第二千七百六十五話
おじさんたちのドラマを見ていると、不思議に感じることがある。
日本は新社会人に向けて「あなたたちが職場で会う人たちは社会人を演じている。中身はたいして変わらない。ひとまず演じておけばいいし、演じるほどには、だれも社会人になんてなれやしない」という。
もっと言えば、テレビドラマのなかの人たちも? みんな社会人を演じている。
でもね?
これが海外のドラマになると、まあああ! 中身はたいして十代と変わらないおじさん、おばさんだらけだ。だれも社会人を演じてなんかいない。あ、職場は人によっては別だよ? だけど仕事中でも中身のまま働いている人もたくさん出てくる。
公私があって、分けるだけじゃない。公に求め、求められるものがあって、その方向性が様々ある。おまけに、どんな方向性のものであれ、素の自分とかけ離れたもので我慢している人も多い。
だけど、これはわりとよくあることのような気がする。
仕事で私が会った大人たちを見るかぎりでは、ね。
でも、じゃあ日本人のだれもかれもが公私を分けなきゃ、公はたいへんすぎるって様子でもない。
職場によって、職場の人によって、素で働いている人もいる。
真壁さんたちと働いていると実感する。
なんだけどなー。
そのわりに、公を立てているものが多い気がするし? ギャグタッチのドラマだと、むしろ素の私が出るものが多い。演技が剥がれた瞬間だ。
個人的には「仕事ができればいい」し「仕事の範疇に、同僚たちに対して過剰に公を出さなきゃならないのも私を出さなきゃならないのも、なんだかなあ」って感じ。ともだちでもなんでもないけどね。それが私を出しちゃだめだという圧力になるのは、行きすぎてると感じる。
それくらいみんな、仕事がいやで、職場もいやで、そこにいる人たちもいやでたまらないのかな。
怖いし面倒だし不安だし厄介だし疲れるし、なにもかもごめんだ! って感じなのかな?
もしもそれが理由だとしたら、あれだね。
やっぱりキッズだね。お澄まししながら自分の思うとおりのことをするし、それは我慢を伴うものだと思っているし? ままならないと不機嫌になるんでしょ? それはやっぱり、キッズだよ。
ああ。だから、少なくない人が「世の中に出たら、大人みたいな人がいるけど、みんなそういう演技をしているだけだよ」って言うのか。
それって、あんまりいい感じしないね。
プライベートで遊ぶまでしなくても、職場でぴりつくよりは仲良くやったほうが円滑に進むことがいっぱいあると思うんだけどな。仕事になると、途端に怯えた獣のように威嚇しはじめちゃうのかな? 馴れ合うつもりなんかないから! って。
なんだ?
漫画のやがてデレるキャラ?
だけどそういうの、デレがなかったら、ただただ感じの悪い人なだけだよね。
その人の周囲のみんなが「気を遣わなきゃならないメーター」があがるだけだよね。
これを上司がやったら、みんな「はぁ?」「ふざけんな」って内心、不満たらたらになるんじゃないのかなあ。
「ちがうちがう」
だいぶ話がずれちゃった。
私というものの付き合いが気に掛かる。
自分自身の私だけじゃない。周囲の人たちの私との付き合いも含める。
スマホで撮影した画像を金色に写して、ウィザードがやってみせたように壁に飾っていく。
「私ひとりの出力が一なら、みんなと集まっているときの出力は、みんなとの相互作用で増えていく」
ちょうてんさいなら、数式に起こせるのかもしれない。
「私ひとりでうんうん悩んだり、思索に耽るよりも大きくなる」
ひとりで抱えこむことのなにが問題って、要するに自分の出力に留まるところ。
強烈に依存しすぎてしまうところ。
もしも関係性や環境の力を借りることができたなら? 自分の出力だけじゃなくて、いろんな出力に助けてもらえることができる。
ベッセルにせよ、信田さよ子さんにせよ、その本や記述を見ているとグループセラピーの話題に出くわすし、それが結局のところ私における「みんなでカラオケ」くらいの力をくれる。
仮にこども時代、親の虐待に遭っていたり、兄弟からの性暴力に遭っていたりして、居場所や安全、安心感を学べず、発達の機会を逸したとしてもね?
セラピーなどを通じて、人と関わり、居場所を作り、活動していくなかで育んでいくことができる、ということなのかもしれない。
だからこそのグループなのではないか。
「相互作用のまとめ。ひとりで考えたいこともあるし、その必要があるときだって。でも、それだけじゃない、よね」
これは私が失念していたことだ。
みんなに頼ることで、私は私にないものをいっぱい得られる。
刺激も、その反応もね。考えや情報だって。
「だけど、自分に引きこもっちゃうと? そういう全部がわずらわしくなる」
たとえばいらいらして、拗ねてるとき。
みんなの関わりどころか、街中を移動中のだれかの笑い声さえ癪に障る。
それこそ学校や会社で「おまえらともだちじゃねえからあああああ!」「ちかよるなぁあああ!」「なれなれしくすんじゃねえええ!」ってなってる人みたいな感じ。
「おまけに物語の力が加わると、手に負えなくなる」
公私混同なし、私を出すんじゃねえ! っていうのも十分、物語。決まりでもなんでもなくね。
私でいうなら、私がなんとかしなきゃーとか、帯刀男子さまが暴れるーとか、たくさんの魂が私の中にいるーとか、そういうのだし?
去年のシュウさんなら仕事たいへんすぎー! 仲間がいないー! 愚痴も吐けないー! だし。
私に八尾を押し込んだあのクソ野郎なら、製造開発グループCにされたこと、その恨みだ憎悪だが該当する。
「でも、それはよくも悪くも、私のもの。私的なもの。外の刺激、他者、環境なんかを支配・制御できないもの」
だから「したい」ことと「思いどおりにならない」こととが反発しあって、ままならなさにイライラしちゃうんだよね。没頭するなら、自分に引きこもるし? みんなも、環境も、刺激も、その反応さえも、物語で片づけられるように構築していく。
ぜんぶ自分のせいから切り離していくんだ。あるいは、ぜんぶを自分のせいにしちゃう、とかする。
たとえば「会社で素を出すのは、そいつが未熟だから」みたいな物語を作って利用する、なんていうのも一手。アメリカドラマだけど「SUITS」は、いいとことのおぼっちゃんおじょうちゃんが集まる弁護士事務所で、とにかく出世欲と仕事ができること、その態度の事務所っぽいいけ好かない感じなどの縛りがあって、それらは全部、物語に過ぎない。
みんなで共有した物語は、いくらでも規則や規律、同調圧力に発達する。
それだけじゃないよ?
そんな環境下で、みんなで過ごすんだから、そのための能力だって発達していく。
共同的なものなんだ。
能力は個人に還元されるのではない。
そんな事務所で発達した能力も、和気藹々のホームパーティーやってるみたいな距離感の事務所にうつったら? なんの意味ももたない。だれもかれも、そんな能力を歓迎しないし、求めてないし、そもそも持ち合わせていない。そんな環境、共同体、価値観すべてを抱える物語に興味もなければ必要性もないからね。
このあたりのギャップに苦しむ人を描いたコメディ作品はいっぱいある。
言い換えれば、それくらい滑稽なものだ。
だけど、滑稽なものを利用して「みんなのために、ひとりのせいにする」のを実践する場所は、わりとある。学校で「いじめ」と呼ばれるあらゆる加害も。それを会社などでやる社会人たちの加害も。どちらも同じく「みんなのために、ひとりのせいにする」ものだ。
物語を優先したり、物語を作れば、それをもって他者になにをしてもよい、みたいな錯覚は常に存在するけど、もちろんそんなことはないし? そんなことはなくても、それを実践する人はいる。
「ううん」
あの野郎に対する作戦を立てたじゃない?
とにかく話したくなるまで付き合うっていう、あれ。
通用しそうにない相手を見立てたでしょ? いまのアメリカ大統領のようなタイプも、やっぱり通用しない類いの相手だと思う。
自分の物語が強固なとき、あるいは完全に引きこもっていたり、それしか見ないとき、響かない。というより、それを受けとる力が相手にない。
戦争や紛争のように、もはやそれどころじゃないっていう状況のときも、もちろん無理。
あの野郎との対峙においても、私はとにかく相手が力尽きるまでやると決めている。ボッシュたちなら? 銃の弾が尽きるまで粘ったりするみたいな感じだ。いろんな刑事ドラマでも利用するものの、紛争ドラマを軸に見ると「本当に相手の弾が尽きたのかはわからない」し、民間と軍事の差が露骨に出るよね。両者において、後者のほうがよりシビアになるのは、軍事組織同士の戦いだから。
ドラマ「FBI」とか「NCIS」とか「クリミナルマインド」とかでも、武装した民間組織が相手になる回があった気がする。でもって、そういうときは被害者がぐっと増える。アメリカの警察組織も、これくらいの相手が敵になると率先して撃っていくからね。悲惨なことになる。
それくらいの規模感の戦いになるかもしれないけど、あの野郎が話の通じないタイプだったらどうするかって話はあるし? そこは、ほら。やってみなきゃわからない。
いかにして、あの野郎が反応せずにはいられない刺激を与えるのか。
あるいは、あの野郎が刺激せずにはいられないなにかを提示するか。
そこは情報をもとに計画を立てていく必要がある。
たまぁにステレオタイプに「話を聞くんだ」キャラをおばかに無策に描く作品があるけど、警察ドラマでさえ、話を聞くし、そのための労力を欠かさないよね? 犯人の自宅、産まれた場所を調べぬいて、生い立ちを確認するし? 関係した人たちに片っ端から話を聞いて回るよね?
なんぼなんでも、それくらいはするじゃん。
普通さ。
「その普通がたいへんで、厄介でも、やらないとだ」
できることはなんでもするもんだなあ!
「私の外にあるもの。私にないもの」
それが鍵になる。
別に、あの野郎にかぎらず。
ぷちたちと過ごすにしても、カナタとふたりでやっていくにしても、そう。
私だけじゃなく、ぷちたちにとっても、カナタにとってもそう。
どうするかは? それぞれが決めるし、それぞれに委ねるほかにない。
私は相手じゃないし、相手は私じゃないからね。
「自分に引きこもる相手を、連れ出すチャレンジかあ」
あれだね。
連れ出す先がいまよりマシじゃないと、まず無理じゃない?
私はやだな。どんな状況だってそう。
ホラー映画、パニック映画で「やだ! ここから出ない!」って発言は決まって「ああ、この人しんじゃうんだ」って観客が思うフリだけど、主人公か味方のだれかが「ここよりマシだよ」と安心させて連れていくっていう展開もけっこうお決まり。
お父さんがしばらくハマっていた「脱出もの」映画、それもかなり古めのキューブだと? コミュニケーションに難のある若めの男の人を、周囲の野郎たちはうっとうしがったり、気味悪がったりしておいていこうとする。だけど、みんなでなだめて連れていくと、実は彼が数学のちょうてんさいだとわかる。
彼のおかげで、行き先をどう選ぶのかを決められるようになる。
もちろん人はパーツでも道具でもなんでもないので? そもそも不安を抱えて集中もできず、お腹もすいてて、みんなに急かされるなかで、彼がどこまで計算したくなるかは別の話だし? それがもちろん不和の理由になる。
だれであれ、社会的支援・社会的資源・関係性・環境などの支援や依存が欠かせない。
アメリカのドラマ「ファイア・カントリー」では受刑者の模範囚に向けた社会復帰プログラムとして、消防団員の活動をするっていうのがある。なにせ刑期は必ず終わるし? 再就職に困難を抱えていて、結局、再犯リスクがある状況には変わりがなくて、これには対処が欠かせない。社会的課題だ。
だったらいっそ、仕事を与えればいいじゃない? という思い切った一手。こういうのも大事。
たぶん犯罪をした地域からは離すとか、故郷からは距離を置くとか、プログラムにおける注意事項や必須事項がいろいろあるんだろうし? それでもなお、トラブルは起きるんだろうけど、満点じゃなくてもやらないよりはやっていくほうがマシ。そういうことが、いっぱいある。
いまよりマシを、満点じゃなくても増やしていく。ゴールにせずに、開拓しつづけていく。
自分にとっていいものが、みんなにとっていいものとはかぎらない。
自分にとってむむってものが、みんなにとってむむっとはかぎらない。
このあたりは「ウォーキング・デッド」がしんどくなるほど、繰り返しやっていたね!
実は恋愛作品でもやってる。
三角関係、浮気、不倫なんかでもそう。
九割いいけど、一割うまくいかない。それだけで不貞に走る人はいる。誘惑に乗る人はいる。反対に九割九分、明らかに問題があるのに、一分の良さを信じて離れられない人もいる。
例え話! 私がカナタのこどもを妊娠したとする。だけど、それはいまみたいなタイミング。なので中絶する。とても育てられないし、いまこどもを迎えられる状況にない。これはすさまじいショックとストレスになる。こどもをいつか、それはありだとしても、この体験をもって別れるかもしれないし? 逆にむしろ別れられなくなるかもしれない。
この例え、カナタがちゃんと対応した前提で話してる。
でももしもカナタが逃げたら? 連絡を断ったら?
それでも私はカナタとの縁を続けるかもしれない。切れないかもしれない。
周囲からしたら「どう考えても、そんなヤツやめとけ」「絶対クズだろ」ってなるのに、離れない人が世の中にはいる。
それは善悪とか、答えや解決とか、そういうわかりやすいもので他者が評価・決定できるものじゃない。厄介なことにね。
それこそ「ここにいたら死ぬんだぞ!」ってことさえ、相手をどうすることもできないんだ。
たとえば「お前がどう考えても悪いんだから、お前がなんとかしろ」でさえ、たいした力を持たない。
強烈だ。
そういう現実と付き合うのは、たいへんだわー。
ま! そこはぼちぼちやっていくとして!
「どれどれ?」
せっかく写真にして並べたので、カラオケ外出時に作った粒の入ったガラス瓶を出す。
蓋になっているコルクを引っこ抜いて、中身を宙にぶちまける。自由落下せずに、ふわふわと漂う粒たちに「それいけ」と術をかける。
それぞれが生み出された瞬間や、近しい瞬間の写真に向かって飛んでいく。カラオケだけじゃない。トモおすすめのラーメン屋さんで撮った写真にも。
ただ、写真を撮り始めたのが遅かったから、ぜんぶの粒が行き先を見つけられたわけじゃなかった。
「ごめんね。みんなはこっちにおいで」
手招きをして、行き場のない粒たちをガラス瓶に戻す。
蓋をして、ご飯用のテーブルのうえに置いた。
それから写真とセットになっている粒たちにお願いして、それぞれの組で固まりになってもらう。
くっつけば面白い変化が起きるかも? なんて期待も空しく、写真に粒が吸いこまれておしまい。
「なにか指定しなきゃだめか」
くっつけるだけじゃだめなんだ。
私にないものたちに、私の粒を足してどうしたいのか。
特に答えもわからないので、やってみたけど、なにも起きない。
私の粒だけだから足りないのかな?
これなら仮定として成り立つな。
あるいは目的もなくやっても意味がない、も? もちろん成り立つ。
「私にない、みんなといたからこそうまれたもの」
それをどうしたいのか。
やっぱ、シンプルに味わいたいかな。元気が出るものとして。
だとしたら、それってどうやって実現する?
写真を並べた。その瞬間の感情を粒にしたものを出した。ふたつを合わせた。
それじゃ足りない。
音でも出す? それとも、その瞬間の感情を味わえるなにかにする? あめ玉みたいにしてさ。舐めたら復活するの。そうやって刺激を得られるものにして、狙った反応を引き起こす。たとえばペペロンチーノにトウガラシをたっぷり入れて、激辛にしちゃうみたいにさ。お刺身にわさびをたっぷりのせてから食べて、ひいひい言うみたいにさ?
「なにがいいかな」
あめ玉は、修行とかぶってるしなあ。
別にかぶっちゃいけない理屈はない。そんなしばりを入れる必要もない。
ただ用途を分ける意味で、別にしたい。
「ガム? クッキー? ううん、ちがうなあ」
むしろ、味わってしゅわしゅわってするようなのがいいな。
元気を引き出すものなんだからさ? 元気が出るような食べ物がいいし、お菓子くらい気軽に食べられるやつがいい。
「チョコ? ううん。ぴんとこない」
甘ったるいとは限らない。
炭酸がきつめのラムネくらい、胸がくすぐられて足踏みしたくなるようなものもあるだろうし?
生クリームたっぷりのココアみたいに、どろどろな甘さもあったっていい。
酸味の強いものもあるだろう。からさや、しょっぱさも。
だとしたら?
「パンとか、ピザとか、ケーキとか、どうかな」
型を定めて、あとは具だ素材だなんだで楽しみ方がぐっと変わるんだ。
パンもピザも、おかずや主食だけじゃない。フルーツたっぷりのやつもある。
対してケーキとなると、主食やおかず感が弱い。
でも、考えてみたらキッシュだってあるんだし、悪くない気がする。
タルトにパイ。あれやこれや。
つまりは、そこそこに加工したもの。手間がかかるもの。計量、技術などが必要なもの。
お砂糖や塩のような調味料ほど、シンプルじゃない。
「ほんと、好き勝手いうよなあ」
私自身が、まずね。
それくらい、したいことややりたいものがあるんだよね。
じゃあ、やってみよう。やれるんなら。問題のない範囲で、まずは。
「おいで。料理の時間だよ」
写真たちを手招きする。
何度だって試せるんだ。あれこれやってみよう。
「まずはぁ。ケーキ!」
今日はしょっぱいものをたくさん食べたからね。
甘いものから試してみよう。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




