金ありきで人間できてない。それは社会の都合。でしょ?
「なので、出力を利用しないで問題がないようにするには、ある程度の出力を割いていく必要がある。少なくとも、それができるなら、しておいて損はない」
「そこで株投資とか言うなよ?」
「う」
今後のために投資じゃーなんてぶちあげた私だけど、今回の医療費とか、ぷちたちの今後を考えると「いまはそこまで余裕がないですね」という現実にぶち当たった。
なにより私がこうも頻繁に働けない状態になったら?
投資に回せる原資がない!
でしょ?
このあたりの事情をもちろんご存じなカナタさんのツッコミがつらい。
ま、まあ? 経験にはなったし! なんて、はあ。
いろいろあったんです。
「それにそれは持つ者の理屈になってる。俺はなにをどうしたらいいのかも、さっぱりわからないよ」
「ううっ」
実際こまっちゃう。
そう言われると困っちゃう。
アドレセンスでは少年の家族構成が両親と娘。四人家族なんだよね。
同じように育てたつもりだったし、両親は、そりゃあ完璧でも万能でもなかったけれど精いっぱい育ててきた。お互いにいい親だったと、そう健闘をたたえ合うくらいには。
もちろんそれは彼らにとっての認識だけれど、それで切って捨てられるような十数年じゃないんだよ。
当然そう。
娘さんはふたりを励まして、学校で加害者家族だといじめられることさえ認識しながら生きている。お母さんは家族みんなで親のいる場所移ることを提案していたのだけど、娘さんは批判する。なぜか。「ここから移っても、向こうでまたどうせバレる。そしたら、逃げてきたって目で見られる。いまよりずっとひどいことになるよ。それよりも、ここにいよう」と。あの子は罪を犯したけど、家族なのだと。
しっかりしてるよ。
どうにもできず、寝耳に水にはあまりにもひどいことを家族がした。
こんなの受け入れがたい。
刑務所に入った家族の面会ができない人がいる。徐々に足が遠のく人もいる。家族を責めて縁を切る人たちもいる。なんなら、私たちはそうなるようけしかけさえする。彼らを責めながら。
ベッセルが著書で批判していた。私たちは「病人には薬を飲ませておけばいい」として、社会や人、環境にある問題をぜんぶなかったことにして、苦しんでいるひとりのせいにして、対応を押しつける。
そういう構造のあらゆる問題の余波は、現実に浸透して、あらゆる問題をそのままにするものだから、いくらでも再量産しては苦しむ人を増やしつづけている。
そりゃそうだ。
対策なんか、してないんだから。
人を辞めさせる人や職場をそのままにしたら? あとから来た人たちも、もちろん辞めていく。人が定着しない職場はどんどん破綻していくだろうし? 人を攻撃する人はどんどんこじらせて病んでいくだろう。大勢の人を犠牲にしながらね。
「それでもさ? 問題はたぶん、出力を割いてでも、真に受けたほうがいい」
「そこは、俺も同じ思いだよ」
うさぎさんカットにして、お皿に並べてくれた。そっと食事用テーブルにのせてくれる。椅子から立ち上がって小机のウェットティッシュを取って手を拭いながら、カナタが天井を見上げて深呼吸をした。
「そして、それがとても厄介なんだ。いつだって」
「自覚あり?」
「いろいろと」
唇を閉じて鼻からむふーっと息を出す。長々と。
排熱してるのかな。
ベッドそばの椅子に座ろうとするから手招きして、ベッドに腰掛けてもらう。
こうしないとくっつけない。背中に触ることだってできない。せっかく会いに来てくれたのに。
「シオリ先輩が教えてくれたよ? できない前提を持たないと、私たちはその先を考えることさえしなくなるって」
「耳が痛いなあ。自分のできないこと、ね」
言い終えると、またしても唇を結んで首を傾げる。
目が泳いでいる。選んでいるんだろうか。どの問題からいくのか。
私なら迷う。
なにせ、ほら。いっぱい! あるからね!
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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