第二千七百七十五話
よく人の話は鵜呑みにするなと言うよね。
私たちは自分に都合の悪いことを言わなかったり、ごまかしたり、嘘をついたりしがちだし?
そもそも私たちの主観には常に限界がある。そのつもりがなくても、物語って限界を埋めてしまう。
端的に言うとね?
平塚さんには、話していないことがあった。
ホノカさんが穴埋めするように教えてくれたのは、どんな話か。
ざっくりまとめると「彼には彼で恋人がいた」。ホノカさんだけが奔放なのではなかった。おまけに二度もこどもができて、一度目は中絶、二度目は死産だったという。いろいろあって見限られたそうだ。
私たちの視線を浴びた平塚さんは言葉少なく「仲間だった。二十年前に別れて、いまはどうしているか知らん」と答える。汗だくである。
「あの子なら、ふたりめの旦那とまあまあ幸せそうに生きてるよ」
ホノカさんの言葉に平塚さんが肩を丸めて縮こまる。
人間、いろいろあるもんだね。
「私への当てつけだったんでしょ」
「ん、んん」
「よくつるんでたっけ。三人で。で、私の見る目を盗んで、あんたはすぐにあの子に手を出した」
「その前に、男とつるんでいたろう。我の友人の知り合いと」
「はっ」
ふたりの感情的衝突の原因がつまった時代の話だから、ふたりしてスルーできない。
逆にスルーできないくらいには、わだかまりを現在進行形で抱えていて、未だに消化できていない。
実はさ? 理華ちゃんから知らせがきてた。例の議員の息子たち、男のろくでなし連中のひとりが、過去に揉めた女性に侘びにいったら、そもそも門前払いのうえに警察に通報されたという。
そう。
反応してもらえないか、壮絶に強めの反応を受けてもおかしくない。
なのにホノカさんも、平塚さんも、お互いにそれができていない。
それくらいには、いろんな情があるみたいだ。
もちろん、いろんな事情もね。
「まっ、まあまあ、いまはそれくらいにして」
佐藤さんが割って入ろうとする。でもホノカさんにきつく睨みつけられて黙っちゃう。
いまは触れるな、やめておけ。そうわかっていても、ふたりがケンカをしていたら、話が前に進まない。でも、ふたりがいるからこそ、わかることもある。
「あんたにとって私はなに」
彼には答えられない。
「あのときなんでなにも言わなかったの? なんで、ひとことだって言ってくれなかったの」
もちろん答えられない。
「答えてよ。言ってよ。私は信じてきた。なにもかも。なのに、あなたは?」
どうしても答えられない。
彼に焦れて彼女が去っていく。放っておけないからとニナ先生が私に「また来るね」と伝えて追いかけていく。
だれにも手の施しようがないほど痛々しい空気のなかで、あねらぎさんが咳払いをした。
「きっと話しにくい、言いづらいことがたくさんあるんでしょうけど、どうでしょうか。いっそ私たちを練習相手にして、話してみるというのは。整理がついたら、もっとちゃんと、するべき話ができるようになるかもしれません」
意気消沈なんて言葉が生やさしいほど落ち込んでいる平塚さんへの、できるかぎりのフォロー。でも、すぐさま受けとれるとはたぶん思っていない。
私も無理だと思っていた。
心残りというだけじゃ済まないものを、ふたりはいまだに抱えている。
理華ちゃんが知らせてくれたふたりのように「片方にとっては完全に終わっている・済ませたことにしている。なので絶対に触れないし、触れさせない。断固拒否」みたいなことになってない。
それがいいことかって言ったら、なんとも言えないな。
「我は、家庭が欲しかった」
そう呟いて、平塚さんが教えてくれた。
本当は学校を出て、ついてきてくれた相棒でホノカさんのともだちといろいろあったこと。彼女と別れて、戦いの最中に傷ついて腐っていた時期に出会った女性といい仲になったこと。彼女には付き合っている人がいたけれど、自分にとってはもう、彼女しかいなくて縋っていたこと。いよいよ彼女が結婚しても関係は続き、妊娠させてしまったこと。そして彼女たちは不妊手術の真っ最中で、本当に本当に苦しんでいたということ。
もうここまでくるとドン引きだし?
よくもまあ人生、ここまでドミノ倒しのように選択しつづけられるものだと感じる。
いろいろ噛みあうものだね。悪いほうに。
「壊しただけだ。なにもかも」
自分が悪いのだと彼は白状したし? それで済むことじゃない。
ホノカさんはホノカさんで、家庭を築いたそうだけど、それも穏当な流れだったのだろうか。
ううん。
うちもうちだしなあ。高校生でこどもができてーでしょ?
あらゆる作品は「みんな恋愛して、結婚している」か「みんな結婚して、愛しあっている」かのように描いているけど、現実はそんなこと、ぜんぜんないのだなあ。
比率でいったら、どんなもんなんだろうね?
わからない。
調べるのもたいへんそうだ。
なにせ、ほら。
ふつう言わないよね。こういうこと。
いまさら言えないんだろうなあ。
でもたぶん、その言えないことをどうするか、ふたりで話しあうところから始めるしかないんだろうし? その勇気が持てないかぎり、ふたりの時間に戻れる日はこないんじゃないか。
ぜんぶ、自分に返ってくる。
自分に留まらないことがやまほど増えていく。平塚さんでいえば、いまの生活を選んだという彼女に決して近づかないこと。だけど、それは平塚さんにあまりにも都合がよすぎる。彼女にとって、こどもにとって、あまりにも辛辣な振る舞いだ。ひどすぎる。その前に彼を見限った女性との時間も、存在していたものだ。
なにがどう深刻な問題に発展してもおかしくないし、その影響は計り知れない。
でもたぶん、それでいったら、ホノカさんも同じじゃないかな。
うちの事務所にしても、仕事で会う人たちにしても、仲が深まって聞いた話では割といる。バツのある人。ひとりでこどもを産んで育てている人。不倫した人もいるし、バツが三つ以上ついてる人。もう、ほんと、様々だ。もちろんずっとぼっちなんて人もいる。
当たり前だけど、私たちは作品やお話に見る理想のとおりに生きちゃいない。
なので、やらかしたり失敗したり、傷つけたりっていう具体例にはもちろん、いま並べたようなことだってたくさん入ってくる。
お母さんも初産が双子で、お姉ちゃんが死産となったことを長く悔いていた。いまもかもしれない。その背景には生活苦や将来の不安、無理してお金を稼いだことがある。それは永久にどうにもできないことだ。
世の中はぞっとするほど「ちゃんとする」ことを望む。求める。押しつける。
だけど世の中はびっくりするくらい「ちゃんとしてない」。
それはもちろん私たちの行ないを正当化・責任転嫁・免罪しない。なにをしてもいいわけじゃないし? したことは全部、重たくのしかかってくる。
いまの平塚さんのように。
あるいはホノカさんのように。
私のように。
より積極的に「女遊び」をしている芸能人がけっこういるという話を高城さんから口酸っぱく言われている。だから絶対に自分がいないときには、自分から男性の芸能人はもちろん、スタッフさんにも話しかけないようにって。他にもね。あいさつをする取引先とかにも、その手の人がけっこういるという話はされている。絶対に誘われても乗らない。遊びに誘われてもはぐらかして断る。どんなに目上の相手でも。すごく活躍している人でも。大御所でも。絶対にダメ。そのためなら高城さんや事務所を責めてもいいくらい。
愛人がいるなんて、そういう生やさしい次元じゃない。内縁の妻が何人もいる、みたいな話。
そういう人たちは話に聞くよりも、もっとすんごいことになっていそうだ。
でも必然といえば必然なのかもしれない。
人権についても性教育についても、ろくに受けてない。
なにをしたらどうなるのか、まともに知らない。
それじゃあもちろん、なにをやらかすのかわかったものじゃない。
問題はそれだけでもなし。男たちの意欲や選択が、いまの社会でどれだけの影響力を持つのか。その話で女たちのありようを透明化していいっていうものでもないけれど。それにしたって問題として大きすぎるって話でもあり。
恋だの愛だのさえ、ほんとに複雑で、思いどおりにいかないばかりか「そんなのやめて」ってものまで入り込んでくる。
人の生々しい部分がやまほど入り込んでくる。
でもさ?
そんなの、恋だの愛だのじゃなくても当たり前。
生々しい部分を拒絶したかったら、もうだれとも付き合わない。それしかない。でもね? これを選んだからって、自分の生々しい部分からは死ぬまで逃れられない。
極端な話、付き合うほかにないし?
だれもができるわけじゃないし。苦手にも度合いがあるし、食わず嫌いみたいな状態にだって濃淡がある。
具体的な体験が絡むと、ますますむずかしい。
ラジオで聞く人生相談じゃあもう「お互いいい年で、そういうこともあるんだってわかっているなら、あとはもうそれぞれがどうしたいかじゃないの?」となるのでは。
身も蓋もないことを言っちゃうなら「お互いに一緒になるとき、出てくるだろう問題と具体的にどうするかだって、ふたりで話しあってやっていけばいいし、それしかないんじゃない?」ってなるのでは。
まとめちゃうと?
あんたは相手と生きたいの? そうじゃないの? そこが決まったら、あとは粛々とやってけばいいんじゃない? となる。
どんなに紆余曲折があっても。それこそ暴力だなんだが絡んで「絶対に離れる」と決めたときでもおんなじだ。自分がどうしたいのか。そのためになにをするのか。それに尽きる。
もちろん「どうしたいのか」「そのためになにをするのか」では収まりきらないものが、人生には付きまとう。終始、そういうものと付き合うほかにない。
できるとはかぎらない。
いくつになってもね。
その点では、ふたりとも苦しんでいるみたいだし?
私もいまだに苦しんでいる。この苦しみが何十年たとうと、いつでも起こりえるのだと知って割と絶望もしている。でもまあ、そんなのはさ? 人と付き合う以上は、起こりえるものだって腹をくくるほかにないんだろうね。
ひどい話だよ!
「今日は、このへんにしておきましょうか」
平塚さんの告白が途切れ途切れになってきたところで、あねらぎさんが締めくくった。
佐藤さんとふたりで彼を励ましながら、そっと病室を立ち去っていく。
「どんなことをしてしまったとしても」
それでも人生は続いていくし?
思いを捨てられない、忘れたくない。そういうものに出会ってしまうことがある。
心に刻みこまれたものを捨てたくない。捨てられない。そもそも捨てられるものじゃない。
平塚さんは、いろんな人との出会いがあって、相応の関係性になっていながらなお、ホノカさんの存在を心のど真ん中に置いている。それにたぶん、ホノカさんも、少なからず似たような状態のようだ。
物語にみる関係性は、たいがい「ちゃんとしてる」。
なにせ私の触れる物語は商品なのだから。心地よくなれない「ちゃんとしてなさ」なんていらない。
だけど現実は「ちゃんとしてない」ことばかり。
そもそも「ちゃんとする」を前提にして成り立ってなんか、いやしない。
それを嫌悪したり、憎悪したりする人はきっと、それなりにいるんだろう。
でも実際には、その「ちゃんとしてない」具体的な体験を背負ったり、抱えたり、それに押し潰されて黙ったり固まったりしながら生きてる人も、それなりにいるんだろう。
開き直れる人もいる。
だけど、できない人もいる。
きっぱり拒絶されたり、いっそ完全にスルーされたほうが、まだましってこともあるかもしれない。
それくらい絶対的な「おしまい」を求める人もいるのかもしれない。
おまけにそれは自分で選べる「おしまい」でさえある。忘れられるのなら。区切りをつけられるのなら。
でも、そうじゃなかったら?
思い続けるほかにない。好きでいつづけるほかにない。
心に焼きついた思いと付き合えるように、自分の抱えているものや背負っているものがなにかを下ろせるようになって、それぞれが自分にどう影響を与えているのか調べて、対応していくほかにない。
それには体力や気力が思う以上にたくさんいるし、勇気もいるし、知識もいる。いろんな依存があればいいのは当然だし? なによりも、それを望む気持ちが必要だ。気持ちがなけりゃ続かない。ダイエットみたいに、すぐに挫折しちゃう。
平塚さんやホノカさんがどうかは一旦置いといて、私はどうだろう。
やれるかな。やりたいかな。
もちろん、やりたいよ? そのために時間を使っているつもりだ。
そんなとき、強く思うのだ。
私はだれかのすべてじゃないし、だれかは私のすべてじゃない。ぷちたちも。カナタも。キラリも。家族も。世界の平和ーとか、なるべく平穏にするべく戦う理由とか、それだって同じ。全部じゃない。
それらは刀のように重たい。
下ろせないようだと、どんどん疲れてくる。参ってしまう。いらいらする。
振るう先がないのなら、刀は荷物だ。ただただ重たい。
でもね? 私はあなたのすべてとか、あなたは私のすべてとかって、いろんな歌や作品で見聞きしてきたけど、あんまりにも重たすぎる。
絶対的なものがほしいときはいっぱいあるよ? うちの親が、トウヤが、お姉ちゃんが、結ちゃんたちや中学の先生たちが、私を絶対に裏切らないで、大事にしてくれている、みたいな感覚。こういうのがもう、たまらなく必要なときって、きっと、いっぱいある。私の思う以上に、いっぱい。
だけど「それがすべてじゃない」。
ドラマシリーズのデアデビルで、マシュー・マット・マードックはしばしば教会に行く。彼の行きすぎた自警団活動は、みっつのラインのスパイダーマンたちのどれともちがう、極めて暴力的で、衝動をぶちまけても憤怒しつづけるような、そういうものだ。マットはめちゃくちゃに強力な衝動を抱えて生きている。だからこそ、デビルのコスチュームなんだ。
ともすれば「悪党なら思う存分、暴力を振るえる」かのようだ。そのことを彼は自覚していて、苦しんでいるし、強烈な自己否定感情を抱えて生きている。
弁護士として苦しんでいる立場の人たちに寄り添う彼も、相棒も、かなりのやり手。だけど、彼らの相手の選び方では正直ちっとも儲からない。ドラマ「SUITS」のように大手企業の顧問弁護士をいくつも勝ち取って訴訟を引きうけるくらいしたら、がっぽり儲かる。でも、弁護士報酬に困るような人たちの依頼を受けるとなると、無理だ。職業倫理だけじゃやっていけない。
逆にいえば、それだけの弁護士活動ができているのなら? デアデビルなんてやる必要がない。
実際に相棒は何度もマットにそう訴えるのに、マットは絶対にやめないし、やめられないんだ。もはや暴力をやめられる段階は、とっくのとうに過ぎているのだから。やめようがない。
でね?
だけど「それがすべてじゃない」。
どう選ぶのかは、自分次第なんだ。
だからマットは弁護士だってやめない。トムホの三作目じゃ彼の弁護を引きうけて助けてみせた。
そう。
「それがすべてじゃない」。
別にそれで世の中の具体的な問題が消えるわけじゃない。負荷や体験だってそう。
これはもう、ただただ視野と選択の話。
その点でいくとホノカさんはいろいろ踏まえて、それでもなお平塚さんを選んでいた。なのに、肝心の平塚さんには一ミリも伝わってない。おまけに平塚さんは逃避で自分のともだちを相手に選び、さらには関係を消費してた。
こう考えると、ホノカさんはどうして平塚さんを諦めないんだろう。やめないんだろう。
やめられないのは、どうしてなんだろう。
わかんない。
一時期、平塚さんを支えていた女性だってそうだ。相手がいて、結婚するまでの間も、してからも平塚さんと関係を続けていたのは、なんでだろう。どうしてなんだろう。
もしかしたらさ?
答えなんて、ないのかも。
そしたら、もうだって、あとは「どう生きたいのか」しかないんじゃない?
「それがすべてじゃない」と深呼吸して、いまの自分や相手のこと、もろもろ見て、聞いて、話して、探って。刺激を感じて。衝動に耳を傾けて。もうただただ、対処していくほかに、ないんじゃない?
できない人もたくさんいる。望まない人も。知らない人も。気づかない人も。気づきたくない人や知りたくない人も。だれかがやってくれればいいのにって願う人も。
フランクルやベッセルが記述していたように、収容所から生還したものの治療が必要な状態でいながら、もうその自分をどうにもできない、治療やケアを選ばない、選べない人がいたという。
カナタとシュウさんだって、何年も戦いつづけていた。兄弟で。際限なく。
たぶん、痛いんだ。
「それがすべてじゃない」と、距離を取ること自体が。
いまの「これがすべて」「あの人がすべて」みたいになっているときのほうが、つらいのに、マシだと思えてしまうことだって、あるんだ。
そこを「ちゃんと」なんて、たぶん、不可能なんだ。
いま、そばにある幸せをつい優先して、すべてを台無しにすることだって、きっといっぱいあるんだろう。
それでもさ?
結局やっぱり「どう生きたいのか」に突き当たるんじゃない?
それが見えなくなっちゃう前に、選びたいよね。
見えなくなっちゃってから探すのは、いつだって骨が折れるから。
それこそ「ちゃんと」に執着していたら、自分の思う「ちゃんとしてない」を攻撃せずにいられなくなるから。「それがすべて」にしちゃうし、そう選び続けちゃうから。
スマホを操作して、耳に当てる。
「もしもし、カナタ? うん。あのさ」
会いたいって伝えて、聞こえた声からしみでる思いを噛みしめた。
すべてじゃない。だからこそ、私はそれを尊いと思うのだ。
ぜんぶになんかなれないし、ならなくていい。
世界のあんまり膨大すぎるもののなかの、わずかなふたりでやりとりできるもので、それでいいじゃん。
すべてをどうにかできるような、ひっくり返したり、やり直したり、帳消しにしたりするような、そんな万能さや完璧さなんかないけどさ。なくていいじゃん。
私はいま、あなたに会いたい。
そう思えることが、十分すっごく輝いてて、それがいいんじゃん。
ああ。これを歌いたかったんだと気づいた。
別に平塚さんやホノカさんを変えるんだ、なんて意気込みはない。ふたりがどうしたいかは、ふたりがそれぞれに決めることだ。でもね? 私は歌いたいし、伝えてみたくなっちゃったんだ。
なによりも、まずはカナタに。
それにぷちたちにも。キラリや、みんなにも。
私のなかに留まる魂たちにさえもね。
世界にあると思っていた壁が消え去って、日差しが入ってきたような晴れやかな心地で伝える。
「急だって? しょうがないじゃん。会いたいんだもの。私はあなたが好きだから」
それでいいのだ。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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